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 腕を切ったのは、けれど一度だけ。

 こっそり隠れるようにして――それが厳密にはアームカットと呼ばれる行為であると知らず、美果のリストカットを目撃したその夜、私は自室で鋏を二の腕に走らせた。

 ハマってしまう、と直感した。

 痛い、という感触よりも、冷たい、という感触が勝った。薄く裂かれた白い皮膚が、一筋控えめに、赤く色づいた。

 私はそこで止めたが、同時に引き返さなかった。これを逃す手はないと気づいていた。それからというもの、私は美果の手首を見るようになった。美果の手首の傷は、日々、増えていった。

 この年から部活の先生が新しくなった。十年以上音楽室を占領し続けていた退屈な先生が転任して、新任の、私たちとも歳が近く、元気のいい先生に変わったのだ。その先生が川本先生だった。川本先生は、吹奏楽部に滞留していた退屈な空気を一瞬にして吹き飛ばした。そんな先生に誘われるかのように、明るくて気さくな真白たちが入部してくれたのも、部活の雰囲気を一新してくれた大きな要因になってくれた。

 だってあんたら辛気臭かったから、なんて、これは後から聞いた話。暗いのやだし、部活は楽しくなきゃね。川本先生はそんなことを言っていた。

 何も知らない川本先生は、私も美果も麻由もひっくるめて、吹奏楽部という一つの仲間に入れてくれた。毎日がつまらなかったのなら、息苦しかったのなら、本当に、この機会を逃す手はなかったのだ。

 それ以前の私は、酷くつまらない顔をしていた。

 一にも二にも、行動理由は成績と内申の為。私には、それしかなかった。生真面目で融通が効かず先生ウケの良い優等生の典型は、しかし同じ教室にいる連中の過半にとって面白い存在ではなかった。

「笑顔がキモイんだよ、お前」

 ――なんて、そんな風に言ったヤツは、屈託なく笑っていた。ただただ、成績だけが無表情に積み上がって、私は独り頑なに、休み時間を本の中に閉じ籠る他なくなっていた。部活に行っても、親から買い与えられた綺麗なフルートを持て余すだけだった。

 ……単純なもので、向こうから手を差し伸べられ、話し相手が出来ただけで、私は部活が楽しみで仕様がなくなってしまった。

 川本先生の意向でパート錬が増えた。金管と木管に分かれて練習する、セクション練も増えた。部員それぞれがバラバラに個人練するのではなくて、協力して高め合おうということらしかった。自然、美果と一緒に過ごす機会も増えた。

 私たちには、とある趣味が共通していた。自傷行為だけではない。表立って堂々と主張出来る趣味ではなかったけれど、あんな場面を目撃してしまっていた以上、隠す意味は失われていた。

 麻由も一緒にいた。麻由のホラー趣味、グロ趣味は以前から知っていた。二人して私のナップサックからその手の本を引っ張り出して騒いでいたくらいには、仲が良かった――筈なのだけれど。

 二年の夏だった。

「どうしてリスカやってるの」

 あの避難場所にて、美果と麻由とで過ごしていたとき、そんな質問を美果にぶつけたことがある。美果は「んー、理由、理由かー……」なんて、真顔で首を捻っていた。

「美果ちゃん、痛くないの?」

 自分で自分を傷付けるなんてしない、と言い切っていた麻由は麻由で、不思議そうに首を傾げていた。

「ウチは痛いの嫌だなー……」

 麻由の立ち位置は一貫してそうだった。私も、痛みが好きな訳ではないけれど。

「血が見たいだけだよ、きっと」

 他人事のように美果は言う。だから私は、問い方を変えた。

「どうしてリスカし続けるの」

 夏でもずっと長袖で、双葉程でないにしても汗だくになるのに。腕の傷跡はおいそれとは消えないのに。なのにどうしてリスカを止めようとしないのか、それは純粋な疑問だった。私が止めたその場所からずっと先を、美果は進んでいた。

「どうしてだろうね。そこ、気にするんだ」

 明確な答えは得られなかったように思う。美果は笑って誤魔化していたから。それから少しして、美果が部活に来られない日が増えた。港祭りに出る出ないで揺れ、それまで半ば押し付けていた後輩の面倒を私が見なければならなくなり、本番も練習も怪しいのだから演奏でも頼るに頼れなくなった。

 事実として、私たちは血を見たかった。私たちは密やかに、血に飢えていた。その手の本の貸し借りや、一緒に観た映画の話で盛り上がった。私たちのお気に入りは、荒唐無稽な食人魚のパニック映画だった。ついさっきまで話していた仲間が、まさに骨と皮……と、水中に拡散する血になる様は、その体内から魚が食い破って主人公に襲い掛かる様を、私たちは楽しんでいた。

 三年に上がる少し前、沖縄に行く事前学習としてのリアルな戦争の歴史を前にして、麻由は唐突に私たちから逃げ出した。それ以来人が変わったかのように、麻由は猟奇的なモノか否かに関わらず、死の気配がするモノを拒絶し続けている。

「人が死んだんだよ。いっぱい、あんなに……それを楽しむなんて、狂ってる。私は怖いよ、ねえ、マコちゃん……!」

 修学旅行で野戦病院になった壕を見学した後も、麻由は何のタガが外れたのか、半泣きになって震えていた。このあたりから、美果と麻由は互いに口もきかなくなった。

 共感されないことは知っていた。これは、いわば反動に近い衝動なのだから。

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