第十六葉 非常勤講師 

 望月うさぎは、招かれて八橋大学の非常勤講師控え室に一人佇んでいた。隣接するテニスコートからはテンポの良い球打音が響き、白い影が躍る様子まで目に浮かんだ。しばらくして、控え室のドアが開いた。

「望月さんですね、大変お待たせいたしました。学科長の冬頭です。」

「望月です。初めまして。」

冬頭は、望月の顔を見てにこにこしながら着座を勧めた。

「望月さんのことは、湯玲涼先生から伺っております。」

「タン師から・・・・・・。タン師をご存じなのですか?」

「とても古いおつきあいですよ。かれこれ千年以上の・・・・・・。」

望月がとても驚いた様子であったため、冬頭は声を出して笑った。

「いや、もちろん、冗談ですけどね。なるほど、その湯先生があなたを本学の非常勤講師にと推薦された理由が、いま分かりました。」 

「私には、何のことだか・・・・・・」

「ええ、それでよいのです。事前にお話したとおり、ご担当いただきたい教科は、老人福祉論です。と言っても、お話いただく中身は、教科名にこだわることはありません。あなたが学生に話したいと思うことを、自由に話していただいて結構です。」

「そのようにおっしゃられても、私にはとても過分なことで、なんと言って良いか・・・・・・。」

「いえ、それでよいのです。すべての責任はこの冬頭が負います。実は、この科目は、専門職教育のコースからはずれた一般教養の科目なのです。専門職の受験資格に関わる必須科目であれば、内容についていろいろ条件が厳しいのですが、こちらの老人福祉論は工学や医学などの異分野の学生も受けますし、生涯教育の一環で年配の方も数名受講されます。だから、自由に語って頂いてよいのです。それから・・・・・・、」

冬頭は周囲に誰もいないことを確認した上で、話を続けた。

「・・・・・・、本音を言えば、今の国が定めた専門職教育の内容が、どうも良くありません。そのことを苦々しく思っている教育関係者は大勢います。しかし、こればかりは、国が決めたことに従わなければいけません。全く同じ科目名で別立てしたのは、密かなプロテストでもあるのです。本当にやらなければならないのは、こういう教育だというものを、対抗軸として示したいわけです。」

望月は、ますます尻込みをした。

「そのお話をうかがって、私ではいよいよ役不足であると感じます。なぜ、私なのでしょう?」

「それは、あなたがゆるゆる道場で学ばれた方だからです。」

「ゆ、ゆるゆる道場のことまでご存じなのですか? そのような秘密までご存じとは、あなたは一体・・・・・・?」

「ですから、湯先生の古い友人です。ただ、このことは、誰にも話していません。本学の誰も、湯先生の名前すら知らないのです。いまお話したことは、あなたと私だけの秘密ですよ。」

冬頭は、いたずらっぽく微笑んだ。望月は、しばらく考え込んだ末に、着任を決めた。

「ただ、ひとつだけお願いがあります。」

「なんでしょう、望月さん?」

「科目の名称ですが、可能であれば、高齢者福祉論に変えてもらえないでしょうか?」

「ほう、それはまたどうして?」

「はい、海外では、老人を意味するエルダリー(elderly)という言葉には差別的な響きがあるとして、単に年齢の高いことのみを意味するエイジド(aged)に置き換える流れがあると思います。これに合わせ、私が担当する科目も、老人ではなく、高齢者と表現したいのです。」

「なるほど、そういうことでしたら、幸い今からでも間に合います。教科名のあり方も含めて、対抗軸として示せますね。なお良いことだと思います。これは、おもしろくなってきました。」

冬頭は、そう言って機嫌よさそうに笑った。

 簡単に打ち合わせを済ませた後、望月は大学を離れた。冬頭は、学科棟の正面玄関から望月を見送った。

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