スピンオフ作品

番外編『美少女はどうしてフルートを始めたのか』

「じゃあ、今日の練習はここまで」

 部長の声が響く。

 とたんに、それまで緊張の糸で張り詰めていた音楽室の空気が緩む。

 ざわめく部員たち。みなそれぞれに、担当の楽器の手入れと片づけを始める。

 今の三年生は、もう高校受験のため事実上の引退となる。

 そうなれば、今度我が中学の吹奏楽部を引っ張っていくのは、私たち二年生だ。



 私は、ピッコロと呼ばれる小さな横笛を分解し、水滴のこもった管の中を布で拭き始めた。わたしのこの相棒は、小学校の時からの長い付き合いだ。

 フルートとほぼ同じ構造だが、こちらのほうが三分の一も短く、フルートよりも1オクターブ高い音が出せるのが特徴だ。フルートも興味がないわけではなかったが、私にはなぜかこっちのほうが性に合っていた。



 冬には、いよいよ今の三年生抜きで戦う全国中学生吹奏楽コンクールの県予選がある。それに向けての練習が、すでに火蓋を切られている。

 我が校の勝負曲は堅いところで 『交響詩 M.ムソルグスキー・禿山の一夜』 、少し奇をてらったところで 『久石譲 もののけ姫』 と決まった。

 ウチの中学校の吹奏楽部は結構伝統があり、全国のコンクールで過去数度優勝している。予選突破などはして当たり前、という実績を受け継いできているから、未来を託される者は責任重大なのだ。



「……あの子、まだやってるわ」

「懲りないわねぇ」

 楽器をしまいながらも、皆クスクス笑いをしている。

 そう。たった一人の真剣そのものの女の子を除いては——。

 彼女の名は、田城美由紀。

 まだ1年生。正直、TVや映画で見る以外で、彼女ほどの美少女を見たことがない。普通に、クラスで誰々がかわいい、とかそういう次元を突き抜けている。

 まぁ、彼女がいかにきれいでも、吹奏楽の実力とは関係ない。今なぜ田城さんが皆の笑いの種となっているのかを説明しなきゃいけない。



 田城さんは、誰よりも練習熱心である。恐らく練習量じゃダントツトップだろう。

 普通、ほめられるべきことなんだけど、なぜ笑われるのか?

 それは、彼女が 『どんなに練習してもゼンゼン上達しない』 からなのだ。

 それはもう、見ていて痛々しいほどだ。

 彼女の担当楽器は、トロンボーンだ。

 笛などは決まった指使いをすれば、必ずそれに対応した音が出る。しかし、このトロンボーンという楽器はその明確なものはない。

 可動部をスライドさせる際の微調整だけが頼りなのだ。何度も練習することで、「この辺りまでスライドさせればこの音になる」という感覚を獲得して上達するのだが、田城さんは何度練習しても音がきっちり出せないのだ。

 


 普通、そんなに苦戦するくらいなら思い切って他の楽器にすればいいものを、と思ってしまうのだが、彼女はどうしてもトロンボーンがいいのだそうだ。

 何でも、幼少時に見たブラスバンドの演奏で、トロンボーンに一目ぼれして憧れたのだそうだ。それ以来、彼女はトロンボーン一筋で、他の楽器に浮気するなど考えられないと言う。

 かわいそうなのは、『好きこそものの上手なれ』 ということわざが、田城さんに関してだけは当てはまらないことだった。かつてエジソンは言ったものだ。『天才とは1%の才能と99%の努力である』 と。部員たちは、『田城さんは100%の努力だけだから、天才にならないのね』 などと言って笑っている。



 それでも、不思議なことに田城さんは腐ったり、泣き言を言ったりしない。

 周囲の陰口などどこ吹く風で、練習に打ち込んでいる。

 私は、田城さんを見て笑えなかった。

 もし私が彼女だったとしたら、とっくに楽器を変えてもらうか部活をやめるかしているはず。ただ好きだというその一点だけで、そのどちらもしないで努力し続けているのはすごい。

 おまけに、彼女はレギュラーの座にも座れない。

 20人編成のブラスバンドでは、トロンボーンの枠は二人。

 当然、田城さんよりもはるかにうまい二人がいて、すでにその座を占めている。今から彼女らを追い越すなど、現時点で正確な音が出せないという段階の田城さんには、夢のまた夢だ。

 彼女は、どう逆立ちしても表舞台に立てないという現実を知った上で、なお今の楽器にこだわろうとしているのだ。



 でも、時々私は不思議な感覚に囚われることがある。

 田城さんは、やはり何かが人と違う。

 担当楽器をうまく弾きこなせない田城さんは、レギュラーメンバーを中心とするリハさながらの練習の輪に入れてもらえない。

 彼女は広い音楽室の片隅で、音量に気を遣いながらひとり練習をする。

 私は彼女が気になって、時折出す音を聞いてしまう。するとほんの一瞬だけなのだが、こちらが 『エッ!?』 と思う音を出すことがある。

 例えるならそれは、見渡す限りの曇り空の中で、わずかに雲の切れ目がのぞく部分に太陽の光がさしかかって、光の筋が漏れるといった感じに似ていた。



 こないだ、中学吹奏楽協会の理事長をされている高名な先生が、我が校の視察にいらっしゃったことがあった。

 部員が全員集まる音楽室に入るやいなや、その先生は何を思ったかツカツカと田城さんの前まで歩いていって、握手の手を差し伸べて 『今日はお世話になります。よろしく』 と言った。

 部長を初め、その場の皆は唖然とした。

 あとで聞いてみると、その高名な先生のコメントはこうだ。

「へぇぇ?  僕はてっきりあの子が部長さんかと思ってね。うそ、あの子レギュラーですらないの? そうは見えなかったけどなぁ。

 おかしいな、僕の目に狂いがあったのか、それとも皆さんがあの子の使い方を間違えているのか……」

 私は、その言葉が今も頭から離れない。



 そんなある日のこと。私は、部室である音楽室に重大な忘れ物をしてきたのを思い出して、夜の学校に赴いた。

 もしも鍵がかかって入れなかったら、当直の用務員さんに頼み込もう。

 でもいざ着いてみると、校門も開いており校舎内にも簡単に入れたので拍子抜けした。もしかしたら、まだ誰かが用事で校内に残っているのかもしれない。

 廊下の窓に目をやると、これから行こうとしていた向かいの棟の音楽室の窓から、明かりが漏れているのが見える。

「こんな時間に、誰だろ?」

 鍵をもらいにいかなくてもいいと判断した私は、不思議に思って明かりの漏れる音楽室へと歩を進めた。

 気のせいかもだが、校舎の窓から見える夜空は神秘的な色彩を放っていた。



 私は、ドアを開けることができなかった。

 音楽室からの光がわずかに漏れる仄暗い廊下で、金縛りにあった。

 心臓を鷲づかみにされた私の唇は、震える。

 世界って広い。

 だって、今私の中の音楽の常識が覆されたのだから——。



 うねり、巻き上がり、突き抜ける音の洪水。

 切々と、朗々と周囲を振動させる空気のさざ波。

 変幻自在。

 時に場の空気は優しい風の吹き渡る緑の野辺となり、次の瞬間には荒波の砕ける峻厳さを見せ付ける海神の威厳。急に静寂が戻ったかと思えば、晴れ間が差し小鳥たちが戻ってきて歌う自然の恵みの賛歌——。



 今の言葉は、別に頭で考えたのではない。

 音楽室から漏れ聴こえる音を聴いただけで、それらの言葉が無理なく自然に心の中に湧き上がってきたのだ。

 何も言えない。息が詰まったようにのどがつかえて声が出ない。

 喘息にでもかかったように、喉元に空気が通ってヒューヒューいうだけだった。

 何でかな。

 悲しくもないのに、後から後から涙が……

 すごいとかうまいとか感動とか、そんな月並みな言葉では足りない。

 自分ではどうにもできなかった。

 爆弾のような黒い塊が腹の底から浮き出てきて、暴発した。

 砕け散った無数の鋭い破片は、私の全身に突き刺さる。

 私、もうダメ……

 体の力が抜けた私は、廊下に倒れ込んだ。その時、廊下に数本寄せておいていた譜面立てを倒してしまい、大きな音をたてた。


 

「だ、大丈夫ですか?」

 いくら演奏にのめり込んでいても、これだけの大きな異音がすればさすがに演奏者も気付くだろう。

 果たして、音の主は田城さんだった。

 私は、恥とか外聞とか言ってられる心の状態ではなかった。思いっきり泣くことを魂が要求していたのだ。さすがに、それに逆らうことはできなかった。

 彼女は演奏を中断し、廊下の外の私に気付いて飛び出てきた。

 私は彼女に肩を支えられて、力の入らない足で何とか音楽室に入る。

 田城さんは、まさか自分の演奏のせいだとは全然思っていないようだ。

 椅子に座らせてもらった私は、5分もすると落ち着きを取り戻した。



「田城さん。さっきのあれは……何」

 もっと探せば言葉があったろうが、そう聞くのが精一杯だった。

「ああ、これですか? 恥ずかしいなぁ」

 彼女は、片手に持ったアルトリコーダーを恥ずかしそうに見た。

「トロンボーンの練習に行き詰ったら、これを吹いて気分転換するんです。とってもいい息抜きになるんですよ——」



 息抜き、ですって!

 あれが?

 私は打ちのめされた。

 曲も、今までに聴いたことのない旋律だったので出所を聞いた。

「テキトーに音を出しているだけなんです。即興で作るカンジです」

 何でもないことのように、シレッとそう言う。

 こないだの協会の理事長の鑑定眼は、確かだった。田城さん本人と私たち、双方のボタンの掛け違い。それこそが、悲劇の元凶だったのだ。

 私は、ひとつの結論に達していた。

 はっきり分かった。

 申し訳ないが彼女は、トロンボーンに向いていない。

 彼女には、音の出し方に気を割いてもらうべきではない。

 そんな心配の一切無いところで、自由にその才能を発揮してもらうべきだ。

 だから、指さえしっかり押さえれば確実にその音が出る笛は、彼女に向いている。

 その上でなら、彼女は音の精ような本当の能力を存分に発揮できる——。



「田城さん。あなたトロンボーンやめなさい」

 何が、私にそう言わせたのだろうか。

 普通考えれば、あれだけ下手でも好きでやめようとしない彼女の努力を否定するのだから、これほどに残酷で、無慈悲な言葉はない。

 でも、私は悪魔になってでも言うべきだと思った。

 ただ、田城さんをこのままにしておくのは惜しい。本人にも私たちにとっても、大げさなこと言えば吹奏楽界のためにもこのままでは大きな損失だ、ということだけは確信が持てたから。



 私と田城さんは、にらみ合って対峙した。

 真剣勝負だった。

 相手もムッとして怒り返してきた。当然の反応ではある。

 辛かろう。自分が今までどんな苦痛も忍んで貫いてきたことを否定されるのは。

 でも、私は譲れなかった。

 負けるわけにはいかなかった。

 私は田城さんをひっぱたいた。

 床に張り倒した。

 その後で、私も床に倒れこんで彼女を抱いて泣いた。

 田城さんも、火がついたように泣いた。

 その声に驚いた用務員さんが、心配して駆けつけてきた。

 この部屋、防音じゃなかったん? と思ったがすぐに疑問は解けた。

 気付いてなかったけど、廊下へのドアが思いっきり開いたままだったのだ。

 用務員さんの話によると、田城さんの朝練ならぬ『夜練』は、結構以前からの習慣だったらしい。もう田城さんと用務員さんは大の仲良しで、来れば顔パスで音楽室に通してもらっていたらしい。



 次の日から、田城さんの『特訓』が始まった。

 やることさえやったあとは、気の向いたときにトロンボーンを触ってもいい、という条件付で。

 さすがにアルトリコーダーってわけにもいかないから、私が田城さんに勧めたのはフルート。この楽器だけは、今の二年が大丈夫でも、1年生の候補がまだ立っておらず、早急になり手を育てないといけない楽器だったから。

 是非とも、適任の彼女にサポートして欲しかった。

 私の担当はピッコロだから、構造の酷似したフルートなら私も指導しやすい。

 フルートという楽器は、初心者の時はただ音を出すだけでも一苦労なのだが、その辺は問題なかった。

 ある程度の指使いを覚えただけで、タンギングや唇の使い方、強弱のつけ方、音の響かせ方など教えなくてもこなした。

 実質的には受験準備でもう来なくなったフルート担当の三年生部員にも声をかけて、頼み込んで時々練習を見に来てもらった。田城さんの演奏を聞いた先輩は、驚愕にうめいた。

「この子、天才だと思う」 



 月夜の夜。

 私は応援してくれている3年の先輩を誘って、一緒に夜の音楽室で美由紀の演奏を聴いた。

 あ。この頃はもう彼女と私は仲良しになっていたから、「田城さん」はやめて美由紀、と呼んでいる。

 美由紀は、フルート奏者として短期間で恐ろしい成長を遂げた。

 静かな、凛とした空気の中に紛れ込む音の流れ。

 豊かな、それでいて芳醇な旋律。普通ならば込めきれないほどの多くの感情を詰め込んだ贅沢な音の洪水——。

 私は美由紀の練習に毎日付き合っているから免疫ができていたが、先輩はまだ慣れていないから、昔の私のように声を殺して泣いていた。

 それほどに、恐ろしいものだったのだ。

 これは人を殺す兵器ではなく、人を生かす兵器だ——

 そう言ってよかった。



 教えたら教えただけ美由紀が伸びるので、ちょっと無理をしすぎた。

 時には、彼女の指にひどいまめができて、えらいことになったりした。

 でも、美由紀はそんなことには屈しなかった。

「今、ようやくフルートもいいかなって思い始めたところなんだから」

 エッ

 じゃそれまでは、仕方なくであの素晴らしい演奏をしていたの?

 改めて美由紀の才能が恐ろしくなった。



 私と先輩では、これ以上教えることがない所まできた。

 以前、美由紀を知らずにその才能を見抜いた協会の理事長なら助けてくれると思い、手紙を書いた。

 それとともに、美由紀の演奏を録音したデモテープも送った。

 するとすぐに返事が来て、美由紀は週一で1時間程度ではあるが、有名な一流フルート奏者のレッスンを受けられることになった。



 美由紀の実力がおおやけに披露される日がついに来た。

 コンクール県大会。つまりは全国大会のキップを懸けた予選。

 彼女の一番の見せ場は、二曲目の『もののけ姫』のソロ部分。

 本来、フルートのソロ部分はなかったのだが、あまりにも美由紀の演奏が素晴らしいので、急遽顧問の先生が曲編成を変えたのだ。

 会場は、この時静まり返った。

 しきりに目頭を拭っている観客も、たくさん見受けられる。

 美由紀の笛の音は、もののけ姫というアニメ映画のテーマ曲であるという表面上のイメージを、聞く者に完全に忘れ去らせる破壊力をもっていた。

 聴く者はみな、自分の中にそれぞれの不思議な世界を覗き見た。

 当たり前のように、ウチが優勝した。

 協会の理事長は、審査員席でつぶやいた。

「僕の鑑定眼がおかしくなったんじゃなくって、よかったよかった」



 大盛況のうちにコンクールを終えた私たちは、それぞれ楽器を担いで送迎バスに乗り、家路についた。私は、隣に座る美由紀に声をかけた。

「全国大会が、楽しみだね」

 美由紀は、一瞬何か考えるような仕草をしていたがこう言った。

「あの時、ひっぱたいてくれてありがとうございます」

 いきなりそう言われたので、私は面食らった。美由紀は、さらに言葉を続ける。

「……好きなことを何があっても続けることは、大事なことだと思うんです。でも、もっと大事なこともあるって分かりました。それは、もし人がカミサマに祝福された素晴らしい賜物をいただいているんだとしたら、それは何よりも人のために役立てるべきなんだということ。自分のエゴでそこに目をつぶるのは、自分にとっても世界にとっても、共に損失だということ——」

 美由紀はフルートの入ったケースを抱いて、目を閉じた。

「今じゃ私、フルートが大好きです。だってみんなが喜んでくれるんですもの」



 底知れぬ才能を秘めた音の精霊を乗せたバスは、ゆっくりと学校へ続く街道を走っていった。


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美少女はおせっかいがお好き 賢者テラ @eyeofgod

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