第21話『美少女の恋の結末は?』(前編)

「お前か。これまで美由紀ちゃんに一番近いところにいたヤツは」

 逢坂涼介はそう言って、音楽室の中に数歩ほどツカツカと歩み寄ってきた。

 腕を組んで、視線斜め下に人を見るところなど、素直じゃないときの美由紀の態度そのままだ。

 孝太には、そんな涼介と美由紀がダブって見え、やっぱりこの二人はお似合いなのか、と思ってしまう。



「勝負に関しては……もちろん、受けてくれるんだろうな?」

 美由紀は、頭が割れそうに痛くなり、めまいがして音楽室の壁に背を預けた。美由紀にしてみれば、孝太も涼介も友達であり、大事な人。なのに、そこに「自分」というファクターが加わるだけで、二人は互いを敵視し、戦わなければならくなる。

 どうして? どうして、私たちはみんな仲良くできないの? 

 誰だって本当は人と戦いたくないはずなのに。人から何かを奪わずとも、笑い合って生きれる道があるはずなのに!

 もし、美由紀の問いに間違いのない答えが出せるなら、この地球はとうの昔に平和で、幸福度の高い星になっているはずだ。男と女という、異なる性の存在がいる限り、そして互いを求め合い、その互いの希望が全部かなえ切れないという事態が起こり続ける限り、この世界から争いはなくならないであろう。

「ああ。二週間後の土曜だな。了解だ」

 美由紀は、絶望した。これで、ふたりのうちの一人を泣かせ、背を向けなければならない未来が確定したからだ。しかも、今のままではまず間違いなく負けるのは——



「しかしだ。今のままでは、面白くない」

 涼介は、余裕の笑みを浮かべて、孝太のすぐ前まで歩み寄ってきた。そして、「顔ちけ~よ!」って思わず言いたくなる距離にまで、にゅっと顔を突き出してきた。そして、驚くべき言葉を言った。

「……お前に、オレに勝つチャンスをやろうじゃないか」



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



 次の日の放課後。

 逢坂涼介、田城美由紀の二人以外の3年C組のメンバーで、家に帰ったり部活へ行ったりする者は誰一人としていなかった。

 教室で、孝太を中心に皆は円陣を組み、掛け声をかけて気合を入れた。

「今日からの特訓、頑張れよ!」

「ぜったい、あのインテリイケメン野郎に勝って、美由紀ちゃんを射止めてね!」

 室木大輔も宮田菜緒も、部活の練習時間を削ってまで『二週間で孝太鉄人改造計画』に参加してくれた。本当に、持つべきものは友達だ。

 とりあえずクラスメイト全員で、計画の概要と役割分担を確認して、その場はおひらきとなった。



 ここで、その『二週間で孝太鉄人改造計画』について説明せねばなるまい。

 逢坂涼介は、今のままでは確実に自分が勝つだろうから、そんなことで美由紀を孝太から奪ってもちっとも面白くない。何か自分にもリスクがないと、勝負としては価値がないと考えた。

 そこで、涼介は孝太に「オレの柔道のコーチから二週間、特訓を受ける気はあるか?」と聞いてきたのだ。

 つまり、死にものぐるいで試合までの二週間、涼介のことを知り尽くしているそのコーチから学ぶことで、孝太が力をつけて「もしかしたら、番狂わせで孝太が勝つ余地があるかもしれない」状況を作ろう、というのだ。

「こんな美しくて聡明な美由紀さんを、何のリスクもなく得れちゃ、そのほうが失礼だからね。大きな代価を払ってこそ、彼女の愛が本当に得られるというものだ」

 平日は毎日、その涼介のコーチから放課後レッスンを受けることになった。そして間の土曜・日曜には3年C組の皆が考案した特殊な練習メニューを消化する。それこそが、計画の全貌である。

 ちなみに、公平を期して試合当日までは、美由紀は孝太とも涼介とも会わない、という取り決めがなされた。もちろん、学校の授業で顔を合わせる時は例外として認められたが、プライベートな会話は禁じられることとなった。


 

 さて。今日が涼介のコーチから柔道を教えてもらうその初日である。いったん家へ帰る間も惜しいため、孝太は学ラン姿のまま、直接教えられた住所へ向かう。

 指定されたのは、電車を2本乗り換えて、片道1時間かかる場所だった。

 聞かされたのは住所だけで、そこがどんな場所かは聞かされていなかった。あとは、そのコーチの名前を知っているのみである。



 さっきから、イヤな予感しかしない。

 スマホのマップ機能で、道を確認しながら歩いているのだが——

 さっきから、制服姿の女子高生の集団としかすれ違わないのである。

 女子高生の側でも、自分たちが出てきたほうへ歩いていこうとする『男の子』が珍しいらしく、皆孝太をジロジロ見て何やらヒソヒソ会話していた。

 それにしても、この通学路は年上のお姉さま方の熱気でムンムンしている。



 ……なんかオレ、場違いなんだろうか?



 不安な気持ちをマックスにしつつ、やっと指定された住所にたどり着いたかと思えば、そこはなんと——

「じょ、じょ、じょ」

 孝太は、「まさかここに入っていけ、と言うわけじゃないでしょうね、神様?」 と心の中で問うた。

「女子高校じゃないかよ~!」



「ちょ、ちょっとそこの君!」

 校門に設置された守衛室から、おっさんが1人飛び出してきた。

 それは仕方がない。今のご時世、悪い奴らやちょとおかしな性癖をもつやつらが狙っているであろうから、セキュリティが厳しいのは当たり前だ。

「一体、何の用かね? 見たところ中学生だろ、何で女子高なんかに用事が? 姉ちゃんでも通っているのかい?」

 仕方がなしに、自分は「逢坂明(あきら)」という人を訪ねてきたのだが、お取次ぎ願いたいと告げた。孝太は「逢坂」という苗字が気になって、コーチはもしかして身内か? と涼介に聞いたが、彼は面倒くさそうに「そんなことは関係ねぇだろ」と不機嫌に言ってプイといなくなってしまい、結局聞けてない。

「ああ、アキラさんね! リョーカイリョーカイ。誰か訪ねてくるのは守衛室にも連絡入ってるから、行っていいよ」

 肝心の明さんのいる場所は、東館横の『スポーツ館別棟』の二階、柔道室だよと教えてくれた。



 スポーツ館別棟に着いた。一階はバレーボールやバスケなどができるスペースらしく、天井がかなり高く取ってある。でも二階に上がってみると、天井は普通の教室よりも少し高い程度だ。確かに、柔道室ならそういうものだろう。

 まさか、女子高の柔道部のコーチだとは思わなかった。涼介のやつ、まさかこんなところに通って練習してきたのか?

 コンコン、と柔道場の扉をノックして、中に入る。

「……失礼します。福田孝太と言いまして、逢坂涼介くんの紹介で来ました。今日から、よろしくお願いしま……!?」

 孝太は、柔道室の中央に正座している人物を見て、わが目を疑った。

 その人物は、まず男性ではなかった。長い髪をポニーテールにしていて、明らかに女性である。なんと! 明(アキラ)という名前から勝手に男性だと思っていた。でも確かに、女性で「アキラ」という名前の人もたまにいるよなぁ、と思い至った。

 さらには、大人のコーチですらなかった。なぜなら、その人物は柔道着すら着ておらず、その学校の女生徒の制服を着ていたからだ。美由紀とはタイプが正反対で、日に焼けた小麦色の肌が魅力的な、『スポーツ健康美人』という言葉がピッタリな美少女であった。

「ああ、涼介から聞いています」

 それまで、正座して黙想していたらしい孝太の『コーチ』は、急にそのパッチリした目を開けて、微笑みかけてきた。

 つられて孝太もにこやかに笑顔を返したが、特訓が開始されてからの孝太は、まさに「地獄」ばかりを見る運命になるということを、この瞬間は知る由もなかった。



「それではさっそく、柔道着に着替えてきてください。更衣室は、右手奥の扉です」

 孝太は、疑問に思ったことを素直に言った。

「その、コーチは……柔道着には着替えないんですか?」

「ああ、そんなこと」

 逢坂明はちょっと笑った。

「あなたは、まずは柔道の実践以前のところで訓練が要ります。だから、私が道着を着る時は、それはあなたがもっと強くなった時です。でないと、私と普通に稽古したらあなた怪我しますから」



【特訓1日目】



 さっきから、ずっと正座して黙想。

 30分ずつ4セットやったから、すでに2時間、そうやっていることになる。

 少しでも体が動いたり揺れたりすると、明コーチに竹刀で叩かれる。

 ここは、禅寺かなにかか? そう思った孝太であったが、こちらはお願いして教えを乞うている身。不満があっても、そう簡単には意見できない。

 そして、30分の節目には、必ずこう聞かれる。

「何が見える?」

 孝太は、正直に答える。

「目をつむってるんで、何も見えません」

 すると、明コーチの非情な指示が即座に飛んでくる。

「じゃあ、もう30分」



 当然のことながら、正座を続ければ足が痺れる。

 孝太は、明の見ていないタイミングを見計らって、足を崩す。

 でも、そんな小手先のごまかしは、通用しなかった。

 明コーチは、背中にも目があるんじゃないか? と孝太は思った。

 ズルを見破られるたびに、孝太は素手で張り倒された。年上とはいえ、制服姿の女子高生に、である。孝太にも、少しは男としてのプライドというものがあったから、決して気持ちのいいものではない。

 飛んでくるのは平手打ちなのだが、足を踏ん張っても倒れてしまうほどの衝撃だ。本当に、歳がふたつほど上なだけの女の子か? と疑いたくなるほどだ。

 孝太は、一体今やっていることが涼介に勝つのにどう役に立つのか、それが分からない情けなさと、コーチの望むとおりにどうやってもできない悔しさに、思わず涙を見せた。

「技術的なことや体の動かし方をインスタントに教えてほしいのなら、帰りなさい! 私よりも柔道のやり方に通じた先生は、いくらでもいるでしょう」

 明コーチは、孝太にそう怒鳴りつけた。



【特訓2日目】



「あ、更衣室はいつもどおり右手の奥の扉のところね」

 明にそう言われて、孝太が何の疑問もなくドアを開けると——

「きゃあああああ 痴漢よヘンタイよ~!」

 孝太の顔面にドリンクのペットボトルやらコップやらが飛んできた。

 更衣室の中には、まだ通常の「女子柔道部」の部員がいたのだ。

 パニックになったある部員などは、パニくったあまりに自分の下着や制服を孝太に投げつけていた。モノが当たって痛いのとは別の理由で、顔面に女子高生の生パンティとブラを受けた孝太は、こころなしか幸せそうな顔をして床に沈んだ。

「ごめんなさいね。女子高だから男子更衣室なんてものが考えられてなくて。つい普通に行かせちゃってゴメン!」

 明は、エヘヘと笑って舌を出した。



 一体何の役に立つんだろう? という指導メニューは、黙想だけではなかった。

 漢字が500個くらい書いてある紙が、道場の壁に貼られてある。

 そこから数メートル離れた場所で正座した孝太に、明は適当な漢字を棒で指す。

 孝太は、次々と指される漢字を出来るだけ早く答えるように要求された。

 慣れないうちは、字が細かすぎるので目がチカチカしてしょうがない。5分も続けてたら、目が疲れて孝太は根をあげた。

 明は、疲れてひっくり返る浩太を見て、とても悲しい目をした。 



【特訓3日目】



 中学校から出てくる前、孝太は朝倉瞳に声をかけられた。

「……分かったわよ。調べてみたら、色々とさ」

 瞳の調査によると、逢坂明というのは、間違いなく聖心女子学園高校の2年生で、全日本女子柔道の高校チャンピオン。次のオリンピックの代表を目標に、特別調整プログラムに入っているらしい。明は、ただでさえ忙しいのに、孝太の特訓にわざわざ付き合ってくれている、ということになる。

 孝太は柔道をやる身として、高校女子柔道チャンピオンの『五十嵐明』なら知っていた。明が逢坂の苗字を名乗る前は『五十嵐』であり、孝太はやっと合点がいった。



 逢坂家の家庭事情は少々複雑で、明は逢坂の姓を名乗ってはいるが、涼介とは血が繋がっていない。建前上は姉と弟という関係だが、涼介は父親の「前妻」の子どもである。あとで逢坂家に入った姉の方では特にわだかまりはなく、弟となった涼介に柔道を教えてやりたかったが、涼介はそれを拒否し、姉の力を借りずに強くなった。

「だからさ、逢坂君が『僕のコーチに教わるといい』と言ったのはウソがあるの。本当は逢坂君、知りたかったんじゃないかな? もしも素直にお姉さんから教わっていたら、どれだけ強くなるのか。自分は素直になれなくて拒否しちゃったから、孝太君でそれを確かめたくなったんじゃないかな?」

 


 朝倉瞳は、最後に孝太にある打ち明け話をした。

「私がね、こないだ逢坂君に『自分が明らかに相手より強いのが分かってて、よく勝負しろなんて残酷なことが言えるわよね!』って詰め寄ったの。そしたら彼、言っていたわ。

 ……僕は、昔から欲しいものは何でも実力で手に入れてきた。

 欲しいものを手に入れるためなら、何だってしてきたし、心も痛まなかった。

 今回も、一目ぼれした田城美由紀を彼女にするために、やっぱりそうするつもりだった、って。

 でも、A組の笛の貸し借り事件、あったでしょ? 美由紀が笛を貸したことで冷やかされちゃったA組の井口君を助けようって決めた時。その時の美由紀と孝太のバカっぷり丸出しの夫婦漫才を見てね、逢坂君も考えを変えたらしいの。

 これは、ただの実力で叩き潰していいものじゃない。チャンスを与えてやらないと、自分が一生後悔するって。

 だからさ、逢坂君もそこまで悪いやつじゃあ、ないんだよ。

 もうね、ここまできたら男と男として、余計なことは考えないで全力でぶつかることだけ考えなよ——」



 ……そうか。そんな背景があったのか。

 孝太は、未だに明コーチの意図がつかめない。今日も正座しての黙想と、見辛い漢字の早読みを散々させられて、終わり、

 試合まであと一週間と二日だというのに、何も柔道らしい練習はしていない。

 こんな調子で、自分は本当に涼介に勝てるんだろうか? と疑心暗鬼になった。



 女子高の校門を出てしまってから、孝太は忘れ物を思い出して、柔道場まで取りに戻った。

 柔道場は閉まっておらず、扉の隙間からまだ明かりが漏れている。孝太は扉に手をかけて入りかけたが、やっぱり入れなかった。

 まだ帰っていなかった明コーチが、道場の床に伏して泣いていたからだ。

 孝太の名前を呼びながら、何か叫んでいる。その行為が何かををあえて言い表すなら、『祈り』 だろう。

「……いつかきっと、福田君に私のしていることの意味が分かりますように」

 その明の姿を見てしまった時から、孝太の物事の見方が、世界を捉える眼が少しずつ変っていった。



【特訓4日目】



 明は、いまだ女子高の制服姿のままで、いっこうに柔道着を着て孝太と組み合おうとはしない。

 この日、明は孝太には意味不明な心得を、いくつも暗記するまで叩き込んだ。



「一切を自分のためにするな。

 上手くなろうと思うな。

 人に勝とうと思うな。

 結果を期待してする一切のことを価値なきと思え。

 結果とは、その後でついてくるものに過ぎない。

 優越感を最大の敵と思え。

 アイツよりオレが上。そう思った瞬間、あなたの一流選手としての可能性は死ぬ。

 劣等感は友である。しかしそれは劇薬と一緒で、使い方を誤ると死ぬ。

 気とひとつになれ。

 地と合せよ。

 己の力を信じるな。

 ただ己の使命を信ぜよ。

 自分を動かしめている魂と肉体の根源を信ぜよ。

 感謝と決意以外の感情は、徹底的にこれを排除せよ」



 明の教えは、難解なうえにムチャクチャだった。

 普通に考えたら、納得しにくいものも多かった。

 明はさらに言った。

「これらの言葉の聞き方を間違えると、あなたの才能は死にます。ここであなたがこの言葉をどう捉えるか。それが、あなたの選手としての一生を決めます」



 孝太は、大事だと言われたこれらの言葉をブツブツと唱え続けた。

 そして、いつもの30分瞑想に入った。

 


 ……目の前で起こる一切の現実に惑わされるな。

 それを突き抜けてもっと遠くにあるものを見よ——。



 この時、初めて孝太の頭から雑念が消えた。

 この練習に何の意味が? 役に立つのか? という疑問が消えた。

 孝太は、自分の皮膚の外の空気と、自分の体との境目が分からなくなる感覚を知った。孝太は知らなかったが、天地と自分が別々の存在ではなく、実は根源においてひとつである、というこの境地を『天地一如』と呼ぶのである。

 孝太の変化を察知した明は、彼の後ろから声をかけた。

「今、何が見えてる?」

 孝太は正直に、さっきから見えて見えて仕方のないものを言った。

「……自分が見えます」



【特訓五日目】


 

 今日は、金曜日。

 明日は休みなので、孝太は今日と土日と、練習三昧で過ごせるのである。

 3年C組の結束は固く、涼介と美由紀を除く全員が、聖心女子学園高校まで応援に駆けつけてくれた。

 C組の男子たちは、初めて『女子高』なるものに侵入(?)したことで、かなり舞い上がっていたため、孝太は「絶対要らないことはするなよ!」と厳しく釘を刺した。特に朝倉瞳などは、彼氏の増田良輝に怖いくらいに何か言い含めていた。

 改めて、瞳が彼女じゃなくって良かった、と思う孝太であった。



 驚いたことに、明はいつものブレザーの制服姿ではなかった。

 孝太は初めて、明コーチの柔道着姿を見た。

「……今日から最終日まで、無制限の乱取りをします。終了は、どちらかが音をあげるまで。まぁ、それはきっと私じゃなくあなたでしょうけどね」

 特訓の初日、孝太は「柔道の実践以前の問題」だと言われた。道着に着替えた明との稽古など、ケガのもとにしかならない、と。

 ならば孝太は、この段階で少しは成長した、ということの証ではないだろうか?



 3年C組の面々は、稽古の妨げにならぬ程度に、孝太に声援を送った。

 しかし、次第に彼らの声がやんでいくほど、その場は壮絶を極めた。

 孝太は何度も投げ飛ばされ、何度も寝技を決められた。

 あまりにも明の技のキレがすさまじいので、孝太が受け身を取っても、それでもなお骨を痛めるんではないだろうか、と心配になるほどであった。

 孝太は、鼻血も出した。百回倒されても百一回立ち上がった。

 目も当てられない状況だったが、クラスメイト達は目を背けず孝太を正視した。

 他人事ではなく、自分たちも孝太と一緒に戦っている……。

 皆、そんな風に思っていたからだ。



 土曜の午前は、朝倉瞳の『柔道理論』の授業だった。

 これまでの孝太なら、「ケッ。結局さ、何のかの言っても柔道は実践なんよ! 座学なんて意味ないない。体で覚えりゃ済む話だろ」とバカにしただろう。

 でも、明に精神修養を徹底的に施された孝太は、この時謙虚さと柔軟性というふたつの長所を持ち合わせていた。

 真剣に聞いてくれる孝太の好反応に気をよくした瞳が、さらに熱を込めて教える。その好循環が、素晴らしい学びのひと時を生み出した。

 


 午後は、みんなで女子高の周りのマラソンコースをロードワークした。

 運動が苦手な者もみな、それぞれのペースで走った。もちろんこの練習メニューは、サッカー部キャプテン室木大輔と陸上部のエース・宮田菜緒の『運動一筋コンビ』の提案によるものである。

 ゴール地点の噴水前では、早田美代子がおかしなドリンクを用意して待っていた。一位でゴールしてきた孝太は、美代子に渡されたものを見て目を丸くした。

「これ……何?」

「見りゃわかるでしょう。卵よ卵! これで、精つけてもらわなきゃ」

 確かに、生卵をいくつも割ったものだろうと見れば分かる。でもこれじゃ、まるでロッキーだ。あのう、これはボクシングじゃなくて柔道なんですけど……

 でもせっかくなので、孝太は生卵ドリンクをありがたくいただいた。

 そうしている間に、他のクラスメイト達も続々とゴールしてきた。宮田菜緒が2位だったのは、もしかしたら孝太に華を持たせたのかもしれない。



 夜は、堀田利美特製のディナーが、皆に振舞われた。

 女子高の家庭科調理室を、特別に使わせてもらったのだ。

 C組の面々が喜んだのは当然だが、利美の料理を初めて口にした明コーチも、これには感激して、「私の栄養管理担当になってほしいわ~!」と叫んだほどである。

 孝太は、心から「この団らんの場に、美由紀もいたらどんなに喜ぶことか」と思った。彼女が今ここにいないことが、何よりも寂しかった。



【訓練六日目】



 明コーチと孝太の『乱取り稽古』は続いた。

 どれだけやったら何分休憩とか、そんな取り決めはなかった。

 クラスのみんなが「大丈夫か?」と思うほどに、切れ目のないデスマッチ練習は続いた。明は、あまりにもC組の皆が心配そうなのを見て取り、こう告げた。

「皆さんは、もう帰ってください。この段階まで来たら、もう皆さんが孝太君にしてやれることは、試合当日の応援くらいです。あとは、この私を信じて、彼を私に預けてくださいませんか」

 瞳や菜緒を先頭に、皆後ろ髪引かれるような思いで、柔道場を去って行った。



「……さぁ、ここからはもうあなたと私の真剣勝負です」

 明は、乱れた柔道着を正すと、息を整えて言った。

「今から、私はあなたを年下の中学生だと思うのをやめます。一切の手加減をせず、あなたを私と対等な選手として向かっていきます」

 孝太は、明のふところに飛び込んで投げを打ちにかかったが、石像のようにビクともしない。逆に袖をつかまれた後、体を前後に揺すられ、思わず足が揃いそうになるところに大外刈りを喰らった。

「涼介に勝ちたいなら、試合の前日までリタイアせず、私に挑んできなさい。もしあなたが、ケガも病気もせず試合当日涼介の前に出られたなら、そこで初めて勝てる可能性が1割弱でもできた、と思いなさい」



【特訓7日目から13日目】



 孝太は、自分が生きているのか死んでいるのか、良くわからなかった。

 そもそも、一体何のために死にかけているのかすら、良く分かっていなかった。

 頭に白い霞がかかったような状態で、時間が来たら明の待つ道場に、夢遊病者のように出かけていく日々が過ぎた。

 


 明は明で、異母兄弟という事実によるわだかまりにより、涼介には注ぐことをゆるされなかった姉としての愛情を、孝太に注ぐことで本懐を遂げようとしていた。

 孝太に涼介の姿を重ねて、命がけの稽古をしているうちに、いつの間にか孝太が実の弟のように思えてきた明なのであった。

 今二人は、時空を超越したところで戦っていた。魂の問いを投げ合っていた。



 ……あなたは、なぜ戦うの? そんなにしてまで。

 ここまで果てしない境地に達してまで、その女の子を守る価値があるの?



 ……そんなこと知るかよ。

 分かっていることは、たったひとつだけさ。

 今、こうしていたいんだ。自分が幸せになる唯一の手段が、今こうしていることなんだ、という確信だけがある。

 美由紀を取り戻すとか、涼介に勝つとか。そのヘンのことは、もうとっくに忘れちまった。ただ、今コーチとこうして戦っていて、それがスゲー楽しいっていうかさ。心地いい、っていうか。

 今生きてる、って感じがするんだ。それだけの理由じゃ、ダメか?



 ……ダメじゃないわよ。

 あなたは、私の最高の教え子よ! ってか、教えたの初めてなんだけど!

 孝太君、あなたなら涼介を倒せるかもしれない——



【試合当日】



 朝になった。

 いつの間にか、夜が明けていた。

 仮眠は取った気がするが、自分たちがどれくらい組み合っていたのか、分からなかった。

「今日まで、よく頑張ったわ」

 明も、ボロボロだった。彼女は、孝太に自分のすべてを教え込む気でいたから。もっと言えば、自分を超えてほしいとさえ願って情熱を注いだから。

 急速な成長をする孝太の全力に、明ほどの選手でも無傷では済まなくなっていた。


 

「行ってらっしゃい」

 そう言って明は、孝太を抱いた。

 この出会いを通して、孝太は自覚していなかったがまた一回り、男として大きくなった。孝太は、道場の窓から差し込む日の出の光に、目を細めた。

 もう、孝太は美由紀をかけて失うとか取り戻すとか、そういう一切のぐっちゃらぐっちゃらしたことを忘れた。

 ただ、男として涼介に、今の自分のすべてをさらけ出すのだ、というその思いだけが、今の孝太の足を戦場となる中学校へ向かわせる原動力となっていたのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る