/5.

 その朝の部活に、美果はいなかった。いつものこと。

 だいたい、三年の出席率が悪い。三年で来ているのは私を含めて数人だけで、当然、私は黙々と練習するしかなかった。私は、他の中学と合同でやったときの練習で貰った、紙の違う基礎練の楽譜まで、基礎練一式をひと通りやった。ロングトーンに運指。ひとつひとつを丁寧に。

 それだけで朝の時間は過ぎてしまう。ある意味、贅沢な時間の使い方だ。朝も午後も全て部活に充てるぶん、今日から朝部で曲練はしないと決めていた。

 他人より早く片付けを始めて、他人より遅く片付けが終わる。自前の楽器である以上、学校の楽器と同列には扱えない。音に影響しないとはいえ、銀が黒ずむのを看過出来る程、無神経ではいられないからだ。――それでも、三年間も吹き続けていれば、幾ら毎日クロスで磨いても、キーの周りの複雑な構造の辺りや磨き方が疎かになりがちな足部管は黒ずんでいる。

 部活を終えて三年B組の教室に入ると、音楽室とは質の違う視線がぶつけられる。

 ――音楽室でも、視線は確かにあった。しかし、それはもっと遠く、散発的で、何より奥底には優しさに似た遠慮があった。

 挨拶もなしに、私は席に着く。

 ここでぶつけられる、ぶしつけなそれと音楽室のそれとは、含まれている質が根本から違う。

 いや、ぶしつけとするのは間違っているかもしれない。教室でクラスメイトから向けられるそれは、有体にいって敵意、無遠慮な不信そのものの目付きだ。障らないようにしよう、という忌避にも近い。

 しかも、これで最近まで薄まっていた方なのだから、今更こんな視線をぶつけられても、当の私は慣れきっていた。最早そこに何ら価値を見出せる私ではいられなかった。……いちいち相手をしている方が疲れると知っている。黙っていれば、乱されない。乱さない代わりに、乱されない。音楽室とは違う。あそこは逆だ。黙っていない方が、素直に歓迎される。参加することに意義がある、なんていうけれど、こと同級生の教室では全く通用しない。やはり逆だ。

 紺のブックカバーを掛けた文庫本を広げて、両隣と前の席を待つ。

 そこそこ分厚いその本の終盤に、栞は挟まっていた。

 それは、天使の物語だった。或いは、悪魔の。


 ……青年は、捕まえた天使の姿を一寸刻みにしていく。爪を剥ぎ指を折り腕を捥いだ後、血染めの羽を、鋸で根元から切断する。青年のけたたましい笑い声と、天使の甲高い絶叫。翼を失った天使の声色は、地響きのような野太い声へと変化して、やがて絶命してしまう。その遺骸をかき抱く青年の背を、黒い翼が突き破る。彼の意識は徐々に薄れていく。混濁する視界に映った最後のそれは、顔の皮膚が剥がれ落ち真っ赤に微笑む悪魔の遺骸だった……。


 ――人殺しの、お話。血も内臓も脳漿も、好きなだけ飛び散る類いの。美果も楽しみにしているから、早く読み切って貸してあげないと。

 共有出来るのも、今や美果だけだ。

 いよいよ残るページも少なくなったところで、私の前の席へ勢いよく鞄が置かれた。喧しい音と共に椅子が引かれる。ひと際小柄で少々ずんぐりとした女子が、何の気兼ねもなく椅子に座った。というより、椅子の上へ身体が落下した。

 別段、不機嫌という訳ではない。少々ぶっきらぼうで、傍若無人なだけ。

「……おはよう、双葉。遅刻寸前だね」

 私にとって唯一の、友人としての幼馴染は、今日も汗だくで半分のびていた。

「間ぁに合ったー、あっつ、死ぬ、今度こそ無理やと思ったでー……」

 双葉は、息も絶え絶えになりながら、顔を両手で扇ぐ。そのまま背もたれからのけぞって私の方を向いた。短い髪が汗に濡れて、幾らか纏まっている。

「宿題やってたー……さっきまで。あっつ……間に合ったわ、何とか……」

 これで制汗剤の類を一切使わないのだから大したものだ。もう少し淑やかでもバチは当たらないと思う。

「五分よ、五分。チャリぶっ飛ばしてきたわー……あかん、しんどい、あぁー……」

 時計を見れば、もうすぐ八時十五分。本当の本当にギリギリだ。

「まあ、遅刻ではないね」

「それ嫌味やろ」

「いや、全然」

「やー、嫌味やろ。朝来いって嫌味やろ。知ってるで。朝練来いって嫌味やろ。私にはわかる」

 否定はしてみたけれど、本音はそうだ。

「知ってるわー……私だって朝起きれたら行くて。宿題大変なんやけーな」

 宿題なんかやってるからだと言いたい。副部長の出席率が悪くてどうする。部長だって来ていないけれど、だからこそ余計に、双葉が来るべきだと思う。

 チャイムが鳴った。クラス中が、めいめい席に着き始める。先生はまだ来ない。両隣の席も空きっぱなしだ。

「そいや真琴、昨日塾に来んかったな」

「うん」

「サボりやん」

「双葉と同列にされたくはないけど」

「サボりやん!」

 仕方なく、私は本を閉じて両手を挙げてみせる。

「昨日のから、私、塾行かないことにした」

 勢い、栞を挟み忘れたことに気づく。そもそも、昨日のあれでは塾に行けそうな雰囲気でもなかったけれど。

「は」

「だから、もう行かないかな。でも――」

「いやいやいや。行かない? つまりあれだ、辞めるってこと?」

 のけぞったままでは辛かったのか、双葉は本格的にこちらを振り向いて、背もたれにへばりつく。

「何やらん気出してるんよ。今辞めるって本気で言ってる?」

「――待って、話聞いて。今は行かないだけだよ。コンクールが終わったら、また考えるから」

 もちろん、行くとは言わない。コンクールが終わろうが夏休みが終わろうが、塾には恐らく行かないままだろうから。けれど、ひとまず今だけは行かないと言っておかなければ、この場が収まりそうにない。

「つまり夏休み半分来ない気じゃんかー。じゃあ何なん、夏期講習も来ないん」

「それ、コンクール前にあるやつだよね」

「じゃあウチだけあの夏期講習やれってことですか。ああそうですかー」

 双葉は不服そうに口を尖らせて私を睨む。双葉の気持ちも、わからないでもない。

 うちの塾の夏季講習は毎年、無駄に気合が入り過ぎている。休みだから時間もあろうと、午後いっぱいを塾の教室に閉じ込められて、大量の宿題が出される。気が滅入らない方がおかしい。希望者には合宿まで用意されている。やっていることは正しくても、そこまでやるか、普通。

「ごめんね、私は行かないし」

「あ、わかった。それ余裕だろ、夏やんなくても間に合うって思ってんだろ。調子乗ってっといつか痛い目見るで……」

「別に余裕なんて」

 私には余裕すら要らないのだから。双葉のように必死になって勉強する気にはならない。

「模試の点が良かったからって本番取れるとは限らんのやで。落ちても知らんぞー私は」

「落ちないよ、まさか――」白瀬だし、と付け加えさせてはくれなかった。「舐めとんやろ、それ。自分は落ちないって。そんなんやって後で泣いても、どーにもならんのやからな……」

 教室の前の戸が開く。大柄で色黒の、男の先生が大股で入ってきた。教室中の騒めきが、火を消したように止む。担任の寒川先生。一瞬だけ私の方を見た気がした。

「はー、何なん、何なんよ、それ。……あー……暑い……」

 寒川先生が黒板の前に立つ。朝のホームルームが始まろうとしている。取りつく島もないといわんばかりに、双葉は渋々と前へ向き直った。

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