夏、そこにいた。

四葉美亜

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 トランペットの音が聞こえる。明るく、威勢のいい音。そろそろ五時といったところ。音の質からして恵美ではなく真白のものだ。くだびれた脚も軽くなる。

 階段を上がった先は、すっかり夕立上がりの夏空だった。

 ロングトーンを主とした基礎練らしく、ほとんど毎日耳にする音の並びだった。サボりがちな恵美と違って、毎日部活を頑張っている真白の実力の伸び方は目覚ましい。少々雑で割れやすくはあるものの、うちの吹奏楽部の貧弱な金管たちと比べると随分しっかりしている。少なくともマトモな音が出ないより遥かにマシだった。高音でへたって立ち消えになる恵美なんかより、後輩の真白の方が余程安心して聴いていられる。ファーストは真白に任せてしまった方が良いと思う。

 階段を上りきると、果たして、音楽室前の廊下で真白がトランペットを吹いていた。真白の隣には一年の子もいて、運動部の荒っぽい声が響くグラウンドと、その先に広がった夕方の海に向けて、二人並んでトランペットを吹いていた。

 真白は私に気が付くと、トランペットを口から離した。

「あ、真琴先輩っ。陽ちゃん先生から話があるって美果先輩が」

 すると、呼ばれたようにして美果が音楽準備室から顔を覗かせた。横髪の触覚ヘアが軽く揺れる。私と目が合うと、けれどもすぐに、顔を引っ込めた。

 その拍子に美果の持つ譜面台から何かが落ちる。硬い音と共に、四角い銀色のチューナーが廊下へ滑るように転がった。そのまま、廊下の隅の浅い溝へ転がり込む。

「……私のチューナーじゃん、これ」

 そこ、掃除するときに埃溜めるところなんだけどな。

「まあまあ、いいじゃないですかー、そんなケチケチしなくたって。てか美果ちゃん先輩も直接言えばいいのに」

 私よりも先に、真白はその足もとにまで転がったチューナーを拾ってくれた。軽く埃まで払ってくれる。

 美果の慌てっぷりからも、先生からの話の内容は凡そ予想がつく。だいたい、それについての話で担任の呼び出しを喰らったばかりなのだ。川本先生からも呼び出される覚悟は最初から出来ている。

 チューナーを手渡されるとき、真白はほんのり何かを期待するような笑みを浮かべた。

「で、先輩先輩、もしかしてなんですけど、話ってもしかして期末のことですか……!」

 私にしか聞こえないような、小さな声だった。

「ん、知らないけど、そうなのかな」

 受け取りながら、内心、拾ってくれなければ良かったのにな、と毒づく。

「あれって本当なんです? 期末テストの話」

「テストって?」

「えー、わかってるでしょー。教えてくださいよぉ」

 僅か、息をつく。僅かに安心してしまう自分がいた。楽しそうで羨ましい。責められそうなような雰囲気ではなかった。真白のことだから無邪気な好奇心そのままなのだろう、きっと。

「まーこー! はよ、こっち来る」

 川本先生の声。苛立っていそうな、キツめの声だった。準備室の奥で、丸椅子に座ってこちらを手招いている。ともかくチューナー受け取って、結局、真白には曖昧に首を捻ってみせるだけに留まった。

 川本先生は、準備室の奥にある先生用の机の前に深く腰掛けていて、私の目をしっかりと見据えている。口元はわかりやすく、への字に歪んでいた。

「わ、真琴来たっ」

 さっき顔を合わせただろうに、美果はおかしな驚き方をした。美果はフルートを片手に、所在なさげに傍に立っていた。そも、川本先生からああして呼ばれれば来ない訳にもいかない。逃げたりなんかすれば追い駆けられる。

「マコ、あんたどういうつもりなん。さっき美果にも聞いたけど、期末の五教科全部五〇点ってホントなわけ」 

「まあ……」

「え、何、はっきりして」

「そう、ですね。ええ、恐らくはそうだと思います。記憶している通りなら」

 実のところ、全て本当に五〇点だったかは不確かだ。それくらいだったと思う程度にしか、点数を覚えようとはしていなかった。

 大きなため息を、先生はついた。

「マジ? なんで?」

 大きく開かれた先生の目に力が籠る。怖い、と思ったことはない。でも、川本先生は容赦がない。どうしてそんなことをやったのか、当たり障りのない範疇で説明しても、この視線だけは逃してくれない。担任とかとは違う。どうでもいいと無下にはできない凄みがある。

 口は開いた。そのまま、声にはならなかった。私はこれを表すことのできる言葉を知らないし、これそのものがここにあってはならない、あることができない。

 言葉にしようとして、けれども言葉は喉の奥に引っかかったままになる。言うな、言ってはいけない、そう背後から囁かれる。もしかしたら壁からも。それは、そこにあってはいけない。そこには、この、これは。

「絶対わざとよね。この前までずっと学年トップ独走してたマコが急にバカになるとか、絶ッ対、ありえんから」

「そんなこと……先生が言っても大丈夫なんですか」

「だって事実じゃん。音楽だけフツーに満点だったし。何もないならこんなことしないでしょ。ウチにも言えんことなわけ?」

「……美果から聞いたんですよね」

 先生は首を横に振った。

「逃げない。マコの口から聞いてない。このままだと部活に出せなくなる。この前から何点下がってると思ってるわけ? 言わないなら夏休みいっぱい部に来ちゃいけなくなる。そうなると、事実上の引退よ。最後のコンクールにも出れないまま、ひと足早く引退になっちゃうけど良いの?」

「そんなわけ」

 停部。その単語が脳裏を掠めた。一番嫌なものを喉元に突きつけられて、いよいよその先を探る。何なら言える。私は、先生に、何なら言える。

「わざとなのは、事実ですけど」

「理由は?」

 射すくめてくるかのような視線。何を言えば、先生を納得させられる。何が事実にある。これは何だ。何がここにある。

「どうしてわざとやったのよ。あのまま成績ついちゃったら、マコ、どうなるかわかってんよね。誰かから何か言われたりした?」

「――何も」

 息を詰まらせかけておいて、あれ、と思った。このままだと、あまり歓迎できない方向に勘違いされるのではないか。そうではなかった。誰かに命じられたとか、そんなことは一切なかった。

「本当に、何もないんです。……何も」

 言おうと決めた途端、言葉はずるずると吐き出されていく。

「よくある話、疲れたんです。テスト受けたらいつも一位でしたけど、もう……もう、要らないって。優等生ってよく言われるじゃないですか、どうせ。そんなの私、本当は嫌で、だから」

 言い切れない。けれども、何一つとして伝えないよりはマシで、かつ明後日な方向に解釈されたくはない。

 横を伺うと、微かに美果が驚いているようだった。私が口にした内容にではなくて、私が川本先生に打ち明けようとしていることに。

 先生は前髪をかき上げて、天井を見上げた。

「は? それ、本当なの」

 静かな空気が重い。

「マコ無理してるなー、って思ってたけど……」

 思ってたの。そんな風に。

 手を握られた。よく冷えていて、節くれだった手だった。先生は美果の手も握った。三角形じみていた。

「いい? あんたらニコイチってよくウチ言ってるけどさ、たまには先生も頼りなさい。支え合って共倒れ、とか笑えないから。いつでも話聞く」

 返事は、と促されて私たちは頷いた。

 先生は、私たちの手を離す前にもう一度強く握り込んでくれた。私は少し持て余しながら美果の横顔を伺った。美果は神妙な顔つきをしていた。少なくともそう、私には見えた。先生は最後にもう一度、「いい?」と念を押す。

「練習行っておいで」

 先生はそう言って、私たちの手を離す。

 フルートと教則本、それから譜面台を抱えた。準備室を後にしようとしたところで、背中にこつん、と軽い感触が伝わった。美果が潰れ気味な声で呻く。先生が軽く吹きだして――微妙に緊張したままの空気が軽くなった気がした。

 ああ、美果にぶつかられたな、と思った。割とよくある。

「もー、止まんないでよ」

「前見て歩いてね、ちゃんと」

 私も私で、口調を緩めないわけにはいかなかった。川本先生もけらけら笑っていた。

「先生まで笑わないでよー、もー」

「ごめんごめん、や、バッチリ見ちゃったわ」

 こうして和めるなら、ドジなのも悪いことばかりじゃないのかもしれない。

 けれど、そうしてはたと立ち止まってしまったのは、ひとつだけ不安が残されかけていたことに気が付いたからだった。

「……あの、先生、部活は」

「ん? あー……」

 真顔に戻って一拍置かれた後、川本先生はおどけたように破顔した。よく見せる、先生特有の表情の変化だった。

「あり得ない。アレ、勉強しないのを部活のせいにさせないためのだし、マコ、今あんたが抜けたら色々ヤバい。わかってるでしょ、そんくらい。

 ってか、ああーもー! ヤバいー! 時間ないー! 日曜にヤマさん来るのにー!」

 のけぞってそう叫びながら、振り返った私に向けて、早く練習に行くように手で払って示す。促されるまま、今度こそ、私は音楽室に繋がるドアを押し開けた。

 と、すれ違い様に、麻由が準備室に飛び込んでいく。ほとんど先生に抱き着く勢いだった。川本先生はもんどりうって椅子ごとひっくり返りそうになる。どっちにしろ、可愛らしいとは思うのだけど、その様を見ていた美果はこっそり鼻で笑っていた。

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