第六葉 人間の尊厳
「そうでしたか。雨の日は建物の中ということですが、どんなところで雨宿りなさるんですか?」
「あまり大きな声では言えませんが、書店の休憩コーナーにいます。いすに腰かけてじっとしています。このあたりで、一番遅くまで居られるので・・・・・・。」
「なるほど、書店ならば暖房が効いていますしねぇ・・・・・・。でも、その後はどうなさるんですか?」
「閉店時間に出て、それからだいたい朝まで歩きます。」
「えっ? 朝までですか? 夜は眠らないんですか?」
「はい、夜は冷えますので、眠ったら確実に死にます。歩き続ければ身体が温まるので、ひたすら歩いています。」
「それは、大変なことですね。膝も痛いのに・・・・・・。」
「仕方ありません。それ以外に方法がないので・・・・・・。」
「雨や雪の夜はどうするのですか?」
「なるべく濡れないように軒下を探して、そこで身体を動かし続けます。眠らないように、眠らないように・・・・・・。」
「すると、いつ寝ているのですか?」
「恥ずかしながら、書店のいすに腰かけて、仮眠をとります。」
「横になって寝るということはないのですか?」
「はい、ちょっと、ないです。」
「それは、聴けば聴くほど大変な状況ですねぇ・・・・・・。横になって寝たいと思われることはありませんか?」
「それは、当然あります。でも、今は冬なので、死んでしまうので・・・・・・。」
田原の言葉遣いはとても丁寧であり、かつ論理的であった。ときどき自信がなさそうにおびえたり、同じことを繰り返し話すので誤解を招くが、知的にはかなり高度な能力を秘めているように思われた。
「ところで、田原さん、・・・・・・、」
「はい。」
「生存権という言葉はご存じでしょうか?」
里山の突然の問いかけに、田原は表情ひとつ崩さず、淡々と答えた。
「はい、憲法で保障された基本的人権であると思います。」
「まさに、そのとおりです。憲法では、健康で文化的な最低限度の生活を保障すると定められており、生活保護という制度を利用できるようになっています。生活保護を利用するためには、役場の窓口で手続きをとる必要があるのですが、それはなさいましたか?」
「いえ、しておりません。」
「役場へは、一度も行っておられないのですか?」
「いえ、三度ほど行きました・・・・・・、三度行きました。」
「その時には、生活保護について相談されたのですか?」
「はい、相談しました。」
「でも、認められなかった?」
「はい。」
「なぜ、認められなかったのでしょうか?」
「決まった住所のない者は生活保護を受けられないと言われました。」
「三度とも?」
「はい。」
「そうですか・・・・・・、そういうことがあったのですねぇ・・・・・・。」
里山は、面接室の白い天井をじっと見つめた。
「ところで、田原さん、・・・・・・。」
「はい。」
「もし、生活保護を受けることができて、住む場所が見つかって、食べることや寝ることに困らなくなったら、どうしたいですか?」
「え?」
「いえ、仮の話ですが・・・・・・。あまり、想像できませんか?」
「恥ずかしながら、自分はまだ若いので、働かせてもらえるところがあれば働きたいです。」
「そうですか。いままで、なにかお仕事の経験はありますか?」
「大学のとき、アルバイトをしていた程度です。」
「そうですか、大学を出られたのですね。」
「いえ、途中で退学しました。」
「そうだったのですか。」
「精神の病気で、続けられなくなりました。」
「そうでしたか。そのご病気は治られたのですか?」
「治ったというか・・・・・・、通院しなくなりました。」
「もう何年も?」
「はい。」
「そうでしたか・・・・・・。」
「自分のようなダメ人間は、生活保護を受けてはいけないのだと思います。家族にも迷惑をかけ、他人にも迷惑をかけ、生きている価値のない人間です・・・・・・。」
「ご家族に、何か迷惑を?」
「・・・・・・。」
「・・・・・・、そうですか・・・・・・。」
里山は、しばらく自分の手のひらを見るともなく見ていた。静かに、時は流れた。
「さきほど、仮のお話をしましたが・・・・・・、」
「・・・・・・、はい。」
「これは、わたしの考えですが、わたしといっしょに、もう一度役場に行きませんか?」
田原は、顔を上げて里山を見つめた。
「住所が定まっていない人は生活保護を受けることができないと役場で言われたそうですが、それは役場の窓口の人が勘違いをしているのだと思います。生活保護は、住所が定まっていなくても受けることができます。わたしから役場の人に、そのように言ってみます。もし、それでもダメだと言われるようであれば、良心的な弁護士さんを知っていますので、弁護士さんを通じてあらためて役場に問い合わせることもできます。無事生活保護が認められれば、住むところができて、寒さや餓えでつらい思いをしなくても済むようになります。安心して横になって寝ることもできるようになります。痛い膝の治療もできます。住所が定まれば、仕事を探すのがずっと容易になります。住所のない人を雇ってくれるところは、そうはありませんから・・・・・・。うまくご自分に合う仕事が見つかって、安定した収入が得られるようになれば、そのときは生活保護を卒業することができるかもしれません。生活保護は、そういうときに使う制度です。なにも、後ろめたいことはありませんよ。」
「役場は、認めてくれるでしょうか・・・・・・。」
里山は、田原を見つめ返した。
「認めていただけるように、できるだけのことはいたします。」
里山は、布施川を呼び、面接の終了を伝えた。布施川は、後学のために自分も役場に同行したいと申し出た。当日は、病院の車で田原を役場まで送るとまで申し出てくれた。
「病院の事務長さんは、許可してくれますか?」
「そのくらいのことはさせていただきます。必ず許可を取ります。」
田原は、能面がほどけ落ちたかのように表情をゆるめた。その瞬間、せき止めるものを失い、涙が両頬を伝った。
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