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そうして待っていてやっと、美果は登校してきた。長袖の隙間からは、分厚く巻き付けられた白の包帯が覗いていた。
「おはよ」昼の日中、正午も回って小一時間が経とうとしているのに、美果はそんなふうに挨拶した。
「……どうしたの、また」
「いやちょっと、手元狂っちゃって」
美果は私の隣の席に腰を降ろす。苦笑いだった。顔には疲れが浮かんでいたように思う。どうしようもなく消耗してしまった後のような、そんな疲れが。
「するっていっちゃって。さっきまで縫ってもらってた」
「するって」私は繰り返した。
「そうそう、するーって。で、病院行ってた。それで遅れました。五時間も遅刻とか初めてかも」
「流石に――」やり過ぎじゃない、と言いたかった。「――暑くない? それ」けれども言おうとする手前の危ういところで、それだけはいけないのだと気が付いたのだった。
美果は無事な方の手で、顔をパタパタと仰いだ。
「あっつい。やーもう外したい。外すなって言われてるけど」
やり過ぎだ。
そんなそこら中から転がされそうな感想をせめて私だけは口にしてはいけなかったし、そもそもあっさりとそう思ってしまうことじたいが、私に思考が足りていない証拠だった。
美果は伸びをしたまま、天井を見上げていた。
「次やったら入院だって言われた。腕切っちゃいけないのかよー。うっざくねー、あの医者――って真琴は知らんよね。もう面倒なのがいるのよ。黙って縫ってろよ。私が切る理由とか気にしなくていいんだよ。外科医だろ。
あ、でも医者になれば傷口見放題、上手くいけば縫い放題で切り放題なのか」
「美果に医者は無理なんじゃないかな」
「何だよ失礼な。ボクだってもしかしたらなれるかもしれないじゃんか」
「動機不純だし。私だったらそんな医者にはかかりたくない。身体を治してもらいたいのに、知らず知らずに壊されるとか嫌だし」
「いいじゃん、ちょっとくらい弄らせなって」
そうしてひと息つくと、美果は自分の鞄から教科書の類を引っ張り出し始め、途中で固まった。
「あ、ヤバ。今日って何曜日だっけ」
「水曜だけど」
「……本返し忘れてる。これ」
「今から行く?」
「行く。――行く?」
鞄から取り出されたのは一冊の文庫本。件の、地獄で天使を殺す青年の前日譚だった。美果の誘いに、私は頷いた。
昼休みも終わりかけの図書室には誰もいなかった。電気すら点いていなかった。
美果は自分の借りた本を、直接本棚に返していた。誰もいないときは図書委員として勝手知ったる振る舞いをするのが、美果の常だった。勝手といっても精々仕事の手間を減らす為のショートカット程度に本を片付ける程度で、寧ろ他の図書委員よりも真面目にきっちりと仕事をこなしている。この時も美果は自分の本を返すついでとして、出しっ放しにされていたハードカバーを片付けていた。それからカウンターの裏に回ると、これも自分の貸出カードを探すついでに、他のカードの束を学年ごとに分け始めた。
「今日は部活来れる」
カウンターの向こうで貸出カードを弄る美果に、私は尋ねた。この際と思って、私は時間を無視していた。二人だけの図書室はとても開放的で、居心地が良かった。
「五時までなら、たぶん」
「短い」
「私に言われてもさ。仕方ないじゃん。この怪我じゃあ、まあ、今日はどっちみちあんまり腕使わない方がいいんだろうけどさ」
そう言いながら、ぶんぶんと包帯で固められた腕を振っていたあたり、本心から腕を庇う気が抜け落ちていたのだろうけれど。
「辞めればいいのに。行きたくないんでしょ」
自分が言った筈のその言葉が、果たして自分の言った言葉なのか、このときの私はすぐにわからなくなった。大机に寄りかかった。些細なその変化が読み取られることはなかった。
「まあ、そうだけど。今日は塾もあるし」
「じゃあ塾も辞めちゃいなよ」
辞められないとは知っていた。美果は困り顔に微妙な笑みを含ませた。
「もっと馬鹿になっちゃうよーボク」
「美果が馬鹿なのは元からだし。多少勉強しなくても変わんないって」
「は、酷いなー。馬鹿馬鹿言うなよー」
軽口を叩いていると予鈴が鳴った。手早く貸出カードを纏め、片付けたところで図書室を出た。
既に教室は空になっていた。
「げ、誰もいない」
呟いて舌打ちをした。ある程度は予想していても、よもやここまで、ものの見事の空っぽとは思っていなかったのだった。私の机の上には、これみよがしに教室の鍵が残されていた。
「――薄情なやつら」
とは言っても、私たちに合わせていては到底授業に間に合うとは思えなかった。締め出されていないだけマシだったかもしれない。
美果は首を傾げていた。
「次って移動教室なの?」
「体育」
「マジ? どっち」
「外。知らなかったの」
「知らない知らない。数学違ったっけ……って、あ、火曜じゃなかったんだ。もー、真琴言ってよー」
本を返したところで、美果の曜日感覚はズレたままになっていたらしかった。半分揶揄いながらも密かに、これからは注意を払っておこうと心に決めた。私たちは口を尖らせながら、各々の荷物を取りに席へ戻った。鍵を閉めるのが面倒くさいなんて文句も口にしていた。間に合わないことは明白だったから、却って急ぐ気にならなかったのだった。
ところがそこで、美果は、つぅ、とその場にしゃがみこんでしまったのだ。椅子は近くにあったのに、そこに座る余裕すらなさそうに、床にへたり込んでしまっていたのだった。
先に行って、と言われたところで、そのままひとり置いていく気にはなれなかった。俯き加減の美果の視線は不安定で、床のどこでもない場所に向けて浮遊しているような危うさを帯びていた。
いずれにせよ、動けるとは到底考えられなかった。かつて、小学一年生の私がプールの授業前になると必ず吐気に襲われていたように、それが気のせいだと理解できるようになってなお、その時の私にヨサコイ擬きを踊る為の気力など残されてはいなかった。
その日、私は初めて体調不良を装った。
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