第8幕 Orangerie
黒田は朝からとあるオーダーのため、朝早くに仕事を始めていた。既に仕事自体は大方終わっており、綴はその傍ら通常業務をこなしていた。
「結婚式のブーケを、どうしても俺に作ってほしいと言われてね」
「そういう依頼も受け付けてるんですね。なんというか、意外です」
「普段なら受け付けないんだけれど、随分粘られてしまってね」
黒田はあまり気乗りしない様子だったが、相変わらず彼の作るブーケは非の打ち所がない、完成された美しさだ。花嫁にはこれ以上ない贈り物だろう。
白とオレンジ色を基調としたブーケは、品がありながらも深みがあり、人の目を惹く。控えめに覗く葉も、切り花でありながら強い生命力を感じさせる。彼の手にかかれば、生の切り花でさえも永遠に枯れないのではないかと錯覚してしまう。
いつのことだったか、常連の客が彼のことを魔法使いのようだと形容したが、彼の仕事ぶりを間近で見れば見る程、綴もまたそんな想いに囚われたのだった。
「綺麗ですね……って、半分くらい猛毒ですけど大丈夫なんですか、これ。結婚式で問題が起きるんじゃ…」
自分の知識で確認できるだけでも、使われている花の種類は多岐に渡るが、スズランとカラー、特にこの二つは厄介だ。スズランは以前黒田に教わった通り、毒が水に溶ける上、致死量も僅かだ。カラー、別名オランダカイウは口に含むと激しい痛みに襲われると図鑑で学んだ。
綴が不安のあまり花と黒田を交互に見やると、くっく、と黒田が肩を震わせ笑い出した。
「俺が何か仕込んでるとでも思ったのかい?」
はい、とは言えずに曖昧に返事を濁す。先日の一見で、つい黒田のことを
「大丈夫だよ、むしろこの辺りのラインナップはよくブーケに使われているものだ。まあ、これが献花になるのなら俺としては本望だけれどね。”御覧なさい、あの通り、花の姿をそのままに、死神の手に摘まれてしまったのです”…ってね。とても素敵だ」
どうやらその言葉は皮肉などではないらしい。彼の穏やかな表情を鑑みるに、彼が本気でそう感じていることが伺える。
黒田の器用な指が、ぎっしりと詰まった花の間を縫って、乾いた輪切りのオレンジの果実を差し込む。
こうして見ると、ブーケというよりも腕利きの職人が作ったパフェのようだ。
黒田の作るブーケは、どこか不思議と人の目を奪う。いつも出勤前に目にする、いくつかの花屋が作る花束とは一線を画していると言ってもいい。
珍しい花が使われているという理由だけではない。ただ煌びやかなのではなく、一つ一つの花が持つ魅力全てがそこに生きているのだ。その花の伝承が持つ光も闇も、善も悪も、その存在として生かされ、棘でさえもが美しい。
むしろ、毒や棘を失った花には何かが足りないと綴は感じるようになっていた。例えるならば、家で飼われるために、人間の都合で爪を抜かれた猫を見るような、哀れな心持になるのだ。今となって、綴は「棘のない薔薇や毒のない水仙は味気ない」という黒田の言葉の意味を理解し、賛同することができた。
「しかし、なんでまたこんな時期に結婚式を…?」
「ジューンブライドだろうね。この時期はそれにあやかって結婚式を挙げる人も多い。お陰様で花の需要は上々。花屋にとっては有難い話だ」
「なるほど…でもあれって海外の話ですよね?日本じゃ思いっきり梅雨時なのに」
「本当にね」
結婚。そうとなれば嬉々としてこの話題を聞かなければならないのだろうが、自分の心が浮かない。どうしても、六法の裏に載っていた離婚率の統計が頭を離れないのだ。
「…黒田さんって、結婚についてどう思いますか」
黒田が顔を上げ、綴の瞳を見据える。黒田は人と何かを話す時、決まって相手の瞳をじっと見る。そして、ふっと微笑む。
「結婚などというものはこの世から消えて無くなってしまえ、なぜわざわざ罪ふかい人間を産みたがる、かな。…改めて言っておくがこのブーケで人を殺そうとは思ってないよ。というか、君、
「あはは…」
「で、君はどう思う?」
「…いつかはすると思います。というより、結婚しなくてはいけないのかなと。一人息子ですし」
両親や祖父母の姿が目に浮かぶ。そういえば、孫の顔が見たいというのも母の口癖だった。
「しなくてはいけない、か。それは実に良くない感覚だ。以前にも言ったが、君はもう少し自分の内側の声を聴くことに慣れる必要があるね」
黒田が指先で顎をさすりながら、そう呟いた。
「でも、結婚は子供として、親に対する義務だと僕は思うんですが…」
「義務?まさか!子供が親に対して責務を負うことなんてあるものか。綴、そんなことはどうだっていいんだ。俺は君がどう思うかを聞いているんだよ」
「いや、結婚というもの自体に興味はあるし、それは僕自身の希望でもあるんです」
「君はそれを自分の意思であると信じているようだが、俺はそれを信じない。…何れ君が君自身を受け取ることができるようになることを祈っているよ。何事も思想である限り、罰される謂れはないのだから」
黒田の声に、少しばかり熱がこもる。彼の感情が揺らぎ、情熱的になるのを初めて見た気がする。もう少し、彼と何か思考し、話し合ってみたくなる。
ある物事について深く考え、分析し、意見を交わすこと。綴は密かにそういうことを楽しみとしていたが、今まではそれに共感する人がいなかった。いつかは、本気で自分の思考を、感情を、経験をぶつけてみたいと思う。黒田なら、それを受け止めてくれるのではないかという期待が膨らむ。
とはいえ、一体彼の思考にどこまで踏み込んでいいのかが分からない。綴が逡巡し口を開くより先に、黒田が口を開いた。
「さて、今日の仕事は済んだことだし。君にも朗報だ」
「朗報?」
綴はその意味を飲み込めず、首を傾げた。
「大丈夫ですか、黒田さん」
返事はない。ただの屍のようだ。運転している大庭の隣で、綴は後部座席にいる黒田を振り返る。
「大丈夫、黒田くんいつもあれだから」
黒田は座席に寝そべりハンカチで顔を覆っていた。そこそこ大きな車なのだが、人一倍背の高い彼には狭すぎるのだろう。脚を折り畳んで窮屈そうにしている。原因はただの車酔いらしいのだが、大病を患って救急搬送される病人にしか見えない。まるで付き添い人のようにマダムが黒田の顔のそばに寄り添っている。
本当に大丈夫なのだろうか。
「黒田さんが弱ることなんてあるんですね」
「しょっちゅうだよ。ねー、黒田くん」
「今喋らせないでくれ」
弱々しい黒田の返事。
正直に言えば、この間の一件─、大庭の言う麻薬密売組織との小競り合いが起きてからというもの、黒田のことをかなり警戒していた。
いつか自分も無意識のうちに彼の逆鱗に触れ、手を上げられるのではないか。あるいは下手に裏社会に足を踏み入れることで、いつか彼に酷い目に合わされるのではないか。
自殺未遂後、彼が僕に対して「君のお願いはなんでも聞く」とさえ言っていたのを忘れたわけではないが、彼の持つ雰囲気を改めて怖いと思ってしまった。
ところが、彼に対する信頼と疑心の間で右往左往していたら、当の彼は車酔いで弱っているのだ。拍子抜けしてしまう。
人間、喉元過ぎれば熱さを忘れるというが、少なくとも今の彼に対しては、畏れる要素がなかった。
「はい、二人はここで降りてね。おれは車だから別ルート」
「失礼」
真っ先に黒田が車を降り、天を仰いだ。
綴もまた促され、車を降りる。
「ここは…」
「じゃ、また後でね」
質問をし終わらないうちに、大庭が車で去っていく。
振り返れば、鬱蒼とした雑木林の前。ぽっかりと口を開けているその暗い森に向かって歩き出す黒田に続いて、マダムが飛んで行った。綴もまた、その後を追いかける。
妙に静かだ。二人の足が枝や草木を踏む音だけが暗い森に響く。
複雑にうねる木の根や、生い茂るつる性の植物に足を取られそうになりながら、黒田を追いかける。彼はこの道に慣れているのか、迷うことなく歩みを進めた。
「このあたりはイラクサが多いから気をつけて」
「イラクサ?」
「棘のある植物だ。触るとかなり長い間棘が残って痛い目を見ることになるから、用心してくれ。まあ、万が一触ってしまっても処置はできるからそこまで恐れなくてもいいけれどね」
黒田がそう説明しながら、綴の前を掻き分け、道を作ってくれる。
そういえば、彼は毒物に対する耐性があるんだと言っていた。説明されたイラクサも、恐らくは彼には何の効果もないのだろう。現に彼はそのトゲの生えた草木を普通に触っているが、彼の表情は全く変わらないのだから。
歩き続けると、次第に緑の量が増え、ひんやりとした空気が身を包み込んでいく。密生するベルベットのような苔。枝に絡み付いたマメ科の植物が、カーテンを作っている。その先にはつやつやと輝く宝玉のような木の実。そして足元に群生するヘビイチゴ。
時折その瑞々しい果実を啄む小鳥や、リスの姿を見かけることができた。
黒田が気まぐれに木の実をもいで、その宝玉を綴の手に乗せる。それらはどれも美味しいものばかりだった。その度に名前や特徴を尋ねれば、黒田もまた木の実を味わいながらその質問に答えた。
そうして獣道を掻き分け進むこと数分。ふと、光が強く差し込む。雑木林を抜けたらしい。
「俺の庭へようこそ」
「うわ…!」
黒田が手を拡げた先で、突如開けた視界。彩度の高さに目が眩む。
最初に感じたのは、花の芳香だった。甘く芳しい花の匂いが複雑に溶け合って、鼻腔に飛び込んでくる。脳が冴えるような、肺の中が浄化されるような心地がした。
眼前に広がっていたのは、広大な花畑だった。花畑のなかに、巨大な洋館が聳え立っている。
大地を踏みしめると、久しく踏むことのなかった柔らかい土の感触が足に伝わる。見渡す限りの、毒の花の庭。トリカブト、ジギタリス、ドクゼリ、ベラドンナ、イチイ。古来より悪名高い植物たちが、気高く、美しく自生している。その植物の隙間に、大きな箱がいくつも点在している。形状を見るに、蜜蜂の巣箱らしい。
「ここは俺の
「はい、なんというか…不思議な場所ですね。童話の世界みたいです」
足元に視線を落とすと、花びらに蜂が止まって一心不乱に花粉をかき集めている。どの蜂も、羽音は非常に静かだ。
よく見れば、それは黒田の店にいた花蜂と同じ、ふさふさとした毛に覆われた、ずんぐりと丸い蜂だった。
突如、こちらの存在を認識した蜂たちが一斉にこちらへと飛んで来る。
「うわっ!?」
綴が驚いて瞑った目を恐る恐る開けると、前に立っていた黒田が、頭に花蜂をくっつけたまま呆れた声を出した。
「…レディ、毎度歓迎は嬉しいんだけど、できるだけ花粉を落としてから来てくれるかな。顔がベタベタだ」
なるほど、彼女たち─花蜂なりの歓迎らしい。各々黒田の顔にとまったり、髪の毛を繕ったりしているのだが、さっきまで花粉を集めていた彼女らの手足は花粉と蜜だらけで、当然ドロドロになる。
「だ、大丈夫ですか…?」
「ああ、恒例行事なんだ」
黒田は自分の顔についた蜂蜜を指で拭うと、それを舐めた。
花蜂たちに纏わりつかれている黒田と共に洋館の前へと立つ。近くで見ると、その大きさに圧倒され、綴は息を呑んだ。
「凄い建物ですね…鹿鳴館みたいだ」
「相変わらず君は博識だね。その通り、建築様式はちょうど明治時代くらいのものだよ」
「本当に、すごいです」
気圧されているとはいえ、うまくこの荘厳さを形容できない自分が恨めしい。
こんな巨大な、実物の屋敷を見るのは初めてだ。先ほど口にした鹿鳴館だとか、ハイカラな外交官が住んでいたという屋敷は教科書でしか見たことがないのだから。改めて外観を観察すると、日本的な要素と西洋の要素が絶妙に調和していて、文化財と言われても納得できる絢爛さだ。何度も建て直され、新しいものが取り入れられたのか、ゴシック式と思しき要素さえも見て取れた。
一体どんな富豪がこの屋敷に住んでいたのだろう。
「明治時代…ということは築100年くらいですか」
「まあそんなところかな。今はもうほとんど使われてないのを少し改装して使ってるんだ。さ、中に入ろう。みんなが待ってる」
「みんな?」
そのとき、正面玄関の扉が古めかしい音を立て、こちら側に向かって開いた。
「おかえりなさいませ、アリスタイオス様」
その言葉と共に、四人の人が黒田と綴を出迎えた。
壮年男性が一人。若い男性が一人。女性が二人。全員が中世の使用人のように、クラシカルな服やドレスをきっちりと着込み、こちらに向かって頭を下げている。
「いいよ、顔を上げて。…久しぶりだね。みんな変わりないようで何よりだ」
壮年の男性が最初に顔を上げ、黒田に向かって微笑み返した。老獪な、人当たりの良い笑みだった。
「俺は少しシャワーを浴びてくるよ。コロンバイン、彼を案内してあげて」
コロンバイン、と呼ばれた執事から用意されていた服を受けとり、黒田は長い廊下の先へと歩いて行った。
「貴方が、深谷綴様ですね。主から仰せつかっております。どうぞこちらへ」
「よ、宜しくお願いします」
黒田が歩いて行った方とは逆の長い廊下の途中、応接室と思しき部屋に通される。落ち着かないまま椅子に座り、部屋を眺めていると、先ほどの使用人たちがあれこれと綴の世話をした。テーブルにはグラスが用意され、澄んだ薄緑色の水が注がれる。
「何かございましたらお声がけください」
「あ、はい、いろいろすみません、ありがとうございます」
綴は慌てて頭を下げる。
こんなにも丁重にもてなされると、かえって緊張してしまう。使用人が皆応接室から出ていくと、やっと息を吐き出した。喉が少し乾いていたが、この雰囲気の中では、とてもじゃないが手を付けられはしなかった。
特になにをするでもなく、綴はぼんやりと天井を眺めた。この部屋も、黒田の趣味なのか、彼の経営する花屋とどことなく雰囲気が似ている。壁には絵画ではなく、やはり蝶や蛾の標本が掛かっていて、棚には魔導書のような分厚い本。自分が座る上等な椅子の傍のテーブルには、オレンジの花が飾ってあった。
しばらくすると、まだ少し濡れている髪をかき上げながら、黒田が応接室へと入ってきた。
やっと黒田が戻ってきてくれたので、綴は大きく息を吐き出した。
「お待たせした。…どうしたんだい、叱られたウサギみたいな顔をして」
「その、雰囲気が落ち着かなくて」
「そういえば俺の店に初めて入った時もそんな顔をしていたね、君は」
茶化すようにくすくすと笑う黒田は、長く真っ白な、上等なシャツを着てさっぱりとした様子だ。もともと上品な人だとは感じていたが、この屋敷の中にいる黒田はまるで王子のように気品があった。もしかすると、彼はいい家の出だったのかもしれない。
「さて、お茶の準備が整っているだろうから、行こうか」
黒田に案内されたのは随分と天井の高い部屋だった。
「やっほー、お二人さん。先にお邪魔してたよ」
「大庭さん」
真っ白な茶器や銀のカトラリーが用意された、長い食卓が部屋の中央にある。その席の一つに大庭が座っていた。小さなフォークを口に咥え、こちらに向かってひらひらと手を振る。
「ジギー、『アンジェラ』は何処に?」
「今はものを食べる気分じゃないからってお散歩中だよ」
『ジギー』、そう黒田に呼ばれたのは大庭だ。それがここでの大庭の名前らしい。そういえば、黒田も度々『アリスタイオス』とか、『アリー』と呼ばれていたことを綴は思い出した。どうやら『カナリア』の組員には全員渾名があるらしい。つまり先ほど応接室で世話をしてくれた『コロンバイン』も、黒田が口にした『アンジェラ』も、この秘密結社の一員だと推測できる。
「本当に彼女は人の話を聞かないね。仕方ない。始めようか」
ぼんやりしていたところを黒田に促され、綴は上等な椅子に恐る恐る腰かける。その正面に黒田が座った。
すると使用人たちがてきぱきと動きだし、それぞれの役割に従ってグラスに飲み物を注ぎ、お菓子と軽食の乗った皿をサーブする。
「今日は最初の収穫日なんだ。盛大にやろう。君の歓迎会も兼ねて、ね」
「収穫って、蜂蜜のですか?」
「ああ。この季節は蜂蜜がよく取れるんだ。ハニームーン、聞いたことくらいはあるだろう?」
「ハネムーン…新婚旅行、って意味ですよね?」
「その通り。もともとはあれは文字通り”honeymoon”なんだよ。ハチは6月頃、子育てのために蜜を貯め込むんだ」
「なるほど、だから蜜月…採れたての蜂蜜を食べられると。朗報っていうのはそういうことだったんですね」
「ああ。蜂蜜には強壮作用があってね。新婚の夫婦の子作りのために飲まれたのが蜂蜜酒。それが転じて新婚旅行っていう意味に変わっていったんだよ」
黒田と話をする間に女中が、大きな瓶から巣蜜を切り取り皿の上へ乗せる。
「ところでこれ、蜂の巣ですよね…?」
「ま、騙されたと思って食べてみなよ。美味しいよ?幼虫も入ってなければ毒もないし」
そう言うが早いか、綴の隣に座っていた大庭は、自分の皿の上の巣蜜を指先で摘まむと口に含んだ。
それに習って、綴もまた自分の皿のそれを摘み上げた。ハニカム型の組織は思っていたよりも柔らかい。黄金の液体が滴る。
ぱく、と口に含むと、どこか野性的な匂いと共に、重厚な甘みが舌の上に広がる。
嗚呼、この味、この風味。この甘さは。紛れもなく数か月前に僕に死を予感させた、あの秘蜜だ。意識が遠のく程に甘く、濃厚で、美味だ。
黒田の視線を感じて顔を上げると、綴は美味しいと言う代わりに黙って頷いた。それを見て、黒田が満足そうに口角を上げる。
「んー、やっぱり黒田くんとこの蜂蜜が最高に旨いね。これ食った後に市販の蜂蜜舐めたらガムシロップかと思ったよ」
「はは、それは当然だ。俺が何年養蜂家をやっていると思ってる」
黒田が唇を舐めながらにやっと笑う。いつもの優美な微笑ではなく、皮肉っぽい笑み。
─あれ、この人、こんな表情もするのか。
それからは、しばらく気楽に、彼らの雑談に混ざりながら紅茶と軽食を楽しんだ。
不思議と、その会話は綴の重荷にならかった。
人と話すことは、こんなにも楽しいことだっただろうか。ここにきて綴は、自分が今までどんなに一人で、孤独に生きてきたかを感じた。どれだけの同級生や知り合いに囲まれても、否、その囲まれる人数が多ければ多いほど、会話は薄っぺらくなり、相手の顔色を伺うことに疲れ、綴は孤独を感じたのだった。
自分の話す能力に欠陥はあるにしろ、綴はこの気まぐれに訪れた朗らかな時間を、彼らの会話に身を任せて楽しんだ。
各々が十分に食事を楽しみ、満足した頃、徐に黒田が口を開いた。
「改めて、俺は、『カナリア』は、君を歓迎しよう。ここにいる者は皆、悲しみの味を識る
そう言って、黒田は指についた蜂蜜を舐めとる。使用人たちが、静かに彼の言葉に耳を傾ける。
「けれど君達はそれを誇るべきだ。君たちの悲しみや苦しみは、決して無価値な物ではない。不幸は、悲しみは、全ての根元だ。煮詰められて、絞り出されて、甘く美しい蜜になる」
蜂蜜を舐めている黒田の表情はどこか恍惚としている。
大庭と執事を除いて、周りの使用人たちは、黒田の深く美しい声が紡ぐ言葉に、うっとりと聞き入っていた。それはさながら、セイレーンの歌声に魅了された船乗りのように。
「俺は悲劇が好きだ。悲しみが好きだ。美しいものはいつも悲しみからやってくる。幸せからは芸術も哲学も文学も生まれない。悲しみは真実美しい。悲しむ人の目は真実美しい。だから俺は君たちを慈しんでいる」
そう呟く黒田の目の奥が、暗く輝いた。
黒田の口から流れる言葉は、まるで詩だった。流れる歌のようだった。
「…それは誰かの格言ですか?」
「いいや、ただの持論だよ」
黒田が目を伏せて笑う。
「さあ、今日のティータイムはこれでお開きにしようか」
─せっかくだから、屋敷の中を見て回るといい。鍵のかかっている部屋以外は自由に見てきていいよ。
アフタヌーンティーの片付けが進む間、黒田にそう勧められ、綴は腹ごなしがてら屋敷を見て回ることにした。
花の匂いがする。屋敷の外にあれだけ広大な花畑があるのだから、当然と言えば当然かもしれない。
いくつもある部屋は、使用人として働く『カナリア』の組員にあてがわれた自室であるらしい。ここでは合計で10人の組員が使用人として住み込みで働いており、各々部屋が与えられているのだという。
ふと、開け放たれた、一際大きな部屋の前で綴は立ち止まる。その中に、綴の目を惹いたものがあった。
窓から差し込んでいる西日に照らされる、男性の石膏像。その顔が、まるきり黒田の顔そのままだったのだ。
綴は思わずその部屋の中へと足を踏み入れ、その像を間近で観察した。
その造形は、まるでそこに本人がいるのかと思うほど生き生きと、滑らかに作られていた。細い顎も、花弁のような唇も、すっとした鼻筋も、人の内側を探り当てる、魔力を孕んだ目も、一つとして歪みなく彼そのままだった。
しかし、ただ一つだけ、違和感を覚えることがあった。その像の顔は紛れもなく黒田の顔だったが、いつも彼が浮かべる微笑がそこには無く、虚を覗き込んだように、あるいは途方に暮れたように無表情だった。
その像の身体はゆったりと左側の流木のようなものに寄りかかり、右手に木の杖を握っている。未完成なのか、下半身は作り切られておらず、人魚のような曖昧な造形のままだった。
しばらく観察が済むと、今までに嗅いだことのない匂いがこの部屋に満ちていることに気が付いた。シンナーのような、ツンとする人工的な匂い。じっくり部屋を見ていると、次第にこの部屋の主が画家か、彫刻家か、とにかく芸術家であることが分かった。
高校の美術室にあるような、デッサン用の石膏像。キャンバスは同じ場所に重ねて置いてある。綴の身長を超えるキャンバスもあり、そういうものは壁に立て掛けられている。それから、筆、顔料。それらすべてが混沌と、悪く言えば乱雑にあちこちに置かれている。
「すごい部屋だなぁ…」
思わず綴はそう呟く。
部屋の中央には、大きな箱が置かれている。今度はそちらへと歩み寄り、綴はその中身を覗き込んだ。
重厚な箱の中に、柔らかく美しい花がぎっしりと詰め込まれている。全ての種類の詳細はまだ自分の知識では分からなかったが、その全ての配置が洗練されていて、アラベスク模様を彷彿とさせる。
その中央には白く滑らかな肌をした女の人形が入っている。良くできた人形だ。髪の毛や睫毛の一本一本まで艶があり、作り物とは思えない。
「ッ…!」
急に、綴は目の前の事実に気が付いて戦慄する。
これは死体だ。
小さいころ、一度だけ見た、亡くなった祖母の顔と同じ、魂の宿っていない抜け殻。あの時でさえ、幼いながらも目の前の人の形をしたそれが、生きた人間とは違うことを、綴ははっきりと感じたのだった。
恐る恐るもう一度覗き込むと、蝋細工のように滑る肌がそこにはあった。やはり、これは間違いなく死体だ。
急に、ぞわりとしたものが身体を這う感覚に陥り、周りを見渡す。そして、綴は二つ目の恐ろしい真実を目の当たりにした。
「まさか……これ全部…」
綴の視線の先にあるのは、足元のそれと同じ、人間の形をした抜け殻。
磔にくくられ並んでいるのは、死体の横隊だった。
「だれ?」
か細い声がした。
綴はぎょっとして背後を振り返る。
そこには、真っ白なドレスに身を包んだ少女が立っていた。
****************
※注─『Orangerie』
オランジュリー。オレンジ。『幸福な結婚』や『永遠の生命』、『純粋』を象徴する一方で『嫉妬』のシンボル。果実のみの場合『警告』を象徴する。
白い花は花嫁の純粋さを表し、結婚式でよく利用される。聖母マリアの持ち物。
【参考文献】
『ロミオとジュリエット』ウィリアム・シェークスピア著・中野好夫訳
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