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避難の意味もこめ、私たちはフルートと演奏道具一式、それからそれぞれの椅子を抱えて裏口から音楽室の外に出た。今日は部活全体の空気が活発だった。活発なのは良いことだけれど、音の小さなフルートでは、チューナーですら正しく音を拾ってくれなくなる。
音楽室の裏には、吹奏楽部以外ほとんど誰も使わない北向きの廊下があって、突き当りを曲がった先には、非常階段へと繋がるスペースがある。廊下より多少開けたそこは、いよいよ人目につかない場所だった。他の楽器の音にかき消されがちなフルートパートにとって、そして私たちにとって、まさにうってつけの場所だ。
「やっちゃったね」
譜面台を立てながら、美果が言った。
「真琴、ホントにやっちゃうとは思ってなかった、正直」
「何でさ」
「何だかんだでいつも通りなのかなって。それがこれ、大騒ぎって」
美果はフルートの頭部管を外して唇に当てた。力強くてしっかりした音が伸びる。
「ここまで大袈裟なのは私も想定外。でも、面白いよね。良くない? 別に、何点でも」
私も、胴部管から下は椅子に置いて、頭部管だけに息をいれた。音は太く、安定している。息もしやすい。喉も震えていない。今日の調子はいい。音が冷静だ。
「ヒトのテストなのにねー。凄いじゃん、真琴、大注目。呼び出されるわ噂になるわ、やー流石だわ」
「別に注目されたいわけじゃないんだけど」
「あれ、そうなの?」
「当然。無視してくれていいのにさ」
「割に派手じゃん」
「どこがよ。私には関係ないとこで派手にされてるだけ」
私のAに美果のAが重なった。ぴったりと。耳の奥で振動するような不快感はない。
「合ってる」
私は言った。二人の音が一つになっている。私の確認に美果の音が、僅か、わざと下げられる。肯定の返答替わりだった。
「平均以下なんて取ったらもう推薦なんてもらえないんじゃない?」
「別に良い」
「マジ?」
「マジ」
「頭良いひとの考えることはわかんないなー」
「美果」
――それ以上やめて、とまでは言えなかった。代わりに美果は、察したように口をつぐむ。
海からの風が足もとを過ぎていった。この場所で吹いていれば、世界から誰もいなくなった気分になれる。生徒の声が聞こえても、それはこことはまるで別の場所からの声。気に留める間でもない。余計なものは何一つ、ここにはいらない。
なのに、美果は指を一本立てた。どうしても気になるらしい。
「じゃあ一個だけ、教えて?」
ロングトーンの合間で、私は頷いた。こんな音の日は、ずっと吹いていたかったけれど。
「東山じゃなかったら、高校どこに行くの」
「白瀬」即答する。
「まさか。落とし過ぎでしょ、それ」
進学校から地元の高校へ。偏差値にして二〇か、それ以上の開きがある。建前はともかく白瀬の倍率は一倍を切るのが普通だから、偏差値の下限なんてあってないようなものだ。私のような奴があえて行く高校ではない。
東山のオープンスクールを思い出す。あんな場所は御免だ。無駄に騒がしく元気のいい、あんな落ち着きのない場所は、最早それだけで行く気を無くす。尤も、ウリにもなっているあの快活さを求める受験生の方が普通なのだろうけれど。一緒に行った双葉なんかはまさあにそのクチで、すっかりあの校風に魅了されてしまっていた。放送部とか似合いそうだし、そこら辺は個人の自由だろう。私は行きたくないけど。
「どうしてって訊いてもいい」
美果はまだ、練習しようとはしなかった。
「それは駄目」
「何でよ。ケチ。私にくらい教えてくれてもいいじゃんよ」
「ケチで結構だよ」
それでも言いたくなかった。そんなもの、馬鹿馬鹿しさの塊のようなものでしかない。それに、白瀬に行くことと期末の点数を落としたこととは全く違う話だった。
「他にいいとこあるじゃん。どこでも行けるのに」
「近いし」
「……白瀬だよ? わかってる?」
「わかってる」
譜面台に立て掛けたファイルをめくる。
「優等生のエリートごっこなんかもうやってらんない」
私はとにかく、そいつをぶっ壊したかった。そしてたぶん、壊れてくれつつある。
私が白瀬に行く理由はそれだけで構わない。東山には行かないから、あんまり優秀でもないから、じゃあ白瀬でいい。それ以外なんてどこも変わらない。東山より悪くないにしても、どこであっても行きたくはない。
――白瀬に行きたい理由なんて――そんなもの、意識すら――。
切り替えたくて、譜面を捲った。
練習すべき曲は山ほどあった。地元の港祭りで演奏する流行りの曲たちと、中学最後のコンクールの曲。夏のイベントたちにあてがわれた譜面たちには、ひと通り、軽く目を通しておくだけでも時間をとられてしまう。部活に来られない日の多い美果には、特に今日のような練習時間が貴重な筈だ。
「ねえ真琴」
それでも美果は食い下がってきた。ワントーン下がった声音だった。その後に続くであろう問を私は待った。美果の動きが妙に止まっていた。
「や、何でもない。やっぱ何でも」
「それって一番気になるパターンなんだけど」
「ホント何でもないんだって」
「ホント?」
「――いや、うん、あー……白瀬って」
一度動き始めた美果が再び止まった。何事かを考えているように。
「美果? 起きてる? 眠い?」
美果の前でフルートを振る。実際に眠そうには見えなかったけれど、その代わり、美果は私の隠した答えを当てようとしているように思えた。それは不必要だし、お互いに知らない方がマシに決まっている。
「起きてますー。マジで何でもないから気にしないで」
けれど美果は、私のフルートを鬱陶し気に払いのけながら口を尖らせた。
「そう。じゃあ、気にしない」
私は、たぶん、とてもくだらない理由で、白瀬を選んでいる。
なのに私は同時に、うっすらと期待してしまっている。美果が、気がついてくれることを。とんだ矛盾だ。
今、私が、こうして。だから――これでいい。違う、これがいい。
二人で一緒に吹いていたいだけ、だなんて、そんなの。
私は、一先ずコンクールの曲から練習する。勝手に吹き始めた私に、美果は不満をぶつけながら、自分のファイルから同じ楽譜を慌て気味に探していた。楽譜通りに音をなぞりながら、私は自分がどこを吹いているのかわからなくなっていることに気が付いた。知らないまま吹いていられるのだから、それ以上は望むべくもなかった。
美果が髪をかき上げる仕草をしたとき、袖口から痩せぎすの手首がちらと見えた。手首には、白く盛り上がった傷跡が何本も交差していた。そこに、一本の、まだ赤い傷が増えていることを、私は見とめた。
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