第10話『美少女、先生の恋路を応援する』

 2年C組の福田孝太は、暗闇の中で目を凝らしたが、何も見えない。

 僅かに、足元の扉の隙間からかすかな光が差し込むものの、それは視界に対して何の足しにもならなかった。



 ……頼むから、先生早く来てくれよな。

 こんな所、1分だって余分にいたくないぜ!



 身動きもままならい狭い空間の中で、孝太は身を固くした。

 今彼が入っているのは、教室の隅にある縦長の掃除用具入れのロッカーの中だった。なぜ、孝太がそんなところに入ることになったのか?

 実は今日は、いつもお世話になっている国語の中畑先生の、誕生日なのだ。

 昨日、クラス一の美少女でもあり、これまで数々の難事件を解決してきた賢者でもある田城美由紀の提案で、国語の授業の時先生に花束をプレゼントしてビックリさせよう! ということになった。



「でも、ただ渡すだけじゃ面白味がないわねぇ……」

 そう言った美由紀がさらに提案してきた内容は、コレ。

「そうだ! 誰かが花束持って隠れといて、いきなり出てきてビックリさせる、っていうのはどうかしら?」

 茶目っ気のかたまりであるC組の生徒たちに、異論はなかった。

「賛成賛成、ルパン三世! でさぁ、誰が……隠れるの?」

 とたんに、皆の視線はクラスのムードメーカーを自認する孝太に注がれる。

「エッ……オレ?」

 腕組みをした美由紀にジロリ、とにらまれた孝太に、もはや基本的人権などというものはなかった。

「当然でしょ」

 美由紀のその一言で、クラス中に賛成の拍手が巻き起こった。

「……ハァッ」

 孝太は、深くため息をついた。こういう時だけ、民主主義というのはコワイ。



 さて、いよいよ中畑先生の誕生日当日。

 4時間目が、ちょうど国語の時間だった。

 美由紀が前日に買っておいた花束を抱えた孝太は、クラスメイトたちの見守る中清掃用ロッカーに体を収めた。

 授業開始まで、あと約三分。

 清掃ロッカーのドアに手をかけた美由紀は、孝太に作戦を説明する。



「私が、話を何とか中畑先生の誕生日のことに持っていくから。

 そして私が、『先生、提案があります!』って言うから。

 それを合図に、アンタがロッカーから飛び出してきて『中畑先生、ハッピーバースデー!』って言うのよ。

 あとはみんなで盛り上げましょう。分かった?」



 それだけ言うと、美由紀はバン、とロッカーの扉を閉じてしまった。

 視界が閉ざされ、息苦しさにあえぐ孝太は、切実な思いを込めて叫んだ。

「たっ、頼むから早めに出れるようにしてくれよな!?」

 遠方から、もう席に戻ってしまったらしい美由紀の声がする。

「……できるだけ頑張るけど、もしも合図前に出てきたりなんかして計画ブチ壊しになんかしたら、そん時は分かってるでしょうね!?」

 恐妻家の気がある孝太は、美由紀のそのゾッとするような一言で覚悟を決めた。

 これで孝太は、どんなことがあっても美由紀の合図があるまでは、ロッカーを出るわけにはいかなくなってしまったのだ。



 教室のドアがガラッとスライドして、中畑先生が入ってきた。

「起立~!」

 いつものように号令がかけられ、いつものように授業が始まろうとしていたのだが、みんな中畑先生の様子がいつもと違うことに気付いた。

 がっくり肩を落として、プンプンと負のオーラを体中から発散させている。

 ほんと、分かりやすい人だ。

 出席を取り始めたいいが、やはり中畑先生の動揺は尋常ではなかった。

「……安西さん」

「ハイ」

「安西さん」

 また名前を呼ばれた安西京子は、もしかしたら先生、今の聞こえなかったのかしら? と考えもう一度返事をした。

「……ハイ」

「安西さん」

 京子を始め、クラスの皆は戦慄した。

「安西さん 安西さん 安西さん 安西さん 安西さん」 

 魂のない操り人形と化した中畑先生は、まるでCDのA-B間リピートのように安西さんコールを繰り返す。

 ほっといたら何回安西さんって言うかな? などと面白がって様子を見た彼らだったが、さすがに53回目を数えて先生が本当にかわいそうになった。

 日頃のC組なら『先生、もしかして安西さんのこと好きなんですか~?』くらいのことは言ってからかうのだが、さすがにこの時ばかりは彼らも場の空気を読んだ。

 先生が、本当に何かのことで参っていることが分かったからだ。



 読書好きで弁舌家・国語だけの成績で言うと美由紀と同率一位の朝倉瞳が、思い切って手を挙げる。

「先生。さっきから安西さんばかり呼んでますけど」

 そこでようやく、中畑先生の目の焦点が合った。

「あ、ああ。そうか、スマン」

 たまりかねた瞳は、椅子を引いて席を立つ。

「今日の先生、何か変ですよ? もしよかったら、何があったのか私たちに聞かせてくれませんか?」



 孝太は、恐ろしく狭い空間でモゾモゾした。

 とにかく、清掃用具入れの中は、クサい。

 孝太の真横には、綿ぼこりの付着したモップとほうきの先が、あと2㎝でキスできる距離にあった。

 足元には、少し湿り気を帯びた雑巾が無造作に散らばっており、そこはかとな~く水の腐ったような異臭を放っていた。

 しかも、モゾモゾ動いた拍子にモップの頭が劣情を起こし、孝太の唇を奪いに倒れ掛かってきた。

「ウゴルァ!」

 掃除用具入れに近い生徒には、孝太の断末魔のうめきが聞こえた。

 焦った彼らだったが、心ここにあらずで注意力ゼロの中畑先生は気付いてない様子なのを確認して、胸をなで下ろした。

 酸素の通る隙間はあるから、窒息するはずはないのだが、それでも孝太は呼吸困難に陥りかけていた。きっと想像以上に悪臭がするためであろう。

 日頃、一瞬だけ開けて用事が済めばすぐ閉める場所だったから、何とも思ってなかった。しかし、中にこもってみて初めてその臭さが分かった。

 てか、分かりたくもなかった。

「ハァハァハァハァ」

 まるで女の子の着替え盗撮目的で隠れている変質者のように、孝太の息が荒くなっていった。

 もはや、「オイラ怪しいもんじゃないよ」と言っても信じてもらえないほど怪しい妖怪人間ベロ状態だ。



 しかし。そんな孝太の地獄絵図のような苦労も知らないで、C組の一同は「中畑先生がなぜこんなにも元気がないのか」ということの方に心を奪われていた。

 可愛そうに、美由紀を始めクラス全員が孝太のこととハッピーバースデー計画を忘れていた。まぁ、例え思い出したとしても、とても楽しく祝うような雰囲気ではなかったが。

 そして苦悩する37歳、中畑武志は……なんと突然教壇に突っ伏して、男泣きに泣き始めたのだ!



 オオオオオオオオオオゥ ノオオオオオオオオオオッ



 C組の一同は、思わず青ざめた。先生に泣かれるということは、前代未聞だ。



「……先生、そりゃダメだよ」

 本当に国語の教師か? と疑ってしまうほどの要領を得ない話を、中畑先生は涙ながらに語った。

 そしてようやくわけが分かったC組の生徒たちは、あきれた。

 要するに、密かに狙っている家庭科の江口雪子先生とのデートに失敗したのだ。

 この前の調理実習事件がきっかけで急速に仲のよくなった二人は、前の日曜日に映画を観に行った。ハズさないようにとの配慮から、あまり映画に詳しくない中畑先生はあらかじめ映画の好みをそれとなく江口先生に聞いておいたらしい。

「そうですねぇ。恋愛物とか好きですけど……あと意外に思われるかもしれませんけど、実はホラーとかも好きだったりするんです。あのドキドキハラハラする感じがたまらないんですよねぇ」

 そう聞いた中畑先生が選んだ映画——

 それは 『最終絶叫計画 』だった。

「先生、それってホラーじゃなくってギャグっていうか……『おバカ映画』ってやつじゃないですか! 怖いのはタイトルだけですからね」

 朝倉瞳はため息をついた。

「だってなんだか……だってだってなんだもん!」

 それでは、意味が分からない。

「ぜ、絶叫計画なんていうからてっきりホラーかと……思ったんだもん!」

 ヘンに腰をくねらせて言い訳をする様子は、まるでどこぞのオカマキャラ芸能人のようだ。。

 案の定、江口先生は始終つまらなさそうな顔をしていたらしい。

 その後の食事でも会話が弾まず、散々な一日だったということだ。

「それで、次の約束を取ろうと思ったら、『それはちょっと……』って断られてしまったんだよぉぉぉ」

 その時のイヤな記憶でもフラッシュバックしたのか、中畑先生はまたヨヨヨと泣き出した。



 ……もっとしっかりしろよな。



 そう思ったC組一同だったが、もともと世話好きな彼らはこの時、『どげんかせんといかん!』と思ったのであった。



 孝太の顔は、信号機のように青くなったり赤くなったりしていた。

 彼の胸のカラータイマーはすでに赤く点滅を繰り返していた。

 すでに、授業開始から25分が経過。

 恐ろしい悪臭がするところへ、間の悪いことに孝太は空腹になっていた。

 ちょうど昼前の4時間目だから無理もない。

 そこへ否応なしに臭い空気が胃と肺に流れ込んでくるものだから、思わず吐きそうになるのだった。

「ウェッ」

 胃液が逆流してくるのを、何とか嚥下してせき止める。

 ツ~ンとするような胃液の酸が、のどに焼けるような感覚を残す。

 今の彼を支えているものはただひとつ。それは言いつけにそむいて美由紀の心証を悪くしたくない、という気持ちだけだった。

 たまりかねた孝太は、ポケットから何とかスマホを取り出して開くと、美由紀宛に必死でメッセージを打った。

 かなり苦労したが、何とか最低限の文章を打ち込み、送信ボタンを押した。

 非常時の連絡用にと、互いの着信音をオフにしてバイブ機能だけにしてあるから、先生にバレずに連絡できるはずだ。



 美由紀のスカートのポケットの中で、スマホが揺れた。

 孝太のことなどまるっきり忘れていた美由紀は、ハッとして液晶画面に表示されたメッセージに目を走らせた。

 


 件名 : はよしね


 本文 : おれはもうげんかいや美由紀をおそうし したぎはきたいわ



「…………!?」

 少しは済まないと思っていた美由紀だったが、その文章にムキーッといらだった。

「な、何ですってぇ!」

 いきなりの美由紀の大声に、中畑先生もクラスメイトたちも皆振り返る。

 美由紀は、顔を真っ赤にしてブンブンと首を振った。

「いっ、いえ。何でも……ないです。ハイ」

 孝太の本当に送信したかった文面は、恐らくこうである。



 件名 : はよしろ


 本文 : おれはもう限界や 美由紀遅いし! 下に吐きたいわ



 彼は30分にも及ぶロッカー監禁状態の果てに、麻薬の幻覚症状の時のように通常の脳の働きが低下していたのだ。

 ある意味、仕方ないことだと言えた。

 しかし。美由紀はこういう感じに受け取ってしまったのだ。

「へっへっへっ、美由紀た~ん、オレお前見てたらムラムラしてもう我慢できひんねん! ひと思いに体いただくでぇ! そんで美由紀ちゅわんのおパンティもはきたいわぁ~ ブシシシシ」

 美由紀の中で、孝太の好感度ランキングはガタガタと下がっていった。



 さて、その後。

 美由紀は中畑先生のために、大胆にも今から江口先生に話しに行くと宣言した。

 今は確かに、江口先生は授業のない空き時間で、家庭科準備室にいるはずである。

「でっでっ、でも……生徒にこういう問題で助けてもらうなんて、何だかなぁ」

 すでに十分に恥ずかしいのに、この期に及んで女々しいことを言ってきた。

「善は急げ、です。とにかく私に任せてください」

 そう言い残して美由紀はスタスタと教室を出て行く。

 孝太の目は、黒目がグルグルと回りスロットマシーン状態であった。



 4分後。驚いたことに、美由紀は江口先生本人を連れてきた。

 次の誘いを断られたと思ったのは、中畑先生の早合点だったらしい。

 美人の江口先生は、瞳をクリッとさせてあっけらかんと答えた。

「あ、次も同じような映画だったらやだなぁと思っただけで……他のデートコースならもちろんオッケェですよ~」

 C組の皆はそれを聞いてガックリと肩を落とした。



 ……この二人、コミュニケーションの初歩ができてへんやん!



 とりあえず、江口先生はC組の面前で堂々と、中畑先生と次のデートを確約した。

「センセイ、やったじゃん!」

 ワアッと盛り上がる、生徒たち。

 そこでやっと、美由紀は孝太のことを思い出した。

 美由紀は手を挙げた。

「先生、提案があります!」



 もうろうとする意識の中で、孝太には美由紀の合言葉が聞こえたような気がした。



 ♪ Twinkle, twinkle, little star, How I wonder what you are? ♪



 もう、彼は本能と反射神経だけで動いていた。

 彼の事情など知らない一同は、孝太が颯爽と花束を持って現れると思った。

 だが、現実は……



 バタン! ズッシ~~~ン!



 なんと、掃除用具ロッカーが、音を立てて倒れたのだ。

「ああっ、孝太! 大丈夫かっ」

 男子たちが数名、ロッカーから孝太を救助すべく席を立つ。

 突然のことに、中畑先生も江口先生も目を丸くしていた。

 出席をまともにとっていなかったので、中畑先生も今孝太の不在に気付いた。

 美由紀自身も、先生が出席をとってしまう前に話しかけて勝負を決めるつもりだったのに、まったく予定外の展開になってしまったのだ。



 その放課後。

 中畑先生と江口先生、そしてC組の生徒たちは、駅前のボーリング場に来ていた。

 あの後の話で、江口先生はボーリングが好きだ、ということが分かったためだ。

「先生。本当はこういうこと先生自身が聞き出さなきゃいけないんですよ!」

 美由紀は腕組みして中畑先生に説教した。

「はい、面目ないです……」

 中畑先生も意外としおらしかった。



 C組の面々は気を利かせて、中畑先生と江口先生に1レーンを占領させて、自分たちは離れたところに場所を確保した。

 彼らが観察する限り、中畑先生と江口先生は楽しそうだった。

 これで何とか、二人の危機は脱したと言えよう。

 しかし、今度はまた別の問題が持ち上がった。



「ふんっ」

 鼻息も荒くボールを放り投げた美由紀は、血走った目でボールの軌跡を見つめる。

 ボールは見事に、残った三本のピンを弾く。

「見た? スペアよスペアっ」

「ムキーッ」

 対抗心の炎をたぎらせた孝太が、カッカしてフォームに入る。

 怒りの弾丸は、弧を描くようにして見事にピン集団のど真ん中に突き刺さった。

「ヘン! どんなもんだい。ストライクだぜストライク!」

 美由紀の方に顎をしゃくって得意がる、孝太。

「もう、ホンットあったまくるぅ!」

 そう言いながら放った美由紀のボールは、見事ストライク。

 さすがは美由紀、腹は立っていても決めるところはきっちり決めてくる。

 まだまだ修行の足りない孝太は、ムキになるあまり失投した。

「や~いバッカじゃないのぉ? ガーターよ、ガーター!」

 小ばかにしたような、美由紀の野次が飛ぶ。

「うるへぇ! 見てろよ、次はターキーとっちゃる!」

 挑発されて完全に頭に血が登った孝太は、血走った目で叫ぶ。

 もはや、二人の『夫婦ゲンカ』を止められる者は、誰もいなかった。



 ……はぁ。今度はこの二人か。



 C組の生徒たちは、ため息混じりに美由紀と孝太を見つめては首を振るのだった。



 美由紀と孝太の決闘は、最後まで続いた。

 でも、クールで賢者とまであだ名された美由紀がこんなにもはしゃいでハメを外す姿を、皆初めて見たのだった。

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