第23幕 Papaver somniferum

 しょきん、と音が鳴り、花の首が落ちる。

 切り花が好きだ。

 鑑賞用にエゴや欲望をつぎ込まれ、それでいて強かな花が好きだ。野に咲く花とは全く別の美しさがある。

 それは、命の終焉を可視化させるからかもしれない。毎日水を取り替え、茎を切ってやり、適度な栄養を与えなければ、その命は一週間と持たない。どんなに屈託のない、愛らしい見た目をしていても、切り花という存在からは、どこか死の匂いがする。

 黒田は深く息を吸い込んだ。

 そうすることで、やっと自分の身体の中身が入っていることを自覚できる。

 時折、ふと、自分の身体に、何も入っていないような感覚に陥ることがある。胸に手を当てれば鼓動を感じるのだから、間違いなく心臓はあるのだろうし、内臓はどれも揃っているはずなのだが、なぜだか、胸の内がからっぽな気がしてならない。

 何かが、足りない。

 この空虚な気持ちを紛らわすため、今日一日、黒田はずっと店の花の手入れをしていた。

 淡々と、状態を観察し、水揚げをし、余分な部位を切り落とす。花屋としての仕事は、自分の不安定な精神を均一にし、麻痺させてくれる。ただ手を動かしている間だけは、白昼夢を見ずに済んだ。

 見方を変えれば、それはある意味、自分の魂を押し殺す行為の一つと言える。だが、自分の魂を押し殺してでも動かなければいけないときがあるのもまた、避けがたい現実だと、骨身に染みて知っている。

 しかし、長年の慣れのためか、その作業すら淀みなく進み、いつの間にかやるべきことはほとんど片付いてしまった。

 心なしか、自分の呼吸が浅いような気がする。

 悲劇の匂いで部屋をいっぱいにしていなければ、薄暗い部屋でなければ、どうにも呼吸がし辛い。

 自分の魂が、身体から抜け出してしまうようだ。あるいは、既に肺にまで水が満ちて、深い水底に限りなく溺れていくような感覚だった。

 最近は、自分がそういうものに囚われていることを意識せずに済んでいた。綴が寄越した短編や詩の数々が、麻酔の役割を果たしてくれていたのだ。綴の紡ぎ出す物語は、酒やお菓子などより、精神に良い効き目があった。

 しかしその麻酔も、しばらく摂取できていない。

 ここのところ、綴は俗に言うスランプに陥っているらしく、いつにも増して溜息をついていた。

 接客中こそ何事もないように振る舞ってはいるが、ふとした瞬間に、透明に近い睫毛の下で、黄緑色のガラス玉が、ここではない何処かを見つめていた。

 彼にとって、書くことは泣くことと同じくらい、魂の代謝としての役割を持っているのだろう。書けない、ということが、彼の精神状態にどれほどの負荷をかけているかなど、想像するのは容易い。そんな精神状態に引きずられるように、綴は頻繁に持病の偏頭痛を起こした。

 だのに、綴は一度だって黒田に「助けてくれ」と懇願したことはない。

 溺れる子供と同じだ。

 自分が何故こんなに苦しいのかが分からなくて、抗う方法も分からず、静かに水底に沈んでいく。声を上げることも、助けを求めることもなく、我慢して、我慢して─静かに潰れる。

 その様の、なんと愚かで、哀れで、美しいことか。

 しばらく、彼の笑顔を見る機会が増えていたので、彼の魂が再び不安と焦燥、悲哀に回帰しているのを見て、黒田は密かに喜びを感じていた。

 やはり、彼には悲しみの表情が似つかわしい。

 恐らくは自分でも限界を感じていたのだろう。数日前、少し休暇をとってみてはどうかと提案した。

「…僕はもう、役に立ちませんか」

 心底怯えきった目で、綴は黒田を見上げた。

「君が不要になったんじゃないんだよ、綴」

小刻みに震える、薄い肩に手を添える。

「君の能力に問題があるのではない。君の体調が優れないんじゃないかと思ったんだ」

「いや、でも、まだ大丈夫です、まだ、頑張れます」

「本当に?俺には、今の君はかなり無理をして動いているように見えるけれど」

綴の薄い唇が震えた。

「すみません、本当に。僕の仕事の能力が不足しているから、もう来るなと言われているのかと、思って…僕自身の認知が歪んでいることは、わかっているんです。それでも…僕は要領が良いわけではないので、やっぱり本当は、従業員として不適格なのでは、と、思って」

 綴が顔を覆う。指の間から、涙が滴る。

 綴に花屋としての仕事を手伝わせているのは、雇うという体裁を保つことそのものだけが目的ではない。

 どうしようもなく精神が不安定な時、何も考えずに集中できる作業が、ある程度の安寧をもたらしてくれると、自分の経験上知っているからだった。しかし、それすら今の綴には重荷になっている。

 スランプによる焦燥。秋から冬にかけての季節が持つ、独特の哀愁。それらが綴の内部へと入り込み、尽きることのない病的な不安と混ざって、裡から溢れ出ていた。

 綴は自分の内面を自覚してから、それほど時間が経っていない。自分の精神状態を飼い馴らすことができないのも、無理はなかった。

「ほら、自分でも分かっているんだろう。今の君には、一人で泣く時間が必要だ。確かに君は、心身の体調を崩しやすいが、それを差し引いても優秀だよ。そうでなければ、俺は他人をわざわざ手元に置いたりしない。それに、従業員である君のパフォーマンスを引き出すのも、店主である俺の仕事だ。…こう言ったほうが、君は納得しやすいかな」

 綴が自分の目元を拭う。たった数秒の間にも、豪雨に晒されたように頬が濡れ、目は真っ赤に充血していた。

「気が向いたら、またいつも通り手伝いに来てくれても構わない。一先ず、年末の休暇だと思って、一週間ゆっくり休んでおいで。きっと、今の君にしか書けないものもあるだろう」

 そうしてようやく、綴は小さく頷いたのだった。

 しばらく彼の新作を読めないのは心底残念に思うが、それでも、彼の不安や焦燥が尽きることはないのだと、心の底から安堵した。

 寒さのために、白く結露した窓に目をやる。

 今頃彼はどうしているだろうか。

 ふと、空気が揺れる。

 沈んだ思考が現実に引きずり出される。

「来客かな」

 外の監視をさせているハナバチが一匹、店に飛び込んできて、黒田の耳に留まった。彼女らの言語の一つである振動が、耳朶じだから鼓膜へと伝わる。

 その数十秒後、外套を羽織った白髪混じりの男が、店のドアベルを鳴らした。

 男の視線はぐるりと店内を見渡し、黒田の顔を捉えた。

 男が口を開くより先に、黒田は微笑し、声をかけた。

「いらっしゃい。政治家先生がこんなところに来るとは、珍しいね」

 男の眉が上がる。

 黒田は続けた。

「手土産の花が御入り用かな。生憎、うちは胡蝶蘭を取り扱ってないんだ」

 男はほう、と感心したようにため息をついた。

「…何故私が政治家だと?」

 黒田は目を細めた。

「見ればわかるよ」

 身体に合うように特注で仕立てられたスーツ。磨き上げられた革靴。足取り。

 黒田が吟味するように眺めると、男は居心地悪そうに頭を掻いた。

「君がこの花屋の店主、黒田馨君で間違いないかね。折り入って君と話がしたい」

「今日は人と会う約束を取り付けていないんだが、どちら様かな」

「ああ、これは名乗りもせずに失礼した。改めて、私はすえ慎一郎しんいちろうだ。初めまして、黒田君。それとも─”花屋敷はなやしき君”と呼んだほうがいいかね」

 一瞬、思考が白んだ。

 掌の中の金属が、やけに冷たく感じた。

「…その名で呼ばれるのは何年ぶりかな。俺をそう呼ぶからには、相応の覚悟と理由がおありなんだろうね?」

 黒田は花鋏を掌の上でくるりと回転させて見せた。

 すえが降参だと言うように、軽く両の掌を上げた。

「気分を害したのなら謝る。私は君と敵対したいわけじゃない」

「…まぁ座りなよ。紅茶くらいはご馳走しよう。ちょうどおやつの時間だ」

 黒田に促され、末はそれに従い、椅子に腰をかけた。

 湯を沸かし、アールグレイの紅茶缶を手に取る。末は落ち着かない様子で店内を見渡した。

 沈黙の中、茶器の音と、末が貧乏揺すりをする音が響く。

 黒田は二人分のカップを用意し、紅茶を注いだ。茶器と同じボーンチャイナの小皿に、ケシの実入りクッキーを乗せる。

「さぁ、どうぞ」

末は首を振った。

「私はいい。気持ちだけ受け取っておく」

「美味しいのに」

 クッキーを齧りながら、黒田は肩をすくめた。

「年寄りだからな。最近、血糖値が気になっていてね」

 末が自嘲気味に笑う。

 黒田はそれに答えることなく、椅子に腰掛けると、紅茶を口にした。

 相変わらず末はそわそわと落ち着かない様子で、目を泳がせた。

「…それにしても、表の薔薇は美しかった。あれも君の手入れの賜物か」

「そういう世辞は聞き飽きてるよ。それで?話というのは」

 末がわざとらしい咳払いをし、姿勢を正す。

「君に、この国の人間を救って欲しい」

末はテーブルの上で手を組み、そう言った。

「順を追って話そう。我が国は、今ある佳境に立たされている。その一つの由々しき事態とは、若者の自殺率だ。我が国の若者の自殺率は、世界的に見ても深刻だ。それくらいは君も知っているだろう」

「まあね」

「本当に深刻なんだよ。自殺者数は年間およそ二万人。若者の死因は自殺が最も多いと言われている。全体の自殺者数は少しずつ数を減らしてきているものの、未だ問題視すべき状況には変わりない。電車のホームにもドアを設置、緊急用の相談窓口も数を増やした。だがまだ根本的な解決には至っていない。このままでは少子化に拍車を─」

「結論を先に言ってくれたまえ。お互い忙しい身の上だろう」

 黒田に言葉を遮られ、末は再び咳払いをした。

 末が真っ直ぐ黒田の顔を見た。

「つまり、君に、向精神薬の開発を頼みたいんだ」

 予想はしていた。だから、さほど驚きはしない。

 しかし。

 黒田は口を開こうとして、止めた。

 喉が渇く。紅茶を飲み込む。白湯を流し込んでいるような気がした。

「向精神薬、つまり、自殺に向かう人々の精神状態をさせるための薬だよ。既に数年前から、そういった向精神薬の開発は進んでいるが、まだその完成形には程遠い。そこで、君に白羽の矢が立ったというわけだ」

「君は、花屋敷家が代々引き継いできた秘蜜の調合ができるんだろう。本来は、この国の暗部の安定のために利用されてきたものだが。私も含め、一部の人間は知っている。既に花屋敷家がそれに準ずるものを作り、流通させていたことをね。いや、もしかすると、それは過去形ではないのかもしれない。私の知り合いにも、随分と者がいると聞いた」

「君が、君たち花屋敷家が秘蜜を使って行ってきたことは、すべて不問にする。その代わり、これからは、この国の未来のために、その力を使ってほしいんだ」

 次第に末が饒舌になる。

「国が君の立場を保証する。君の全ての生活費、研究費、すべてをだ。もちろん、公にはならないが、それは君にとっても悪い話じゃないだろう。表向きは、とある製薬会社に研究員として務めてもらう形になる。君が開発に成功すれば、君の名はこの国を救った英雄として、歴史に刻まれるに違いない。確かに、かつて、君達花屋敷家が持つ技術は、暗殺という恐ろしいもののために使われてきた。しかし今は、それを人のために使える。君の能力を正しく生かせる。君の力をもってすれば、人の心の問題はおろか、不治の病だって治せるんじゃないのか?」

「さあ、どうだろう」

「花を識り、蜂を操り、毒を纏う者。現代に生き残った、最後の魔術師。それが君という存在だ」

「君には、きっと我々にはできない偉業を成し遂げることができると信じている。君は救世主になれる。もはや、君にしか、この国の人々は救えない」

 声に熱が帯びる。こうして話をする間にも、末の目は酔っぱらいのように、鬱陶しいほど高揚して、落ち着きがなかった。

 何かを得ようと必死に媚び諂う人間ほど不気味なものはない。

 この男は今、自分がどんな顔をしているか、気がついているだろうか。

「私たちは真剣にこういう人々を救いたいと思っているんだ。誰もが笑える国にしたい。今やこの国には絶望が溢れていて、特に若者は未来が無いと嘆いてばかりいる。それは私も心が痛むんだ」

 私は心が痛む。末はその言葉にやけに力込めた。

「それに、実は、私は幼い頃の君に会ったことがある」

「ふうん。それはまた奇遇だね」

「君のような完璧なご令息が、こんなところで庶民のための花屋をやっているなんてな。最初知った時は驚いたんだ。あの時から、君はまさに高嶺の花、誰もが憧れる神童だった。君たちは特別見目麗しく、あの場にいた誰もが君たち父子にお目通り願っていたのだ。父君に連れられて、会食の会場を歩いていた君の姿を、昨日のことのように思い出すよ。君の父君亡き今、私のことは第二の父として頼ってくれても構わない」

末は、黒田の返事も確認せず、一人話し続けた。

「君だって良家のご子息だ。高貴なる者の義務ノブリス・オブリージェ。聞いたことくらいあるだろう。私たちには、民を救う義務がある。花屋敷馨殿、どうか、この件について検討してはもらえないだろうか」

 末の目がらんらんと輝いている。

 嗚呼。この男は本気で、人から苦痛を取り除くことが救済であると信じているのだ。

 この男は知らないのだろう。陽光に照らし出される惨めさも、何より愛したはずのものが指をすり抜けていく虚しさも、言葉の魔力も、甘い毒の味も、深淵の優しさも、自分の魂の在り処すらも。

 この男は、善良だった。愚鈍で、無自覚で、傲慢な、善良な人間だった。

 黒田は目を伏せ、息を吐き出した。

「"半グラムで半休分、一グラムで週末分のリフレッシュ。二グラムなら豪華な東洋の旅、三グラムなら月世界の永遠の闇"」

「は?」

 末が眉を顰める。

「”ソーマ十グラムは十人の鬱を断つ”─か。笑えないな、本当にさ」

 紅い水面に、自分の青紫色の目が映っていた。

 黒田は顔を上げた。

「君、ハクスリーを読んだことは?」

「ハクスリー?なんだそれは」

「機会があったら、読んでみると良いよ。オルダス・ハクスリー、『すばらしい新世界』。今の君には、是非必要な物語だろうから」

 そう言うと、黒田はカップをソーサーへと置いた。

 紅茶と菓子を味わう気力はとうに失せていた。

「答えを聞かせてくれないか。君にとっても悪い話じゃないだろう。こんな場末の花屋で小銭を稼ぐ必要もない。必要ならどんなものでも用意しよう」

「へえ、まさか、『金も酒も女もお前のものだ』なんて、今時小説にも出てこない台詞を言うつもりじゃないだろうね」

「…なら、何が望みなんだ」

 どんなものでも。

 たらればの話を夢想することは不毛だとは思いながら、もし、過去に戻る権利が与えられたとしたら、僕はどうするのだろう。

 できる限り残虐な方法で両親に拷問を加えるだろうか。見て見ぬふりをした使用人たちに、制裁を与えるだろうか。

 黒田は溜息をつき、首を振った。

「君の魂は貧しいな」

「私が、貧しいだと?」

 末の眉間に、深く皺が寄る。

 あえてこの男の神経を逆撫でしそうな言葉を選んだのだが、末はその挑発に乗ってきた。

「君には歳上の人間を敬う気持ちがないのか」

「順序が逆じゃないかな。古いものが優れているんじゃない。骨董品アンティーク我楽多ガラクタは全く違うよ」

 末の眉がぴくぴくと動く。こめかみに血管が浮き出す。

「いい加減にしろ青二才!」

 拳が机を叩く。ガチャン、と茶器が跳ね、紅い液体が零れる。

「君は一体なんなんだ!こちらが誠意をもって頭を下げてやっているのに!」

 末は怒りのためか、立ち上がった。その拍子に、椅子が後ろ向きに倒れる。

 黒田がくす、と笑う。

、か。語義矛盾も甚だしいね。人にものを頼む態度だとは思えないよ」

 黒田は少し眉を下げて微笑んだ。

「君の棺に入れる花は何がいいかな」

 末がはっと息を呑んだ。後ずさろうとして、足が縺れ、尻餅をついた。

 黒田は緩慢な動作で椅子を引き、立ち上がった。そして、マダムを呼ぼうとして、気が付いた。

 彼女からの信号が無い。

─なるほど、この男はか。

 目の前で腰を抜かしている男の裏に過る存在を思い、黒田は笑った。

「ねえ、君。君は今、誰に向かって口を聞いているのか、思い出した方がいい」

 ずるずると尻を引きずり、後退する末に、黒田は歩み寄る。

「ああ、その通りだとも。僕は花屋敷家が当主。この国の暗部における調停者フィクサー。この僕の庭で花を踏み荒らして、何の代価も支払わずに帰れると思ったかい」

 花鋏が、黒田の掌の上で鈍い光を放つ。

「ち、違うんだ!もう少し、話を…!こ、殺さないでくれ、頼む!」

「殺すだなんてとんでもない。死は、僕らという哀れな動物に与えられた最大の贈り物なんだよ。”死ねるということは神聖な知恵だ”」

 末が怯えた目で、黒田を見上げた。

 時折、こうして化け物を見るような視線を向けられることがある。

 僕たちと君たちの間に、最大公約数は存在するのだろうか。

 この疑問はいつも、黒田を悲しくさせた。

「…お前は、狂っている」

 末が、諦めたように捨て台詞を吐いた。

「君ほどじゃないさ」

 トントン、と足を鳴らす。

 あとは、いつも通り。ハナバチに蹂躙された、人間の成れの果てが床に転がるだけだった。


 足を引きずる。

 玄関に入るなり、力が抜ける。

 久しぶりに、かき乱されたなと思う。

 古傷を抉り出された。

 笑い声と、怒鳴り声が、脳の周りをぐるぐると回る。ぶれて、虫食いのように欠けた視界の中で、影が笑う。

 胡蝶蘭の匂い、下品な男の声、媚びる女の声、自慢話に噂話。絢爛なシャンデリア、絨毯、香水、炎、カトラリーの音、酒、視線、視線、視線。

 自分の意思とは関係なく、口が開き、ひゅーひゅーと音がする。舌が伸びきる。びちゃびちゃと音をたてて、口から液体が流れ出ていく。

 鼻を刺す酸の臭い。他人の吐瀉物を見るのは慣れていたが、自分のものはどうにも耐え難い。

 膝をつき、未消化のものまでも吐き出す。

 身体を支える術が分からなくなり、黒田は吐瀉物の中に顔を突っ込み、倒れ込んだ。

 一度なってしまうと、どうしようもなかった。

 視界が回転している。

 が、完全に反旗を翻したのだろう。

 末がここに来てからというもの、マダムの信号が途絶えていた。

 よりによって、こんな無粋な刺客を送りつけてきたのだ。

 自分の生い立ちについて、自分から語ったことは、今までに一度しかない。黒田が、どんな生い立ちで、何を想い、何を喜び、何を悲しみ、何を愛し、何を憎んでいるか、全て知った上で、あの男を寄越した。

 それができるのは、しかいない。

 綴と初めて会った時、あの大学の、法学部に所属していて、その上刑法に興味を持っていると知り、まさかとは思ったのだ。

 

 これを運命と呼ばずして何というのだろう。

 嗚呼、まだ君に言ったことはないけれど。

 僕は君と同じなんだよ、綴。

 君は僕を敬い、あるいは羨望し、あるいは嫉妬すらしているのかもしれないけれど。君が何度も体験したように、地に伏し、嘔吐する不快さも、食事が喉を通らない苦しみも、逆らえない存在に蹂躙される惨めさも、僕はよく知っている。

 僕らはきっと悪魔の落とし子、魂の双子なんだ。

 だから、どうか、君だけは。

 耳障りな喘鳴の中で、黒田は笑った。


****************

※注─『Papaver somniferum』

パパヴェル・ソムニフェルム。ケシ。『忘却』や『眠り』を象徴する。ケシの実からはアヘンが取れ、薬物として利用される一方、ケシの実自体は菓子作りによく利用されている。


【引用文献】

『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー著・大森望訳

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