4.

/17.

 校門の傍で、私服姿の美果が、大きく手を振って合図をしていた。こんなに暑いのに、やはり美果は長袖だった。

 美果はダンボール箱を抱え、飛び切り明るい笑顔を浮かべて、私を待っていた。

「また抜け出して来ちゃいました。遅いぞー、真琴」

 美果が箱の蓋を開ける。その中身が一瞬、何かの肉片にも見えた。こんなところに何を、と思ったけれど、それはただの肉片ではなかった。ただし、切り刻まれたりもしていない。

「これって」

「うちの猫が、今朝産んだんだ」

 目も開いていない子猫が六匹。一様にぐったりとしている。

「棄ててこいって。来る?」

 大事そうに、美果は囁いた。私は、行く、と応えた。

 いつもの坂道を下り、あぜ道を抜けて、学校のある丘を迂回するように狭い道に入っていく。途中の木陰で少し休んだ。美果はトートバックからタオルを出して汗をぬぐった。

「今日、来れたの? 部活には来なかったけど」

 美果は、困ったように首を傾げた。

「大丈夫、心配しないで。あの人今寝てるし。昨日めっちゃお酒飲んでたから。――持つ?」

 促されるまま、ダンボール箱と自転車とを交換する。汚らしくも思えたけれど、持ってみると案外平気なもので、そもそも汚れてすらいなかった。

 どうしていなかったの、と訊きたかった。美果がいてくれたなら、惨めな目に遭わなくて済んだかもしれなかったのに。

 けれど、そんなものはただのあてこすりに違いない。美果がいたところで、楓たちは私を追求しただろうし、そもそも期末テストの問題は私だけのものだ。美果には、関わりがない。あんなものは私の勝手だ。

 それでも、いて欲しかった。

「練習順調なん?」

「……どう思う」

「そこそこ? いつも通りなら順調ってすればいいんじゃない?」

「今日のは」言おうか言うまいか、つっかえる。「今日のは……」

「どうしたー真琴、今日のが何だったんよ?」

 然程重くもない箱の底から、不気味な感触と熱が伝わる。

「……テストって、そんなに大事?」

「何さ、急に」

「いや、別に。あいつらが、私のテストがどうとか文句付けて、それで」

「あいつらって?」

「楓とか、恵美とか」

「ああー……あの人らね、口悪いからなー」

 ふうん、と美果は僅か、考える素振りを見せた。

「うちのあの人も、テストがーとか成績がーとか言うけどさ」

 道端の、蝉時雨の藪から、ひと鳴きした蝉が飛び立つ。

「ほらボク、馬鹿だし、言いたいことはわかるんよね。真琴みたいに点数取れないし。だから部活出させないって頭おかしいけど。やりゃできるってそんなのあり得ないじゃん。

 ああ、もう、そうじゃなかった。そうじゃなくてね、いや、そうなんだけど」

 くるくる、くるくる。片手で私の自転車を押しながら、空いた方の手と指が回る。

「――そうだ、つまり何が言いたいかって、要はテストの点って大事なんだよねって」

 美果はそう言って、自分で納得したようにうなずいた。

 歩きながら考える。テストの点が大事だという結論には納得いかなかったし、だからといって非難されたくもない。でも、美果にとってテストの点が大事なのは理解出来る。あの人を納得させる為の、ひとつの指標になるのだから。

「どうして、点、落としたんだろう」

 わからなくなって、私は問いかけた。美果にとってそうでもあるように、私にとってもテストの点数は大事な筈だったのだ。部活に出させてもらえる、その一点だけでも。

 ――出させてもらえる、というのが気に食わない。誰が、私に、私たちに、許可を与えるというのだろう。そこにいることを、どうして否定出来るのだろう。

「え、それ、私に訊く?」

「美果は知らない?」

「知らないよー。知る訳ないじゃん」

 私は、あんな点数と順位と、その他諸々が嫌で、それで落とした筈だったのだ。私なんかがあんな場所にいるのが、私にとって不愉快で。私がいた場所にいるべきなのはこんな奴ではなくて、もっと――もっと、切実なひと、双葉とか、或いは美果とかであるべきなのだから。

 ひとつでも、順位は上がったのかな。

 そんなものは詭弁だった。しかも、誰にも言える筈のない詭弁だった。私が落ちても、双葉が上がる訳がなかった。美果が私の位置に収まれる訳でもなかった。美果は、部活に来ないままだ。

 私は――フルートを吹いていたかった。ただ普通に、美果と一緒に。だから。

 でもそれは、何故かしら、気が遠くなるくらいに。

 抱えた腕の中で、熱が震えた。今、この場で熱を殺してしまいたい衝動を堪える。ダンボール箱を潰して、それから地面に叩き付けて、足蹴にして。行為としては、然程難しくもないのに。

 丘をすっかり迂回すると、古い木造家屋が密集する地域に出た。海の生臭い匂いがする。船のエンジン音が間近に聞こえた。美果の家に近い。けれど、少しずつ家へ向かう道からは外れる。

 ダンボールの箱の中の子猫は身じろぎ一つしないまま、鳴き声の一つもあげなかった。抱えた腕に伝わる生き物の気配は、私が歩くごとに揺さぶられて、気味が悪かった。

「到着っ」

 海が、やたらと眩しい。

 そこは、海に面したコンクリートの狭い道路だった。肩くらいまである防潮堤が、海とこちら側を隔てていた。

「ここ、すぐ深いんだよね。基本、誰もいないし」

 美果は自転車を防潮堤の側に停めると、バックを籠に置いて、そこへよじ上って満面の笑顔で振り返る。ダンボール箱の中身はここで落とすと、予め決めていたらしかった。

 私は、ダンボール箱を防潮堤の上に置く。

「落ちたら助けらんないから気を付けて」

 そう言いながら、本音では恐らく私の方が不安だった。

「その時は真琴も引きずり込むから」

 うっかり落ちてしまわないか不安に駆られながらも、防潮堤は案外簡単によじ登れてしまった。

「え、水死とかやだ。ぶよぶよになるし」

「絶対嫌よな。さ、じゃあ」

 じゃあ、殺そっか。

 私は、ダンボール箱をひっくり返した。自然と蓋が開いて、中身の六つのピンク色が落下する。そして、ピンク色は小さな飛沫をそれぞれ上げて、深い青緑の中に溶け込んでいった。

 呆気なかった。

 美果は私から役目を終えたダンボール箱を受け取ると、無造作に海へと放り捨てる。しゃがみこんで見詰めたところで何の変化も起きなかった。空っぽのダンボール箱が浮いているだけで、子猫の影も、小魚すらも見当たらない。

「ちょっとくらい浮かぶかなって思ったのに」

 美果はつまらなさそうに言った。事実、余りにあっさりとしている。

「ホント、すぐに落ちていったね。泳いだりしてくれないんだ」

「まあ、もがく元気もないか」

 そう言って、美果は防潮堤から道へと飛び降りた。

「もうあれ、半分くらい死んでなかった?」

「生まれたまま放置してたから」

 私はもう一度海を見詰める。子猫なんかいなかったかのような、いつもと同じ海だった。

 それでも、死がすぐ傍にある。

 一言も発さないまま、子猫たちはいなくなった。殺したという実感も残さないまま、きっと死んでしまった。浮かんでいるダンボール箱のほうが、海にゴミを捨ててしまった罪悪感を鮮明にしてくれる。

 何故かしら、名残惜しい。輝く波を暫く眺めていたかった。

 けれども美果は、次行こうよ、と誘う。私には、次が何だかわからなかった。

「子猫がいるなら、生んだ親猫もいるでしょ」

「つまり、これから殺しに帰るの」

「残念。殺さないし、帰らない。もう殺しちゃってるんだ」

 美果は、私が声をかけるより先に踵を返した。置いて行かれないように、私も道路側へ飛び降りた。

「おいでーってやったら来ちゃったんだ。だからそのままバッサリ」

 殺したって、親猫のこと。訊きたかった。美果はもう、殺しているの。

 私は美果に連れられた。自転車は私が押した。美果は古民家の間の路地を進んだ。歩いたことのない道だった。車一台がやっと通れるよう道幅なのに、くすんだ色味のマネキンの並んだ、時代遅れのショーウィンドウもあった。昔は賑やかな商店街だったのだろう。

 廃れ切った商店街を抜けた先に、石造りの立派な建物があった。明治か大正の雰囲気。昔の銀行らしかった。

「真琴と一緒に殺そうかなって思ってたんだけど、先にやっちゃった」

 言いながら、美果は可愛らしく手招いてみせる。銀行の隣には、朱色の剥げた鳥居がひっそりと佇んでいた。

「神社なんてあったっけ」

「誰もいないけどね」

 古い神社に続く石段が、両側に茂った木々の間を一直線に割いている。覆った木がトンネルのようになって、夏の陽射しに抵抗している。入り口からは真っ暗に見えていた。その出口に、青空がひとつ、口を開けている。

「……この先にいるの」

「うん。この先の、上がったとこの奥。誰も来ないから、この上なんて」

 鳥居の影に、自転車は停めた。暗い石段を上る。打って変わって、階段は湿気ていた。百段はゆうに超えている。私も美果も息が上がった。暗いトンネルを、途中で休憩もなしに抜ける頃には、すっかり脚が痛くなっていた。

「こっち」

 社は最早、朽ちて傾いていた。美果は割と平気そうな顔色でその社を横切ると、石畳から細々と続く小道を歩いてゆく。

 雑草と木立の間からは、やがて、木と土の匂いに混じって異質な匂いがし始めた。想像だけで慣れてしまっているそれは、不気味な予感とある種の期待を抱かせるに足る匂いだった。たぶん、これが腐敗臭というやつだ。

 小道からも外れて、僅かに斜面を下った先。そこで、美果は足を止めた。

「そこの」

 息が止まった。

 背の低い茂みの横から、澄んだ青い瞳の白猫が顔を覗かせている。地面に横たわって、身じろぎひとつもしない。小さくて真っ白で、きょとんとした表情のまま、私を見詰めている。

 口からは、小さな紅色がはみ出していた。

「綺麗」

 口をついて、そう形容していた。

 無造作に留められたその一瞬。僅かにでも動けば壊れてしまう脆さ。毛並みの白さは、余分な赤やピンク、土の汚れを、少しもも許さないほどに隔絶している。何も映さない瞳は、たったそれだけで、純粋な輝きを秘めていた。

 美果は私の手をとって、それに近寄っていく。――近寄らないまま、頭だけを見ていたい。そのほうがきっと綺麗なまま、覚えていられるから。

 けれどすぐ傍で見下ろしたその白猫は、頭と同じように、身体も全く綺麗だった。

 一見すると傷はない。真っ白な毛並みにくすみがないことも同じで、ごく自然に横たわっているところも同じ。けれど、寝ているようにも、休んでいるようにも見えない。生きている気配はしないのに、死んでいるとも思えないくらい、整っている。

 お腹のほうを見てようやく、この猫が殺されているのだと理解出来た。首にひとすじの緋色の線が横切っていて、お腹には縦一直線に割かれた傷があった。内臓がはみ出して、周りに血が滲んでいる。

「あんまり綺麗だったから、もうこのまま。もっと解体しようかなって思ってたのに」

 言いながら、美果はその傍らにしゃがんだ。私はその場に突っ立ったまま。

 意外だった。原形もとどめないくらいにバラバラにされているとばかり思っていた。もっと内臓をまき散らして、苦悶の表情を浮かべながら息絶えているのだとばかり。

 けれど、実物は正反対だった。

「綺麗よ、この子。あの人にはもったいないくらい」

 少し悲し気な気がする口ぶりで、美果は呟いた。その声は、フルートの音色にも似ていた。

「この子、私に一番懐いてた。この子はホント、あっさり……。別にそれで良い、って、そんな感じだった」

 生んですぐだったからかもね。美果はそう付け足して肩をすくめると、元来た斜面を上り始める。

 待ってよ、と言いたかった。もっとこの死体を眺めていたいのに、美果はどんどん先に戻ってしまう。実にあっさりとしていた。

「ねえ、今日部活に来なかったのって、もしかして」

「そ」

 湿って冷えた落葉が足首に纏わりついて、その存在を主張する。我慢ならなくて踏みにじると、落葉は粉々になって泥と混じった。

「殺したから、来なかったの」

「だよ」

「どうして」

「どうしてって、何。殺したから埋めようとした。どこなら埋められるかなって探して、ここが丁度良さそうだった。でも埋めなかった。それだけ」

 美果はゆっくりと歩いていた。ぜんまいが切れそうになったたオルゴールの人形みたいに、緩慢な動きだった。

「違う……違う。それなら何で殺したの。懐いてて、なのに何で」

「さあ。理由なんて必要?」

 朽ちた社の前で、美果は振り返る。

 目を疑った。

 すぐにそれとはわからなかった。いつの間にか美果の指が、一本の、無機質な白さの――煙草を挟んでいる。美果はトートからライターを取り出すと、くわえた煙草に火を着けた。

「……違う」懐いていたのに殺した理由を訊きたい訳ではなくて、それはもっと別の。違う。部活に来なかった理由でもない。じゃあ、何だ。何を、私は訊こうとしている。

「煙草、吸うんだ」

 美果は薄っぺらい煙を吐き出した。とにかく、私は。

「ねえ、私にも煙草吸わせてよ」

 その煙草を。私の知らない、その煙草を。

「やだ」

「いいじゃん」

「真琴は止めときなって」

「何でよ。いいじゃんか」

「駄目。喉弱いでしょ」

「吸わせて」

「駄目。絶対駄目」

 伸ばした手が乱暴に払われる。

「美果。今さら何真面目になってるの」

 もう一度手を伸ばす。と、今度は手首を掴まれた。

「ちょっと美果」

 動かせない。私から払おうとしても、美果の力は強まるばかりで。

 美果の目がすわっている。

 気が付けばほんの目の前、私は美果につんのめっている。煙草をくわえた横顔がよぎって揺れる。首に、重たい衝撃が冷たく響いていた。それが美果の手だと気が付いたときには、私の足が地面を滑っている。背中が、頭が、叩き付けられる。いっそう冷たくて重くて固い。そういえば石畳だった。頬のすぐ横に、火が付いたままの煙草が落ちる。

「今、殺せるよ」 

 喉を押さえつけられた。圧迫。肩から上だけがのけぞった。胸から下、美果が身体ごとのしかかっている。

「頭割ってあげようか。それとも」

 何かを言おうとして、逃れられず、けれども声は潰されていて。

 ――左腕が自由だったっけ。そう思考が及んだときには、既に息ができていた。

 その左腕で、私は美果の首を握っている。冷たかった。

 力の差は明白だった。私が美果に敵う筈もなかった。今さらこの首を絞めたところで、どうせ振り解かれるのはわかりきっていた。殺されるなら、それは私だ。

 美果は、人殺しだ。

 私の手は、美果の首に触れるだけ。

 美果なら、人殺しになれる。

 なのに、美果は脱力していた。ただただ真っ直ぐに、私を見降ろしていた。

「な、真琴。腕貸して」

 私の同意より先に左腕を引っ張られた。強引に。

「ああ、真っ白。ねえ」顔をこちらに向けたまま、美果はトートを片手でまさぐる。

 その手には、一本の剃刀が握られていた。ピンク色をした、ガードのない剃刀。美果は器用に、片手でそのケースを外す。

「切って良い?」

 リストカットにぴったりの刃物。

「切らせて」

「駄目だよ、美果」口から零れていた。

「何でさ」

 返事は、とても冷たい。

「何でさ。何が駄目なのさ」

「だって」

 答えを待ってはくれなかった。肘に近いところを、剃刀が滑っていた。

 冷たくて、金属的で。ざらざらとしていた。冷たさだけで切れてしまいそう。ほんの僅か、腕の皮膚が引きつける。頭の中、震えるくらい、感触が弾けた。

 ――痛い!

 血が、私の皮膚と皮膚の間から溢れ出す。

 美果は私の傷口へと顔を近づけた。美果は、傷から溢れている緋色の珠へ、その舌を伸ばす。舌先が腕に触れた。その跡を追って、つう、と傷がてかる。

 息を止めて見詰めていた。

 もう一度、切られると思った。刺されると思った。刺された後、その傷が抉られる様を、ありありと見てしまった。腕がもう動かなくなるくらいに刻まれる様を思い描いた。トートの中には未だ鋭いナイフが何本もぎらついていて、私を切り刻んでくれるのだと、そう信じていた。

 美果は、私の傷に口付けた。

 けれど、美果は、そう、しなかった。

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