epilogue.

/20.

 一足早く、私は長袖になった。八月の下旬あたりから気温はちゃんと下がってくれたから、そこまで無理な恰好ではなかった。袖は折って、あえて手首は出しておいた。二学期が始まる頃には、私の腕の傷はちゃんと塞がり、影のように黒々とした痕があるだけだったが、それでも目立つことは間違いない。

「この本返しておいてくれないかな」

 言われて、理沙から一抱えの本を渡される。勝手知ったる図書室、どこに返すかもだいたい把握出来ていた。

 夏休み明けのテストも終わって、放課後は本当に空いてしまった。そのまま帰るのも面白くないので、塾がない日には、理由を見つけては居残るようにしていた。放っておいた一学期の課題の提出と謝罪を最優先に、クラスの雑用、自主的に開催される勉強会、文化祭の合唱コンクールに向けての伴奏。――美果が抜けてしまった図書委員の穴埋めも、そのひとつ。

「え」

 次の本を棚に戻そうとしたところで、思わず声が出る。

「ん? どうかしたー? マコちゃん」

「何でも。本はこれで終わり?」

「返却分はラスト。でもまだ学級文庫の回収があるよ。二Bが持って来てないっぽいから」

 音楽室に催促に行こうかな、と理沙がカウンターで返却カードを整頓しながらぼやく。二Bの図書委員は真白で、どうもあのそそっかしさが発揮されて、仕事をうっかり忘れているらしい。

 ……けれど引退した身、音楽室に顔を出すのは気が引ける。

「じゃあ、取ってくるよ」

「ごめんねー、お願い」

 私が行けば丸く収まる、ということか。

「暇だから。仕事が終わったら残る用事も無くなるし」

 肩をすくめて、時計を見た。やっと五時になるところ。部活が無くなって、放課後の時間が伸びたように感じる。

 気になってしまった本を棚に戻すとき、そっと、本の裏表紙の内側に取り付けられた貸出カードを確かめた。こんな本を読むだなんて、物好きな生徒がいるものだ。それは、あの、地獄と天使の物騒な文庫本だった。カードには、けれども名前は書かれていない。日にちだけが小さく神経質な字で記されていた。返却期日を大幅に遅れたと思われ、二週間も前の日付が書かれている。覚えのある日付だった。

 少し考えて、夏休み長期貸し出しの返却期日と思い至った。恒例と思われる大量の延滞者への催促をするとき、散々、この日付を見た記憶がある。

 とすると、これはもしかして。

 筆跡には、馴染があった。

 この本を借りたのは、今のところ、たったひとりだけ。だからこれは、うっかり残ってしまった記録に違いない。期日通りに返されていたならば、とっくに誰かが片付けていた筈だった。正確なことはわからないけれど、本を返しそびれた延滞者の正体は、この筆跡だけで充分に想像出来る。

 貸出カードに書かれた、小さな日付を指でなぞった。らしいな、と思うと、少し笑えた。

「――マコちゃん、おーい」

 気がつけば、また、理沙に呼ばれている。声のする方に振り返ると、理沙が図書館の入り口で誰かの応対をしているところだった。

「お客さんだよ」

「お客さん?」

「真琴、いるかー」

 顔を覗かせたのは、双葉だった。

「……何だ、双葉か」

「何だって何だ、一緒に帰ろうぜって誘いに来てやったんじゃんか。本読んでないで帰ろうぜー」

 双葉の気だるげな声は、学校に疲れて間延びしている。

 僅かに逡巡して、最初から選択肢が与えられていないと思い至った。本の裏表紙を開いて眺めていても何にもならないし、わざわざ私がこれを持って帰る訳にもいかない。

「実はマコちゃん、本読みに来てるんじゃなくて、委員会の手伝いしてもらってるんだ」

 控えめに、理沙がフォローしてくれる。

「ありゃ、そっかー、そうだったんだ。じゃあ仕方ないか」

「でも、もう終わるから。――マコちゃん、やっぱうちが学級文庫戻しとく」

「お気遣いなく。折角だし最後まで手伝わせてよ。一緒に行こう、双葉」

 本を閉じて、あるべき場所に戻す。その本は、一冊分の空きスペースへ、きっちりと収まった。

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夏、そこにいた。 四葉美亜 @miah_blacklily

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