第20話『美少女は間接キスをあまり気にしない?』

 中畑先生がある朝、いきなりその男子を連れてきた。

「え~、今日からこの3年C組の仲間になる、逢坂涼介君だ。みんな、仲良くするように」

 髪型、服装共にこの年頃の男子としてはかなり洗練されていた。顔も、誰がどう見ても「イケメン」の部類に入る。

 転校生というものは、別に来てもおかしくはない。ただ、今はもう中3の二学期である。受験まで間がないし、この時期に転校する者がいるというのは、ちょっと考えにくかった。

 先生は、皆がそこを考えて眉間にしわを寄せているのを見て取って、言った。

「ま、この時期に転校、ってのも珍しいよな。逢坂君のお父様の仕事の都合、ということが大きいんだが、彼の志望高校がちょうど星が丘高校でな。合格したら、こちらに住む方が後々便利になるだろう、ということもあってな」



 星が丘高校というのは、名門私立高校である。聞けば、逢坂涼介の父親の出身校らしい。親としても、我が子が母校に入ることを歓迎し、本人もそれを望んだ形になる。合格するかどうかも分からないのに引っ越してきたのか? と皆思うだろうが、彼は全国模試や進学塾での考査で『A判定』をゲットしており、まず合格間違いなしという太鼓判を押されていた。

 これを聞いて、福田孝太は怖れを抱いた。

 なぜならば、美少女なだけでなく飛びぬけた秀才でもある田城美由紀の志望高校が、その星が丘高校だったからだ! もちろん、そこは吹奏楽にも力を入れている。

 好きな子と、同じ学校に進学したい——。

 それは、恋する少年・少女なら誰しも願うことだろう。しかぁし! それが実現できるのは、その二人の男女が共に『同水準の学力』にある場合にのみ成立しやすい。

 片方が優秀で、片方がそうでないと……かわいそうだが、同じ学校になんかいけない。そうすると、不可抗力で同じ学校の人間に恋人の座を取って代わられる可能性大である。高校生程度の若さでは、精神性の結びつきの強さ云々よりも、だんぜん「実際会って触れ合う回数の多い者」のほうが有利なのだ。



「じゃ、逢坂の席はそうだな……田城の隣が空いてるな」

 孝太の心の中で、メラメラ嫉妬の炎が燃え盛った。彼の席は美由紀のすぐ前で、近いと言えば近い。しかし、授業中にほいほい後ろを向くわけにもいかないから、せっかく近くても美由紀の『ご尊顔を拝する』ことができない。

 そこへ行くと、隣の席ならちょっと顔を斜めにするだけで、美由紀の横顔をずっと見ていることができる。(コラ、黒板とか教科書を見んか~い!)

「よろしく」

 美由紀の横の席に落ち着いた涼介は、にこやかに挨拶した。

「こちらこそ。何か分からないことがあったら、聞いてね」

 心なしか、美由紀の声がはずんでいるように孝太には思えた。もしかしたら嫉妬ゆえに、本来なんでもないことを勝手に『増幅』させて受け取ってしまっている恐れもあった。しかし、涼介の次の一言を聞いてしまったため、ただの邪推は確信へと変わった。

「田城さん……僕、君が好きになっちゃったよ」

 この言葉は孝太だけでなく、涼介の席から半径二席分くらいのエリアの者には聞き取れてしまった。これで、その日のうちには孝太に続く美由紀の恋人候補の有力株が誕生してしまったことを、クラス中が知ることになる。

 孝太は、授業中に後ろを振り向けないため、美由紀がいったいどんな顔をしているのか、見ることはできなかった。彼はその一コマ分の授業中、悶々とした気分を持て余すこととなる。



 お昼休みになった。そこでも、大波乱となる展開があった。

 なんと、美由紀と涼介の二人で、お弁当を食べたのだ!

 もちろん、涼介からの積極的なアプローチに、美由紀が押された形ではある。午前中の授業の内容について、さらに発展的な(要するに優等生同士しか分かり合えない)ことで美由紀の意見を聞きたいらしく、じゃあお弁当を食べながらでも、ということになったようだ。

 C組始まって以来だ。美由紀が仲良し女子グループ以外の、しかもひとりの男子とだけで食事をとるのは! 痛いほど周囲の注目を集めていたはずだが、心臓に毛でも生えてるのか、涼介はまったく気にもしていないようだ。



「うう、仲良さそうじゃないか……」

 孝太は、母・奈緒子が作ってくれたせっかくのお弁当の味を、ほぼ感じることができなかった。ただ、お腹に食べ物を入れて、腹を満たした、という作業に終わった。

「孝太君、しっかりしなよ。私ら、応援してるからさ」

 いつもは、仲良しの室木大輔・広田和也と3人で弁当を食べるのが常だったが、なぜか孝太のもとに朝倉瞳・宮田菜緒の二人の女子が突然弁当を持ってやってきた。

 一緒に食べよ、とも私らもいてもいいか、とも聞かず、彼女らはいきなり弁当を食べ始めた。

 この二人は、普段は孝太と憎まれ口をたたき合っていて、一見すると仲が悪そうに見える。しかし、実は瞳も菜緒も、孝太に「好き」というのとは違う、「信頼」という感情を寄せていた。

「孝太君、めげずに頑張んなよ。私ら、応援してるから」

 口を開けばいつも孝太を見下したことばかり言うあの朝倉瞳が、あからさまに孝太に好意的なセリフを言うのは、まさに天然記念物並みの珍しさである。



 このお昼休みの時間は、孝太を囲む面々にとっては「孝太を励まそうの会」と化していた。実際、この時点で3年C組の多くの仲間は、美由紀にはやはり孝太だ、と思っていたのだ。新参者などに、美由紀は渡せない、と。

 実際、これまで美由紀と孝太がどんなにほろ苦くも素晴らしい思い出を築き上げてきたか、知っているからだ。

 しかし、そんな空気などどこ吹く風で、美由紀と涼介の二人は並の成績では言ってる意味が半分以上分からない話題で、盛り上がっていた。

 まるで、そこだけ異次元空間のようであった。



 孝太は、中畑先生が名前を告げた瞬間から、怖れを抱いていた。

 中学柔道で上を目指す者ならば、誰でも知っている名前。

 去年の全国中学生柔道選手権、優勝者——

『逢坂涼介』。孝太は最初、同姓同名の別人であってくれることを祈ったが、どう見ても間違いない。近くで見たことはないが、日本一を取った者の顔は見間違えない。

 ちなみに、涼介が優勝したその全国大会は、トーナメント形式だったが孝太は一回戦勝利どまりであった。

 都内チャンピオンと、全国レベルチャンピオン。その格の差は、歴然としていた。

 孝太の精神は、少しずつむしばまれつつあった。成績の悪い孝太が美由紀に誇れるのは、柔道くらいなものだった。それを、成績優秀で突き抜けた美少女の美由紀を恋する「なけなしの資格」としていたのに、今美由紀の目の前に『イケメン・成績優秀・運動神経抜群』と三拍子揃った涼介が現れたのだ。

 柔道でもヤツに負けるオレは、オレは…… 一体どうすればいいんだ!?



※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 



「やばっ」

 通学カバンを隅から隅まで探し回った3年A組の井口直樹は、青くなった。

「どうした?」

 すでに次の授業の用意を整えていた山田浩司が、後から声をかける。

「笛……忘れた」

「マジ? 」

 浩司の顔が曇った。

「それって、ヤヴァくないか?  次の音楽の授業、笛のテストじゃあないか。笛ないと、あの先生怖いぞ?」

「……どうしよう」

 直樹のことを心配しながらも、音楽室に早く移動したい浩司は、済まなさそうにその場を去る。

「他のクラスで、借りてくるしかないんじゃないか?」

 他人事のように、そう言い残して。



 音楽の村田先生は、女性ながら男勝りの厳しい先生として知られていた。

 音楽に懸ける情熱なのか、はたまた受験に直接関係しない教科だから、生徒になめられたくないという気負いなのか、とにかく厳しかった。

 この先生の授業では、中間と学期末には『歌のテスト』と『笛のテスト』をするのが恒例行事となっていた。出席番号順に生徒が一人ひとり前に出て、歌ったり演奏したりして、それを聴いている全員が十点満点の持ち点で、クラスメイトたちを評価するのである。

 その総合点と先生自身の評価を加味して、音楽の成績が決まる。

 また、大きく的外れなふざけた採点をすると、それもまた減点対象になるので、自分の演奏だけでなく他者の評価にも気が抜けないのである。



 忘れ物には異常にきびしく、かつて教科書を忘れた者は教室を追い出されて授業を受けさせてもらえず、テスト時に笛を忘れて教室内で貸し借りしていたのがバレた生徒は、借りたほうだけでなく貸したほうも0点扱いになったという前例がある。だから、授業中に人のを借りるわけにはいかない。リスクの大きさを考えると、こちらからは頼みにくい上に、相手もまずいやがるだろう。

 だから、ここは何としても他クラスから借りてきてでも、笛を用意するしかない。



 ……せっかく、家に持って帰って練習したのに。



 家で努力しても、肝心の笛を家に忘れたのでは何もならない。

 直樹は、今更ながらに自分の浅はかさを悔いるのであった。



 直樹は、隣りのB組の教室へとダッシュした。

 さっきの数学の授業が押してしまい、10分ある休み時間がもうあと5分になってしまっている。

 音楽室へは少々距離があるから、ダッシュで二分半としても、大急ぎで借りつける必要がある。

「うそだぁ!」

 B組の教室は、無人な上にドアが閉まっていた。きっと、次が体育の授業なのだろう。間に合うように、早めに着替えたに違いない。

 机の上には、脱いだめいめいの制服が席の上にたたまれてあるのが、窓の僅かな隙間からチラリと見えた。

 残る頼みの綱は、とうとうC組だけになった。

「ああ神様っ」

 進学や内申書のことを考えると、例え音楽であっても 『0点』 だけは回避したい。直樹は血の滴るような必死の祈りを込めて、C組のドアを開ける。

 中はシーンとしていて、誰もいなかった。

 いや、一人だけいた。

 その人物は直樹に気付くと、ゆっくりと彼に迫ってきた。

「……何か用事?」



 彼女の名は、田城美由紀。

 成績優秀で、学年一の美少女。一部ファンには、学校一とさえ噂されている。

 間近で話す機会などこれが初めての直樹は、カァッと頭に血がのぼった。

「あれ、C組は他に人いないのか?」

 美由紀の切れ長の目が、真っ直ぐに直樹を見つめる。

 たったそれだけのことでも、緊張して仕方がない。

「次の授業はPCルームでやるのよ。みんな、パソコン触りたいんだろうねぇ。早々と飛んで行っちゃったよ」



 ……マジかい!



「あんた、顔色悪いよ。何か問題でもあるわけ?」

 あまりのついてなさに青くなったり赤くなったりした直樹は、思わず自らの悲劇を美由紀に語った。

 事態は絶望的だ。こうなったら、この学校一の美少女と二人っきりで会話できたことを思い出に、0点の烙印を押されてもよし、とするしかないか——。

「ふぅん。確かに、村田先生は無駄に厳しいからねぇ」

 腕組みをして天井をしばし見つめた美由紀は、いきなり直樹に背中を向けた。

「ちょっと待ってて」

 シャンプーの宣伝にでもなりそうな艶やかな黒髪がファサ…と揺れる。

 直樹の鼻腔に、何ともいえないいいにおいが襲う。

 クラクラとした直樹は、一瞬自分の置かれたのっぴきならぬ立場を忘れた。

 制服のスカートを揺らして、美由紀は自分のロッカーの前に駆け寄って身をかがめた。そして、驚いたことにアルトリコーダーの皮袋を取り出すと、再び直樹の前に駆け寄ってきた。

「これ、使って」

 美由紀は天使のような笑顔を浮かべて、笛を差し出してきた。



 ……うそっ!?



 また別の意味で、直樹は青くなった。

 女子から笛を借りる、という発想が彼にはなかったからだ。

 いわゆる、『間接キス』というのを気にするからである。

 しかもこの年頃というのは難しい。直樹が美由紀の笛を借りたなどということが皆に、特に男子に知れたら、何を冷やかされるか分かったものではない。

「いいからいいから」

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、呆然としている直樹にしびれをきらした美由紀は、彼の手のひらをこじ開け、無理矢理に笛を握らせた。

 美由紀のしなやかな指が、直樹の手に触れる。

「ところで、早く行かないとマズいでしょ? あと3分でチャイム鳴るよ」

「ヤバっ」

 我に返った直樹は、ありがとうと言ってその場をダッシュで離れた。

「ちゃんと洗って返すのよ!」

 背後から美由紀の声が聞こえた。



 滑り込みセーフで、授業に遅刻せずに済んだ。

「おう、借りれてよかったじゃん」

 隣りの席の浩司が笑顔でポン、と直樹の背中を叩く。

「あっ、ああ」

 ドギマギして返事する直樹。彼は改めて、美由紀から借りてきたリコーダーを眺め回した。さっき、美由紀のセーラー服から漂ってきたのと同じような、かぐわしい芳香がする。笛のくせに、なぜ?

 ネームの札にはきれいな字で 『田城美由紀』 と書かれているから、本人のものに間違いない。



 ……あの子の持ち物は、みなこういう臭いがするのかぁ!?

 まずいぞ。ちょっとまずいぞ、こりゃ!



 案の定、隣りの浩司が異変に気付いた。

 顔をしかめて、鼻をヒクヒクさせている。

 大あわてで、美由紀から借りた笛を席の反対側に寄せる。

 これで、浩司はにおいの制空権から離れたはずだ。

 何としても、女子から・しかも学校一の美少女から笛を借りたなどということは伏せておきたい——。

 直樹はおもむろに、パーツに分かれてしまってある笛を組み立て始めた。

 吹奏楽部のフルートの名手でもある美由紀の笛は、手入れが行き届いていてピカピカであった。

 連結部にはきちんと適量のグリスが塗られており、連結もスムーズだ。

 そんなもの気にしたこともない、直樹の笛とは大違いである。



 組みあがった。いよいよ——

 リコーダーの吹き込み口が、直樹には美由紀の唇に見える。

 心臓がやたらドキドキしている。全身の血行がよくなりすぎて、下半身のいらぬ部分にまで血流が余分にが流れ込む。

 直樹の唇が、笛の吹き込み口に触れた。

 脳天にツーンと抜けるような刺激が、彼を襲った。

 彼にそのような趣味嗜好は本来なかったが、この時ばかりは甘美な『間接キス』の味に酔いしれた。



 ……これは、『美少女の吐息の交響曲やぁ~』 !



 まるで、彦摩呂である。



「ああっ、それってC組の田城さんの……!」

 通路をはさんで反対側から声がした。



 ……しまったぁ!



 左隣の浩司を避けたのはいいが、右に寄せることで通路向かいの女子に笛のことを悟られてしまったのである。こうなっては、もう直樹に待っている運命はただひとつだけである。

 彼の恥ずかしい『間接キス』情報は、ドミノ倒しのような速さでクラス全員に伝わることとなった。

 笛のテストに関しては乗り切ったものの、別のことでクラス中から冷やかされる運命となった、かわいそうな直樹なのであった。



「……おい、聞いたか? お前のした親切が余計な問題を生んだぞ」

 A組の高倉綾子から情報を仕入れてきた福田孝太は、さっそく休み時間に美由紀の席までやってきてそう報告するのだった。

「ああ、井口君に笛貸した件? A組もバッカじゃないの、それ位のことで」

 孝太が報告した内容は、おおよそ以下のようなものである。

 美由紀から笛を借りた井口直樹は、そのことがバレてクラス中のからかいと冷やかしのターゲットと化した。しかし、それだけでは済まなかったのである。

 美由紀の親友でもあるA組の綾子のスクープ情報によると……

 直樹と仲が良い女子、やはりA組の水野明日香が、この一件で美由紀に嫉妬し、ヘソを曲げてしまったらしい。二人の仲は、このくだらない事件のおかげで、こじれてしまったらしいのだ。



「……ばっかばかしい」

 美由紀は、ため息をひとつついた。他クラスとまったく体質の違うC組たちは、それくらいのことでガタガタ言わない。

「田城さん。ここはひとつ、腕の見せ所じゃないか?」

 転校してきたばかりの涼介が言う。転校してきてまだ初日なのに、もう昔からこのクラスにいるかのように、溶け込んでいる。そして、このクラスの色々な事情にまで詳しくなっている。

 孝太は、自分が言おうとしていたことを人に言われて、ムッとした。



「そうね。ここは可哀想な井口君のために一肌脱ぎましょうか」

「おうっ、そう来なくっちゃ。脱げ脱げ!」

 孝太の言葉に何となくカチンと来た美由紀は、口を尖らせた。

「かっ、間接キスなんてカワイイもんじゃないよ。アンタなんか今まで何やった? 私の制服は着るわ、私のくちび…」

「あわわわわわわわわわわわわわ」

 真っ赤になった孝太は、あわてて美由紀の口を押さえた。

「むごごごごごぉぉ」

 ジタバタ手足を振る美由紀。

 その様子を見ながら、クラスの皆は静かに首を振る。



 ……ああ、また夫婦ゲンカが始まった。



 でも、C組の面々がちょっと安心したのもまた確かだった。

 何のかの言っても、気持ち的には美由紀には涼介よりも孝太とくっついてほしいのだ。だから、これでこそいつもの二人だ、と胸をなでおろしたのである。



 その日の6限目のホームルームの時間、C組は 『井口君救済大作戦』 を立案。

 美由紀を中心に、後日計画が実行されることになった。

 この作戦を成功させるには、C組だけでなくB組全員の協力が必要であった。

 美由紀は、独自の外交ルート(?)を使って交渉し、B組をも味方につけた。

 なぜか、担任の中畑先生も面白がった。

「よっしゃ、オレもその作戦、混ぜてくれぃ。明日のA組の音楽の前の授業は、体育だな? 鍵のことは、まぁ任せろ」

 作戦の性質を考えれば、先生の立場であれば本来は止めないといけない内容なのだが、逆に彼は大乗り気であった。

 実際、明日美由紀らがやろうとしている計画とは、一種の『犯罪』に近いものなのだから。



 次の日。

 体育の授業から戻り、着替え終わって音楽の用意をしようとしたA組の生徒たちは一様に驚きの声を上げた。なぜなら、置いてあるはずの笛が……ないのだ。

「お前もか?」

「私のも……ない」

 調べたところ、なんと全員のリコーダーが盗難にあったのだ。

 朝には間違いなくあったから、犯行は体育の時間以外にない。

 笛のテストが終了した直後だったから、誰も練習で笛を持ち帰っていた者などいない。つまりは、一人残らず被害にあったということだ。

「次の音楽の授業……どうする?」

 村田先生は、それで事情を汲んで許してくれるような普通の先生ではない。『結果として笛を用意できなった』ことを逆に責めてくるタイプの、ひねくれた先生だ。

 A組の生徒たちは、B組の教室に押しかけた。

「お願いっ、笛貸して!」

 しかし、驚くべき悲劇が待っていた。

 何の偶然なのか、示し合わせたかのように、誰も笛を持っていなかった。

 今日はB組には音楽はなく、皆、たまたま家に持って帰ってしまったのだという。

「嘘だろ!」 などと問い詰める立場にないので、泣く泣く皆C組に向かった。



 A組の皆がC組に殺到すると——

 恐るべき対応が待っていた。

 男子は、みなこう言う。

「C組の男子は、女子にしか笛を貸さないことにしている」

 女子は、同じように言う。

「私らは、男子にしか貸さないわよ」

 一同は凍りついた。

 唯一、C組とグルであるA組の高倉綾子は、皆にこうとどめを刺した。

「今ここで借りるだけ借りといて、向こうで男女を交換する、っていうズルい手はなしよ。この私がちゃ~んと見張ってますからねっ!」

 下級生や上級生に借りに行くのは、恥ずかしい。

 何よりもう、教室移動の時間を考えたら、そんなことをしている余裕はない。

 A組の生徒たちは、泣く泣く異性の笛を口にして、音楽の授業に臨んだのであった。



「さすがは美由紀。めでたく問題解決、だったな」

 放課後。

 柔道部の部活を終えた孝太は、吹奏楽部の活動場所である音楽室に、美由紀を訪ねた。吹奏楽のほうはとっくに活動を終えており、美由紀だけがフルートの手入れをして残っていた。

「まぁ、やり方はちょっと過激だったけどね」

 そう言って美由紀はクスッと笑う。

 窓からの夕日に照り映えた美由紀の横顔は、吸い込まれるような美しさだった。

 A組が笛を返しに来た時に、実はリコーダーを盗んだのは自分たちの仕業だと告白したC組は、笛の貸し借りくらいで騒ぎ立てることのバカバカしさを説いた。

 謝って盗難物を返却されたA組の面々たちは、怒る気にもなれなかった。



 ……まぁ、そう言われてみたら確かに、そうだ。

 ちょっと、気にしすぎたかな?



 それ以来、井口直樹は誰からも冷やかされることはなくなった。

 なぜなら、今回の事件で、みな同じ立場になってしまったからだ。

 直樹と水野明日香も、仲直りした。

 これは、美由紀の働きによるところが大であった。美由紀自身が明日香を個人的に遊びに誘い、仲良くなった上で直樹の仕方なかった事情をきちんと説明したからだ。

 美由紀はまた、迷えるカップルを一組救ったことになる。



「ったく、間接キスくらいで騒ぐことないのにね。ガキみたいじゃないの」

 美由紀は辛辣に、口を尖らせる。



 ……中学生って、ガキでいいんじゃ?



 そう思った孝太だったが、実際に口にするのは怖いので黙っておいた。


 

「孝太に、言わなきゃいけないことが……あるんだけど」

 急に、美由紀からそれまでの明るさが掻き消えてしまい、うつむいて表情をこわばらせた。きっと、その「言わなきゃならないこと」というのは、聞いて楽しいようなことでも良い話でもないのだろう。

 孝太は、身構えた。

「逢坂涼介君に……コクられちゃった」

 転校してきてその日のうちに、というのがムチャクチャだが、孝太は恐れていたものがついに来た、と思った。

 自分は、本当に田城美由紀という一人の女性を、愛しているのか。逢坂涼介、という高い壁を乗り越えてでも、すべてを懸けてでも自分が守り続けたい子なのか。

 これまでが、そして今現在のありのままの自分が問われる、と覚悟した。



「……で、美由紀は何て返事したんだい?」

 そう聞いた瞬間、美由紀は泣き出した。

 顔を覆ってエグッ、エグッと喉を引きつらせて、ハラハラと涙を流した。

「ごめんね孝太。正直、心が揺れなかったと言えば、ウソになる」

 それを聞いて、孝太も泣きたくなってきた。

 まったく、青春時代の恋というものは、時に残酷なものである。

「でもね、逢坂君は今日会ったばかりだから、あなたのこともっとよく知ってからでないと、好きともなんとも言えません、って言ったよ」

「それで、やつは納得したのか?」

 アイツならそれで引き下がるわけがない、という妙な確信があった孝太は、それでもそう聞かずにはいられなかった。

 美由紀は、制服のポケットから何やら折りたたまれた紙を出して、孝太の顔の前にに突き出した。

 見ると、そこには『果たし状』の文字。

 ちっといつの時代だか分からないような古いやり方だが、中身のおおよその察しは就く。涼介は恐らく、孝太が美由紀に唯一誇れる『柔道』で勝って見せることで、孝太よりもあらゆる面で自分の方が美由紀にふさわしい、ということを見せつけるつもりであろう。



 二週間後の土曜日の午後、体育館の柔道場スペースにて待つ。

 三年生はA、B,C組のすべての生徒をギャラリーとして呼ぶ。そして同時に、どちらが勝負に勝ったかの証人になってもらう。

 どちらか、試合に勝利した方が、田城さんの彼氏候補として残れる。負けた方は、友達としての関係は継続可能だが、異性として見ることは潔くあきらめる——

 以上が、果たし状に書かれた内容であった。

 しかしまぁ、たった一日でよく孝太がもっとも美由紀に近い男子だということを突き止めたものである。涼介の情報収集力は大したものだ。



「美由紀は……断らなかったのか? そんな、試合の勝ち負けで彼氏を決めるとか、お前らしくないぞ」

 孝太は、感情的にそう問い詰めずにはいられなかった。確かに、孝太の言うことはもっともだった。しかし、この時の美由紀は、あまり問い詰めるべきではなかった。

「分からなくなったのよう! 自分の気持ちが——」

 それ以上は言葉にならず、美由紀は音楽室の床に突っ伏して、わんわん泣いた。

「ごめんねぇ、ごめんねぇ。私なんて最低、ホント最低……」



 それ以上は、みなまで言わずとも、だいたいの察しがついた。

 たった一日。一日ではあったが、美由紀にとって涼介は、男として魅力的な人物だったんだろう。頭も美由紀と同程度に良く、会話も誰と話すよりも幅の広くて深い内容を楽しめたのだろう。そりゃあ、普通に考えて美由紀に釣り合うのは涼介だ。

 でも美由紀には一方で、孝太と二人で、C組のみんなとで築き上げてきた、何にも代えがたい「思い出」の数々があった。それらが辛うじて、涼介に傾きそうになる美由紀の心を、ギリギリのところで押しとどめている、といった現状だろう。

 美由紀は、孝太に約束したのだ。彼の『告白』を預かる、と。(※第一話参照)

 その審判の時が、いよいよ来た、ということだろう。

「たとえ試合であんたが勝っても、それで彼氏とかそんなのおかしい、って言えなかった。もしそうなったら、それでも……ってちょっとでも考えた自分がいるの」

 美由紀は、明らかに自分を責めている。彼女のこぶしが、ドンドンとフローリングの音楽室の床を叩く。涙とともに鼻水まで出てきた美由紀だったが、孝太を前にそれをぬぐおうとも隠そうともしない。

「私って、なんて醜いんだろう。なんて自分勝手で、卑怯で、それで……」



「それ以上言うな!」

 いきなり、孝太が大声を張り上げた。

 怒鳴られて、美由紀はびくっと背中を緊張させた。

 そのこわばった美由紀の体を、孝太は優しく抱いた。

「この先、どんな結果になっても、オレの中の美由紀は変わらないよ。ずっと、カッコよくて知恵者で、みんなの世話を焼く人気者。決して自分勝手で卑怯なヤツじゃない、って分かってるから」

 孝太に抱かれて、美由紀の緊張に固まった体は、だんだんほぐれて弛緩していった。目を閉じた美由紀に、安堵の表情が見える。



「分かったよ。オレ、受けて立つよ」

 孝太は、きっぱり宣言した。

 美由紀は無言だったが、その複雑な表情からは「何て言ってあげたらいいか分からなくて、ゴメン」と言っているようにも見えた。

 この時の孝太は、目の前の美由紀を通り越して、いつの間にか音楽室の開いたドアの向こうにいる人物を見ていた。

 逢坂涼介——!



 二人の視線は、激しくぶつかり合った。

 それはまるで、二週間後の戦いの壮絶さをすでに感じさせるかのようだった。

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