第22幕 Helleborus niger

 秒針が小さく音を刻む。

 パリのアンティークショップを思わせる、暗い青の壁紙に映える古時計。その下で、珍しく、花屋の手伝いに来た大庭が、だらしなく壁に寄りかかっていた。

 作業台では、黒田が花の加工に使う薬品の整理をしている。

「最後の方、遅いですね。何かあったんでしょうか」

 久方ぶりの、忙しない一日に翻弄された身体を伸ばしながら、綴はそう口にした。

 時計が差している時刻は午後7時だったが、ひかえめな店内の照明が絢爛に見える程、外の闇は濃い。

「彼女も受験生だからね。忙しいはずだよ。気長に待とう」

「おっ、噂をすれば、お姫様がご到着だぜ」

 大庭が店の入り口へ歩いて行き、来客の姿を確認すると、扉を開けた。

 冷気に吹き付けられ、ドアベルが冷たく澄んだ音を立てる。

「あの、遅くなってすみません!お花を、受け取りに来ました」

 白い息を切らしながら、少女は扉の向こう側から現れた。

 鼻先は赤く、指先は冷えて真っ白になるほどの寒さだと言うのに、その少女が纏っているのは制服とマフラーだけだった。

 黒田が少女を出迎え、微笑を浮かべる。

「久しぶりだね。待っていたよ、桂月」

「えへへ、秋ぶりですね。みなさんお元気そうで何よりです」

 悴む指先を擦り合わせながら、その少女─桂月は笑った。

 春頃に、シロツメクサの花冠を持ってきた彼女と初めて会った時から、もう半年以上が経っていた。

「遅くまでお疲れ様です」

「ありがとうございます、深谷さん」

 桂月が軽く頭を下げて笑う。

 心なしか、制服の袖から覗く彼女の手首が、細くなったような気がする。受験中の過酷な生活を考えれば、無理もない。

 しかし、どこか張りつめた空気がありながらも、彼女は追い詰められているようには見えなかった。自分も大学受験を経験したからこそ、感心してしまう。かつての自分に、彼女のような余裕はなかった。

「綴、品物を持ってきてあげて」

「あ、はい」

 綴は、予約商品用の戸棚から、用意していた箱を取り出し、黒田に渡す。

 黒田がそれを桂月に差し出した。

「開けてごらん」

 そう黒田に促され、桂月が箱を開ける。その瞬間、僅かに甘酸っぱい香りが漂った。

 中に入っていたのは、瓶詰にされたポプリだった。

 ベルベットを思わせる上質な、光沢のある布の上。小ぶりな試験管型のガラスに、白い花びらが詰め込まれている。

「これは”月の桂”と呼ばれる梅だよ。君の名前と同じ字を冠した白梅だ」

 桂月の頬が朱に染まる。目に湛えられた水分が、店内の照明を反射してきらめいた。

 なるほど。

 思わず感心の溜息が漏れる。

 梅。それは、天神と呼ばれ、学問の神として信仰される、菅原道真が愛した花。受験生である彼女には、この上なくふさわしい花だろう。

「おまじないいだよ。きっと全てが上手くいくように、ね」

 桂月の手が震える。華奢な手が、箱をぎゅっと握りしめた。

「ありがとうございますっ!すごく、すごく嬉しい…めちゃくちゃ頑張れます!」

 その喜びに満ちた顔は、安直ではあるけれど、”花咲くような笑顔”と喩えるしかないように思えた。

 両の掌に包み込まれた梅の花。

 クリスマスの日には少し雅な色彩に、年の瀬であることを意識させられる。

 もう、一年が終わる。

「次に会うのは来年かぁ。ああ、緊張する…」

 ふと、にやにやと笑いながら様子を伺っていた大庭が、思いついたように綴の肩を叩く。

「そういや、受験戦争を勝ち抜いた猛者がいるじゃん、ここに。なんか最後にアドバイスとかない?深谷先輩」

「ええっ」

「是非お願いします!」

 桂月がすがるような眼で訴えてくる。

 かつて僕もこうして、あの戦いの場に行った。それから、もう三年が経とうとしている。

 もう、あれから3年。

 あの時は、この戦いさえ乗り切れば、何かが変わるかもしれないと、心のどこかで思っていた。だから、戦うことができた。原因のわからない嘔吐を繰り返し、テキストが涙でふやけても、机にしがみついていた。

 それでも、僕はこの様だった。

 しかし、そんなことは、目の前のこの無垢で健気な少女とは全く関係がない。

 唾液を嚥下する。綴はううん、と唸った。

「なんというか、前日はとにかく寝るのが一番だと思います。緊張すると思うんですけど、その日の夜だけはあまり勉強せずに、いつも通りの時間に寝て…朝起きてから、試験開始直前まで苦手な箇所を纏めたテキストの読み込みをして…あ、あと当日の昼ごはんは、あまり食べすぎないことをお勧めします、かね…眠くなっちゃうので」

「結構本気のアドバイスじゃん。さすがだね、深谷

「いや、でも、個人差もあると思うので…自分のいつも通りが一番だと、思います。ありきたりなことしか言えなくて、すみません」

 桂月がぶんぶんと音がしそうなほど首を振る。

「参考になります。お昼とか、しっかり食べるつもりでしたし」

「まっ、桂月ちゃんなら大丈夫でしょ。受験失敗したら人生終わりってわけじゃないし、きみの場合はどうとでもなるって」

「あはは、それもそうですね」

 きっと、葛藤や焦り、苦しみもあったことだろう。それでも、こんなにも無邪気に笑える彼女なら、きっと大丈夫だと、綴は大庭の言葉に黙って頷いた。

 桂月が、深く息を吐き出す。

「それじゃ、そろそろ帰ります」

「試験、緊張すると思うけれど、頑張って下さいね」

 気の利いたことができるわけではない。それでも、受験に合格しようがすまいが、彼女の人生が、彼女にとって、幸多きものであってほしい。そう思い発した一言は、本当に当たり障りが無く、言葉の重みがない一言だった。

「はい!絶対良い報告ができるようにがんばります!」

 佳月は受け取った箱を、慎重に鞄に入れると、その鞄ごと大事そうに抱え、確かな足取りで、凍てつく冬の暗闇へと歩き出していった。

「ご苦労様、二人とも」

 桂月の姿が見えなくなると、黒田が労いの言葉を口にし、微笑した。

 大庭が軽く掌を上げる。

「これで本日のお仕事は終わりだね。いやぁ、疲れた」

「お疲れ様です。流石に今日は来客が多かったですね」

 12月24日、25日、言わずもがな、クリスマスであるこの二日間は、花の受け取りにくる人か、当日の待ち合わせの前に、生花を買って行く人がほとんどだった。先刻やってきた桂月も、そういう客の一人だ。

「しっかし、相変わらずのぶりだね、黒田くん。あれは受験終わったら告白しに来るよ」

「告白はとっくにされてるよ」

「わお、さすがだね。こんなどうしようもない男に惚れちゃって、桂月ちゃんかわいそー」

 大庭が、にやけた表情を隠す素振りすら見せず、黒田の身体を肘でつついた。

「ともかくお疲れさん。ほらほら、打ち上げしようぜ。しばらくみーんなお休みなんだからさ。なんか用意してくれてるんでしょ?店長」

「従業員である君たちを労うのも俺の仕事だ。もちろん、単純に友人としてもね」

 大庭がヒュウ、と口笛を吹く。

「さあ、全部片づけてしまおう。ご褒美はそれからだよ」

 今朝、家を出るのが億劫だと感じた自分を不思議に思う。

 自分でも信じられない程、晩酌が楽しみで仕方なかった。


「寝ちゃいましたね」

 黒田は一人でソファーを占領し、目を閉じていた。

 改めて、美しい人だな、と思う。

 同時に、あまり生気を感じさせない寝顔だ。明日を生きるために、安らぎ眠っている人の顔ではなく、棺桶の中で花に囲まれ、動かない死体のようだと思う。

 やはり、態度に出さないだけで、黒田もまた疲れているのだろう。

「黒田くんも酒飲んで寝ちゃうなんてことあるんだね。ほんと、こうして黙ってりゃ可愛いのに」

 隣に座る大庭が、可笑しがるような、慈しむような声で、そう言った。

「…今は、休ませてあげましょう」

「ま、美形の寝顔を肴に、ってのも悪くはないもんね」

 大庭の軽口に、適当に笑って、デキャンタを傾け、中身をカップへと注ぐ。

 ふわりとシナモンの匂いが漂う。デキャンタいっぱいに入っていた、深紅の美酒は飲み干され、輪切りのレモンや、櫛切りのリンゴだけが取り残されている。

 綴はグラスに残っていたリンゴの欠片を摘まみ、口に入れた。舌の上に広がる、熱く渋いタンニン。噛み砕けば、瑞々しい果汁が溢れ出た。

 アルコールがたっぷりと沁み込んだ果実は、酒そのものを飲むよりも、濃く甘い酩酊を誘う。

 上質なソファ。趣味の合う本棚。グリューワインとトリュフチョコレート。

 ただただ、この空間が心地いい。

 この時間独特の静けさに、やっと息がつけるようだった。

「夜中っていいよな。何でも許される感じするじゃん」

 徐に、大庭がシナモンスティックでワインをかき混ぜながら、独り言のようにそう言った。

「そうですね。僕も物を書くのは基本的に夜中ばっかりです。何故か、夜のほうが捗るんですよね」

「やっぱり、そういうのってモノ作る人間の業なんかね。最近書き物はどう?順調?」

「…どうでしょう」

 なにをもって順調と言うべきか。

 両親や青山と完全に離別したのは、数週間程度前のことだ。随分、遠い昔のことのように思える。あれから青山には会っていない。両親とも、一切の連絡を取っていない。

 自分を縛り付けるものはもう、何一つないはずだ。

 それなのに、手が動かない日が増えていった。

 俗にいうスランプと呼ばれるものなのかもしれない。時折、自分の描き出した言葉が、途方も無く陳腐に見える時がある。

 綴がしばらく逡巡して黙っていると、大庭が物理的に距離を縮めてくる。

「ほんとは言いたいことあるんじゃないの?」

 大庭が、赤い顔のまま、小首を傾げる。

「…正直、順調だったことはないかもしれない、です」

 綴は、ぽつりとそんな言葉を口にした。

「ほう?もの書いてて楽しくないの?」

「いえ、楽しいときもあるんですが、それはほんの一瞬というか。達成感があるのは書き終わった直後だけで…ずっと、焦燥感があるんです」

「深谷くんは、休むのが下手なんだねぇ」

「そうかもしれないですね」

 僕にとって、尊敬とは軽蔑であり、信頼とは失望であり、幸福とは不幸だった。尊敬されればいずれ軽蔑される時が来る。信頼されればそれに見合う結果が出せなければ失望される。幸福を感じることがあっても、それは長続きするものではない。

 尊敬されても、信頼されても、幸福を感じても、その瞬間からいつか必ずやってくる暗い影に怯えなければならなかった。

 だから、休む時間に、それが生産的な休みであるかどうか、考えてしまう。

 不幸は、毒と同じなのかもしれない。

 ずっと毒が身体を回っていると、毒が無いことがこの身体にとっての異常になる。それはさながら麻薬の禁断症状のようで、

「悲しいことがあるほど、手が動いてしまうっていう側面はあるのかもしれませんね」

 大庭が目を見開く。そして、肩を揺らしながら笑った。

「深谷くんって、結構なマゾだよねぇ」

 思いもよらぬ返答に、綴は思わず口に含んでいた酒を噴き出しそうになる。

「…そんなことはないと思いますけど」

「おれの経験上、家庭環境まともじゃないやつは、大体性癖拗れてんのよ」

 ふふん、と大庭が赤らんだ顔で得意気に笑う。

 大庭が、ソファに背を預けると、手持無沙汰なのか、シナモンスティックを弄ぶ。

「…大丈夫だよ。深谷くんは、泣いてない日を数えた方が速いんだから。そうじゃない日は、別に油売っててもいいんじゃない。君、まだ二十歳だぜ」

二十歳ですよ」

 乾いた笑いが口から洩れる。

 そう、もう二十歳。法の上では、全て自分で責任を負うべき年齢。それを世間では”大人”と呼ぶ。

 それなのに、僕は。

『結局、何も変わってないじゃない』

 いつだか母に言われた。

 その通りだった。物心ついた時から、結局、何も変わっていなかった。変わることができなかった。

「結局、この二十年間も、全部棒に振ってしまったんです」

「え、待って待って。ねぇ、本当にそう?本当の本当に、棒に振った?何も変われなかった?」

「え?」

「本気で、何も変われなかったって思ってる?」

 珍しくも強い大庭の語調に、綴は口ごもった。

「おれから見た限りさ、深谷くんは、気が弱くて、人と話すのが苦手で、病弱で、人嫌いに思えるわけよ。えげつない頻度で泣くし、今生きてることが不思議なくらい。それでも、昔の深谷くんに比べたら、ちゃんと人と話せるようになったんじゃないの?病気もしなくなったんじゃないの?」

「まあ…そりゃ、昔はもっとひどかったので…」

「でしょ?なら、それは成長してるってことじゃない?」

「でも、それは、一般的な基準には到底─」

「”一般的”ねぇ。苦手なこと、一ミリも努力してないやつがそういうこと言うんだって。三十四になるおじさんが保証するけど、三十超えても殆どの人間そう成長しないって。まじで。ガキが身体だけでかくなってるんだよ。幼稚園とか、小学校とかと、構造何っにも変わんない。だから、深谷くん、偉いよ。昔に比べて、何か一つでもできることが増えてるなら」

 綴は、唇を噛んだ。

 頼むから、そんな風に労わらないでほしい。そうでないと、このまま優しい泥沼に身を委ねていいのだと、勘違いしそうになってしまう。

 いつもそうするように、喉を締め、辛うじて涙を堪える。それでも、目の充血は抑えられない。

 ああ、でも、確かに、泣くのを押し殺すのは、上手くなっているのかもしれない。どれほどの人の視線があろうと、手放しに声を上げて泣いていた、あの頃に比べれば。

 突然、大庭が「あっ」と声を出した。

 綴はびく、と肩を揺らした。

「そういや、渡そうと思ってたものがあるんだった」

 大庭はソファから立ち上がると、おぼつかない足取りで部屋を出ていこうとする。その歩き方がまさしく千鳥足と呼ぶに相応しいものだったので、綴は思わず腰を上げた。

「大丈夫ですか、相当酔ってますよね」

「酔ってなぁい、おつかい一人で行けるもん」

 何が可笑しいのか、大庭が始終けらけらと笑っている。その様子が少し不気味でもあり、羨ましくもある。

「めちゃくちゃ酔っぱらってるじゃないですか」

『酔っているか』と聞かれて『酔っていない』と答える人が、本当に酔っていなかった例を綴は知らなかった。そしてそういう泥酔した人間に限って、立ち上がった直後に、倒れたり吐いたりする。何十回と目にしたし、介抱に回ったことがあるのだから、これだけは自信を持って言える。

 しかし、大庭は差し出した綴の手を取ることなく、笑いながらふらふらと玄関の方へ姿を消してしまった。

 綴はすとん、とソファに腰を落とした。

 あれは、やはり後で嘔吐することになりそうだ。

 この部屋の持ち主である黒田には申し訳ないと思いながら、思わず吹き出してしまう。

 確かに、自分が想像していたよりも、人は子供のまま、大人になっていくらしい。

 綴が、まだ残っていたウイスキーを舐めていると、大きな黒いケースを抱え、大庭が戻ってきた。

 大庭は、綴の隣に倒れるように腰を下ろすと、ケースの中身を取り出した。

 つやつやとした木目が、部屋の控えめな明かりに照らされる。アコースティックギターだ。

 大庭は、慣れた手つきでペグを捻りながら、口を開いた。

「深谷くんはさぁ、何か楽器やったことある?」

「えっと…その、バイオリンを、少しだけ」

 大庭が赤い顔のまま、にやりと笑う。そして、納得したように大きく頷く。

「あー、はいはい、なるほどねぇ。そんな感じする。お稽古?」

「はい。だから、その、怒られた思い出ばっかりで、今はもうほとんど弾けないんです」

「怒られたって、先生に?」

「いえ、母に…」

「お袋さん、バイオリニストとかだっけ?」

「いえ、普通の会社員でしたけど…」

「なんじゃそりゃ」

 確かに、変な話だ。

 自分で口に出しておいて、首をかしげてしまう。

 大庭が目を少し伏せ、ふっと笑みを零した。

「残念だなぁ。バイオリンとバンド音楽って相性いいからさ、セッションとか、してみたかったな」

 弦が弾かれ、音が響く。温かい、それでいて色気のある音だなと思った。普段、耳に詰めたイヤフォンの中から流れてくる音とは違う、肌に直に触れてくるような、腹の底に響くような、音の波。

「大庭さん、音楽がお好きだったんですね」

「そ。バンド組んだりしてね。昔はそうやって自分で音楽作ったりしてたってわけ」

「自分で曲を書いてたんですか」

「そんな大層なもんじゃないよ。でも、君らとあともう少し早く会えて、バンド組めたりしたら楽しかっただろうなぁって、よく思うよ」

「黒田さんもなにか楽器をやってたんですか」

「うん。黒田くんはピアノ習ってたことあるんだってさ。今度聞かせてもらいなよ。腹立つくらい上手いから」

「黒田さんって、逆に何ができないんですか…」

「おれも羨ましくってしょうがねぇよ」

 そう話す間にも、チューニングが終わったらしい。指が弦をぴたりと抑え、和音を奏でる。こうして間近で観察してみると、大庭の指先にはうっすらと傷があり、その表皮が固くなっていることに気がついた。

「手、すごいですね」

「ああ、これ?でも、おれはまだまだだよ。本当にやり込んでる人は皮膚が逆に柔らかくなるんだ。というか、深谷くんのペンだこのほうがすごいと思うけど」

 そう言われ、綴は自分の手に目を落とした。確かに、右中指の爪が斜めに曲がり、関節の片側だけが盛り上がっている。親指でそこを撫でてみれば、硬い皮膚の感触がした。

「まぁ、あんだけ文章書いてるんだからそうなるわな。純粋に尊敬するよ」

 ぱさ、と軽い音がした。

 見覚えのある紙の束が、散々散らかったテーブルの端に置かれている。

「えっ、これって」

 僕の書いた短編小説じゃないですか。

 そう返答する前に、大庭が口を開いた。

「黒田くんに言って借りちゃった。だから、これは”ごめんねの歌”」

 そう言うと、大庭は息を吸い込んだ。コツコツと軽くギターの表面を叩く音。大庭の喉が震える。

 それは、優しい歌声だった。

 音の緩急が、涙腺を溶かすようだった。

 初めて聞いたはずなのに、ずっとそのメロディに支えられてきたような気がした。

 音の一つ一つに肩を抱かれるようだった。

 きっと、その歌詞は原稿用紙に書き出せばたった数枚なんだろう。それなのに、何十万という言葉の息吹を感じた。

 たった今まで、表現とは、文字か絵のことだけだと思っていた。そう思っていたことに、今、気がついた。

『大丈夫だよ』

『えらいよ』

『よく頑張ってるよ』

『泣いていいよ』

 そんな歌詞はどこにもなかったはずなのに、流れる音に、そう言われているような気がした。数分前、大庭自身の口から語られた言葉よりも遥かに、強い意志が宿っているような詩だった。

「ったく、泣かせんなよ」

 音が鳴り止むなり、大庭は片手で自らの顔を覆い隠した。

「イントロで泣き出すからびっくりしたじゃん。鼻水すげー、こんなに小汚くしちゃって」

 茶化してくる大庭の頬が濡れていた。

「うるさいです」

「あははっ、…ああ、クソ、ほんと…なんでさぁ…泣いちゃうじゃん、こんなの」

 互いに顔を背ける。ぐすぐすと、互いの鼻をすする音だけが聞こえる。

「あー、悔しい。本当に悔しい、こっちが泣かされるなんてさ、カッコ悪…」

 大庭が目頭押さえて天を仰いだ。

「やっぱ、おじさんになると涙腺緩むんかなぁ」

 ずび、とひと際大きな音がする。

 綴は、手元にあったティッシュペーパーを箱ごと大庭の手元に差し出した。あまりにも綴がよく泣くのを見かねて、黒田が常備してくれていた上質なものだった。

 大庭は素直にそれを受け取った。

「ほんとーに深谷くんはいいこだね。うっかりチューしたくなっちゃう」

「ちょ、やめてくださいって、この酔っぱらい」

 おどけて唇を突き出す真似をする大庭を押しのける。その代わりに、白髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜられる。

「ありがとね」

散々髪の毛を掻きまわした後、大庭が小さく呟いた。

「いえ、その、こちらこそ」

自分の髪を直しながら、綴もまた小さく答えた。

「なんていうかさ、おれは深谷くんにも黒田くんにも、煌ちゃんにも、みーんな幸せになってほしいよ。過去を忘れろとか、そんなんじゃなくて、ただ自分のことだけ考えて楽しくバカやって生きていってほしい。本当に、それだけでいいよ」

 にっ、と歯を見せて笑う大庭。

 その笑顔を見ているだけで、ぎゅう、と喉が締まる。

 どうして、こんなにも他人のことを思える人が、電車に飛び込まなくてはいけなかったんだろう。

 どうして、こんなにも美しい音楽を奏でられる人の顔に、濃い隈が浮かんでいるのだろう。

 今は、もう曲は書かないんですか。

 そう質問しようとした時だった。

「酒を飲むと素直になるのは相変わらずだね、睦」

「げっ」

「起きてたんですか」

 起きた気配すら見せなかった黒田が、ゆっくりと身体を起こした。

「寝てないよ。一瞬記憶が無くなっただけで」

「おれそれ突っ込まないよ?」

 黒田が足を組み、ふふ、と笑う。

「君は、やっぱりいい声をしてるよ。もっとたくさん歌を聞かせてくれればいいのに」

 そう言って、黒田はするりとワイングラスを手に取る。殆ど反射的に、綴は残っていた赤ワインをそのグラスへと注いだ。

「あのねー、黒田くん。もの作って人に見せたり聞かせたりするのって結構怖いんだぜ?ガッカリされたらどうしようとか、昔の方が好きだったとか、いろいろ言われるの、本当に嫌になっちゃうんだから」

「それは、僕も同意見ですね」

「君たちの作品を批評するだなんてとんでもない。俺は、君たちが魂を剥き出しにして作り上げたものが好きなんだよ。それがどれほど未熟であろうと、技術的に稚拙であろうとね。もちろん、指摘してほしいというならそれもやぶさかではないけれど」

 黒田が、心底満足気にグラスを揺らし、酒を嚥下する。

 大庭が、「そうかよ」とだけ呟き、まだ充血している目を擦った。

「つか、おれもう寝ていい?眠くなっちゃった」

「もう降参かい」

「無理、ゲロ吐く」

「それはご遠慮願いたいな、切実に」

 大庭がふらふらと立ち上がり、勝手に黒田の寝室へと上がり込んでいった。

 黒田が肩を揺らして笑う。

「君はもう少し付き合ってくれるだろう、綴」

「はい、大丈夫ですけど…」

 そこからは、結局いつも通り、各々好きな酒を用意して流し込んだ。

 視界が揺れている。自分の中身が、ふわふわと浮くようだ。

 ここまで酔ったのは、初めてかもしれない。

「俺はここで寝るよ」

 空の酒瓶が二本程増えたころ、黒田がそう言った。

「…じゃあ、僕もそうします」

 リクライニングの機能がついているソファは、瞬時に酔っぱらい専用ベッドとしての役割を果たしてくれる。

 身体がクッションに沈み込む。身を完全に預ければ、寝具としてのベッドと遜色無いほど、適度に柔らかく、体重を分散してくれる。黒田が、頻繁にソファーの上で寝ていることを考えれば当然の投資かもしれない。

「少しは酔えたかい」

黒田が、声を少し潜め、尋ねてくる。

「…初めて、本当に酔っぱらったかもしれないです」

「それはよかった」

 酒の匂いが充満した部屋は、意固地で幼稚な脳を程よくを蕩かしてくれる。この退廃が、この暗闇が、惨めな自分の存在をあやふやにして、現実逃避を許してくれるような気がする。

「でも、やっぱり幸せなのは、眠る直前だけです」

 微睡みという、緩やかな死の疑似体験。

 こんなにも、美しく安らぐ時間があるだろうか。夜と夜の、そのさらに隙間にしかない、不可侵の、しかし雨に打たれる桜より儚い時間。

「ずっと、目が覚めなければいいのにね」

 甘美な声音だった。深く、甘く、ただ美しい。

 堪えたはずの涙が、流れ、ソファの表面に落ちる。

 ぱたぱたと、宛ら弱い雨音のように。

 一体何度、この声に泣かされているのだろう。

 今まで培ったはずの、涙を押し殺す技術も、黒田の前では無意味だった。結局、この人の前では、成すがままに泣いてしまう。取り繕うことも、隠すこともできなかった。

 泣くたびに、瞼に触れた唇の感触を思い出す。

「君たちの生き様は切り花に似ているよ」

 黒田がソファから立ち上がり、歩いてくる。そして、綴の顔の前に膝をついた。

「とうの昔、蕾のまま刈り取られ、僅かな水で咲き誇り、そして萎れるのを待つだけの花だ。せめて、俺はその花を美しく保つために手を尽くそう。切り落とす瞬間は、君達だけのものだ」

 綴の、透明に近い白い頭髪の間を、細い指先が撫でる。

 黒田に成されるがまま、綴は酒瓶だらけのテーブルの上に目をやった。

 その真ん中にある花瓶で、クリスマスローズが項垂れている。

 そういえば、クリスマスローズは、その名前を戴きながらも、クリスマスの時期に咲く花ではないことを思い出した。商業的な兼ね合いで、その時期に咲くことを調整された花だ。

 そういう点で、この項垂れた花にはどこか悲哀が滲んでいる。

 綴は、次第に下がってくる瞼の隙間から、黒田の瞳を見据えた。

「…僕はまだ、大丈夫です。きっと、まだ…大丈夫だから」

 酒のせいで掠れた声を絞りだす。

「大庭さんがのこと、です、もしかしたら、まだ、泣いているかもしれないから」

 瞼が重い。

「君は、本当に─」

 黒田の、感嘆にも似た声。あるいは、畏敬とも恍惚ともとれるような、吐息。

 頭皮に触れる掌の感触が温かい。眠たい。この瞬間だけは、嘘偽りなく、幸せだと思う。

 今日くらいは赦してくれと、きっと僕は明日も思う。

 いいんだ、もう、何もかも。

 黒田の言葉の最後を聞く前に、綴は深い眠りに落ちていった。


****************

 ※注─『Helleborus niger』

 ヘレボルス・ニゲル。クリスマスローズ。属名にはギリシャ語で「食べると死ぬ」という意味がある。Nigerは「黒い」の意。

花言葉は「慰め」、「私の不安を和らげて」等。「慈悲」や「救済」、「死」、「中傷」などを表す。

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