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 ――仮にも直接的な契機があったとすれば、それはこの日のことだろう。

 全体の数はともあれ、私が最後に一位を取ったテストの結果を知った夜の、次の日のこと。期末テストまでは一か月弱あった。

 その日の昼休み、私は北向きの廊下で手摺にもたれかかりながら文庫本を広げていた。強い陽射しでアスファルトは焼け付いていて、蜃気楼が立ち上っていた。この時、私たちは月末に控えた体育祭の準備と練習に追われていた。吹奏楽部はマーチングで忙しかった。体育祭といえど、吹奏楽部にとっては音楽会のようなもので、マーチングに行進曲のBGM、国歌に校歌までを吹かなければならなかった。

 この日の午後からは確か、三年生恒例のヨサコイ擬きを練習する予定だった筈だ。

 本を読んでいると麻由が駆け寄って来た。麻由の所作は仔犬じみている事も多い。無邪気に可愛いときもあれば、少々鬱陶しいときもある。

「本。読んでた」実際、中身は頭に入っていなかったけれど。

「だよねー。うんうん」

 手にした本を少しだけ掲げて示しても、麻由はその本の中身について問おうとしなかった。だからなのか、僅かに不自然な間が空いた。私からその間を埋めようとする気も起らず、けれどもこの本についてどうこうする気にもなれなかった。本の中身を麻由が激しく嫌うことは明白だった。

 結局、麻由と私は、私の手にある本の存在そのものを無視することにした。この場合の、ちょうどいい妥協点だったと思う。

「ねーねー、さっき双葉から聞いたんだけど」

「うん」

「マコちゃん、県模試一位だったん?」

「……まあ」

「ホント?」

「うん」

「ホンマにやるとは思ってなかったわー。おめでとー!」

 その前日の夜の塾にて、私は模試の結果を突きつけられていたのだった。温い夜だったからなのか、息が詰まるような心地になった私は、結果云々で騒がしい塾の教室から早々と外に出た。逃げた、とは言いたくないから、避難もしくは転進したと言いたいところだけれど、事実として私は明らかにその場から逃げた。息を吐いた後、見知った顔が出て来る前に、父の車へ乗り込んだ。

「……マコちゃん?」

「ん?」

「嬉しくないん? いつもだったらすっごい喜んでそうなのに。前だって十何位だーって言ってたじゃん」

 喜んでいたのか、私は。

「嬉しい……よ? たぶん」

「ふーん?」

 偽らざる気持ちだった。かなしい、とすら思った。何かが急にすっぽ抜けたような、そんな意味不明な――虚しさのような何かよくわからない――感情を俯瞰していた。

 少なくとも、当の私はこのとき、家で待ち受けているであろう祝福を想像してげんなりしていた。他人に喜ばれるのは苦手だ。もっと突き詰めれば嫌いだ。どうでもいい。喜べばいい。でも私は知らない。私が喜んでいるなんて期待しないでくれ。どうか私に感情を外注させないで。

 無条件で私とお前は他人だけれど。ただの他人でなくなるだけの条件もなくはない。

 そんな荒れた思考だった。

 途切れた会話のままページに視線を落としていると、双葉が、給食当番の片付けを終えて私たちの横に合流した。双葉も私と同じ塾に通っていた。

「あー疲れたぁー。途中で寒川先生に捕まってや、プリント運べって。もー、私に頼まんくて良くね」

 あの模試が返却された後、双葉は睡眠時間を削ってまで見直しと宿題に追われたらしく、いつも以上にぐったりとしていた。そんな双葉をねぎらうためか、はたまた単純にいつものテンションのままなのか、麻由は双葉に纏わりつきながらその頭を撫でていた。

「三往復させられたわ。職員室から。あーもう撫でんな頭くしゃくしゃんなるやろ。で、何話してたん」

「私の模試とか」

「あれね。羨ましいわー、私なんてBよ、B、判定」

 双葉の判定が厳しいことも、私は知っていた。

「双葉も志望校って東山だったっけ」

「うん、そう。今年倍率高くね? 去年より上がってるし。ってか撫でんなってもー、ああもう乗っかろうとすんな! 流石に重いわ! ちょ、真琴、取ってこれ、コイツコイツ」

 おぶさりかけた麻由の重みで、双葉の姿勢は半ば潰されかかっていた。滑稽だったけれど、そのままにしておくのは不憫だった。私は麻由を抱えるようにして引き剥がした。

 自分の腰を叩きながら、双葉が尋ねた。

「はいはい、麻由ちゃんは高校どこにするんですかー」

「ウチ? えー……」

 麻由は言い淀んでいた。私は何となく、麻由のことだからあっさりと白瀬に進むのだと思っていて、そう迷ったのは少し意外だった。

「まだ決めてないとか遅くねー。進路希望そろそろ来るぞー」

「だねぇ。私も東山にしようかな」

 そんなものだったから、麻由の口から東山の名前が出たのはもっと意外だった。双葉ですら苦戦必至なのに、麻由が目指すのは現実的ではなかった。少なくとも、軽く決めてしまえる志望校ではなかった。

「だって双葉も行くんでしょ。それにあそこって音楽科とかあるじゃん」

 友だちが行くから行こう、だなんて。双葉も鼻白んでいるようだった。

「まー、音楽ならなー、あれはあれで倍率高いらしいけど。私、別のとこにしようかな。第二志望ならA判定だったし。真琴、脳味噌分けろー! 私にくれ!」

「どうする、食べる? 私の脳味噌」

「食べんわ! カニバか!」

「中国ではそんな迷信もあるらしいよ。身体の弱いとこを食べたら強くなるみたいな」

「気色悪―……」

「ほら麻由引いたー。なーそういうの言うからやでー、わかっとんのかー」

 そのときだった。視界の端を横切った姿に、私は本を閉じた。

「――え。今の」

 呟きながら、双葉は背伸びして手摺りの向こうを伺った。アスファルトの上を一台の自転車が滑り抜けて行ったのだった。相変わらず双葉の背中に纏わりつこうとしていた麻由も、その姿を見送った。

「ねえ双葉、そろそろ着替え行こ?」

 麻由はあからさまに避けようとしていた。

 登校時間をとっくに過ぎていたにも関わらず颯爽と自転車置き場へと流れていったその姿は、明らかに私たちのよく知るそれだった。

「頭欲しいならあげるよ、頭ごと」

 そんなことを言い放って、私は麻由たちから離れた。仄かな期待と根拠のない予感のもと、休み時間になる度ずっと、教室の裏からその姿を待っていたのだった。自分の席に戻った私は、もう一度本を広げた。待っていたことを悟られたくはなかった。

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