一章 汚職の魔術師と没落貴族 1
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十歳までの記憶は大切な思い出として、十歳からの記憶は貴重な経験として、今となっては私という人間を構成するのに欠かせない歴史です。
けれど――。
若い内の苦労は買ってでもしろ、とお年寄りの方によく言われますが、今のところその意味につてよく理解出来ていません。だって毎日毎日食べ物を集める為に商店を訪問して残り物を頂いたりする人って、そんなに居ないと思うのです。
その折に向けられる店主の白い目や、周囲の見下げ果てた、あるいは同情を孕んだ視線ってどういう気分になるとお思いでしょう。同い年の娘たちが小綺麗な制服を着て友人と語らいキラキラと笑顔を振り撒く傍ら、野生のピクシーを捕らえて、裏路地で血抜きをして内蔵を取り除いた事がお有りなんでしょうか。
甚だ疑問です。
私はあんな苦労はしたくもなかったし、その為に人格が歪んでしまっていたら元も子もないではありませんか。あの頃の私がどれほどの侮辱を感じ、心に闇を溜め込んでいたかなんて、幸せな方々にはわからないんです。
ともあれ、私も幸運に巡り会えましたので、全てを水に流すこととします。
襟元の階級章が中尉を示していますように、もはや昨日までのルイズではありません。
朝方、寮を出る時に姿見の前でどれほどにやけたことか。自分へのご褒美に鞄を新調してしまうほど有頂天です。少しシックな感じで、黒革を用いた『エルカント』ブランドですが、見窄らしい格好のまま新たな船出を迎えたくありませんでした。
新しい部隊、新しい任務、新しい上官。全てが新しく、新生活がこれから始まります。
上官のシンクレア大佐とはいったいどんな方なのか、今からとてもたのしみです。
「うわぁああああああああああああああああああ――ッ!」
男性の悲鳴が街路に響き渡りました。
突然の事で悠長に考えている暇など無く、危険を報せる本能に導かれるままハッと頭上を見上げます。するとどうでしょう、こちらに向かって恐怖に強ばった男性の顔が迫ってくるではありませんか。
「ヒィッ!?」
こんなファーストキスはゴメンでしたので、眼を瞑って反射的に飛び退きました。
それから意味も無く、しゃがみ込んで頭を抱えたり両手をバタバタを振り乱します。
その際に誰かとぶつかった気がしたのですが、そんな場合じゃないです。
しかし、身投げしたであろう男性が、ぺしゃんこになる音が一向に聞こえてきません。
ドシャ、なり、グシャッ、なりするものとばかり思っていたのです。
投身自殺かマフィアの抗争の果てかは存じませんが、人が地面に叩きつけられる音というのはこんなにも静かなものなのでしょうか。
ところが、恐る恐る目を見開いてみたその先には、遺体なんてありませんでした。
幻覚幻聴白昼夢の類なのか、あるいはお化けでしょうか。
ブルッと、背筋に寒いものが奔ったので思わず身体を抱いてしまいます。
そして当惑している私の背後から「いててて……」という声が聞こえました。
「おいおい軍服の姉ちゃん、なんだっていうんだ。突然そのデカ尻ぶつけて来やがって! 俺が腰痛持ちだって知ってんのか? えぇどうなんだよ、言ってみろ!」
こうした調子で突っかかってきたのは、背丈は私の半分ほどである妖精種のゴブリンでした。年の頃は青年期を脱し、中年の中頃といった容貌で、特徴的な鼻にまで皺を寄せ激昂してくるのです。身なりは山高帽にトンボの柄がついた杖を携えた紳士風でした。
ですがその口ぶりには高貴さの欠片もなく、今し方の心霊体験に怯える淑女を労る様子もみせない。間違いなく成り上がりの小金持ちで、不良中年の類です。
本来であれば、このような癇癪玉の塊のような小男など相手にしないのがアルビオン貴族というものですが……、これ以上からまれて遅刻してしまうのも得策ではありません。因縁をつけてくるような相手に理を説いても無駄なのです。
「す、すみませんでした。ちょっと、びっくりしてしまって……」
「びっくりはこっちの台詞だ! あいたたたた……まったく、この忙しい時に! 今度またやってみろ、承知しないからな――このデカ尻女ッ!」
憤然と杖を振り回しながらそう言い放った中年ゴブリンは、地面に落ちた鞄を拾い上げて腰を労りながらよたよたと去っていきました。確かにぶつかったのは私の方で、非は私に有るのでしょうが、それでも憤懣やるかたない思いはこちらも同じです。
「二度も言った! 二度も!」
人が気にしている事を二度も口にしました。女性の身体の特徴を人目も憚らず論い面罵するような下卑た精神性。かような男が、高そうな帽子と、高そうな服と、高そうな杖をもって街を闊歩できるなんて、神様はなんて不公平なんでしょう。
あんなデリカシーの欠片も無い奴、馬に蹴られて死ねば良いのに!
新しい一日の始まりだと言うのに、なんと幸先の悪いスタート。
大都市ロンデニオンの街中、それも朝の段階でお化けなど出る筈もない。
きっと疲れているんです。生活に。生きることに。精神をすり減らして生きてきたツケがここにきて突然噴き出したのでしょう――そう私は自分を納得させて、路上の怪現象のことをすっかり忘れました。ただ、あの中年ゴブリンの事だけは根に持つことでしょう。
「そんなに大きいかな……いや、そんなことない」
新調したての鞄を苛立たしく拾い上げ、服飾店のショーケースに映る自分の姿を確認してみますが、悪い容姿ではありません。貴族然としていて凛とした佇まいでしょう。
ちょっぴりボリュームが下半身に寄ってはいますが。
「はっ、いけない!」
こんな事をしている場合ではありません。
目的地であるアルビオン陸軍庁で、新しい上官のシンクレア大佐が待っているのです。私は急いで、妖精や人間でごった返すロンデニオンの目抜き通りを抜け、王立博物館を過ぎた先にある官庁街へと足を進めます。
王立博物館の前を通り過ぎる際、敷地の柵に多くのビラが張り巡らされていました。
チラリと横目に確認すれば、『ブラッディ・メアリーが帰ってくる』の文字が躍っています。
ブラッディ・メアリーとは、アルビオンの歴史上、三〇万人以上の臣民を粛正したとされるメアリー女王が所蔵していた赤いダイヤモンドのこと。粛正で流れた血と赤いダイヤをかけて『ブラディ・メアリー』の呼び名で広く知られています。
海外の好事家の手に渡って以来、実に十二年ぶりの帰国でした。
本日委託展示されるという触れ込みで、開館前の博物館には既に人々が長蛇の列を成し、その注目度の高さが窺えます。
そう、『ブラディ・メアリー』は十二年前まで我が家で大切に保管していた物で、その後の借金返済の為に放出した一品なのです。
でも別に惜しくなんてありません。幼い頃に、どんな味かと祖父の目を盗んで口に含んだり、ガラス玉と一緒におはじきをして遊んだりと、存分に堪能しましたから。
私は虚しい優越感を覚えながら、その場を後にしました。
歩道も道路も綺麗に整備された官庁区は、大通りほどの人通りは無いにしろ、それなりの交通量が目立ちます。黒塗りの馬車はもとより、近年急増し始めた自動車も見かけるようになりました。
政府関係者が多いこの地区では、利便性を重視して車を選ぶ官僚思考と、視覚的優雅さを考慮して馬車を好む政治家思考の者たちで半々くらいです。
貴族たる私はもちろん馬車、と言いたいところですが、軍人となった今では、自動車の利便性に惹かれます。なので優雅さと利便性を両立させる為に、ボンネットに馬の飾り付けて便利で気品あふれる案を温めていました。
いつか事業を起こした暁には、実現させてみようと思います。
ぼんやりと将来の青写真に思いを馳せながら陸軍庁の庁舎にやって来ました。
現時刻は〇八四五。午前九時前です。
貴族でありながら十五分前行動なんていうのは、あまり優雅とは言えません。本来であればアルビオン貴族たる者、始業時間の三時間後くらいの重役出勤が望ましいです。
ですが、もうしばらくの辛抱でしょう。
ここからは私の未来を切り開く第一歩となるのです!
陸軍庁舎は建て替えたばかりらしく、モダンな造りでした。
ガラスがふんだんに使われており、植物園や美術館かと思うほど日当たりの良さそうなエントランスがお出迎えです。その背後には、赤煉瓦を多用した近代的な建物が控え、そこでもやはり無骨さよりも優美さを優先させたかのような芸術的な建築となっています。
守衛に身分証を提示して敷地に足を踏み入れた瞬間、鳩の群れが飛び立ちました。
私の旅路を祝福するように、朝日の輝きを照り返すエントランスを横切り、ちょっと気分が上がります。
さて、朝の荒んだ気分が向上したのは良いのですが、待ち合わせているはずの新しい上官はいずこでしょう。
私がお上りさんのようにキョロキョロと辺りを見回していますと、キーンッ、と鋭く金属を打つような音が聞こえてきました。
何事かと音の鳴る方を見やりますと、駐車場の片隅に緑の囲いがありました。
ネットを張り巡らせた小さな囲いの中には、鳶色の三つ揃いを着た人物――一見して男性のように見えたその方は、よく見れば女性です。彼女はその囲いの中で、棒を振り回し――端的に言うとゴルフの練習をしています。
「なんて非常識なっ……」
軍の施設にこんな物があること自体不可解ですが、私服姿の上に何故あんな真似をして許されるのでしょうか。政府の施設だということを理解していないのでは?
囲いの外では、私と同じく若草色の制服を着た女の下士官の姿もあって、彼女に関しては頭に猫の様に大きな三角耳と、臀部からは長い尻尾が伸びていることから、猫科の半獣人であることが窺い知れます。
男装の三つ揃い女と半獣人の女下士官。
この奇妙な取り合わせの二人組にひとこと注意してやらねばと、生来の生真面目な性格に衝き動かされます。ですが、今朝方のゴブリンの件もあったことです。触らぬ神に祟りなしでしょう。
しかし言伝では、駐車場で待ち合わせという話でしたので、少し距離を置いて知らんぷりを決め込みました。
距離を置いたつもりでしたが、二人のケンケンした声が聞こえてきます。
「よーく見てなさい、次はいい音出してみせるから」
「ではウチはおべっかを使いますので、そのようにお願いしますニャ」
「……どうしてそういうこと言うの? それで喜んだらあたし馬鹿みたいじゃないの」
「ですが嘘つきは碌な死に方をしないと、いつも仰っているではありませんか」
「嘘も方便なの。時と場合を見極めてちゃんと使い分けるの」
「いやぁナイススイングでしたナ」
「まだ打ってないの!」
スパン! という響きのあと、「ファ~」と若干小馬鹿にする掛け声が続きます。
いったいこの二人は何者なのでしょう。
五分ほど経ちますが、スイングの度に半獣人が囃し立て、間の抜けた会話が聞こえてきます。それにしてもあの半獣人の馬鹿げた語尾は何なのか。
猫科の半獣人だから、語尾に「ニャ」を付けているのでしょうか。
栄えあるアルビオン軍人の威厳を欠く言動は慎むべきです。まったく。
ふと、男装の女がクラブを振り回す囲いの外に、数匹のピクシーたちの姿があることに気づきました。極貧労働者時代を思いだし、反射的に駆除作業の義務感に駆られます。
ピクシーは子猫ほどの体躯に大きな羽を持つ妖精で、悪戯好きです。人里では狐やイノシシ、熊と言った農作物を荒らす動物たちに並ぶ害獣として認知されています。
「大丈夫かしら」
彼らピクシーは商店からも食べ物を盗みます。
他にも、電線を切断したり、高所作業の足場を崩したり、小火を起こしたりすることも少なくありません。年間でピクシーによる死亡事故は五〇〇件を越えますので、市民からは忌み嫌われる存在でした。
見た目の可愛らしさとは裏腹に、言葉を介さない生態から対話の道は無いのです。
やるかやられるか、です。
なので、あの二人組に何やら不幸が降りかかるのではないか、と気を揉んでいました。
すると、一台の車が駐車場へ入ってきます。黒塗りの高級車でした。
シンクレア大佐かと思い、反射的に覚えを良くしておかなくてはと駆け出しますが、車から降りてきたのは背筋の伸びた初老の男性。威厳のある髭を蓄え、鋭い目つきをしたその男性は、どこぞの偉い将軍のようです。人違いでしたので踵を返そうとしますと、耳に馴染む小さな笑い声が聞こえてきました。
クスクスと、少年少女が悪戯を企むときに発するような笑い声。それは私の耳にはなじみ深く、アルバイト中によく聞いた
ピクシーが何かを仕掛けるときの前兆です。
ハッと振り返れば、緑の囲いに集っていたピクシーがワッと飛び立ちます。
次の瞬間、あの男装女のスイングと共に鋭い音が響きました。ネットに捕らえられる筈のボールは囲いを突き破り、一直線に高級車から降りた将官に直撃してしまいました。
将官の、股間に。
「ふっ――ぐぅ……ッ!」
苦悶の声を上げた将官は体をくの字に曲げると、顔から地面に突っ伏します。
「トロン中将!?」
「狙撃だ――ッ!」
「敵襲――ッ!」
咄嗟に異変を察知した護衛の兵士が声を上げ、次には警笛が吹き鳴らされ、将官を庇うように兵士達は四方に銃を構えます。警笛を聞きつけた憲兵隊が続々と駐車場へ集まり、将官は速やかに連れ出されていきました。
「な、なんてことに……」
あまりの出来事に私が動揺して身動き出来ずに居ると、当の二人組は敷地の柵を乗り越えて逃亡を図ろうとしているではありませんか。
「ケメット! ちょっとあんた謝ってきなさいよ!」
「ウチが殺ったのではありません! ホールインワンしたのは大佐ですのにッ!」
なんて不埒な者たちでしょう。
しかし、護衛の兵士達は事の次第に気づいていた様子はありません。
それを良いことに釈明もなく現場から逃走を図るなど、言語道断。
それにあの将軍のことは良く存じませんが、きっと名のあるお方に違いないでしょう。
貴族の嗜みであるゴルフで、ピンボールやらビリヤードに興じた犯人を捕らえることが出来れば、よい点数稼ぎになるやもしれません。
そうすれば思わぬ所から参謀本部勤めの道が開けるかも!
私はすぐさま二人を追いかけました。彼女たちは醜くも足の引っ張り合いでもたついており、直ぐに追い付くことが出来ました。
「待ちなさいそこの二人組! 全部見ていましたよ、観念してお縄につきなさい!」
ビシッと指をつきつけ、まるっとお見通しであることを宣告しましたが、当の二人は呆けた顔をするばかり。ここに来て恍けるとは何て往生際が悪いんでしょう。
すると、男装の女はゴルフクラブを私に投げて寄越し、こう言いました。
「憲兵さーん! こっち! こっちよ! ここに不審者が居るわ!」
「殺されるニャ――ッ! 助けてくれニャ――ッ!」
彼女達は口々にそう叫ぶと、一目山に敷地の外へと逃げ出してしまいました。
「あ、ちょっと待ちなさい! なんて人たちなの……」
唖然呆然とはこのことです。罪の意識は無いのでしょうか。
ともかく、自分の足で犯人を追いかけるほどの気概は有りませんので、憲兵に事の次第を伝えようとしますと――。
「そこのお前! 動くんじゃない!」
憲兵隊の皆さんがこちらを見据えてそう言います。彼らの手には警棒が握られており、明らかに私を敵視してにじり寄ってきます。
「待って、待ってください! 将軍の玉に球をぶつけたのは私じゃありませんよ!」
大変な誤解を受けていることを察し、このゴルフクラブは自分の物でないことを主張します。
ですが、クラブを振り向けて説明しようとする度に、憲兵隊の方々は響めいて後退りし、「落ち着くんだ」「話せば分かる」と、拳銃に手を掛けようとします。
「違うんです! そういうつもりではなくてですねッ! ああ……その……ええっと……」
落ち着いて順序立てて話せば、あるいはこの誤解も解けたでしょう。
ですが私は人前に立ったり、衆人環視という状況に不慣れでした。
貴族ともあろう者が何という為体か、とお爺様が生きていらっしゃれば嘆いたことでしょう。
市井に身を落としたせいか、身も心も凡俗な平民と成り果てていた私は、瞬く間に錯乱状態に陥っていました。
野獣のように奇声を上げてクラブを振り回し、憲兵を威嚇した後、先の奇天烈な二人組に習って逃亡したのです。
「ヒィ~ンッ、どうしてこんな目にィいいい――ッ!」
陸軍庁までの元来た道を駆け戻り、あてのない全力疾走に早くも息が切れてきます。
半泣きの状態で街中を駆け抜け、背後からは憲兵隊の魔の手が迫ります。
この転属が人生の転機になると思ったのに。
やっと運が上向いてきたと思っていたのに。
ここで捕まれば、新しい上官であるシンクレア大佐に多大な迷惑が掛かります。
着任初日に憲兵隊の世話になる部下など、最悪の印象を与えてしまうではないですか。
もしかすると、人事に抗議して他所へ回される事だってあり得ます。
再び事務係として、忘れ物管理や食堂勤務を言い渡されかねません。そうなっては、もう二度とキャリアを積む機会など得られず、家族を助けることも出来ず、我が家の復権も為しえない。
「ふ、えっぐ……ぐすん」
目尻に伝う熱い物を感じ、もう頭の中が真っ白でした。
人生のどん底が大口を開けて私を飲み込むのだ。そんな心象風景と共に、体力の限界が訪れて私の足は止まり、たたらを踏んで転びかけました。
その時です。
タウンハウスの路地からにゅっと伸びて来た手に腕を掴まれ、強引に裏路地へと連れ込まれて尻餅をつきました。
「い――ッ、あいたたた……」
地面に打ちつけたお尻をさすっていますと、感心を籠めた失礼な台詞をかけられます。
「上手く逃げられたのね! あんた鈍くさそうなのに大したものだわ」
「さすが中尉です。ウチは信じておりました」
見上げてみれば、そこにはあの男装女と半獣人の女下士官の姿があるではありませんか。
何が大したもので、何を信じていたというのか――。
自分をあの状況へと追いやった張本人のくせに、どの口がそんな台詞を吐くのでしょう。
「ふ、ふ……」
「ふ?」
「巫山戯るのも大概にしてください! 元はと言えばあなた達の所為で追われるハメになったんですよ!」
口角泡を飛ばしながら私が男装女に詰め寄りますと、彼女は「まあまあ」と降参するように両手を小さく挙げて宥めようとしてきます。当然、そんなことで私の怒りはおさまりません。とっくに怒髪天を衝いてい月に刺さる勢いです。
もはや八割方人生を台無しにされ、薄幸の伯爵令嬢による猟奇殺人が起きたって不思議ではないのです。
「どうしてくれるんですか!? どう責任を取ってくれるんです! 折角の栄転が台無しですよ! 今日のことをシンクレア大佐になんて釈明すればいいんです? 返して! 私の人生を! 私のキャリアを!」
私は彼女の胸元に掴みかかり、魂からの叫びを訴えていました。
興奮のあまり我を忘れ、取り乱す姿は貴族の優雅さの欠片もない。
今ここにあるのは、断末魔を上げる直前の獣。貧して鈍した哀れな俗人の末路なのかもしれません。
すると、横から割り込んだ手によって私は突き放されました。
彼女を庇ったのは、男装女に付き従う奇妙な半獣人の女下士官でした。
「その汚い手を放すニャ! このお方をどなたと心得る? 先のアズラント紛争を早期講話へ導き、アズラント運河の全権を、アルビオンの手中へと収めることに成功した立役者! そうこのお方こそ、賢天会議の末席を汚す序列最下位!
「へ……?」
噛み噛みで告げられた衝撃の事実に私は頭の中が真っ白です。
よくもまあ一日に何度も思考停止に陥る奴だ、と呆れられるでしょうが、こうして次々と意味不明な上に理不尽な出来事に巻き込まれれば無理も無いとご容赦ください。
そして『
「最下位は余計だこの野郎!」
「ですが事実でありますニャ!」
「それに末席を汚すって何よ! それは自己紹介でへりくだるときの文句じゃない! あんたに言われる筋合いはないの!」
「ですが――事実ですニャァ!」
「やかましい!」
ワーニャーと目の前で繰り広げられる取っ組み合いを、唖然とした面持ちで私は見守っていました。
つまるところ、陸軍庁でゴルフの練習に興じたあげく、軍のお偉方の股間を狙撃し、その罪を私に被せたこの常識の無さそうな男装女こそ、私の新しい上官にして、民衆からカリスマ的
「マジで?」
今の私です。
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