第七葉 判例
市庁舎は、数年前に建て替えられたばかりの斬新な意匠で、一面ガラス張りの広々としたエントランスは、近代公共建築物のデザイン部門で特選に選ばれるほど芸術的評価が高かった。吹き抜けの先にもガラス張りの天井があり、青空に映えた綿雲を浮かせていた。その綿雲が、ゆっくりと時を刻む様を見上げながら、里山と月影は、田原らの到着を待っていた。
「月影さん、・・・・・・。」
「はい。」
「これからお会いするのは、役場で生活保護を担当している人です。」
「はい。」
「生活保護というのは、生活に困った人を助ける制度です。生活に困った人は、市町村の窓口に行って助けを求めれば、必要最低限の助けを受けることができます。それだけではなく、窓口に来ない人であっても、生活に困っている人を見つけたら、その人を助けなければならないと決められています。」
「田原さんは生活に困っておられるので、まさに生活保護を受けるべき人だということですね。」
「はい、そういうことになります。ところが、実際には、生活に困った人が助けを求めに来ても、田原さんのように追い返されるのが当たり前になってしまっています。ましてや、窓口まで来ない人は、来ないのをよいことに、放っておかれたままになっています。」
「なぜ、助けないのでしょうか? 助ける決まりなのに・・・・・・。」
「そこが、問題なのです。タン師が折に触れておっしゃっていた人間社会の闇がどれほど深いものであるか、あなたはこれから、その耳と目でよく確かめてください。」
「承知しました。心して臨みます。」
「おや、この臭いは、田原さんが到着したようですね。」
「振り返ると、地下の駐車場から続く階段を、布施川に付き添われて上ってくる田原の姿が見えた。
「どうも、お待たせしてしまって・・・・・・。」
「もしかして、エレベーターはお好きではないのですか?」
「はい、いつも階段を使います。」
「やっぱりそうですか・・・・・・。ところで、事務長さんは、車を出しても良いと言われたのですね。」
「はい、言わせました。」
布施川は愉快そうに笑った。
「田原さん、この場所は久しぶりですか?」
「はい。」
「そうですか。でも、今日は、これまでとはちょっと違いますよ。さぁ、参りましょう。」
生活保護の窓口は、ガラス張りのエントランスから続く巾二十メートルもあろうかという大階段を上った先にあった。四人は、その大階段をゆっくりと上り始めた。田原の風体と異臭に気づいた庁舎の来訪者たちは、左右に急ぎ分かれて四人に道を譲った。
「さて、到着しましたよ。」
四人に気づいた若い職員が窓口まで出てきた。
「はい、どうされましたか?」
里山は、深々と頭を下げた。
「お電話で相談の予約をさせていただいた者で、里山ケアマネジメントの里山と申します。本日は、田原さんご本人といっしょに参らせていただきました。」
「そうですか、先日電話で応対をした者から伺っておりました。さぁ、皆さんどうぞ、椅子に腰かけてください。」
四人は、相談窓口のカウンター前に、横一列に並んだ。職員は、自らは名前を名乗らず、胸に下げた名札も、カウンターの陰に隠れて見えなかった。
「ええっと、お電話では、なにか生活にお困りであるというご相談だったようですが・・・・・・。」
「はい、この度は、具体的に生活保護の申請を希望いたしますので、その手続きをお願いできればと思います。」
「生活保護ですね。でも、田原さんは、これまでにも何度かこちらに来ておられるようですが、その時にもご説明したとおり、生活保護は当市に住所地を持つ人でなければ申請をお受けすることはできません。今は、ご住所をどこかに定められていますか?」
「いえ、田原さんは、生活実態としては、いわゆる路上生活となっています。もともとお住まいであったのは御市内の住所地ですが、今は他人の手に渡っています。住民票上はその住所のままですが、実態は住所不定です。」
「そうですか。そうなると、当市で申請を受け付けることはできないですねぇ。なんとか、先に住所地を確定される方法をお考えになられてはどうでしょうか?」
「そのことなのですが、これまでに、田原さんご本人のご記憶によれば、三度この窓口に生活保護の相談に来られて、その度にいまと同様のご説明を受けておられるようです。」
「まぁ、生活に困ったというご相談ですね。面接記録がここにありますが、確かに三度いらっしゃっています。」
「当方の理解が間違っていなければ、なのですが、生活保護は住所地が特定していなくても受給できます。これは、その事で争った過去の裁判事例の判決の要旨ですが、本件においても同様に要保護状態が認められ、具体的な請求権が発生しているものと思われますが、いかがでしょうか? 法解釈についてあらためてご確認をいただきたいのですが・・・・・・。」
里山は、判決文の写しを差し出した。若い職員は、それを受け取ると、一行も目を通すことなく奥に引っ込み、上司にそのまま手渡した。上司は、ときどき里山たちをちらりと見ては、小声で若い職員に指示らしいものを出しはじめた。そのうち、他の職員らも話に加わりだし、小さな人だまりができた。
「里山さん、彼らは何を話しているのでしょう?」
「そうですね、おそらく・・・・・・、」
里山は、三人の方を向いて言った。
「・・・・・・、彼らは、はじめから知っていたようです。法的には、申請があれば、路上生活者からの申請であっても、それを受け付ける義務が彼らに発生するということを・・・・・・。」
「じゃぁ、田原さんやわたしは、役場にだまされていたということですか? わたしから問い合わせたときも、住所が特定されなければ申請できないとはっきり言われましたよ。生活保護の窓口が人をだますとは、なんてことだっ!」
その声が聞こえたのか、先ほどの若い職員がそそくさと戻ってきた。
「どうも、お待たせしてしまって申しわけありません。いま、上の者に伝えて指示を待っているところです。もう少し時間がかかるかもしれませんが、ほんとに申しわけありません。」
「いえいえ、こちらこそお手数をおかけいたします。あと、どのくらい時間がかかりそうでしょうか?」
「それが、ちょっと、あまり例のないことなので、なんとも言えません。申しわけありません。」
「では、もし差し支えなければ、プライバシーに関わるお話になると思いますので、奥の面接室が空いているようでしたら、使わせてもらえないでしょうか。窓口に四人も座っていたら、他の方にご迷惑でしょうし・・・・・・。」
「あ、それは可能だと思います。少々お待ちください。」
そう言って、若い職員は再び人だまりの中に消えた。里山は顔を上げた。
「あぁ、ここからも雲が見えますねぇ。ほら、・・・・・・。」
四人は、ぼんやりと雲を見上げながら次の知らせを待った。
「ところで、田原さん、・・・・・・、」
「は、はい・・・・・・。」
「先日お会いしたときに、自分には生活保護を受ける資格がない、とおっしゃっていましたね。そして、働けるものであれば働きたいともおっしゃいました。そのお気持ちは、今でも変わりませんか?」
「はい、変わりません。」
「そうですか、おそらく、ですが・・・・・・、」
里山は、田原を見つめた。
「もうしばらくしたら、役場の人が、田原さんに、こんな質問をすると思います。ひとつは、生活保護を受ける意思があるか、もうひとつは、働く意思があるか。」
「はい。」
「この質問には、われわれは代わって答えることができません。ご自身しか、答えることができないのです。あなたは、どうお答えになりますか?」
田原は、うつむいて黙り込んだ。カウンターをゆっくりと滑っていた雲の陰が、音もなく床に落ちていった。
「僕は、・・・・・・、」
田原が言葉を発した次の瞬間、奥から声が届いた。
「面接室の準備ができました。どうぞ、こちらからお入りください。」
四人は、カウンターの奥に移動し、面接室へと通された。それからさらに小一時間が経過し、ようやく面接室の扉が開いた。
「いや、大変お待たせしてしまって・・・・・・。」
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