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 美果の腕には、傷がある。

 私がその存在を知ったのは、去年の春のこと。二年生に上がったばかりの、四月のことだった。

 誰もいない中学校の、午前練の終わった音楽室。はためいていたカーテンの奥、柔らかい陽射しの中。窓際に寄せられた机と椅子の、その片隅で。

 美果は独り、そこで腕を切っていた。

 空っぽの椅子たちは扇状に並べられ、合奏隊形になったまま放置されていた。誰もいない音楽室はいつもより広くて、グラウンドを素通りした潮風が勝手きままに吹き抜けていた。

 このときはまだ意識していなかったけれど――美果にはちょっとだけ、いや、割とそれなりに、抜けたところがある。音楽準備室のドアで爪先をぶつけたり、譜面台に立て掛けた楽譜を思い切りひっくり返したり、その手のドジなら日常茶飯事だ。

 だからこのとき、美果は油断していたのだと思う。自分の足音ひとつすら学校中に響きわたりそうなくらい、人の気配が途絶えた学校のなかで。

 腕を切る行為そのものが、美果にとっては既に息をすることと同じくらいに自然のことになっていたのかもしれないし、だから当たり前に、誰もいない音楽室で腕を切っていて、ぼんやりと海を眺めていたかったのかもしれなかった。もちろん、誰にも邪魔されないことを前提として。

 美果は私を見とめると、少しだけ視線を窓の外に戻して、それからもう一度私の方を見た。呑んだ息が、密やかに、その喉を動かした。

 頬杖をついて剥き出しになった白い腕を、真っ直ぐな赤い線たちが鮮やかに彩っていた。 机には、楽譜を挟んだファイルにフルート、銀色で細身のシャープペンシル、それから小ぶりなカッターナイフが置かれていた。

 私はこの時になって初めて、それまで同じパートにいながら、さしたる付き合いのなかったこの友人とやらに、近寄ってみようと思った。

「やめたほうがいいって言わないの」

 美果は、落ち着いた声色で私に尋ねた。私はその鮮やかな赤を静かに見詰めた後、

「やめたほうがいい」

 淡々と、聞こえたままを返した。

「何それ」

「やめたほうがいいって言ってみただけ。やめたほうがいいって言われたいの」

「……何それ」

 美果は口元を歪めて微妙な笑みを浮かべ、小さく首を傾げた。思い返す程に、その表情は残酷な笑みに思えるから不思議だ。少なくとも、それまで見たことのない初めての表情だった。それまでの私は、そんな生のままの顔の動きを目にしたことがなかった。

 慌てる素振りはなかった。けれど、そのままにしておくのは決まりが悪かったのか、美果は机の上のものを片付けようとその腕を伸ばした。

「もっと見せて」

 私は、そう口走っていた。

「私、切ってみたい。私も、腕、切りたい」

 美果の腕をとった。華奢な腕だった。全部仕舞われてしまうよりも先に、それだけは確実に伝えなければならなかった。

 たったそれだけの、秘密の思い出。秘密にしなければならない、日常のほつれ。傷。

 美果が自分の腕へ傷をいれているとき、私はそこにいあわせた。

  理由も何も、そんなくだらないことはどうだっていい。大事なことは、たったそれだけだ。

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