第五葉 いのちの住み処

「月影さん、初体験のコーヒーのお味はいかがでしたか?」

「はい、正直なところ、よく分かりませんでした。」

「そうですか。まぁ、繰り返し飲んでいるうちに、だんだん良さが分かってくると思います。たんさんとぴょんさんにも、お顔当番の日には公平に差し上げましょう。」


 里山がコーヒーカップを片付けようとしたそのとき、電話が鳴った。

「いよいよ初仕事でしょうか・・・・・・。」

里山は目配せをして受話器をとった。

「はい、里山ケアマネジメントです。」


 依頼主は、布施川と名乗る病院の相談員だった。身なりの貧しい若者が、夜な夜な病院の裏玄関から中に入ろうとするので困っているという。身の上を聞くと、父親は既に他界、母親は脳卒中で倒れて半身に麻痺が残り、一時依頼主の病院に入院していたが、現在は転院先の病院で療養中であるという。兄弟が一人いるものの、一家離散の状態で、関係は完全に途絶えているらしい。

「ときには日中にも病院に現れるのですが、異臭がひどくて、外来の患者さんから苦情が殺到して困っているのです。」

里山の顔が曇った。

「なるほど、それはお困りですね。ところで、ご本人にお会いすることはできますか?」

「それが、いまは定住先がないらしく、すぐには連絡がとれません。今度病院に現れたときに、里山さんに会うことを勧め、ご指定の日時に病院に来るように言いましょうか?」

「わかりました。ご本人への連絡は委細お任せいたします。ところで・・・・・・、」

里山は、窓の外に目をやった。

「この雪の中、いったいどこで寝泊まりしているのでしょう・・・・・・。食事もどうしているのか心配ですね。生活保護については相談しておられますか?」

「はい、本人によると、何度か市役所に行ったらしいのですが、門前払いだったそうです。自分も、事実確認を兼ねて担当課の職員に連絡をとったのですが、やはり保護は認められないという返答でした。」

「そうでしたか・・・・・・。認められない理由が、もし定住先がないからということであれば、制度上は定住先がなくても保護を受けることができますので、窓口の方の

誤解があるのかもしれませんね。まぁ、詳細はご本人とお会いしたときにうかがうことといたします。」

里山と月影は、コーヒーカップを放り出したまま、しばらくの間、黙って窓の外を見ていた。


 それから数日後、布施川からの連絡を受けて、里山は病院に出向いた。午後の外来は既に終了し、受付の窓口は閉まっていた。通された面接室には、息が詰まるような匂いが充満し、泥を塗り込んだような皮膚をした、ところどころ擦り切れた衣服を身に纏った若者が、うつむいて座っていた。


 若者は、名を田原篤といった。

「はじめまして、福祉の相談員をしているもので、里山と申します。」

里山は、田原に名刺を差し出した。

「あ、・・・・・・、」

田原は、一瞬凍り付いたように身を固くした。

「この度は、こちらの病院の相談員の方からご依頼があり、参りました。」

田原は、おびえた目で里山を一瞥し、すぐに下を向いた。

「そ、それは、どうも・・・・・・。」

「今日は、ここまでどうやって来られたのですか? 歩いて来られたのですか?」

「はい、歩いて来ました。」

「そうでしたか。それは、ご足労をおかけしました。いま、お身体でつらいところはありませんか? もし横になった方がよろしければ、病院の方にお願いしますが・・・・・・。」

「い、いえ、何もつらいことはありません。このままで結構です。」

「そうですか。あの、普段の生活で、どこか痛かったり、つらかったりするような症状はありますか?」

「いえ、特にはありません。恥ずかしながら、ちょっと膝が痛い程度です。」

「膝ですか? 右左両方ともですか?」

「いえ、左だけです。よく歩くものですから、ちょっと無理がかかったのだと思います。」

「そうでしたか。放っておくと、だんだんひどくなるかもしれませんし、左をかばっているうちに、今度は右膝まで痛くなるということがよくありますので、早めにお医者さんに診てもらった方がよいですねぇ。どこか、かかりつけにしているお医者さんはありますか?」

「いえ、恥ずかしながら、医者にかかるということは、もう何年もありません。」

「そうですか。さきほど、ずいぶん歩かれるというお話がありましたが、どのくらい歩かれるのですか?」

「はい、その日の天候にもよりますが、雨や雪の日は濡れてはいけないので、建物の中でじっとして過ごす時間が長いです。晴れているときは、その・・・・・・。」

田原は、一瞬口ごもった。

「・・・・・・恥ずかしながら、自分はお金を持たないので、食べるものがあるところを探して歩いています。」







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