/15.

 やむなく楽器を置いて音楽室に帰ると、麻由の姿は既になかった。準備室の方を伺うも、ドアの窓は小さすぎて、こちらからは余り見えない。

「でもそれは私の決めることじゃ――わ」

 準備室のドアを開けると、理沙が驚いたように口を噤んだ。

「――ん?」

 嫌な予感に満ち満ちた空気。緊張感のある沈黙。

 理沙に楓、さやか、恵美、真白。部活に遅れて来たのだろう、さやかと楓は楽器の準備中らしかった。全員の視線が一斉に、私へと集まっている。

「部長。説明しろ」

 有無を言わさない乱暴な口調で、恵美が理沙に命じる。

「……今ね、マコちゃんテストの結果が良くないんじゃないかって話しててね」

「またそれ? 今になって?」

 呼び出された理由はそれらしい。うんざりする。もうその話題は過ぎたと思っていたのに。

「うーん……でも私が決められることでもないんだし、先生も何にも言ってこないし、いいんじゃないのかなあ。関係ないとは言い切れないっぽいけど、全然関係ないんかもしれないし、別にうちらがとやかく言わんでも」

「真白」

「え、あ、はい、恵美先輩っ」

「説明」

「あー、わかりました。えっとですね……マコちゃん先輩のテストが不味いんじゃないかって話になってるんですけど、ああでも私が言ってるんじゃないんですよ、それ。私が先輩にどうこう言える立場じゃないですし、ってか私が停部になっちゃいましたし、この前のとか」

「……それで、私のテストが何だって」

「えーっと、つまり、あー、大したことじゃないんですよ? いやでも大事なことではあるので、それの確認的な。先輩のことだから心配しなくたっていいって私は思うんですけど」

 わかりやすく、真白はしどろもどろになって、意味不明な身振り手振りを繰り返す。そんな真白を、もういいよ、と楓が止めた。

「――マコちゃん、期末テスト何点だった?」

 いまいち要領を得ない真白は恵美に睨まれている。

「教えてくれないかな?」

 にっこり、他人に愛想良くものを頼むかのような口ぶり。ここにいる誰よりも不気味に感じる。

「そんな気になる? あんなものが」

「教えてくれないなら、はっきり言うね。マコちゃんの点数、下がり過ぎてて部活に来ちゃいけないんじゃないかなって、そういう話になってて」

 見渡しても、誰一人として首を振らない。口も挟まないし、目を丸くすることもない。ついでに、楓以外は目を合わそそうとすらしない。

「だから、事実を教えて欲しいの。無理に、とは言わないけど」

 教えて欲しいと言われても、何点だったかすらあやふやだ。そんなこともあったな、と思い出すくらいには、薄れた記憶のこと。

「で、何。そんなくだらないことで駄弁ってたってわけ。もう意味ないでしょ、この話は」

「くだらなくはないんじゃないかな。マコちゃん知ってるよね。部活の決まり」

「知ってるけど」

「なら、話してくれないと。じゃないとこっちもわかんないよ」

「わかんないままでいいんじゃない」

「うーん、そんな訳にもいかないと思うんだけど」

 そこで、でも、と理沙が口を挟んだ。

「マコちゃんの点も気になるかもしれんけどさ、先生は何にも言わないし、もう今さらなんじゃないかなあ。だって」

 思いきり剣呑になりつつある空気を必死になって止めようとしているのが見え見えだ。

「先生先生うるせえ」

 そう言って、さやかが勢いよく立ち上がる。肩にはアルトサックスが掛けられていた。開いていたケースの蓋が重力任せに閉じられて、乱暴な音をたてる。よく今まで黙っていたな、と思う。

「はーもー、これだからウチの部長は。だいたい理沙だってそーだったくね。宿題出すまで部活禁止って、去年の夏だっけか、即刻喰らってたじゃん。部長になってすぐ」

「あれは……また別だよ」

「何が別だよ。同じじゃん。それにさ。真白、あんたも言ってたでしょ、自分だけちゃっかり逃げてんじゃねーよ。つーかマコのカンニングがどうのってあんたが言い出したからこうなってんじゃん」

「そんなの言ってませんよ。適当なこと言わないでください。それだって双葉先輩から聞いただけですし」

「またまた。他人のせいにしてんじゃねーって。まーいいけど。どいて理沙、邪魔」

 言うだけ言って、さやかは準備室から出て行こうとする。楓が引き留めようとしたけれど、さやかは鼻で嗤って肩を竦めるだけで、結局はさっさと廊下へと出て行ってしまった。台風みたいな勢いに、理沙はいよいよ戸惑い気味に委縮してしまって、それ以上は何も言おうとしなかった。

 準備室は静まり返る。

 もしかしたらこのまま流れでこの場も解散となってくれるとも期待したけれど、楓とさやかに恵美といった面々が引き下がってくれそうもない。じゃあ私も、と外に出るのは、何より癪に障る。

「私がそんな点数のバカになったと本気で思ってるの?」

 言いながら、さやかの言葉を反芻している。

 ――真白、あんたも言ってたでしょ。

 私は、点数よりもそちらが気になった。

「くだらない。他人のテストでよくそんなに騒げるね。もっと気にすることあるんじゃない」

 真白、何を言ったの。双葉から何を聞いたの。

「――くだらない、本当に、些末事。あとちょっとほっといてくれたらいいのに。それで誰もが無関係になれるって、本当に、どうでもよくなれるって思わないの」

 言葉を重ねるしかなかった。けれど、重ねても重ねても虚しいだけだった。

「カンニングしてたの?」

 楓が尋ねてくる。

「そんなのあり得ない。どう間違ったらそんな話になる訳」

「でも、じゃあどうして点数言えないの? 不正がなくて、何で?」

「言いたくないだけ。先生にでも訊けばば良い、それはないって教えてくれるから」

「じゃあ、そっちは置いておくとして、マコちゃん提出物も出してないよね。変すぎて目立ってるって聞いたの。七月くらいからだっけ」

「……だったら、何」

 けれど、楓は黙ってしまった。責めるような目だけ残して。わざわざ楓に言われるまでもなく、だったら何かくらいわかっている。来るな、と言いたいのだ。こいつは。こいつらは。

 私までここを取り上げられなくてもいいのにな、と明後日の思考が冷静だった。

「……点数は覚えてない。覚える気もなかったし」

「うん」

「でも聞いて、どうする訳。こんなどうでもいいこと、くだらないって。他人には関係ないのに首突っ込んできて、ただの自己満足だよ、こんなの」

「うっせぇな」

 恵美だった。

「何でてめーが偉そうにしてんだよ」

 声には苛立ちが募っている。

「くだらねーかどうかなんて知らねーよ。別におめーの勝手なんて聞いてねえし、うちら」

「まあまあメグちゃん抑えて」

「だってうぜーし。何なん、馬鹿にしきってや。だからこんなヤツ呼ばなくて良かったんよ、こんなん頭っから部活に来させなきゃいいだけの話だろ」

「めーぐーちゃんっ、抑えて抑えて。駄目だよー、乱暴なこと言っちゃ」

 どうして、あんなことしたんだっけ。

「あ? 何、そんなんどーでもいいんだよ。気に食わねえのは同じだろ。いい加減にしろや」

「まあ、それはそうでも、でも言葉遣いはね? 気をつけなきゃ」

 いつだったか、私は因果応報と言った。これもそれだ。因果応報、自業自得。でもあと少しだけ、見逃していて欲しかった。ああ、そうだ、順番を間違えたのだ。せめて全部――部活が終わってからなら。けれど、それでは遅すぎる。

「……立場わかってねえんじゃん。そんなヤツに気にする価値あるってか」

「だーかーら、ね? 抑えてって、めぐちゃん」

 いや、これでも遅すぎたのか。最初から。

 無理筋、なんて単語が浮かんだ。

 準備室のドアが開いた。

 入って来たのは川本先生だった。辛うじて、恵美も止まる。後ろには麻由も見えた気がした。先生は、スリッパの音を響かせながら沈黙を切り裂くように歩いて、自分の椅子に座った。それから足を組んで、こちらへ視線を向けた。

「何やってんの、はよ練習行く。あとカエラ、あんたミーティングん時いなかったっしょ。何遅刻してんの」

 誰も、動かない。先生だけが丸椅子を甲高く軋ませていた。

「今、マコちゃんの期末の話、してたんですけど」

 楓がおずおずと言った。

「先生も知ってますよね、何が問題かって。――おかしくないですか。真白と理沙ちゃんは駄目で、マコちゃんは良いって」

「やー先輩、それはまた、ね。あたしがバカなのもありますしそれに」

「黙れ真白」「あ、はい。すみません」有無を言わさず、再び恵美が遮った。

「お前だけ特別扱いなのが気に食わないの、みんな」

 恵美は先生も誰もを無視して、私に向かって来た。ああ殴られるな、と思った。というか、思い出した。身を引きかけて、それだと面白くない気がして、そのまま恵美を見据えることにした。殴られるのを嫌がったところで、どうせここだけで収まる気もしない。

 それよりも、とすら思う。もうなるようになれ、と。

「お前さ、嫌われてる自覚がないんだよ」

 幸か不幸か、それなのに、拳は飛んでこなかった。

「何でこんな話してるかわかんねーんだよな、やけ他人事みたいな顔してられんじゃん。な、やることだけやってくれない? 最低限。そっから先とかやんなくて良いから。知らんけど、うちらのことぐちぐち言ってや、何様のつもりなん。皆からうざがられてるって知らねーの」

 なー聞いてる? 言うこと無いん。恵美は舌打ちをした。次から次へと投げつけられて、唯一、殴りたいとそれだけは明確に意識する。襟は手の届く距離にあったし、私の両手は塞がっていない。

「……じゃあさ、私がごめんって言ったら片付くの。私が謝れば気が済むの」

「は? んなこと言ってんじゃねえよ」

 もう私から言うことはなかった。私は最低限、腕を組んで恵美を見据えた。

「口だけかよ。ホント気持ち悪いわ。いい加減、来ない方が良いって気づけよ。嫌われててよく来れるよな、それも平気な顔して」

 けれど、それはあからさまな挑発で。

 私と恵美の間に手が入った。先生が立ち上がっていた。はいはいはいはい。そう繰り返しながら先生が物理的に、私たちの距離を稼ぐ。

「やめやめ。はい終わり。マコからも話聞いたし、先生方とも話し合った。それでこの話はおしまい。それで、問題って何?」

 もっと、口を開きたかった。なのに先生の手は、私の肩も抑えている。

「そうやってまた庇う。それがおかしいって言ってんの。そいつお気に入りだから? 抜けられたら困るん?」

「マコを特別扱いする気なんてないんだけど」

「してんじゃん」

「してない。アンタもどういうつもりなん。練習行きな」

「でも陽ちゃん、何で。何でこいつは許されるん」

「お終い。この話はこれで終わり。いい? いいね? 練習行き」

 ここで私を責めるのも、お前らの自己満足だろ。

「で、カエラの遅刻の理由は?」

 川本先生は、もう次の話題を楓に振っていた。

「いやあ、寝坊しちゃいましてー……」

「話にならんわ!」

 そう吐き棄てて、恵美は廊下へ出て行く。申し訳なさそうに、理沙が私に視線をくれて、すぐに逸らしていた。

 閉ざした口のまま、どう考えてもこの話はそれで終わりになっていた。それ以外に考えられなかったし、私から蒸し返せもしない。言いたいことは言えないまま、言いたい放題に言われたまま。ずっと前からそうだったけれど、この勝手なやり切れなさについて終ぞ誰も理解しそうになかった。

 音楽室と準備室を隔てるドアが勢いよく開いて、全く場違いなホルンの後輩が飛び込んでくる。いつの間にか、音楽室は雑多な音色で賑やかになっていた。

 もう、私も、萎れるしかなかった。私は、先生の手をゆっくりと離した。

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