最終話『美少女の恋の結末は?』(後編)

 ついに、その日がやって来た。

 土曜日の午後。本来、その日の中学校の授業は午前で終わりで、あとは土曜の午後にも熱心に部活を行う者たち以外は、学校に残らないはずのその時間——



 ここ、孝太と美由紀の通う中学校の体育館は、熱気に包まれていた。

 誰一人、帰宅したり校外へ出たりする者はいなかった。

 逢坂涼介 vs 福田孝太。美少女・美由紀の彼氏の座をかけてのこの一戦。本来、当事者だけで行われるはずだったこの試合の情報が、どこでどう漏れたのか?

 体育館には、中央部分を試合のスペースとして残し、あとはパイプ椅子がぎっしり並べられている。

 午後12時を少し回った今、パイプ椅子にはひとつの空席すらなく、通路分のスペースしかない体育館の二階部分も、立ち見の人間がひしめいていた。

 残念ながら体育館にさえ入れない者たちは、教室に取り付けられたモニターの下に集まった。放送部が構築していた各教室への『配信システム』により、今回の試合は全校生徒だけでなく職員室でも見られるようになった。

 ちなみに、職員たちも仕事そっちのけで目がモニターに釘付けであった。土曜の午後のすべての部活も免除となったため、皆がこの試合に注目している。



「は~い、全校生徒の皆さん、お待ちかねです! ただ今、ここ体育館にて、世紀の一戦が行われようとしています。

 昨年の全国中学生柔道選手権男子の部優勝・逢坂涼介君。同じく都代表・二回戦敗退の福田孝太君。この両名の試合です。

 学校一と言われる美少女(あ、反対意見がある方は放送部まで!)・3年C組の田城美由紀さんをかけての大勝負! 司会は、試合をする二人のクラスメイトでもあり、孝太君のことはよく知っている私こと、安西京子でお送りいたしまぁす! そしてゲストは、3年C組の担任、中畑武志先生でぇす!」

「あ、ゲストもうひとりお連れしたから、紹介してね!」

 中畑先生の、授業中よりワンオクターブ高い声。その声がすると、C組の面々には嫌な予感しかしなくなっていた。案の定——

 ただでさえ放送席はせまいというのに、中畑先生は絶好調交際継続中の家庭科教師・江口雪子先生を勝手に連れてきてしまったのだ!

「タケリン~♪ 楽しみですわね~」

「そうだねぇ、雪子ちゃ~ん♪」



 ……ちょっと待って。江口先生はともかく、中畑先生って37歳よね!?  

 武志だから、タケリン? きょうびの若い子でもあり得ない! 

 顔にワセリン塗りたくったろうかい!



 クリスピークリームドーナツもかくやと思えるほどの甘ったるすぎる二人に、安西京子のこめかみはピクピクとエイトビートのリズムを刻んだ。

 この二人は、実況中継という責任の重さを完全に忘れ去って、自分たちの世界に浸りきっているぅ!

 一時期は、なかなか「春の来ない」中畑先生をクラス全体で応援した時期もあった。だがそれがうまくいってしまってからは、毎日のようにラブラブさ加減を見せつけられるC組はだんだんとウザがるようになり、「いっぺんケンカでもして、頭でも冷やせば?」とさえ思うようになった。

 子どもの『手本』たる教師同士のカップルが、まったく子どもたちの手本とする『理想のカップル』になっていないこの状況は、実に嘆かわしい。



「……放送席、放送席~」

 お。選手控室からの中継がつながったようだ。

 全校生徒向けの放送画面に、マイクを構える放送部員の水野明日香と、更衣室のベンチに座る逢坂涼介の背中が映った。

「は~い、逢坂選手の準備は、整った感じでしょうか?」

 京子の質問に、ワンテンポ遅れて明日香がしゃべる。

「こちら、逢坂選手の控え室です! 試合直前ですので、配慮の上選手本人へのインタビューは控えさせていただきますっ。談話として午前中うかがった限りでは、『この二週間は、できるだけのことはした。あとはぶつかるだけだ』ということでして、それ以外は言葉少なな感じでした。

 ただ、私が個人的に受けた印象としましては、全国大会優勝者という立場でも、二回戦敗退で格下とも言える福田選手を決して軽くは見ていない印象でした。むしろ言葉の端々から、福田選手を『強敵』として認めているのでは、とも感じられました。

 試合開始まで、あと5分! 放送席にマイクを返します。以上、3年A組水野明日香でしたっ」



「いよいよだな」

 孝太の両足へのテーピングを終えた室木大輔は、これでできた、という合図代わりに孝太の膝をポンと軽く叩いた。

「腕は……いいのか」

 孝太の体には、大小取りまぜて無数の傷があった。それに加え、限度を超えた打ち身の数々。

「そこはいい。オレにとって、腕はレーダーだ。できるだけ覆いたくない」

 そう言って孝太は、両肩より先の部分にはテーピングはおろか、絆創膏のひとつすら貼らせなかった。

 孝太が控室として使用している女子更衣室は、狭い。心情的には、C組の全員がここに応援に来たかったのであるが、15人も入れば手狭になってしまう。そこで、ここには孝太のセコンド兼マネージャー(自称)の室木大輔と宮田菜緒、朝倉瞳に増田良輝、堀田利美に広田和也、早田美代子に宮下遊馬。彼らだけが入室した。

 皆、美由紀のおかげでカップル成立した者ばかりだ。

「……私ら、どうしても美由紀には幸せになってほしいの。美由紀にはホントお世話になったからね! 今度は私らが、美由紀を幸せにしてあげる番なんだから」

 代表して、朝倉瞳が最後に声をかけた。ここ最近の彼女は、恒例となっている孝太への『憎まれ口』が封印されている。それだけ、今回のことでは本気モードだということだろう。

「みんな、ありがとな」

 孝太は胸がいっぱいで多くを語れなかった。クラスの皆は、涼介ではなく孝太と一緒にいることこそが美由紀の幸せだと認めた、ということだ。ただそれが分かっただけでも、孝太は幸せだった。

 時計を見ると12時10分、もう試合開始の時間だ。



 もう更衣室を出るつもりで立ち上がった孝太は、視界の隅におかしなものを捉えた。それはもう、どんな軍事偵察レーダーだろうが高性能金属探知機であろうが、太刀打ちできないほどの精度を誇るもの……そう、性に目覚めた男子中学生がもつ『エッチなものレーダー』によるものである。

 この時間は、もう孝太たちの試合以外の体育館使用スケジュールはないため、控室として女子更衣室の使用を許可されていた。逆に涼介は、男子更衣室を使っている。

 女子更衣室には何も残っていないように、掃除と忘れ物チェックは厳重になされたはずだ。なのに、確かに孝太が注目する視線の先には、何か白いものが……

「何だ?」

 そんな場合ではないのに、孝太はフラ~ッと吸い寄せられるようにその白い物体のもとへ。さすがは煩悩の塊り、孝太! 果たしてその物体の正体は?

 孝太は、つかんだ白い布切れを、血走った眼で凝視した。

「美、美由紀ぃ~~~!?」

 その純白のパンティには、確かに『田城美由紀』と名前が書いてあった!



「福田孝太のバカヤロー!」

 試合開始まであと1分。ほんの短い時間だったが、実況席を飛び出た安西京子は、そばにあった体育館裏に出られる小さな扉をくぐって、大声で叫んだ。

 今は、全校生徒が体育館内かモニターのある教室で試合に注目しているから、辺りには誰もいない。だから、聞かれる心配はない。

 実は昨日、安西京子は一日川の堤防に座って泣き明かしたのだ。

 C組女子の中でも一番ギャルっぽい風貌から、仮に好きな男がいたら告っていないわけがない、と周囲には見られていた。放送部などやっているくせに、異性のことでは超がつく恥ずかしがり屋の京子は、孝太への好意を感付かれるあらゆる行為を、意識的に封印した。

 だから、誰も京子の孝太に対する想いに気付いていない。

「うええええええええええええん」

 京子は、「求めよ、さらば与えられん」という名言を思い出した。確か、キリストの言葉か何かだ。そうよね、求めてないんだから、得れないのは当たり前。どう考えたって、美由紀さんのほうが私なんかより——

「孝太くぅん、お幸せにねぇ……」

 今日一日だけ。今日だけ、孝太君のことで思いっきり泣こう。

 そして明日からは、全力で孝太君と美由紀を応援しよう。そう覚悟したのだった。

 そんな昨日のことを一瞬思い出した京子は、頬を両手でピシッと叩いて、自分に気合を入れなおした。

「さぁっ、本番本番! 学校の歴史に残る名勝負、しっかり全校生徒に届けないとっ!」   



 ついに、両者は向き合った。熱気あふれる、ここ体育館特設柔道スペースで。

 本来なら、体育館隅に畳をある程度敷き詰めただけの柔道場だったのだが、C組山崎信吾の実家の老舗和菓子屋がスポンサーとなり、今日限定だが立派な柔道スペースが特設された。

 試合の審判は、ここ二週間の孝太の師匠でもあり、逢坂涼介の腹違いの姉でもある逢坂明が務めることになった。彼女の眼力なら、誤審もないであろう。

「二週間、遊んでいたわけじゃないみたいだな」

 孝太の体を見た涼介はそう言ったが、別に感心した風もない。。

 その言葉には反応せず、孝太はボソリと言った。

「おい……ひとつ約束しろ」

「何だ」

「もし、この試合でオレが勝ったら——」

 涼介は、特に口を挟まなかった。勝つのは俺だとか、お前が勝つ可能性など万に一つもない、とかそういうことを言わないのが、少々不気味でもある。

「お前、姉ちゃんの指導を受けろ。で、もっと強くなれ」

 孝太の言葉が終わらないうちに、涼介はくるっと背を向けて、数歩遠ざかった。

 そしてピタリと立ち止まり、振り返らずに言った。その表情は、残念ながら孝太からは見えない。

「お前が勝てば……な」



「はじめ!」

 ただでさえ異様な熱気が充満しているところへ、注目の一戦の開始とあってさらに観衆のボルテージは上がった。ワーワーと大歓声が渦巻く中、放送席の安西京子は、実況中継を開始した。



「両選手、まずは相手の出方を慎重に探っています。まずは、『組み手争い』の応酬となっていますっ」

 この日のために京子は、柔道についてルールや技について学んできた。もちろん、それはいい加減な放送をしたくなかったからである。

 別に京子が実況しなくても、そもそも柔道部の人間がやれば、ルールや技のことなどよく知ってるのだから話は早いのだ。しかし、全校生徒に注目される「放送」に出ることに恐れをなした彼らは、皆放送部からの実況依頼を辞退した。スポーツ以外のところでは小心者だった、というわけである。



「……互いに実力者なだけあって、相手が得意とする組み手が分かっていて、両者なかなか相手にそれをゆるしませんっ」

 にわか仕込みにしては、しっかり学んだ知識に基づいた実況ができている京子であった。孝太への秘めた愛の深さが、知れるというものだ。

「ああっ、最初にしかけてきたのは逢坂選手ですっ。いつのまにか、投げ技に持ち込みやすい奥襟と袖のいいところをつかみましたっ」

 誰の眼にも見えなかった。それほど、涼介の手の動きは素早く巧みであった。

 涼介は、左足を軸足にして、孝太の右袖を一瞬強烈に引いてよろめかせ、さらに奥襟をつかんだ右手で投げを打った。

「あ~っと! 逢坂選手もそう簡単には勝たせてもらえないっ! 孝太選手、対処が一瞬早かったおかげで、逢坂選手の投げを耐え切りましたっ。お? その体制からの送り足払い——」

 しかし、涼介はそう甘くはなかった。送り足払いは決まらず、二人は組み合ったまま、フィルム早回しのような早い歩調で、場外まで躍り出た。

「場外! マテ!」

 審判、明の声が響く。

 はた目には、二人が社交ダンスでもやっているかのように見えたが、本人たちにとっては必死の攻防戦だったのだ。たとえ一歩でも、足の運びを間違うと、相手の餌食になる。いつ内股や大外刈りが飛んでくるか分からないのだ。

 実力の伯仲した両者は、足技の攻防には引き分けて、場外へ出た。



「……やるじゃないか」

 襟元を正した涼介は、試合場中央に戻る道すがら、孝太に聞こえるように言った。

「姉ちゃんが仕込んだやつがどの程度のものか。ま、あと数分もすりゃ分かるさ」

 不気味だ。明との練習で、その精神性において一皮むけた孝太であったが、こと技巧的なことでは涼介に一日の長があった。

 しかし孝太には、そのことよりも、会場内に美由紀の存在を感じられないことのほうが気にかかっていた。大事な試合だというのに。

 いや。オレたちと違う意味合いで「大事な試合」だからこそ、見れないという可能性も考えられなくはない。でも、それでも美由紀には見ておいてほしいんだ。オレたちの試合——



 孝太は、考え事に意識を割きすぎた。

 ぼうっとしている間に、試合は再開されていた。

 急に、孝太の視界がジェットコースターにでも乗っているかのように高速で揺れた。次の瞬間には、自分の体重が軽々と涼介の腰を起点にして、遠心力と相殺されるのを感じた。

 まるで羽根のように軽くなった孝太の体は、まさに倒されようとしていた。

「あ~っと、福田選手、どうしたというのでしょう。まさに凶器とも言える強さの持ち主である逢坂選手を前に、ボウッとしては命取りです! この体落しは見事決まって、勝負の決着なるかっ!?」

 グルンと体を回転させられてしまう前に、孝太は耐えた。

 彼は、二重の意味で負けるわけにはいかなかったから。



 ひとつ。涼介と明を、仲の良い姉弟にするため。

 こんなに素晴らしい姉ちゃんがいるんじゃないか。意地張らないで仲良くしてほしい。それが、たった二週間でもこれ以上ない稽古をつけてくれた明さんへの、せめてもの恩返し。

 ふたつ。美由紀に伝えないと——



 そこで孝太の思考は途切れた。

 体落しを我慢したものの、全国大会の覇者はすでに、次の手のために動いていた。孝太の実力を甘く見ていなかった涼介は、すぐさま体落としで決めようとするのをあきらめた。その見切りが早かった分、次の技の威力が倍増した。

「あ~っと、逢坂選手状況の見極めが早いっ! 早々に手技の体落しをあきらめ、即座に足技の大内刈りにシフト~! これは決まるかっ?」

「…………!?」

 すべての流れが計画どおり、と思っていた涼介の心に疑念が生じた。

 体落しをあきらめてからの、大外刈り。

 おかしい。コイツはこんなものじゃない。この流れが決まるなんて、粘りが特徴の福田らしくない——

「!」

 誘い水だった。孝太は、いかにも相手が「大内刈り」をしたくなるような足の運びをしていた。明の指導を受けて生まれ変わった孝太が、そんなもので倒せるわけがない。いくら最強とはいっても、涼介もそこは高校生だった。

 勝ちに急いで、孝太の撒いたエサにひっかかったのだ。きっと、手の届く範囲にチラついてきた美由紀の顔にも惑わされただろう。

 案の定、孝太は目にも留まらぬステップを踏んで、大内刈りを仕掛けてくる涼介の足を難なく外した。

 安西涼子はマイクを持って思わず立ち上がり、絶叫した。

「ま、まさかあの体勢からの……払い腰!?」

 孝太の足は、涼介が体重を預けていた左足に外側から絡みつく。器用に内股に力を入れると、涼介の体重の重心は見事に崩された。

 一瞬の迷いもなく、孝太は払い腰の態勢に入った。



「……美由紀~、どこ~?」

 宮田菜緒は、ゼイゼイと跳ねる肩をおとなしくさせるために、立ち止まって息を整えた。手にしたスマホのメモリーダイヤルに指を伸ばす。

「綾子、そっちにはいた?」

「ううん、まだ見つからないよ」

「了解——」

 菜緒と、A組の高倉綾子は手分けして、美由紀の行方を追っていた。

 試合開始前には、確かにいたのだ。放送部としては、この試合の最重要関係者である美由紀に放送席に来てもらうことも考えたが、さすがに自重した。そこは、昨今の「遺族や被害者の気持ちも考えない取材や報道」とは大違いだ。

 菜緒が、ふと横を見ると、隣にいたはずの美由紀がいないのだ。



 菜緒には、なぜ自分が美由紀を必死に追っているのか分からない。

 また、菜緒に応援を頼まれた綾子も、自分がなぜ手伝っているのかよく分からなかった。ほぼ、反射的に取った行動だった。

 でも、走り出してひとつだけ、二人とも確かな気持ちに気付いた。

 大好きな美由紀には、何があっても孝太の試合を、結果はどうであれ最後まで見てほしいんだ、という気持ちに。



「場外!」

 結局、孝太の払い腰は決まらなかった。

 策を弄したのはよかったが、そこはもともとの貫禄の差だった。

 逆に涼介の好きな体制に持ち込まれ、袖釣込み腰を掛けられた。

 しかし、結局それも決まり切らず、二人とも畳へ倒れ込んだ。

 涼介が寝技に持ち込むかと思ったが、孝太が場外へ逃れたため、「待て」が入った。これで、再度仕切り直しである。

 本当であれば、「有効」と言える場面の数々はあったが、2018年のルール改定により「有効」は廃止され、ポイントが入るのは「一本」と「技あり」だけになってしまった。ゆえに、まだ双方ポイントは真っ白なまま。

「次で、決める」

 涼介は、ゾッとするような冷たい表情で言った。



「いよいよ、試合も最終局面に入ってきましたぁ! 最初っからずっとクライマックス、みたいな調子で飛ばした試合をしてきた二人にも、そろそろスタミナの限界が感じられますっ。両者恐らく、これ以上ズルズルと組み合うことは避けるはず。

 だとしたら、私の予想では次の組み合いで決着がつくのでは、と推測します」

 名解説者、安西京子の言う通りであった。

 少なくとも涼介は、次で決める気だった。



 孝太は、涼介の道着の袖をつかむ手に違和感を感じた。

 力が、大して入っていない。

 これは、罠か。孝太は、自分がさっき使った「大内刈りを誘ったあとの払い腰」を思い出した。同じように、やり返されている可能性があった。

 しかし孝太は、根が単純である。四の五の考える前に、体が動いてしまうタイプだ。結局、チャンスは逃すと損だとばかりに、勝負に出るべく袖を引く手に力を込めたのだった。

「福田君~! こっちを見なさああああああい!」

 その声が孝太に届いた時には、すでに涼介の術中にはまっていた。

 内股を仕掛けた孝太だったが、孝太が振り上げた足を涼介は紙一重でかわし、その足の勢いを逆に利用して、孝太を倒そうとしてきた。

 もしもこれが決まって、孝太が背中から畳に倒れたなら、『一本』を取られる。



 孝太は、薄れゆく意識の中で、ハッと我に返った。

 時間が、ゆっくり経過しているように見えた。

 自分が、いわゆる『返し技』を喰らったのだと理解した。

 自分の体がゆっくり、ゆっくり回転していく。

 これは、明先生と練習したことがある。『内股すかし』という返し技だ。

 こっちが仕掛けるのが「内股」だと分かっていてあえて発動させ、その力を利用して逆に反撃する。これは、かなりの熟練者でないと大変危険な技である。言い換えれば、だからこそ決まればこれほど強力な技はない。

 ああ、なんとかしなきゃ。どうしたらいいんだっけ——



 ……何だよ、朝倉。そんなおっかない顔して。



 夢うつつに、朝倉瞳の顔が見えた。

 口が、せわしなく動いている。まぁ瞳は、いつだって口を動かしているおしゃべりさんだけどな! いや、待て。

 あいつ、何持ってやがる? ゲッ、美由紀のパンティー



 孝太がカッと目を見開いた。

 まるで体操の選手のように、回転する体にかけられた推進力に逆らわず、あえて一回転して一度立った。その身のこなしは、バレエの選手に例えてもおかしくはなかった。立ってすぐさま、横に飛んで涼介の背中を越えた。

「あり得ません! 内股すかしで勝負は決まったかと思われましたが、福田選手倒れませんっ! それどころか、立った福田選手を倒そうと身構えていた逢坂選手の背中を、福田選手も背中合わせに飛び越えましたっ!」

 まるで私には、一瞬両選手が「アジの開き」のように見えましたっ! と実況して会場の笑いを誘った。

 そのあと、孝太は試合中二度目の「体落し」の態勢に入った。

「二度もその手を……食うか」

 さすがの涼介も、全力で臨んだ内股すかしをさらに「すかされ」、なおかつ今アクロバットな動きで目視範囲から逃げられ、集中力が鈍っていた。

 ゆえに、孝太に技をかけ返すどころか、体落しを仕掛けてくる孝太の態勢を崩すことが精いっぱいだった。

 しかし、ここへきて涼介の奥襟をつかむ孝太の手は、鋼鉄のように硬かった。

「いったい、コイツのどこにそんな力が?」

 一瞬、孝太の姿が涼介の視界から消えた。



 ……涼介よ。てめぇのクソ実力じゃなく——

 バカ頭が見逃しているおめーの最高の姉ちゃんを見ろおおおお!

 それが見えてないお前なんかに、今負けるわけにはいかなああああい!



「いえあああああああああああああああ」

 気合一閃。

 孝太の揃った両足が伸び切ると同時に、涼介の体が宙に踊った。

 エビのようにジタバタする足もそのままに回転させられ、涼介は悔しがったがどうすることもできず、畳の上で受け身を取った。

「い、一本背負い投。一本!」



 一瞬静まり返っていた会場は、まるで大晦日が終わって新年にでもなった瞬間のように、沸きに沸いた。

「やりましたぁ~っ、柔よく剛を……いや、柔を、かな? ええい、どっちでもいいや! とにかく、福田選手が格上のチャンピオン、逢坂選手を下して無事、無事に……美由紀ちゃんを……」

 再び、別の意味で会場は静まり返った。

 ついに皆が、ひた隠しにしていた安西京子の気持ちを知ったからだ。マイクがハウリングするのも構わず、京子は放送席のテーブルに突っ伏して、泣き崩れた。



 そこへ、女心のおの字も分からなかったあの孝太が、安西京子のいる放送席へ近づいてきた。

 泣き腫らした目を上げ、不思議そうに孝太を見つめる京子。

 一瞬ではあったが、二人は見つめ合ったその数秒間に、あり得ないほどの情報量を意思疎通した。京子は、本当の意味で納得した。自分勝手に決めたサヨナラではなく、本当のサヨナラができた。

 C組のトモダチとしては、これからも永遠に続くのだけども。

「……ありがとうな。安西」

 そう言った孝太は、京子の肩をやさしく、ポンポンとたたいた。そして孝太は体育館の外へ消えた。慌てて彼のあとを追いかける、C組のクラスメイトたち。

 京子は、止まらない涙を手ですくい上げながら、思った。

 C組で本当によかった、と。この素敵な仲間たちと中学時代を過ごせたことは、奇跡なんだ、と。

「ん? なんだ? 試合、終わったんですかね? 江口先生」

「そ~みたいですわよ、タケリン」

 結局この二人は、始終自分たちの世界に浸っていた。ゲストなんぞに呼ばれておきながら、実況にはまったく役立たずに終わったのだ。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「美由紀~あんた何してんのよ~」

 菜緒がようやく美由紀を見つけた時には、すでに試合終了していた。

 うしろからは、A組の高倉綾子も追いついてきていた。

 美由紀は、学校裏の公園にいた。

 スカートが汚れるのに、サッカーや野球ができる広い広場にペタンと座り込んでいた。その後ろ姿を見て、追いかけてきた二人は思った。一足、遅かったか——

 美由紀には、孝太の試合、特に最後をしっかり見てほしかったのに。



「ちょっと、美由紀。あなた一」

 菜緒と綾子の二人は、脱力した。

 後ろ姿しか見えなかった美由紀の前に回り込んでみると、何と美由紀はスマホの画面を見て泣いていた。そういえば安西さん、アドレス分かる人にはスマホでも見れるように配信してる、って言ってたっけか!

 結局見るんだったら、生で見てやればよかったのに。

 そう思った二人だったが、試合の当事者のキモチなんて、外野には分からないんだろうなぁ、と美由紀の乙女心の複雑さを思いやった。

「うえええええええええええん」

 長い付き合いの中で、美由紀がなりふり構わず泣くというのは、涼介と孝太の対立が勃発したここ二週間で初めて見た菜緒は、驚きと感動がないまぜになった心境で、美由紀を胸に抱きとめた。綾子もやってきて、三人で片寄せ合って泣いた。

 菜緒の胸には、室木大輔との『ラブレター誤配事件』を解決してくれた、クールでカッコいい美由紀の姿そのままが映し出されていた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの彼女でも、そのどちらでもやっぱり「美由紀は素敵」なのだ。



「……姉ちゃん」

 涼介と明は、すでに試合会場を出ていた。

 先ほど、安西京子が「バカヤロー!」と叫んでいた体育館裏で話をしていた。

「やっぱ、姉ちゃんに教わってりゃよかった。つまらない意地張らないでさ」

 美由紀と同じで、普段クールな彼には、たとえ正直な気持ちであっても、言葉にするのは相当恥ずかしいのだろう。明を正視できず、横を向いて頬を赤くした。

「今頃分かったか、このバカ弟」

 コツンと、涼介の頭を小突く明。こういうじゃれ合いに慣れていないせいか、ムットした表情を一瞬見せた涼介だったが、すぐに笑顔になって明に笑いかけた。

「……福田のやつには、感謝しなきゃな」

 ポツンとひとりごちた涼介は、突き抜けるような青い空を見上げた。

「あんたさ。あの子なら、自分を負かしてくれる、って思ったんでしょ」

「……さぁな。姉貴は、想像力ありすぎだよ」

「素直になるのに、他人を利用しないの——」

 明もまた、涼介の横に並んで同じ空を見上げた。

 寄り添い合う二人は、今は誰が見ても、仲の良い姉弟に違いなかった。



「お~い 美由紀~」

 美由紀はその瞳に捉えた。孝太が、遠くから駆け寄ってくるのを。

「遅いじゃん! 早く来なって」

 じれったく手招きする菜緒とA組の綾子の二人に、孝太を連れてきた堀田利美と朝倉瞳は「こっちは呼ばれてからずっと走ってきて、疲れてんだからね!」とブウタレ文句を言って、千鳥足で近づいてくる。

 目の前に立った孝太に、どう反応していいか分からない美由紀。

 C組の女子たちは、一瞬で状況判断した。美由紀は、目がスロットマシーンみたいになっとる! こら、あかん……



「あ、あそこにドラえもん!」



 誰も、振り向かない。



「あ、あそこに神楽坂69(シックスティーナイン)!」

「えっ、本当~?」

 


 美由紀と孝太は振り向いた。

「し、しまった! 謀られた~!」

 その場にいたC組女子たちの逃げ足は、異常に速かった。すでに、他の皆の姿は跡形もなく消えていた。

 二人きりにされた美由紀と孝太は、モジモジした。



「……ゴメンね」

 美由紀のほうが、先にそう言って、孝太に体を預けてきた。

「何がだよ」

「あんたの試合、最後までその場にいれなかったこと。たった一日なのに、逢坂君に惚れかけたこと——」

「それはもう、謝るな」

 孝太は、セーラー服姿の美由紀を抱きしめた。美由紀は美由紀で、まだ柔道着姿の汗臭い孝太の背中におずおずと手を回し、自分の胸に引き寄せた。



 いつまで、二人はそうしていただろうか。

 やがて、夕日が傾きオレンジ色の光を二人に投げかけてきた。

 思えば、夕日が何度、一緒に走る二人の背中を照らしてきたのだろう。

 その時は、互いがすれ違い、他人の恋路の世話焼きばかりで、涙ばかり呑んできた二人のこれまでの日々。

 今やっと、夕日が二人の恋を祝福した、と言っていい。



「あ、思い出した」

 美由紀がいきなりそう言ったので、ビクッとした孝太は抱き寄せていた美由紀の体を離した。

「な、何を?」

「孝太の告白を、いったん預かる、って言った話」

 孝太もまた、思い出した。エロ雑誌の間に挟んだ美由紀の写真がバレたあの日のことを。あれ以来も、その写真にはお世話になっているが、それは絶対に言えない。

「改めて聞くけどさ、今この瞬間、間違いなく私のこと……好き?」



「好きだ」



 ここまでの修羅場をくぐりぬけて。何度も、美由紀が本当に好きかを自分自身に問い続けて——

 そこまでしてきた孝太に、迷いなどあろうはずがなかった。

 そして孝太のその言葉は、これ以上ないというほどの説得力を持っていた。

「うれしい! うれしいよう!」

「おい、ま、マテ」

 美由紀は、アイスのようにカチンコチンに固まっている孝太の背中に再び手を回し、体を寄せてくる。美由紀の心臓のバクバクいう音が、制服の生地を通して、孝太の胸にもじかに伝わってくる。

「私たちって、二人きちんと起きてる時にキスしてなかった……よね」



 ……ええええええっ?

 (てか、このタイミングでその恥ずかしい事件を持ち出す?)



 これから一体何が!?

 アレが起こるかもしれない。いや、起こるであろう、起こる時、起きよ——。

 ああっ、何だってこんな時に動詞活用なんかさせてるんだぁぁ!

 孝太の心臓がエイトビートどころではないアップテンポで高鳴り、お腹を突き破ってエイリアンの三段階の口のように出て来そうになっていた。

「みっ、美由紀?」

 そう言い終わらないうちに、まつ毛を伏せた美由紀の顔が覆いかぶさってきた。

 焦る孝太を待ってなどくれなかった。

 竹を割ったようなハッキリした性格の美由紀の行動には、『タメ』というものがなかった。



「あなたが好き。大好き!」

 美由紀の唇が、孝太の唇をしっかりと捉えた。

 それ以上瞳に溜めておけなくなった涙が、ツーッと美由紀の頬を伝う。彼女の涙を見てさらに愛おしさが胸にこみ上げた孝太は、震える美由紀の肩に手を回して、しっかりと抱き寄せた。

 


 すれ違いの名人でさえあった二人の姿を、斜陽が照らし出す。

 夕日のオレンジから、夜空の藍色にバトンタッチしかけた空の下。

 学校近くの公園で寄り添い合う二人の周囲だけ、ゆっくりと時間が流れていった。



       ~完~



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 ……で、終わればきれいだったのだが!



「はぁ~い、お二人さん。これからもお幸せに~!」



 美由紀と孝太の二人は、異口同音に言った。

「また、謀られた~!」

 二人に気を利かせて逃げたと見せかけ、4人の女子たちは近場に隠れていたのだ!

 しかも、C組のその他大勢(A組の高倉綾子を含む)も、公園の低い茂みの向こうと、公衆トイレの裏に分かれて、ずっと隠れて見ていたのだ!

「あんたら一時間半近くも抱き合って動かないんだから! おかげで退屈だわ、蚊には刺されるわ……いくらお熱い二人でも、抱き合いすぎ!」

 宮田菜緒の言葉に、皆どっと笑った。

「そ~言えばさ、田城の今回の作戦、ちょっとエロすぎたよな? なんか、クールな田城らしくない、っつうかさ」

 室木大輔が、腑に落ちないという表情で首を傾げた。

「それ、私もちょっと思った! いくらなんでもさ、パンティーにメッセージなんて……私ならきっとできないわ! やっぱり、愛の力は偉大、ってことよね」

 安西京子の言葉に、仕方なく美由紀が告白する。



「そ、そりゃ私だって、ちょっと抵抗あったさ。でも、孝太に勝ってほしかったから、どうしても伝えなきゃと思って——」

「……思って、試合前に掃除やら点検やらしたはずの女子更衣室に、おパンツ置いていった、ってわけか」

 朝倉瞳のその言葉に、美由紀は頬を赤くした。

「スケベな福田君のことだもの。真っ白な物体をちょっと見るだけでも、気付いて寄ってくると思ったんでしょ。大当たり、だよね!」

「そして見事、福田君は愛する美由紀ちゃんのパンティーを見つけたのでしたぁ!」

 瞳の言葉を継いで、早田美代子がおどけて言ったので、皆どっと笑った。



「でさ。さっきからメッセージ、メッセージって言ってるけど、何て書いてあったわけ? その……なんだ、パンティーに」

 パンティーと言うのは恥ずかしいが、かと言ってパンツと言うのも品がない、と思った増田良輝は、結局パンティーと頑張って口にした。

 この質問には、美由紀自身が答えた。

「返し技の返し技を使え、って」

「何、それ?」

 意味が分からない者たちのために、最近柔道の勉強をした安西京子が、解説を買って出た。



「試合では実況を務めましたこの私がぁ~、ご説明いたしますっ。

 逢坂君は、過去の重要な試合で一度だけ、『返し技』で勝っていました。返し技というのは、相手がかけてきた技をわざと利用して、さらに相手に技をかけてしまうことをいうわけなんですが~」

 そこでエッヘン、と咳ばらいをしてもったいぶった京子は、さらに解説を続ける。

「逢坂君は、孝太君が内股をかけたいと思いやすいように、足運びを調節し、力も抜き加減にした。単純な孝太君はぁ、その手に乗ってしまって『内股すかし』という返し技を喰らってしまったわけなのです。

 その状況からの起死回生は、普通なら無理なところです。でも! 美由紀さんとこの私の次あたりに、孝太君のことが好きな朝倉さんのおかげで、大逆転のチャンスをつかむのです!」

 そこで顔が真っ赤になったのは、朝倉瞳である。本人の名誉のために言うと、この瞬間でも彼女の本命は増田良輝君である。

 瞳は、孝太が美由紀の与えたヒントを忘れていては困ると思い、わざわざ思い出させるために、パンティーを持って孝太のそばまでやってきたのだ。



「孝太君は、アドバイスをギリギリのところで思い出し、『内股すかし』をさらにすかした。言い換えれば、返し技をさらに返した、というわけ。まさに美由紀ちゃんのアドバイス通りでしょ? そのあとの孝太君の活躍はご存知の通り。

 ほとんど人に知られていないはずの「返し技」を返され、そこで決めるつもりだったからスタミナを温存していなかった逢坂君は、孝太君のそこからの怒涛の攻め、体落し→一本背負い投げの連続技に対処しきれず、一本を取られたというわけ」

「しかしさぁ、そのたった一度過去に使っただけの技のことを、どうして知っていたの? 美由紀ちゃん」

 そう質問したのは、堀田利美。料理上手な彼女は高校卒業後、冗談ではなく本当に、逢坂明のオリンピックバックアップ・チームに、栄養管理担当として就職することになる。

「そ、そりゃ……涼介くんの過去の試合のビデオを全部、見て……」

「えっ。それって全部見たら、いったい何十時間になるの……!」

 指と指を合わせて、モジモジする美由紀。

「あ、愛の力って偉大やね~!」

 そう叫んだC組の皆は、驚くべき行動に出た。



 C組の男子は孝太を、女子は美由紀を胴上げした。

 空中に放り上げながら、たまたま二人の目が空中で合った。

 それは、まるで永遠にも感じられる瞬間。

 孝太には、美由紀がクスッと笑ったように見えた。

 それはそれは、吸い込まれるような笑顔だった。



 夕日と完全に交代した蒼い月が、C組の全員を優しく照らし出していた。




   ~今度こそ、本当に完~ 

 

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