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息苦しい。熱いくらいに照り返す真昼の海が、暗く歪んでいた。目を閉じて呼吸を整える。明らかに吹き過ぎだ。ここのところ、いやに酸欠を起こしている。もう少し体力がありさえすれば、こんな情けない目には遭わないのに。
押し当てた銀が滑って、クロスで軽く、吹き口を拭う。
息がもたない。誰にも明かせないけれど、真っ直ぐな息が続かなくなっていた。吹いていて支障があるのではなくて、自分の音を聞いていて気がついてしまっただけのことに等しい。直そうとすればする程、息が足りないと知れてしまう。
港祭りが終わって、残すはコンクールただ一つだった。練習曲もたった一つきり。つまり、あと三日で部活が終わる。これまで分厚くかさばっていた筈のファイルも、たった一枚の楽譜だけを残して、すっかり痩せ細っている。
音楽室の裏手に、独り。当然のように美果はいないし、ここにいるのは私だけ。港祭り以来、美果については全く音沙汰なしだった。
当然、母は無事だった。
港祭りの翌日には、母の熱が三八度台に下がったと祖父から聞いた。冷静に考えれば、これ以上に病状が悪化してかき回される方が、厄介極まりなかった。こうも続くの暑さの中、家と病院を行き来する羽目になった祖父と祖母はぐったりとしていて、これ以上の忙しさにはとても耐えられそうになかった。だから、葬式なんて羽目にならなくて良かったのだろう。
余計な奴ばかりが残る。美果はどこ。どうしていないの。
持ってきていた水筒で、喉を湿らせた。
それでも、肝心のソロは、私にとってこれ以上ないくらいに完成している。
――この曲はね、フルートソロが重要なの。ここの為に他があるってくらいだ、赤木君ね、君、責任重大だよ。
昨日、ヤマさんはそう言っていた。
「旧い曲だからね、審査員も昔吹いたことがあるって方が多いんだね、これ。私も高校生の時分に吹いたんだけどね、まあこんなオジサンにも若い頃があったから。だから、手慣れている。よく知られているんだね。懐かしいなんて思う審査員もいるんじゃないかと思います」
都合のついたヤマさんが学校に来てくれたおかげで、急遽、昨日の午前練は合奏に変わったのだ。ヤマさんは、私のソロのところで指揮棒を止めた。それで私にそう告げたのだ。曰く、ソ、ド、ときて次のレの音が微妙に上ずっているらしかった。修正は簡単に終わった。
「次があるとすればそこだ。いいね、君たち、音を聞きなさい。相手の音だ。合わせて。正確に吹くのは然程難しくないだろう。なのにズレるのはどういうことか、わかるね」
ヤマさんが止めた理由は、けれども私のフルートにはなかった。ソロを支える中低音の音程を気にしていたのだった。とにかく、私は歌えば良かった。私以外に歌う楽器がないのだから、ある意味当然の話だけれど。
……そう、自意識とか関係なしに、ここを私が歌わなくて誰が歌うのだろう。奏でるのだろう。私しかいない。旋律があるのは、私だけ。
誰にも知らせない、縋るような夜の歌。
フルートを構え直した。曲の頭から吹く。
冒頭は高音が続いている。フォルテ、勇ましいイメージ。雑にならないように。走らないように。フルートの出番はあまりなく、少し吹いては休み、また吹いては休みの繰り返し。
第二楽章に入ると、これまでの曲調が一転、ゆったりと落ち着いたメロディになる。金管の中低音が導入にあって、これを引き継ぐ形でいよいよソロが入る。
――違う、ズレた。
それでも通すか迷って、結局は止めた。ソの次、ド。どうしても気になってしまう。居心地の悪い感じ。これを外すと一気に締まりが悪くなると感じる。
再び吹き直す。ドの音を強くイメージして、ソの後にすぐ意識通りの音へと息を当てる。レを正確に、その後は徐々にスケールを大きく。私は歌う。抒情的で哀し気に。他のフルートも加わって、曲はそのまま盛り上がる。音が私を引っ張ってくれる。その流れへと身を委ねる……。
第三楽章に入ると一気に吹きやすくなる。変化した主題を繰り返しつつ、主役は徐々に木管から金管へと移る。坂道を駆け抜けるようなイメージだった。揺れ戻すように静かになって、第二楽章を彷彿とさせるシーンで音は総て消え、静かになる。その後、パーカッションからクライマックスへと突入していく。吹く方からしてみれば、最後は体力勝負だ。一番盛り上げなければならないぶん、息を多く使う。高音も多く、そこかしこにトリルがある。失速させないように息を保つ。
吹き終わる。やるだけのことはやった。そんな手応えがあった。出来ることは全てやった。今の私に出来る精一杯だ。
――そんな綺麗事で通用する筈がない。フルート一本がどうしたところで、他の音をどう誤魔化せよう。そも、誰が本気でやっていよう。こんな素人が我流で足掻いたところで人並み程度が関の山、努力の仕方なら他に幾らでもあったろうに、自己陶酔と自己満足に逃げているだけ――。
頭の中でひび割れて顔を出したどす黒さから目を背ける。信じるしかないし、信じていればいい。他に何がある。他にどう出来た。どうあれこれが最善でしかない。これ以上を私はこなせそうにない。もっと時間があったとすれば、或いはもう少し吹きこなせるだけの地力がついていたかもしれないのに。
美果がいないと、手持ち無沙汰に空を見上げるくらいしか能のないクセして――空の青色が、壁だった。
信じよう。歯触りのいい言葉。求められた言葉は、どうせそんな程度。
「マコちゃんマコちゃん。終わった?」
振り返ると、曲がり角から麻由が手招いていた。
「準備室に来てって。楽器は置いてていいから」
誰が、とも思ったけれど、訊けなかった。言うだけ言って、麻由は音楽室へと駆けこんでいく。上ずったような白々しい声音だった。
まるで肉食獣から逃げる小動物のような足取りの麻由からは、悪い予感しかしなかった。けれど、無視する訳にもいかなかった。
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