第21幕 Stone Break

“青山純 様

 はじめに、先日は申し訳ございませんでした。“

 そんな謝罪で始まる文章が、これ以上無い程綴らしいと、青山は思った。

 5ミリ程度の、線の細い字がぎっしりと並んだその手紙は、数年前まで世話になっていた六法の中身を思い起こさせる。

 ─綺麗な字だな。

 内容を読み解くより先に、そう思った。そういえば、綴の書いた文章を、初めてこの目で見た気がする。

 数時間前、大庭に完膚なきまでに叩きのめされ、未だ鈍く痛む身体を無理やり起こす。

 殆ど眠りに帰るだけの自室に据え付けた、簡素なベッドの上で胡坐をかき、青山は文字を目で追った。

 そこには、淡々と、ほとんど大学のレポートに近い文体で、今まで綴の身に起きたことが記されていた。

 主に、母親との関係について。

 物心ついた時から、両親の仲が悪く、口も聞かない状態になること。

 この家では母親が絶対君主として振る舞っており、誰も母親に口答えすることは許されていないということ。

 そして、反抗したと母親に認定された場合に受けた粛清の数々。いらつく、怒鳴る、無視する、呆れる、溜息をつく、嘲笑う─そうした態度がどうにも恐ろしく、ずっと機嫌を伺っていたということ。

 自分の好きな事や得意なことを蔑ろにされる、学校という環境が本当に苦手で、毎朝、涙が止まらなかったこと。

 学校にも家にも居場所はなく、自分用に与えられていた六畳間にある、布団の隙間が唯一の逃げ場所であったこと。

 高校生のころから慢性的な嘔吐と不眠に見舞われていること。

 しかし。

 青山は、綴の言う事実が信じられなかった。

 一体どこまで本当のことなのか、どの程度偏ったものなのか。

 やはり、ただ綴が物事を悪く捉えすぎているだけではないのか。ある事実が、他方から見れば、全く違った様相を示すことは往々にしてよくある話だ。

 青山は、再び紙の上の文字に目を落とす。

 ”この手紙は、貴方に同情してもらうことが目的ではないので、僕に嘘をつく理由がないことをご理解頂ければと思います。ただ僕は、僕から見た、自分の体験した事柄を書き記し、誤解を解いておきたかったのです。主観的であることは重々承知しています。しかし、主観的なことは全て本人の妄想で、思い込みなのでしょうか。この苦しさは、悲しさは、虚しさは、なかったことになるのでしょうか。”

 思ったことを全て予知しているように、書き記された反論。

 もしも、綴が本当に宗教団体に入っていて、洗脳されているのだとしたら、これほどまでに理論整然と、何かを語ることができるだろうか。

 直接会ったあの日、青山は、綴が正気ではないことを疑っていた。

 話をして、すぐに、こいつは何らかの病気なんだ、精神が病んでしまって、まともではないのだと思った。綴の目が、態度が、言葉が、本当に不可解で、恐ろしかった。

 しかし、今思えば、あの陰鬱な態度こそが、である可能性があった。、綴は両親を、─否、関わった全ての人間を恨んでいる。そしてその”人間”には、当然、青山の存在も含まれているのだろう。

 指先に力が入らない。文を読み終えた瞬間、ばらばらと紙が指の間から滑り落ちた。

 脳が発熱している気がする。首から上に重りを入れられたような感覚だ。未だかつて感じたことがない種類の疲労感だった。

 ふと時計を見る。午前3時を過ぎていた。

 青山は、外出したときの服装のまま、布団に潜り込んだ。


「いらっしゃい、純くん」

「お久しぶりです」

 数週間ぶりに見た、綴の母親の顔は、疲れを感じさせるものの、やつれてはいなかった。この人が、息子に失踪された母親だとは、誰も思わないだろう。

「いい天気ね」

「そうですね」

 綴の母親の言葉に、周りを見渡す。昼下がりの、白っぽい、上品な住宅街が、冬の青い空との眩いコントラストを成している。

 確かに、乾いた空気に降り注ぐ陽光が心地よい。本来ならば、絶好の外出日和だろうが、そんなことに心を向ける余裕は、今の青山には無かった。

「さあ、上がって。お茶の用意もしたから」

「お邪魔します」

 青山は、革靴を脱いで、磨き上げられたフローリングに上がった。

 こうして邪魔したのは一体いつぶりだろう。

 もう何年も邪魔していなかった深谷家のリビングは、記憶にあるものよりも少し狭い。綺麗に整頓されたその部屋の中には、品のいい丸テーブルが置かれている。レースをあしらったクロスが敷かれ、花柄のティーセットのピンク色が際立つ。皿には何種類もお菓子が用意されていた。

 青山が椅子に座ると、用意されていた紅茶がカップへと注がれる。

 昔から綴の母親はまめで、遊びに来るたびに、こうしてお茶や菓子を振る舞ってもらったものだ。

 子供のころの自分には、出されたものの価値があまりよく分からなかったけれど、こうして見てみると、子供に口にさせるには、勿体ないと思うような品ばかりだった。

「綴のこと、何かわかったかしら」

 綴の母親が、椅子に腰かけるなり、そう尋ねた。

 どう話すべきか。

 一体どこまで伝えるべきか。

 未だにその答えは出ていなかった。

 青山は、一口紅茶を飲み下した。

「なんとか、本人と会うことはできました」

「綴は、どうだったの?」

 綴の母親が、祈るように顔の前で手を組み、不安そうに青山を見つめた。

 言葉が詰まる。

 持ち上げたカップを口につけ、紅茶を飲み込む。

『もう会うつもりはないと、伝えてください』

 分かっている。ただ綴に言われた通り、一言一句違わず、そのまま伝えればいい。

 ─本当に?

 こんなにもわが子の身を案じる母親に、直接そう告げていいものだろうか。

 あるいは、何らかの宗教に染まっている可能性があることを告げるべきか。

 綴の母親の視線に促され、青山は口を開いた。

「なんというか、やっぱり少し、様子がおかしくて。何か、心当たりとかないですか」

 我ながら、酷い返答だ。青山は口から洩れそうになった溜息を、二口目の紅茶と共に飲み込んだ。

 綴の母親が、がっくりと肩を落とした。

「…私には分からないわ」

 母親が俯き嘆息する。

 その様に、胸がちくちくと痛んだ。

「だって、今まではずっとちゃんとしていたのよ。急に、あんなことを言われても分からないの。本当に、何が不満だったのかしらね」

 綴の母親が、また深くため息をついた。

「あの子のために毎日ご飯もつくって、学校いかせて、塾も通わせて、あんなに習い事もさせてあげたのに、この様よ。どうしてこうなっちゃったのかしら。本当に、あの子が何を考えてるか分からないの」

 確かに、綴の生活は決して酷いものではなかったはずだ。衣食住に困るわけでも、両親が離婚しているわけでもない。いじめを受けていたわけでも、直接暴力を振るわれていたわけでもない。

 この母親が、自分の息子を、自分の機嫌次第で利用していたなんて、到底信じられるわけがなかった。

『青山さん、自分の両親を殺したいと思ったこと、ありますか』

 それでも、あの綴の瞳の色が、脳裏に焼き付いて離れない。

「私、間違ってたのかしら。ねえ、純くん。私、間違ってなかったわよね」

 名前を呼ばれ、はっとする。綴の母親の話は、青山の耳にはほとんど入ってこなかった。

 綴の母親の目には、涙さえ滲んでいた。

 母親が、肯定されることを望んでいる気がしたが、青山は曖昧に返事を濁した。

 綴の母親が、花柄のカップに入った紅茶を見つめる。

「もしかしたらあの子、病気かもしれないの」

「病気って?」

「覚えてる?綴が小学生のとき、毎朝『学校に行きたくない』って泣いていたの」

「ああ…なんとなく、覚えてます」

「きっと、泣けば自分のわがままが通るって思ってたんでしょうね。本当に、毎日家の前で叱るのが、私も恥ずかしくって。純くんがいつも綴をなだめてくれていたの、本当に感謝してるわ。本当は少し迷惑だったでしょう?」

「いや、迷惑なんて…確かに、あいつは少し口下手だとは思ってますけど─」

 青山が言葉を続ける前に、綴の母親が口を開いた。

「そうなのよ。あの子、人と話すのがすごく下手なのね。いつも学校の先生にもおかしいって言われたわ。だから周りの子たちとも仲良くしなさいって何度も叱ったのよ。人との話し方を練習させてあげようとしていたんだけれど、結局ずっとひとりぼっちのままで」

 腹の底で、何かが蠢くような、重たいような感覚がする。

 青山の返答も待たず、綴の母親がまくし立てる。

「それなのに、外にも遊びに行かずにうちに引きこもってばっかりで。家にばっかりいたら、病気になるからダメよって、外にも沢山連れて行って、いろんな子供たちと遊ばせたのに、いつも不貞腐れるのよ。自分の好きなことばっかりして生きていけるわけじゃないんだから、苦手なものを克服する努力をしなさいって教えても、最初は全然言うことを聞かなかったの」

 青山は、次第に疲労感に呑まれ始めた。脈絡も、終着点も無い会話は苦手だ。相手が親しい人であるから、話を適当に切り上げるわけにもいかない。

 そういえば、最初に、綴の家出について相談してきた時も、この母親はそうだった。

「あんまりにも言うことを聞かないから、一度、障害児童向けの施設に預けたこともあるのよ」

「え?」

 どくん、と身体が脈打つ。

 ぐるぐると回る思考が、突如停止する。

「障害児童って、どういうことですか」

「ほら、少し精神的におかしいとか、そういう子たちが行くところよ。私だけじゃ、どうしていいか分からなくて、連れて行ったの。でも、一度連れて行ったら、それ以降泣かなくなったから、ちゃんと治ったんだって思ってたのよ。だから、今回みたいなことになるなんて、本当に思いもしなかったわ」

 少し、気分が悪い。

 握った掌に、脂汗が滲む。

 青山は自らの首筋に手をやった。

「なんだか、ごめんなさいね。純くんには綴がいっつも迷惑をかけてばっかりで」

 綴の母親が、眉を下げて微笑んだ。

「いや、そんな、迷惑なんて」

「純くんは本当にすごいのね。うちのなんて、できることと言ったら勉強ばっかりで、要領も悪くて、運動も駄目だし、泣いてばっかりでわがままだし。どうしたら純くんみたいなちゃんとした子になるのかしら。もう二十歳なのに」

 いや、俺は普通ですよ。そう言おうとして、青山はぎょっとした。

 綴の母親の目から、一筋の涙が零れ落ちたからだ。

「すみません、あまり力になれなくて。とりあえず、今日はお暇します」

 青山は、そう言うと椅子から立ち上がった。

 綴の母親は、青山を引き留めることなく、ただ数回頷いた。

 青山が玄関で靴を履いていると、綴の父親が現れた。

「純くん。お久しぶり」

「お久しぶりです」

 綴の父親が、控えめに挨拶をした。

「ご、ごめんね。わざわざ来てくれたのに、妻が」

「いえ、綴があんな状態じゃ、不安でしょうし」

 綴の父親は、何かを迷っているのか、視線が落ち着かなかった。

「あ、あの、純くん…これを」

 綴の父親が、言葉をつっかえさせながら、紙を差し出した。

 手渡されたのは分厚い封筒だった。綴の父に促され取り出すと、その中身は数百ページにも渡る便せんだった。

 青山はその便せんを捲った。

 自分に渡された手紙と、全く同じ筆致。自信の無さを体現するような、小さな、線の細い字。

 しかし、その中身は、皮肉と冷笑に満ちていた。その殆どが、母の行為に対する断罪だった。青山が受け取った手紙よりも遥かに、厳しく、激しい非難の言葉が溢れている。

 感情に任せた怒りの爆発ではなく、蓄積され、吹き出た憎しみの形だった。

「妻には、見せられなくて」

 綴の父親が、俯き、辛うじて聞き取れる程の声で、そう言った。

「綴が、私たちを恨んでいるのはよくわかったんです。けど、どうしたら許してもらえるのかが分からなくて」

「綴がここまで辛辣になるんです。何か、あったんじゃないですか」

 この両親は、何を隠してるんだ。

 押さえなくては、と思いながら、青山は自分の声に苛立ちが籠るのを感じた。

「その、綴が…」

「ちゃんと、教えてください。俺は協力したいんです」

「…なんというか、その、自殺しようとした、と」

 口が動かない。

 自殺。

 自らの意思で己の命を断つこと。

 言葉の意味は知っている。

 だが、理解できはしない。

 ふと、頭を過る記憶。

 綴が、まだ大学に入学して間もないころ、レポートについての助言を求めてきたことがあった。

 そういえば、あの時の主題も、自殺についてではなかったか。課題の提出さえすれば、単位は取れるだろうに、まるでそのレポートでいい成績を取れなければ留年が確定するのかと勘違いしてしまう程、綴はその課題に、真剣に取り組んでいた。

 当時は、随分暗い話題を選んだな、と茶化しながら、単位を取るために必要な項目だけ、アドバイスしたのだった。

 まさか。

 その時から既に、綴の心には自殺という選択肢が現れていたのだろうか。

「…なんで、それをずっと俺に黙ってたんです」

 青山は声を絞り出した。

 自分のものとは思えない、低く、地を這うような声だった。

「…そう言って、私たちの気を引こうとしてるんでしょう」

「多分、それは違いますよ。今思えば、あいつと会ったとき、本当に、自殺しそうな雰囲気がありました。目が死んでるっていうか、ずっと、放心しているみたいだったんです」

「昔から何を考えているのかよく分からない子だったから…その」

「…今まで、何もしなかったんですか。少しでも、声かけてたりしていれば」

 そう口にした直後、鈍器で殴られたような頭痛がした。

『一言声かけるとか、話聞いてやるとか、それくらいならできたんじゃねぇの』

 そうか、俺は、なにもできていなかった。

 ぎり、と歯ぎしりをする青山に、綴の父親が慌てて弁明する。

「し、信じてくれ、純くん。わ、私は何度も妻を止めようとしたんだよ。でも妻は怒り出すと手がつけようがなくて、仕方なかったんだ」

 青山は、深く息を吸い込んだ。

 ここで怒って、事を荒立てるのは得策じゃない。そうでなければ、綴と居酒屋で喧嘩した時のように、何もかも駄目にしてしまうだろう。

「…俺が、話してきます。もし、今後綴と会うことがあったら、ちゃんと、あいつと向き合って話してください」

 父親が、黙って頷いた。

 青山は、足早にその場を立ち去った。


 いつの間にか、雲の色が薄紫色に染められている。

 太陽が街の陰に身を隠した今、代わりに小さな電飾たちがはしゃぐように煌めきはじめた。

 12月の初頭、それもつい数日前までハロウィン一色だったというのに、その名残すらどこにも見当たらない。

 街は来るクリスマスへ向けて、イルミネーションで着飾り、どこか往来は浮足立っているように見えた。駅前の花屋には、ラッピングされたポインセチアが積み上がり、レプリカのツリーには、きらきらとしたオーナメントがびっしりと吊るされている。

 しかし、そのいずれも青山の心を捕らえはしなかった。吹き付ける風に逆らい、青山は足早に道を通り抜けた。

 KOBANの文字を確認し、青山は、唯一街の中で質素な空間に足を踏み入れた。

「お疲れ様です」

「あ、君が、青山くんか。ご苦労さん」

 椅子に寄りかかったまま、職員の一人が青山に声をかけた。

「しかし幼馴染が家出とは、災難だね」

 その職員は、欠伸を噛み殺しながら手を振った。

 青山は事務所内にいる数人の職員を順番に目で追った。

 他の職員も、大体似たような、どこか力の抜けた態度だった。

「最近ここらへんの治安、どうです?」

 この緊張感の無さはなんだ、と詰問したい衝動を抑え、青山はそう尋ねる。

「ん?平和だよ。最近この地域では事件事故は一件も起きてないんだ」

「それは、すごいですね」

「まあ、もともとここらへんに住んでるのは金持ちが多いし、そんなものだろう。お陰で楽させてもらってるよ」

 その言葉通り、その職員の身体は完全に背もたれに寄りかかっていた。

 青山は眉を顰めた。

「流石に気を抜きすぎでしょう。何かあったらどうするんですか」

「悪かったって。あっ、でも、確かにちょっと前でかい事件は起きてたな」

「麻薬密売組織が摘発されたやつですか」

「そうそう、それ。面白いのがさ、なんでも組織の人間が全員ハチに刺されて死にかけてたんだと」

「ハチ?なんでまたハチなんかに」

「さあな。でかいスズメバチの巣でもあったんじゃないか。バチが当たったんだろ。ハチだけに」

 青山は思い切りため息をついた。

「本当につまんないですよ、それ」

「まぁ、最近は平和だからそれに越したことはないだろ」

「平和、ね…。ところで、本題なんですけど。この辺りで『Flolist November』っていう花屋、ないですか」

「なんだ、彼女へのプレゼントか?いいなぁ、若いのは」

「違います。家出した幼馴染みがそこに勤めてるんですよ」

「あ、そっか。けど、俺はそんな名前の花屋見たことないな。地元の人に聞いたほうがわかるんじゃないか?」

「そうします」

 以前、綴の捜索の協力を仰いだ担当者とは別の意味で、やる気のないその警官を一瞥する。まるで他人事だ。

 綴のアルバイト先である花屋を探し、青山は再び歩き出した。いくつか花屋があるが、そのどれも目的地ではない。

 青山は周りを見渡す。

 数十歩先の八百屋で、年配の女性がせっせと果物を並べていた。

「すいません、この辺に『Florist November』っていう名前の花屋ってないですか」

 青山に声を掛けられ、老婆が緩慢な動作で振り返る。見るからに人のよさそうな、壮年の女性の顔に、笑みが浮かぶ。

「ああ、もしかして、黒田くんの店を探してるのかい」

「知ってるんですか!」

「彼の店は少し場所が分かりづらいからねぇ。たまにこの辺りに迷った人が聞きにくるんだよ。なんだい、あんたもあのお店のファンかい?」

「ええ、まぁ。そこの店のこと、少し教えてもらえませんか?店主のこととか」

 逸る青山とは対照的に、老婆は相変わらずゆっくりと言葉を選んだ。

「店主は若い男の人だよ。黒田くんと言ってね、変わった子だよ。けど、彼が仕入れてる花はどれも綺麗な上、珍しいのが多くてねぇ。隠れたファンがたくさんいるんだよ。彼の店でしか花は買わないっていう人もいるくらいだ」

「繁盛してるんですね」

「あんまりにも素敵な店だから、みんな独り占めしたくなっちゃうのさ。だからよっぽどの好事家か、地元の人しかあの店のことは知らないよ」

 皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、老婆が笑う。

 老婆が、チラシの裏に地図を書いて、青山に手渡した。青山は礼を言うと、その道順に従って歩きだした。

 その花屋は、個人経営店やアートギャラリーが立ち並ぶ通りの一角にあった。閑静な住宅街に差し掛かるその街道で、青山は足を止める。

「これは言われないとわかんないな…」

 青山は、ツル薔薇の絡んだアーチの上に彫り込まれた、『Florist November』の文字を見上げて、そう呟いた。

 建物の間に突如現れた入り口。確かに足元には立看板が出されているが、ここが花屋だと知らなければ、個人の邸宅だと思うだろう。

 目的の花屋だと分かった今でも、本当に入っていいものかと躊躇してしまう。

 ふと、鼻先を擽る、甘い匂い。花の匂いに混じって、蜂蜜のような、独特の芳香が漂っている。

 石畳の道に、足を踏み入れる。

 前に進もうとして、くい、と後ろに引っ張られた。

 鋭い棘に袖が引っかかっていた。

 まるで茨のアーチに、拒まれているようだ。

 ふと、視界を小さな黒い影が横切る。薔薇の花の上で動きを止めたそれは、ハチだった。

 アーチを潜り抜けると、そこには、様々な植物が植えられていた。この季節でも庭の緑が生い茂り、丁寧に手入れされていることが伺えた。それなのに、どこか、人を寄せ付けない雰囲気を、この庭は漂わせている。

 なんとなく目をやった、項垂れるように咲いた花。その花弁には、血しぶきでも散ったように、赤い斑点が浮かび上がっている。

 浮かんだ汗に、向かい風が吹き付け、青山は身震いする。

 とにかく、今は躊躇っている時ではない。

 綴の様子を知るために、唯一残された手がかり。綴の言葉が、部分的にしろ真実であると分かった今、何が何でも本人と話さなければならない。

 青山は襟を正すと、建物の正面に立った。

 ドアノブに手をかけ引くと、チリン、とベルが小さく鳴った。

 緊張に強張る足を踏み出し、店内に入る。

 花に囲まれた、薄暗いその空間に、綴の姿は無い。

 その代わり、一人の男がいた。

「いらっしゃい。いつかここへ来るだろうと思っていたよ」

 その男は振り向きもせずそう言った。

 刹那の戦慄。

 それは、罠に嵌り、これから殺される動物の覚悟にも似た戦慄だった。

 男がゆっくりと振り向き、こちらへ歩いてくる。

 青山は、一拍遅れて自分の身体から冷や汗が噴き出すのを感じた。男の動きだけで直感した。

 ─勝てない。

 それを認めるわけにはいかないと、頭ではわかっている。それなのに。

 なんなんだ、あれは。

 青山は、ぼんやりと立ち尽くした。

 足音が無い。明らかに背が高く、身体も過不足無く鍛え上げられているのに、気配が無い。

 端正な顔。白い肌。切れ長の目。長い睫毛。整った鼻筋。花弁のような唇。均衡のとれた身体。細く長い指先。深く美しい声。花の匂い。その全てに、目を奪われ、警戒心を蕩かされる。

 異常だ。あまりにも異常すぎる。

 それはまるで、あらゆる生物の長所だけをかき集め、継ぎはぎにしたような歪さだった。

 これほどまでに強いと分かるのに、その微笑はあまりに優しかった。

「初めまして、何か御用かな」

「…あ」

 舌が渇いてばりばりと音を立てる。声が上手く出ない。やっと男の顔を見上げた。青紫色の瞳が細められる。

「君のことはよく知っているよ、青山純」

 男の唇が、青山の名前を紡ぐ。

「俺は黒田馨。この花屋の店主だ。そして綴の雇い主でもある。彼から度々君のことを聞いていたからね。君とは少し、話をしてみたかった」

 どうぞよろしく。

 黒田はそう言うと、優美な仕草で右手を差し出した。

 どうすべきか。

 青山が迷い、体を硬直させていると、黒田が青山の手をとった。

「緊張しているね。何か疾しいことでもあるのかな」

 指先の動きが、まるで愛撫のようだった。黒田の掌が、するりと青山の手首へ伸び、締め上げる。

 手首から痺れが伝わる。

 そして、気がついた時には地面に倒れ伏していた。

 何が起きたのか、まったく分からなかった。

 大庭と戦闘した時のような、駆け引きをするまでもなく、敗北していた。

「君を歓迎するよ、青山純。これはお近づきのだ」

 片手で鼻を強く摘ままれたまま、顔を無理やり上に向けられる。もう片方の指が喉奥にねじ込まれる。喉奥で、液体が流れる感触がした。

「いいこだ」

 黒田の手が離れた瞬間、青山は、思い切り噎せた。口のなかに、どろりとした、歯が浮くほどに甘いものが満ちる。

「げほっ、ぉえ」

 熱を出した時のように、視界が歪む。つま先から、痺れが駆け上がってくる。

 青山はぜえぜえと喘いだ。

 ああ、これがただの悪夢であってくれたなら。

 腰から下の身体には、もはや感覚がなかった。逃げることはおろか、立ち上がることさえできない。

 せめて、どうにかこの場から逃れなければ。ずるずると身体を引き摺る青山を嘲笑うかのように、黒田が足で踏みつけてくる。

 次第に、舌がびりびりと痺れ、刺されるような痛みに変わる。意識がぼんやりとしてくる。今、何かを問いかけられたら、ずるずると思ったことをそのまま話してしまいそうだった。

「一人で来たのは賢明だったね。もし、君の上司をここへ連れてきたら、俺は彼も君と同じ目に合わせただろう」

 子供をあやすように、黒田の掌が青山の頭を撫でた。

 身体が戦慄く。

「安心したまえ、”荒野のおおかみ”はわざわざ誰かを害しに出かけて行ったりはしない。もちろん、縄張りに土足で入り込んでくる者に容赦しないけれど」

 始終黒田の言葉は穏やかだったが、その内容は脅迫そのものだった。

 ”踏み込めばただでは置かない”。そういうことだ。

「さて、舞台は整った。少し話をしようか」

 ガチャン、と金属が回る音がした。こつ、こつ、と軽い足音。誰かが、階段を下りてくる。

「黒田さん、もう充分ですよ」

 それは、青山がよく知る声だった。

「深谷…!」

 地面から仰ぎ見る綴の姿は、人ならざるものに見えた。

 悲哀の滲んだ、黄緑色の瞳が揺れる。

「それに、心理的にしろ肉体的にしろ、人が傷つく様をただ見ていなければならないのは、気持ちのいいものではないですから」

 綴は、店の内装と同化している階段から降りると、青山の前に両膝をついた。

「困りますよ、青山さん」

「深谷…」

「いずれ、貴方がここへ来るだろうということは分かってました。僕は確かに書面で返信をしてくれと貴方にお願いしたはずですが、貴方はそうはしてくれないだろうということも」

 綴は、床で口を開けたままの、青山の鞄の中から顔を出している便せんに目をやった。

「…やっぱり、両親は僕の言いたかったことを理解できなかったみたいですね。できる限り丁寧に書いたつもりだったんですけど。ああ、でも、どうか、誤解しないでください。試そうとか、そんな思い上がったことをしたかったわけじゃないんです。僕には、言いたいことを言うには文字にして書き出すしかなかっただけで」

 綴はため息をついた。

「不思議ですよね。どれほど必死になって言葉で論理を組み立てて説明しても、それが最も届いてほしい人に限って言葉の意味をすり替えられてしまう。きっと、この世の中のあらゆる闘争や戦争は、こうやって起きているんでしょうね」

 お前は突然、何を言い出すんだと言いたかったけれど、言葉にはならない。

 綴の目は真剣そのものだった。

「青山さん、今後、何があっても僕たちに関わらないと約束してくれますか。僕の両親に、協力しないと約束してくれますか」

「約束する、する、から…」

 助けて。そう言おうとして、青山は言葉を飲み込んだ。

「この前は、お前が言ってることが、信じられなかったんだ」

 痺れ、上手く動かない唇を無理に動かす。

「親御さんだって二人とも優しそうだったし、俺にも、よく世話を焼いてくれた。何かと、手土産をくれたりだとか、遊びに行っても、可愛がってくれた。すごく、いい人だと思ってた。うちの親は、厳しかったから、お前を、羨ましいとさえ思ってた。けど、それは、俺が他人だったからなんだな。あれは、外面で、お前には辛く当たってたんだろ」

 飲み過ぎて酔っぱらったときのような、夢か現かわからないような視界で、綴が唇を噛んでいるのが見えた。

 こんなにも、言葉がうまく伝わらない。

「お前の、両親と話してて、やっとわかったんだ。けど、勝手にそんなわけがないって決めつけてた。親が子供を利用するなんてありえないって。けど、それは、俺の思い込みなのかも、しれない」

「俺が、謝っても、なんにもならないと思う。許されようとも、思ってない。けど、謝りもしないのは、違うと思うんだ」

 声の震えは強くなる。

「ごめん」

 青山は、そう呟いた。

「ごめん、深谷。なんにもわかってやれなくて」

 声を絞り出す。それと同時に、唇に熱い液体が流れ込んでくる。

 苦い涙だった。胃液を舐めたようだった。

「ほんとうに、ごめん」

 青山はそう繰り返した。

「それは……10年前の僕に言って欲しかったですね」

 青山を見下ろし、綴は小さく呟いた。

 突如、場に似つかわしくない哄笑が響き渡った。

「”?”」

 黒田は嗤い続ける。一頻り大笑いした後、その声は突然ぴたりと止んだ。

「君が泣くなんて、おかしな話だな」

 一歩、黒田が近づいてくる。

「君の謝罪にいったいどれほどの価値があるんだろうね?」

 青山は息を呑んだ。

 また一歩、黒田が近づく。

「今更、たった一言謝っただけで、それが一体何になるのかな」

「…う」

「誰かに向かって放った言葉が取り消せるとでも思ってる?」

「…思ってない」

「泣けば許されると思ってる?」

「違う…」

「本当に申し訳ないと思ってる?」

「思ってる、思ってます」

「なら、土下座して靴でも舐めてみるかい」

 土下座?靴を舐める?

「…う」

 身体をずりずりと引きずる。

「はは、冗談だよ。君の唾液で靴が汚れるじゃないか」

 どうして、どうしてこんなにもこの男は嬉しそうなんだろう。クリスマスツリーの下でプレゼントを見つけた子供のように、その瞳は無邪気だった。

「うん、そうだよ。やはり人は皆、そうやって悲しむ姿が一番素敵だ。でもね、青山純」

 ぐい、と顔を掴まれ、無理やり上に向けられる。異様な瞳から逃れることができない。魂を吸い取られるような心地がした。

「俺は、君に心から感謝しているよ。君がこれほどめくらでなければ、俺は綴と出会うことはできなかっただろうから」

 黒田が、青山の顔から手を放す。支えを失った青山の頭部が、床に音をたててぶつかった。青山はその鈍痛に、ただ歯を食いしばった。

 綴は、ただ黙ってその様子を見ていた。

「綴、君にいいものをあげるよ」

 すく、と黒田が立ち上がり、綴に歩み寄る。黒田の指が綴の指に絡まり、掌を開かせる。どこからともなく、重厚な意匠の施された花鋏を取り出し、綴の手に握らせた。

「”ほかにしようがなかったら、あいつを打ち殺してしまえ”、ですか。まるで悪魔デミアンの御誘いですね」

 綴は驚きもしなかった。それどころか、微笑みさえした。

「黒田さん、もう、本当に、大丈夫ですから。僕は十分です」

 そう、眉を下げて笑う顔は、青山がよく知る綴の笑顔だった。

 綴が、その微笑を浮かべたまま、青山の方へと向き直った。

「青山さん、僕らの姿は、きっと貴方には新興宗教、それも邪教か何かに盲目に従う人間に見えるんでしょう。ある意味では、これも宗教戦争なのかもしれません。これは結局のところ、信じるものの違いだから」

「それとも、僕自身が不気味に見えるのかもしれません。両親にもよくそう言われました。特に母親には、不気味だと、変な子供だと。どうしたら普通になるのとか、悪いところは直しなさいだとか。基準を外れた人間は価値がないと、言われているようなものでした」

「きっと僕らは、カインを擁護する宗徒のように、悪魔に魅入られた、血迷った人間の集まりに見えるのでしょう。けど、それは誤解なんです。皆少しだけ内気で、脆く、不安の強い人たち─たったそれだけ、たったそれだけなんですよ、青山さん」

「前にも少し言いましたよね。僕は本が、物語が、物を書くことが好きでした。僕にとっては口語で話し伝えるよりも、文字にして伝えることのほうがずっと楽なんです。僕が、話し伝えることが下手だと言うことはわかってます。話し方が変だとか、可笑しいとよく人から笑われました。どれだけ努力して学習しても、どこか軽蔑されたり、嘲笑されることは避けられませんでした。今、僕がこうして青山さんに自分の言葉を紡ぐことができているのは、貴方が黒田さんによって地に伏していて、僕に絶対に反撃できないという確信があるからです。そうでなければ、僕は貴方にまた怒られるか、嗤われるという一抹の不安を避けるために、自分の魂を偽り、ただ笑って何もかも誤魔化したでしょう」

「僕はずっと、苦しかった。ただ生きていくことが苦しかった。自分が好きなものを好きだと言うことも、苦手なものを苦手だと言うことも許されていませんでした。母が好きなものを好きにならなければいけなかったし、母が嫌いなものを嫌いにならなければいけなかった。そうでないと怒鳴られ、嗤われ、ご飯をつくらないと脅されたり、無視されたり、不機嫌になった母の機嫌を取らなくてはいけませんでした。怒る母は、当時の僕にとってはこの世の何より恐ろしく、いつか僕は母に殺されるんだと、本気で思っていました。そんな母も、僕が勉強していい成績を取ると優しくなったので、僕は学問にしがみついていました」

 本当に楽しくて勉強していた時期もあったんですけど。

 そう付け加え、綴は息を吐き出した。

「でも、努力すればするほど、その努力は無かったことにされてしまいました。今出来ていることは当然出来なければならないことだったし、次もまた出来るのが当然でなければならなかった。出来なければそれは僕の努力が足りないということになるばかりでした。多分、母親には自分の子供に対する理想像があるんでしょう。どれほど成績でいい数字を出しても、運動が出来なければ、友達が沢山いなければ、要領が良くなければ、無価値だと言われていました。その欠点は、僕の努力不足によるものであり、病を治すように、僕自身の努力を持って治さなければいけないものでした」

「僕は確かに、暴力を振るわれたことは一度もありません。衣食住に不自由したこともありません。経済的に困ったこともありません。その点では、僕は間違いなく幸福でした。だから、誰にも言えなかったんです。言ったところで、一体どこに不満があるんだと、怒られてしまうから」

 それはさながら演説のように、どこか芝居がかっていて、本の中の文章を鼓膜に流し込まれているようで、難解だった。

 それでも、これ程綴が流暢に話せるのだと、驚かされる。

「生活を保証されているのなら、どんな侮辱も耐えなければいけない…そんなわけはないと、今の僕なら断言できる」

 綴が、ふっと微笑んだ。

「そんなに嫌なら、自分の力でどうにかすればいい」

 青山は目を見開いた。

 指先が強張る。

「一度は貴方も僕に対して、こう思ったことはありませんか。」

 青山の顔を見つめ、綴がそうですよね、と笑った。

「より苦しい思いをしている誰かがいるのなら、別の誰かの苦しみがなくなるわけじゃない。子供にも子供なりの苦労があるように、大人がそれを嗤うのは残酷なことです」

「僕たちは、互いを慰めるためにここにいるんです。紛れもなく自分のために、ここにいる決断をしたんです。逃げて─いや、違うな。これも僕らにとっては、自分の居場所を勝ち取るための闘いだったんです。きっと、あなたのような強い人には、閉じこもるか、無意味に逃げ惑っているように見えたのかもしれませんが」

「僕らが正しいとは思いません。僕らが貴方たちより優れているわけでもないと思います。けれど、貴方が僕らより優れているわけでもない」

 ぱた、と音がした。微かな音だった。

「お願いだから、僕たちからこれ以上何かを奪おうとしないで下さい」

 綴の声が、震えていた。

「僕たちはただ、自分の気持ちに背きたくないだけなんです。きっといつかは、過去を昇華して、もっと美しい世界へと飛び出していかなくてはいけないのは分かっています。それでも、今の僕らにはもう力が残って無いんです」

 だから、どうか。

 僕らに逃げ込む場所を下さい。

 痛みを誤魔化す麻酔をください。

 泣くことを許して下さい。

 立ち止まることを許してください。

 微睡むことを許してください。

 耳を塞ぐことを許してください。

 空想に耽ることを許してください。

 そうでなくちゃ、僕らは立ち上がり歩くことさえできないんだ。

 その姿は祈りに似ていた。組んだ手の上にいくつも涙が落ちて、その病的に白く、血管が浮き出す程に痩せ細った甲を濡らした。

 これ以上、謝ることは意味を成さない気がして、その手に自分の手を重ねた。

 綴が、青山の手をぱし、と跳ね除けた。

「…ごめんな」

 青山は、もう一度そう謝った。

 今は、言いたいことがわかった気がした。

 けど、だけど、深谷。

 青山は、綴の背後で目を輝かせている黒田を見上げた。

 お前の背後で笑っている男は、本当にお前の大切な友人なのか?

 本当に、お前の幸せを願っているのか?

 本当に、お前の思う幸せを願ってくれる人なのか。

 お前が大切だと思うものをこれ以上傷つけたくない。

 だけど、だけど。

 その男は、お前を破滅に引きずり込む気がする。

 根拠はない。確証もない。偏見かもしれない。

 だけど、あの男がお前の幸せを願っているとは思えないんだ。

 あんな嗜虐的な悦びに浸る人間といて、無事で済むはずがない。

 それとも、お前はそれすら受け入れているのか?今までそうだったように、逆らえないのか?

 なぁ、深谷。どうしたらお前にこの気持ちを伝えられる。どうやったら、お前の気持ちをわかってやれるんだ。

 騙されていないか。利用されてないか。

 そうだよ、深谷、俺はただ、お前のことが心配だったんだ。

『何かを守るにはそれこそ力がないといけないから』

 胃の壁に、無数に魚の骨が刺さっているみたいだ。遅効性の毒のように、あの男が吐いた言葉が身体の内側を侵食する。

 身体が重い。眠たい。全部夢だったのだと、眠って、見なかったことにしてしまいたい。そこに、目を背けたい真実が転がっている。

 お前には何もできない。

 嗚呼、本当だ。こんなにも、無力だ。

「ふふ、こんなことならば、いっそ意識を失うほうが楽だと、君は思わないかい」

 ひゅっ、と青山の喉が音を立てる。

 心を見透かしたような一言だった。

「もはや取り返しのつかない過ちを犯した彼を、君の慈悲をもって魂を摘み取る。そういう選択もあるんだよ、綴」

「僕にその技術はありませんよ」

「水臭いことを言わないでくれ、アミーチェ。君が俺に乞うのなら、彼をどんな姿にでもしてあげるよ。君の魂を傷つけた分だけ、彼の逃げるための翼を毟り、身を守るための爪を抜き、戦う牙を折ってみせよう」

 綴が頭を振る。

 綴はゆっくりと立ち上がり、黒田の目を見た。

です。黒田さん」

 黒田の肩が上がる。

「…いいよ。君の願いは聞く─そういう約束だからね」

「ありがとうございます」

 綴は、黒田に頭を下げた。

「嘘ついたら針千本、だね」

 青紫の瞳が、弧を描く。

 黒田の言葉が、ただの比喩ではないということは明白だった。

「気が変わったら、いつでも舞台を整えてあげるよ。人の魂の慟哭が吹き出る瞬間ほど、美しい時はないからね」

 綴は、眉を下げて、微笑を浮かべた。

 それは、青山がもう何年も見ていない、綴の、作り笑い以外の笑顔だった。


 つま先まで、疲弊している。

 青山は、黒田の手で昏睡させられた後、運び屋によって護送された。

 綴が、青山を五体満足で返してほしい、と黒田に頼み込んだのだ。無理を言っているのは承知だった。

「本当に、よかったのかい」

「ええ。これで、いいんです」

「俺に嘘はつかなくていいんだよ、綴」

 黒田の掌が、綴の背を撫でた。

 相変わらず、こういう時何が正解なのかが分からず、綴は自分の服の裾を掴んだ。

「本当は酷い目に合わせてやりたいくせに」

 顔を上げる。

 黒田が目を細める。

 ぞっとするような、愉悦の滲んだ笑みだった。

 しかし、それは文字にして形容した場合の話であって、綴自身は、もはやこの凄惨な笑みに対して、畏怖はあれど、怯えることはなかった。

「この国に法律がなかったら、そうしたかもしれません。幾度となく想像しました。無神経に、言葉を、人の魂を軽んじてきた人に対して、残虐な拷問を加える自分の姿を。でも、僕は、そういう人たちが苦しんでも、きっと嬉しいとは思えないんでしょう。別に、復讐が何も生まないとは思いません。多分、復讐って、自分の過去に対する清算なんでしょうね。マイナスをゼロにするだけで、そこに喜びはないから」

「そうだね」

「…もう、どうでもいいんです。本当に、どうでもいい」

「ふふ、わかっている。よくわかっているよ、綴。君のその魂の歪みが何より美しいよ」

 黒田の指先が、綴の目元を拭う。

 綴は、黒田が成すままに任せていた。

「今、僕にはやりたいことがあります。どんな感情も紙の上に描き出すと決めたんです」

 綴は、黒田にだけ聴こえるように、小さく呟いた。

「嗚呼、君の魂の慟哭を聴かせて。とびきり甘く、残酷に綴ってくれ」

 背を撫でる掌の感触に、綴は身体を震わせた。


****************

※注─『Stone break』

ユキノシタ。ストーンブレイク。「不屈の精神」「生命力」「故郷」「地縛からの解放」を象徴する花。学名は「石を砕くもの」という意味がある。

石や岩の上、隙間、薄暗い湿地帯など、過酷な環境でよく育つためか。

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