美少女はおせっかいがお好き

賢者テラ

本編

第1話『美少女、愛と性について悩む』

 その風はいったい、何者が起こしたのか。

 神か、運命の女神か、それともただの偶然か——。



 2年C組の福田孝太は、答案を落とした時にアッと思ったが、後の祭りだった。

 苦手な英語で取ってしまった、『35点』という目も当てられない悲惨な点数。

 中間や期末といった大きな節目の試験ではなかったのが、せめてもの救いだった。いわば『小テスト』のような扱いのものだったが、それでも孝太には十分ショックだった。



 ……フン、そんなものできなくたって、外国行かずに日本にいりゃ問題ないやい!



 無理にそう思おうとした孝太だったが、しかし——

「でも、道で外人に話しかけられたら逃げるのも恰好悪いし。新婚旅行で海外にでも行って、まったく英語ダメだったらそれも何だかなぁ——」

 そういう、いらない先のことまで心配してしまうのだった。

 英語の勉強というものは、中学のみならず高校も、下手したら大学でも続く。

 中学時代の基礎でつまづけば、後々落ちこぼれるのは目に見えている。

 授業が終わった後、もしも孝太が余計なことを何もせず、すぐに答案を机なりカバンなりにしまいこんでいたとしたら、きっと変わったことは何も起こらなかったであろう。

 しかし事実、彼は無防備に答案を机に伏せて置いたまま、一瞬ハァッとため息をついてしまったのだ。

 時間にすればたったの2秒か3秒のことだったが、この僅かな間が、孝太の命運を大きく分けることとなった。



 クラスメイトの誰かが、運動場側の窓を開けた。

 そこから急に吹き込んできた風が、孝太の無防備な答案を宙に舞い上がらせた。

 教科書や筆箱を乗せたりして押さえてもいなかったその軽い紙は、ヒラヒラと飛んでいく。

「やばっ」

 ただでさえ恥ずかしい点数である。クラスメイトなどに拾われたりしたら、最悪だ。 孝太は、命を懸けてでも自分の手で拾う決意で、答案の着地地点へと決死のダイビングを試みた。

 彼が教室の床に這いつくばって、いざ答案を拾おうとしたその時——

 視界から、答案が消えた。

 そして、目の前に誰かが立っている。

 まさかと思って、孝太が少し視線を上げると……

 制服のプリーツスカートの裾が見えた。



 ……ゲ、女子に拾われたというのか! とすると、一体誰に!?



 コンマ一秒もかからずに、孝太の頭の中には『コイツだけには拾われたくないランキング一覧』が出来上がっていた。そして、せめて上位の三人にだけはなりませんように! と祈った。

 しかし。神は、自分の都合の良いときにだけしか信心しないようなやからの祈りを、聞き届けてはくださらなかった。むしろ、彼を鞭打つかのような試練を、神は与えたもうた。



「ふぅん。35点か」

 受験の合格発表で名前がなかった時に匹敵する、いやそれ以上のショックを孝太は受けた。顔を上げた孝太は、答案を眺めてニンマリするその女子の顔を見て、呼吸困難に陥りかけた。

「たっ、たっ、たっ、た……」

 ショックのあまり孝太は、目をむいて口をアワアワとわななかせた。

 よりによって、彼の答案を見てしまった人物は、まさに「拾われたくないランキング第一位」の栄冠に輝いた人物だったのだ。

 綺麗な黒髪をかきあげて、切れ長の目で孝太を見下ろすその人とは……クラス一の、いや最近では学校一ではないかと言われるほど、内閣と違って支持率急上昇中の美少女、田城美由紀であった。 成績優秀・しかも全国コンクール入賞が常連となっている名門吹奏楽部に所属し、フルートの名手。

 この瞬間から、孝太の受難の物語は始まる。



「……何で、オレはこんな目に!?」

 放課後。

 学校の廊下を歩く孝太に、誰もが振り向いた。

 立ち止まって凝視する者さえあった。

 恥ずかしさに顔を赤くする孝太だったが、注目される原因は彼自身ではなく、明らかに隣りにピッタリと並んで歩く人物にあった。

 美由紀とツーショットで歩く孝太に、ある男子は羨望の眼差しを送り、またある男子は「もしも、もしかすることがあれば……覚えてろよ」 と言わんばかりに、こぶしをボキボキいわせてくる。

 男共の無言のプレッシャーを感じた孝太は、生きた心地がまったくしなかった。



 なぜ、このようなシチュエーションになったかを、説明せねばなるまい。

 孝太が泣いて頼んでも、美由紀はあの答案を返してくれなかった。

 それどころか、無茶苦茶な取引を提案してきたのだ。

「あんたがこのテストの問題、80点取れるくらいに勉強するまで、返してや~らないっ」

 貧血で倒れそうな気分を味わった孝太は、年貢を負けてもらいたい百姓のように、お代官様の立場である美由紀にペコペコ頭を下げた。

「そっ、そんなこと言わないで、許してくれよぉ。だってオレ英語苦手だし、塾行ってねぇし、家庭教師も頼んでないし……」

 美由紀はそこで、可愛い顔に悪魔のような笑みをニタァッと浮かべて言った。

「それじゃあ、今日一日私が家庭教師してあげる。だから放課後に福田君のウチに連れて行ってよ」



 孝太の頭の中で、水爆実験が行われた。

 恐ろしいきのこ雲が、モウモウと空にたちこめる。

「ななななななななななな」

 本当は『何だって!?』と言いたかったのだが、音飛びしたCDのように『な』しか言えなくなった孝太を、美由紀は「どうどう」とか言いながら、背中をなでて落ち着かせようとした。

 しかしそれは逆効果であった。

 美由紀のきれいでしなやかな手に触れられた孝太は、そこに電流でも走ったかのように「アアッ!」とうめいて、身をくねらせた。 はた目には、かなりどん引きする光景である。しかしこの場合、美少女に耐性のない彼を責めるのは、ちと酷というものだろう。

「じゃあ、決まりねっ」

 美由紀の無邪気なその言葉に、孝太の顔からサァッと血の気が引いた。



 ……じゃあ決まりって、まだな~んにも議論してないじゃないですかい!



 しかし、立場的には弱かった孝太は、何も反抗できない。

 結局、放課後美由紀と一緒に家に帰り、彼女を部屋に上げて英語の勉強をすることになってしまったのだ!



 実は、孝太と美由紀は浅からぬ縁がある。

 二人は家が隣同士で、互いに幼馴染なのである。

 小さいころは、無邪気に遊び互いの家にも行き来をした。

 しかしである。二人が小学校にあがり、さらに月日がたって高学年ともなると、この二人の間の距離は、地球とアンドロメダ星雲ほどにも広がってしまう。

 なぜなら、年齢を重ねるにつれ美由紀がどんどん美少女になっていったからだ。

 ちょっと、どころではない。芸能界やモデルの世界に挑もうと思えばできるだろうと思えるほどに、である。本人には、そんな気はないようであるが。

 身近にいる「ちょっとかわいいクラスメイト」という次元とは全く異なるオーラを美由紀が発するようになってからは、「美由紀ちゃんあ~そぼ」と気軽に言っていた幼い頃のようには、接することができなくなっていた。



 他にも、現実問題として美由紀が吹奏楽に力を入れ始めて多忙になった、ということもある。孝太自身も幼少時より柔道をやっていて、現在では都内のジュニアチャンピオンでもある。だから、その牙を研ぎ続けて鈍らせないためにも、相当な練習が必要になる。

 そうして、忙しい二人の関係は次第に疎遠になっていった。美由紀のことは密かに「好き」だが、普通に恋愛対象にするには、彼女はあまりにも美しくなりすぎた。まったくと言っていいほど、手の届きそうな感じがしなかった。

 孝太だって中学柔道では注目の選手であり、決して卑下したものでもない。でも、彼は柔道がいかにできても、もっと根本的に「男として」の自信がなかったのだ。

 だから、ここ数年は美由紀とはまともに話したことすらなかった。やっと今年、せっかく美由紀とクラスが一緒になったというのに、孝太はそのチャンスすら活かせていなかったわけである。

 で、やっと話せたかと思うと、35点のテストを見られてしまうという最悪の展開になった。これでは、孝太の評価はダダ下がりである。



 ゆえに、孝太の家に美由紀が足を踏み入れるのは、二人が小学校3年生の時以来だから、実に4・5年ぶりということになる。

 ただ、その当時と今とでは、まったく事情が異なる。思春期の中学生であり、互いを異性として、単なる女子と男子という区別的な意味だけでない目で見る宿命を背負っているのだから。

 孝太は、美由紀が家に来るというこのシチュエーションを、喜ぶというよりは恐れていた。もちろん、年頃の女子(しかも美少女)と接することに慣れていないことから来る不安も、もちろんある。

 しかししかし。それ以上に恐れていることが実はあった。

 この年頃の男子なら仕方のないことではあるが、俗に言う『見られちゃまずいもの』が部屋には色々とあったのだ。あらかじめ分かっておれば必死に部屋を片付けるが、この場合は抜き打ちテストにも等しかった。

 このまま一緒についてこられたのでは、その場をつくろうことすらできない。



「頼むから、色々いじったりしないでくれよな」

 一抹の不安はあったが、孝太は美由紀を二階の自分の部屋に残して、一階の台所へと向かった。

 一応の礼儀として、お茶とお菓子を用意するためである。



 ……オカンが留守でよかった。



 孝太は心からそう思った。

 もしこの場にいたなら、あとでどんなに冷やかされて、話のネタにされてしまうことか分かったものではない。しかし、高校生の兄とは、さっき二階へ上がる階段ですれ違ってしまった。

「お邪魔してます♪」

 芸能界でアイドルやってます、と言われても不思議ではない美由紀にっこりと笑いかけられた兄は、自分の家に「いるはずのない、ありえない存在」を見て、瞬間的に体の平衡感覚を失った。

「へげし!」

 哀れ兄は、下りかけていた階段の残り半分を、お尻で下ることになった。

 あれではさぞかし、尾てい骨を痛めたのではないだろうか。

 孝太の兄は、隣家に住む美由紀と面識がないわけではない。だが、幼い時に行き来があっただけであり、ここ何年も登校や帰宅のタイミングが互いに違うせいで、挨拶する機会すらなかった。

 そういうわけで、兄はいつのまにやら見違えて美人になった美由紀とは、今初めて会うのとそう変わらない、というわけである。



 来客用に、お茶とお菓子を用意するなどという慣れないことをした孝太は、なんとかかんとか自室まで戻り、ドアを開けた。

 部屋の中の光景を見た孝太は、目が点になった。

 地位も名誉もあるいい年した中年が痴漢で捕まって、その後の人生を棒に振った瞬間というのは、ちょうどこんな感じなんだろうなぁ、と人事のように考えてしまった。 あまりにも驚いたが、用意してきた茶菓子をひっくり返さず、床に置く程度のことは辛うじてできた。

「あっ、そっ、いぃっ、どっ、とっ……」

 あまりのことに、言葉もなかった。

「もしかして、『あっ、そんなものいったいどこから見つけてきたんだ』って言いたいわけ?」

 美由紀は、孝太の言いたいことを正確に和訳する。

 彼女が椅子に座って興味深そうに眺めているのは……基本はマンガ雑誌だが、間のカラーページに女性の水着や、袋とじのヌードグラビアが挟まれている『コミックビンビン』という青年向け週刊誌だった。



「男の子が考える隠し場所なんて、単純なもんだね。一番下の引き出しを抜いた底のとことかベッドの下をあさっただけで、簡単に見つかるんだからね~」

「へがぁっ!」

 心配性の孝太は、中学卒業までの期間を、美由紀と一体どんな顔ですごせばいいのか? と本気で悩んで、目の前が真っ暗になった。

「あ、別に心配しなくていいよ。これくらい男の子なら当然だし別に気にしてない……」

 美由紀は言葉を言い切る前に、固まってしまった。

 手にしていた本のページの間にはさんであった一枚の写真が、ヒラリとカーペットの上に落ちた。

 そこに写っていたのは……いったいどうやって撮ったのか、教室での美由紀の姿だった。 セーラー服姿の美由紀がこぼれるような笑顔を見せている、実によく撮れた大判の写真であった。



 ……ええっ、最後にはさんどいたの、あそこだったっけ!?



 史上最大の失敗をした孝太は、死を覚悟した死刑囚の気分だった。



 その場でペタン、としりもちをついた美由紀の瞳に、ジワッと涙があふれた。

 鼻をすすりだし、次第にシクシクと泣き出した。

 孝太は、その姿を見て本当に死にたくなった。 写真があった場所が場所だけに、どういう使い方をされていたのかについて反論もできない。

 初めは、やばいことがバレたショックや焦りばかりが孝太の心を支配していたが、美由紀の泣く姿を見て、心が引き裂かれた。



 ……女の子を泣かす男なんて、最低だ。



 自分がどういう目で見られているのか思い知らされてしまった美由紀の立場に立って考えると、彼女がいかに傷ついてしまったかが分かる。

 しまいに美由紀は、カーペットに突っ伏して声を上げて泣き出した。

 罪状が罪状だけに、彼女の背中に触れてさすってやるわけにもいかず、何とも慰めようがなかった。

 一生に何回するか分からない『本物の後悔』というものを味わいながら、胸をかきむしる思いで美由紀の嗚咽を聞き続けるしかなかった。



 10分もそうしていただろうか。

 何とか泣き止んだ美由紀は、孝太とベッドの上で並んで座った。

 赤い目をこすりながら、美由紀は健気にも優しい声をかけてきた。

「急にごめんね。私、福田君のこと軽蔑したりしないよ。確かに、ショックはショックだったよ。女の子として……とっても胸が苦しかった」

 孝太は、神妙に聞いていた。今彼ができることは、美由紀の話を真剣に聞くことくらいしか思いつかなかったからだ。

 美由紀は、いきなり心臓に悪い質問を孝太に投げかけてきた。

「福田君は、この世界で私が一番好き?  誰よりも、これからもずっと好き?」



 孝太は固まった。

 もちろん、好きだ。しかし、即座に返答できなった。

 それは、本当に好きならぶっとばしてしまえばよい「細かい引っ掛かり」が邪魔をしたからだ。まだ中学生だし、たとえ今好きでも将来100%変わらない、という保証はないし……エトセトラ。

 それは、孝太が男としてまだまだであるということの、間接的な証明でもあった。だって、どんなもっともらしい理由をあげようが、それらはすべて「言い訳」なのである。好きなら、ただ『好き』でいいのだ。

「……答えられないよね。他に好きな人、いるよね——」

 お前だけだ、と孝太は思ったが、また余計な思考が邪魔をして、せっかくのその言葉を口にはできない。

 美由紀は、訥々と言葉を紡ぎ始めた。



「男の人って、不思議。

 一番好きな女の子じゃなくても、ちょっとかわいい女の子だったらエッチできるんでしょ?

 そんな風に、本命以外の不特定多数をそういう風に見れるっていうのがね、私には分からないのよ。

 そう考えると、男女間の本当の愛って、何かしらね? って私、考えちゃうんだ。

 結婚して、やがて年をとるでしょ。

 妻が年になって性的魅力も薄れてきた時に、まだ機能の衰えていない男の人なんかは、若い子のビデオとか風俗とかに気持ちが行っちゃうんだろうね。

 そう考えると、何だか、奥さんかわいそう。

 私だったら、自分を捧げた男の人には、ずっと私だけを見ていてほしいな、って思う。一生、二人で愛し合おうね、って思う。どうかな、私って間違ってるのかな?」



 孝太は驚嘆した。

 ませているとは思ったが、ここまで渋く愛と性について考えているとは思わなかった。美由紀のしゃべっている内容はどぎついが、しかし鋭い洞察に富んだ内容ではあった。彼女はさらに言葉を続ける。



「芸能人の結婚や離婚とか見てても、世間の夫婦を見てても、何だか結婚というものに希望が持てなくなるような現実も多いわよね。

 人間って、何でこんなに自己中心的な生き物なんだろう、って思うことがある。

 正直、自分っていう人間の醜さに泣きたくなることもあるんだ。でもね——」



 泣き顔をクルッと孝太に向けてきた美由紀は、にっこりと笑顔をつくってきた。



「私はね、人間って素晴らしいと思うんだ。

 確かに人間は、自分のことばっかりなことも多いよ。

 でもね、本当に好きになった人のためなら、『例え火の中水の中』っていう言葉があるでしょ?

 愛する人のために自分が傷つくことを恐れない——。

 本当に誰かを愛した時にこそ、人は 『自己中心の愛』から『自他共に包む愛』に移れるんだと思う。そこが、愚かさを補って余りある人間の素晴らしさなんだよ」

 


 聞きながら、孝太の目にもなぜだか涙があふれてきた。

 若さの勢いにまかせて、愛と性について深く考えずに女の子というものを見てしまっていたが、美由紀の言葉に改めてその大切さをかみしめるのであった。女性は性の対象である 以前に、ひとつの命であり、人格であり、魂。その価値は、何にも代えがたい大切なもの。守るべきもの——。

 そこまで考えた孝太は、言った。今度は、自分の弱さやくだらないプライドや、余計な心配事などすべてをかなぐり捨てて。



「……好きだ」

 その部屋の中だけ、時が止まったようだった。

「え?」

 美由紀は、豆鉄砲でも食らったかのような顔をしている。孝太が知る限り、いつもクールでかっこいい美由紀が見せたことのないような、間抜けな表情だった。

「だ、だ、だ、誰のことが?」

 頭がよくて、いつも立て板に水を流すようにしゃべる美由紀がどもるのは、珍しい。美由紀は、その質問の答えが分かっていて、あえて「怖いもの知りたさ」で確かめたがっているようにも思えた。

「み、美由紀のことが」



 美由紀の頬に、涙の筋が伝った。

 彼女はまた、泣き出した。

 孝太はもちろん焦りはしたが、さっきよりは心が穏やかでいられた。

 なぜなら、周囲の空気を振動させるような泣き声をあげて座り込んだ美由紀だが、その涙のわけが、さっきとはまったく違う気がしたからだ。

「え~ん え~ん」

 孝太は、美由紀の肩にそっと手を置くと、やさしくなでさすった。

 それは、性的な意味合いを超越した、相手への理解と慰めから自然に出た行動だった。それが分かっていた美由紀のほうでも、孝太に近づき、肩を寄せ合った。

 この時の二人は時計など気にしていないが、実に40分あまりもふたりは無言で寄り添い合っていた。



 ……よし。今からオレは生まれ変わる。

 もっと真剣な思いで、美由紀のことを見ていく。

 今日は、本当に申し分けないことをした——。



 夕方になった。

 孝太の部屋の窓からは、建物の屋根にさしかかり今にも沈もうとしている夕日の投げかけるオレンジ色の光線が飛び込んでくる。

「福田君の、さっきの言葉だけど」

 おもむろにそう言った美由紀の言葉に、孝太はドギマギした。

「な、何だよ」

 ま、まさか「私も好きだったの。お付き合いしてくれるかしら?」とでも言われるのかと過剰な期待をしてしまった。先ほど相手にバレてしまった不名誉な事実のことは都合よく忘れて、実におめでたい性格である。

「あの告白は、しばらく預からせてちょうだい」



 孝太は、ずるっとコケた。

 まるで、辞表を出したら「これはしばらく預からせてくれ」って言う会社の上司じゃないか! ドラマの見すぎな孝太は、そう思った。

 でも、完璧に引導を渡されてしまうよりは、良かったと言わざるを得ない。

「私、福田君のことキライじゃない。でも——」

「でも?」

「とりあえず友達から、よろしくお願いいたします」

 どこかで聞いたような無難なセリフだが、それでも今の孝太にはうれしかった。

 何とか、美由紀に嫌われて終わるという最悪の展開は避けられた。希望は未来へと繋がった。

「いつか、私が福田君から預かった言葉を、私がもう一度考え直してもいい、って思える日が来たら、その時は——」

「その時はっ?」

「……教えてあげない」



 美由紀と孝太は、和解の握手を交わした。

「さっきのさ、あの写真だけどさ……お前に渡した方がいいよな?」

「ん? 何で」

「だって……」

 だって何なのか、孝太には恥ずかしすぎてみなまで言えない。

「別にいいんじゃない? アンタ持ってれば」

「えっ」

 写真がバレた時のリアクションとは大違いなので、戸惑う孝太。

「だってさ、言ってくれたじゃん? 私が好きだって」

「ちょちょちょちょちょそれは」

 ここで焦るあたり、美由紀の方が大人だ。孝太はまだ、純真だがお子様すぎる。

「……今の時点で、誰よりも私ことが好きってのがホントなら、何に使ってもいいよ。逆に、持っていてくれるほうがウレシイな」



 気を取り直した二人は、やっと勉強を始めた。

 夕方の6時半にもなって、そもそも何をしに孝太の家に来たかを、二人はやっとこさ思い出したのだ。

「だからそこは to 不定詞が来るから、be 動詞プラス動詞の原型になるんだってば……ってコラ、アンタしっかりなさいっ」

 いつそんなものを作ったのか、美由紀はボール紙のハリセンでポワンとしていた孝太をぶっ叩いた。恐ろしい家庭教師である。

 ハッとした孝太は、あわてて問題集と向き合う。

 心を入れ替えた(つもりの)孝太だったが、やっぱり美少女に(しかも好きな子に)そばにこられての勉強は、拷問であった。美由紀の髪からも、制服からも、なんだか香水のようないいにおいが漂ってくるのだ。

 たまに、後ろに立っている美由紀の中学生のわりにはふくよかな胸が、孝太の背中にフニュッと当たり、その結果股間が——

「……ったく」

 男という生き物の悲しい佐賀……じゃなかった『性』にため息をついた美由紀だったが、それでもクスッと笑みを漏らした。



 夜の8時半には、何とか美由紀の再テストに合格した孝太だったが、美由紀は彼の家で晩御飯を食べていった。

 幼い頃以来の美由紀の訪問に、孝太の母親、福田奈緒子もたいそう喜んだ。

「いやぁ美由紀ちゃん、久しぶりねぇ。遠慮しないで、また来てやってね! うちのバカ息子も喜ぶからぁ」

「母ちゃん、バカは余計だっ」

 美由紀の帰宅後も、孝太が母と兄からずっと冷やかされ続けたのは、言うまでもない。



 孝太の家からの帰り道、美由紀は恐ろしい独り言をブツブツ言い続けた。

「もし、アイツが他の女の子なんぞにうつつを抜かすようなことがあったら……メッチャメチャのギッタギタにしてやるんだからね!」

 まるで、のび太を狙うジャイアンである。



 同時刻に孝太は、説明のつかない何かの恐ろしい予感に襲われていた。

「は、はっくしょい!」

 悪寒が背筋に走り、なぜか彼は美由紀の顔を思い出した。



 美由紀の彼氏、という栄誉を維持するのも、命がけの行為と言えよう。

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