第二葉 ゆるゆる道場の秘密

 たぬきは、女に導かれて正門をくぐった。その瞬間、結界を越えたような衝撃とともに、全身の力が急激に奪われていくのを感じた。

「なんだ、この脱力感は!」

 それは、たぬきがこれまでに体験したことのない感覚だった。この世のありとあらゆる苦しみや悲しみ、怒りの力がすべて抜き去られ、ただうれしく、ただ幸せだった。前脚も後脚も、臓器という臓器もがみな解放され、弛緩した。たぬきは、重力すら定かに感じなくなった意識のなかで、歓喜の涙を流しながら、導かれるままに奥へ奥へと進んだ。


 たぬきが通されたのは、板敷きの古武道場のような空間だった。待っていたのは、意外にも小柄な、やや年配の人の姿をした女であった。

「ようこそ、ようこそ・・・・・・。わたしは、この道場の師範、タン・リンランといいます。」

タン・リンランと名乗る女は、気さくに話しかけた。たぬきは感極まり、言葉に詰まった。

「たぬきさん、無理にお話にならなくても結構です。わたしには、すべて分かります。」

「神だ!」

と、たぬきは思った。しかし、タン師はそれをきっぱりと否定した。

「いま、あなたは、わたしのことを神だと思いましたね。でも、それは違います。」

では、何者なのか・・・・・・。タン師は、その質問に答えぬまま、こう続けた。

「あなたをここに導いた望庵の庵主は、あなたと同じく、元は人間でした。いまは再び人の形をまとい、わたしを手伝ってくれています。」

 タン師の見る先に、一匹のうさぎが座っていた。

「名乗り遅れました失礼をお許しください。わたくしはあなた様と同じく、師に救われた者で、人世の名を望月うさぎと申します。」

「さて、・・・・・・、」

タン師は続けた。

「あなたの体験したとおり、人世は矛盾と混乱に満ちています。人々は言の葉を詐用し、一時の欲を満たすことばかり考え、自らの至宝を永久に手放そうとしています。そこで、あなたにはいま一度人の形をまとい、よこしまなる力をなぎ、あるべき道を照らす光となっていただきたい。」

タン師は、深いまなざしでたぬきを見つめた。たぬきはうつむき、苦しみながら、絞り出すように言葉を発した。

「師のご賢察どおり、わたくしはかつて人間でした。しかし、いまとなっては、人間に戻ることも、人間の世をよりよきものに変えることも、もはや望んではおりません。わたくしには、何が正しくて何が間違っているのか、判別がつかないのです。」

「あなたは、ここに来て、もう気づいたはずです。人世の正しさなど、所詮はまやかし。あるべき道はただひとつです。」

「たとえそうでありましても・・・・・・」

たぬきは続けた。

「・・・・・・、わたくしごときにできる業ではありません。わたくしは、自らの力のなさを嘆き、呪い、知らぬ間に人たるを捨て、たぬきに成り果てた者でございます。」

「そう、それこそが、あなたにお願いしたい理由なのです。」

「え?」

たぬきは、おもわずタン師を仰ぎ見た。

「あなたが、どれほど迷い、悲しみ、苦しんだが、そしてどれほど深く傷つき、倒れたのかをわたしは知っています。あなたは、傷つく者の深い痛みが分かります。これは、あなたに与えられた役目なのです。」

 たぬきには、もはや拒むことができなかった。目の前の圧倒的な存在は、言葉に一点の疑いも、選択の余地も与えなかった。これが、運命というものだろうか、と、たぬきは悟った。

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