/19.
「……先輩、先輩。着きますよ……」
左手を軽く叩かれている。顔を上げた。通路を挟んで向こう席から、薫が私の左手を叩いている。
「着きますよ。もうすぐ、市民会館です」
肩越しに窓を見遣れば、バスの外を大きな看板が流れていった。車の絵の看板。去年も一昨年も、同じ柄を見た。もうそんなところまで来ているらしい。
「薫コー、マコ起きたー?」
「あっ、はい、起きました」
前の座席から川本先生に呼びかけられて、薫が返事をしていた。
座席の前に、紺色のブックカバーが掛けられた一冊の文庫本が落ちていた。ページの部分がめくれて、雑な折り目が付いてしまっている。持っていた筈の本が手元にはない。ということは、私がこの本をいつの間にか落としてしまっていたのだろう。
拾い上げるときに、うっかり表紙が露わになった。無意味だろうけれど、咄嗟に隠す。
朱色を基調にした、逆さに吊られた天使の絵。胸の前で組んだ手は、祈りか。
どこまで読んでいたか忘れてしまった。七月あたりに出た新刊の筈なのだけれど、読む間もなくずるずると引き伸ばした結果、こんなところにまで持ってきてしまった。バスの中は暇なのだから、仕方ない。
なのに、読んでも読んでも、さして面白くもなかった。死体の森に骸骨の家、細切れにされた肉の山。彷徨う男の背中には爆弾が埋め込まれている。やがて、男は木っ端みじんに吹き飛んでしまう。――のに。さて、その続きはどうだったか、私はどこまで読んでいたのか。
前の座席から順番に、真白がお菓子を配り始めた。
「先輩もおひとつどうぞ。最後のプレゼントらしいです」
先生からの差し入れで、フィナンシェらしかった。
「いいよ、私は」
「遠慮しないでー。皆のぶんがありますから、ね。それから……起きてくださいよー、麻由ちゃん先輩っ、もう着きますよー」
真白が私の前に身を伸ばして、隣で正体なく眠りこける麻由を揺する。麻由は座席に深く沈み込み、硬く瞼を閉じていた。真白の手が鬱陶し気に振り払われる。仕方なく私は、頑なに微睡む麻由のぶんも受け取った。
バスは大きな駐車場に入る。
遂に、美果はいない。
私の腕を切りつけて、口付けて、それから向き直った美果は、再び私の腕に切りつけるよりも、自分の喉を切り裂くことを選んだ。
あの時の私は、紛れもなく止まってしまっていた。剃刀は煙草の傍に転がった。美果は私の上で身体を丸めて自分で自分の首を絞めるように喉を抑え、両手の指の隙間から絶え間なく血を零していた。
私にのしかかった身体が、震えていた。
「真琴って」
「うん」
「殺したい」
「……殺したいよ」
「痛いのかな」
「そうじゃないなら、殺す価値もないじゃない」
「そうだったっけ。最近、わかんなくなってきちゃった。痛いのかな、切ったら。痛いって何だったっけ。痛くないんだよ、切っても切っても。何でだろうね。何で、痛くなかったんだろう……」
動かなかった。血は流れ続けていた。吹き出す程でなくとも、首の傷から血が止まる気配はなかった。
私は、痛かったよ、美果。
私は美果を押し退けた。美果がどう思っているか、願っているかは、関係なかった。私は美果に死んで欲しくなくて、滑り落ちるようにあの暗い石段のトンネルを駆け下った。憎たらしい程に冷静な頭で、あれくらいでは人間、死なないのだと思考していた。けれども、首の傷からは血が溢れ続けていたのだ。だから、自覚できるくらいには、私の心臓は跳ねていた。
くすんだ古民家の並んだ中、折しも開いた狭い玄関に、私は飛びついた。腰を曲げた見知らぬお婆さんが、血塗れになった私を呆然と見上げていた。事の危うさは、それだけですぐに伝わった。
美果は入院することになった。結果として、肺炎の長引く私の母よりも大きな病院に閉じ込められてしまったらしい。外傷もさることながら、それ以上の理由で、美果は病院で治療を受ける羽目になった。その上、既に美果の転校が決まっていたことを、口を滑らせた川本先生から知らされた。たぶん、美果は私に告げようとしていた。それで私を、あの猫のところまで連れて行ったのだ。
正真正銘、美果は私たちの前から姿を消した。
今年の出番は早かった。会場に入ると、私たちは楽器と共にすぐに控室へ移動させられる。いよいよ部活が終わってしまうというのに、実感がまるで伴わなかった。控室では音合わせの後、最後の合奏が行われた。音の調子はすこぶる良い。美果のぶんも吹くと、私は心にもないことを己に誓った。
ソロの音色は、縋るように哀し気で、愛おしい。
部活を引退したら塾に帰ろうかな、なんて考えが頭によぎった。夏休みの宿題も、その気になればすぐに終わる。だって、もう部活の時間は無いのだから。途方もない空白の時間が姿を現しつつある。その空白の、その先も、それはきっと。
もう部活が終わることだけは、間違いなかった。終わった後に二学期があることも、逃げようがない事実だった。
舞台袖で整列しているとき、私の前に並んだ双葉が、意を決したかのように話しかけてきた。
「なあ、その腕のって」
「……さあ、何だろう。ざっくり切れちゃってる」
明かす気はなくても、少しだけ答えに迷った。
結局、私は知らぬ存ぜぬで誤魔化すことにした。これ以上訊かないで、と暗に含ませる。双葉は何も知らなくていい。知っているのは私だけ、私と美果だけでいい。
「おいおい、何だよそれ」
けれども想像通り、双葉は強めの口調になって食い下がった。
「わかんない筈ないやん、そんな傷になってんのに」
「リストカットじゃないよ」
――私は、自分で驚いた。思考するより先に、私は口を動かしていた。
「リストカットじゃない。私は、私の腕を切ってない。これは私の傷だけど、この傷は私がつけたものなんかじゃない」
双葉は何かを言いたそうにしたまま、けれども言葉を継がなかった。先生が、もう出番が来ると告げる。
「あのさあ、双葉」
呼んでしまって、双葉はもう一度、振り返った。
「リストカットだったら何。私が私の腕を傷つけたとして、それの何に、誰が、口を出そうっていうの」
言ってしまった。けれども、言ってしまえばそれだけだった。切ることに、たいした意味はなかった。少なくとも、私たちには。それ以上、双葉を責めようとは思わなかった。胸の奥に詰まっていたものを吐き出して、私は首を傾げて微笑んだ。軽い身体が、明るく照らされたステージに向かった。
ステージの上は冷たくて、乾いている。半袖のブラウスでは、少し肌寒い。
スポットライトに照らされて、フルートは白く白く、銀色に光り輝いている。
川本先生は、ひとりひとりと目を合わせるかのように、右から順番に私たちを見渡していく。動きと空気が調和していた。フルートにまでひと通り視線が回った後、本当に、先生は指揮棒を、私たちは楽器を構えた。
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