第24幕 Rowan
年末の世の中には、大抵のことが許される雰囲気がある。
身体を刺すような寒さから逃れ、温かい布団に包まれている時にはなんとも言えない幸福感があって、つい惰眠を貪ってしまう。
書く喜びを知った今の自分にとっても、純粋な快楽として享受できるものは睡眠しか残っていないような気がした。だから、尚のこと眠りに縋った。
やはり、睡眠はいい。何もかも無視して眠る時ほど、心地良いものはない。
だが、目が覚めた瞬間、また何もできなかったという喪失感だけが残る。それは、眠りという行為の幸福感を無に帰して余りあるほどの喪失感だ。
叶うことなら、眠り続けたい。
しかし、それはもはや、死んでいるのと同じことではないのか?
綴はちょうど死体のように、腹の上で手を組み、自問した。
『深谷くんは休むのが下手なんだねぇ』
酔っぱらっていた大庭の言葉を思い出した。
確かに、そうかもしれない。
こうしたネガティブな考え方が、精神衛生上良くないらしいことは理解している。だが、その知識は不安をこの身体から追い出してくれるわけではない。
─焦るな。今は、休むべきときなんだろう。去年は、自分にやれるだけのことはやったじゃないか。
声にはせず、自分に言い聞かせる。
一体どれほどの時間、そうして無意味に微睡んでいたのかはわからない。
12時を過ぎたころ、綴はようやく布団から這い出て、一度目の食事の準備を始めた。
寒さのためか、近頃は殆ど置物のようになったマダムを後目に、蕎麦を茹でる。アラームをセットするために、スマートフォンのスリープモードを解除する。
ふと、通知欄に一通のメールが飛び込んできた。
送信元の欄に表示されている名前を目にした瞬間、微睡みは覚め、指先が強張る。
東海林は、学部で必修の刑法の講義を受け持つ教授だった。そして、同時に綴のゼミの師でもある。
そういえば、東海林と会ったのは、夏休み前の中間試験が最後だった。
話し方が回りくどいだとか、講義始めにある小テストが面倒だとかで、学生からはあまり評判の良くない教授だったが、レジュメが細かく要点がまとまっていることや、すべての学生のテストやレポートに添削をしてくれる東海林の真摯さを、綴は尊敬していた。
メールの本文は、ゼミにも出席していないこと、また、今後の学生生活について直接面談をしたいという内容だった。
恐らく、今後の学業と卒業時期の延期のことについてだろう。休学手続きを行ったとは言え、遅れた分の大学生活は当然、他でもない自分の力で取り戻さなくてはならない。どれだけ苦しい思いをしても、大学の単位を貰えるわけじゃない。
綴は、思わずため息をついた。
おまけに、どんな理由であれ、無断欠席が続いた上に、一年近い期間、連絡を怠った。多少なりとも叱咤されるのは分かっているし、反論の余地もない。
胃の底で酸が湧き出る感覚がした。
その時、ごぼ、と音を立て、蕎麦を茹でていた鍋が噴きこぼれる。
「うわっ」
手からスマートフォンが滑り落ちる。
綴は慌ててコンロの火力を弱めた。
久しぶりに、いつもより手間をかけて自炊をしたのだが、炒り子の出汁を味わうどころの話ではない。
翌日に研究室で面談を行う約束を取りつけてから、綴はやっと伸びた麺を喉に流し込んだ。
翌朝、綴は重い足を引きずり、大学へと赴いた。
すっかり丸裸になり、侘しい枝を眺めながら、法学部棟へと向かう。
エントランス付近の自習スペースでは、数人の学生が課題をやりながら喋っていた。その付近を避け、エレベーターへ逃げ込んだ。1、2、3、4。数字と共に心拍数が上がる。
綴は無機質に並ぶドアを通り過ぎ、東海林の部屋の前に立った。
エレベーターを使ったというのに、階段を全力で駆け上がったかのように胸が苦しい。指先は悴んでいるのに、着込んだ衣服の中は、びっしょりと濡れていて、その湿度が不快なほどだった。
綴は一度息を深く吐き出し、目の前にある灰色の扉を三度ノックした。
ドアの向こうから、入りなさい、と短く声が返ってくる。
「失礼します」
自分の声は震えていて、相手の耳に届いたかどうかも怪しい。
綴は重い扉を押し、その部屋へと入った。
分厚い教科書と論文のファイルがぎっしりと詰め込まれた本棚が、視界の左右に聳え立っている。部屋はその人の心だと言うらしいが、この部屋の主はまさしく研究者であり、それも知識をきちんと整頓した上で扱える、生真面目な人であるに違いなかった。
本棚の間にあるデスクに、
白髪と髭。特徴的な、品のある丸眼鏡。その奥から、険しい視線が綴の髪と目に注がれる。
背筋に針金を通されるような心地がした。
綴がとっさに頭を下げると、東海林がそれを制止する。
「そう身構えないでくれたまえ、深谷君。私は君を叱咤するつもりはないんだ」
視線とは裏腹に、東海林の声は随分と穏やかだった。しかし、緊張のためか、綴はその言葉の意味が飲み込めず、身体は強張ったままだった。
「ひとまず、そこにかけなさい」
「はい」
そう返事をしたものの、関節が錆びたように上手く動かない。ぎこちない動作で、やっとパイプ椅子を引き、腰をかける。
綴が姿勢を正すと、パイプ椅子が、ぎい、と嫌な音を立てた。
「心配したよ」
「えっ」
東海林の言葉に、綴は目を見開いた。
「大学教授が一学生を私的な理由で呼び出すのもどうかと思ったんだが、あれだけ真剣に講義を受けていた君が、ある日を境に全く姿を見せなくなったのが気になってね。結果的に、君を個人的に呼び出す形になった」
綴は目をしばたたかせた。
鼻先にツン、と痛みが走る。
東海林の声音に滲んでいたのは、ただ純粋な労りだった。
綴は深く頭を下げた。
「あの、本当に、ご心配とご迷惑をおかけして、すみませんでした」
東海林がゆっくりと頭を振る。
「いや、そのことで深谷君を責めるつもりはない。何か、理由があってのことなんだろう」
「それは…」
綴は言い淀んだ。
理由。
説明してもいいものだろうか。果たして経緯を、理解してもらえるのだろうか。
学生とは、教授に保護される存在ではない。一人の成人として、本来学生は自分の行動にあらゆる責任を持たなければならない。
どれほど堕落した生活を送ろうが、蒸発しようが、それを気にかけ、咎めたり叱ったりするような教授はいないのだ。少なくとも、綴は知らなかった。
「一介の学生でしかない僕に、何故そこまで…」
東海林の眉が上がる。
「君のことはよく見ていたからね。というより、印象に残っていた、と言うべきか。君程勤勉な学生であれば、顔と名前くらい覚える。ゼミに入ってからも、君はかなり目立つ存在だった。─そうだ、君には返却し損ねていたが、相変わらず試験も模範解答だったよ。私があの問題を解いても、君と同じ答えを書いただろう」
東海林が机の上の紙の束を綴に手渡した。
前期の授業の最後に、駄目もとで受けた期末試験だった。
減点は一つだけ、それも漢字の書き間違いだけだった。
こんなところで結局減点を食らうとは、ある意味では自分らしいとも言える結果に、綴は苦笑した。
顔を上げると、東海林と目が合った。眼鏡の奥で、時折皺の目立つ目元の皮膚がぴくぴくと動いている。
「君達学生は、あまり気が付かないかもしれないが、我々のような物を教える立場の人間は、存外に君達のことを見ている。教壇からは色々と見えているからね。大学に遊びに来ているのか、学びに来ているのか。君のように、本気で学問に打ち込む者は少ない。私の講義も例外なく内職か昼寝に使われている。…贔屓などすべきではないのは当然だが、私だって、人間だ。真剣に講義を聞いてくれる者がいたら嬉しい。そういう意味でも、君は私にとって大切な学生の一人だ」
「…そうだったんですか」
「そうとも。私は、研究者であって教育者ではない。正直、教壇に立ち、人に物を教えることは不得手だ。それでも、この仕事が嫌いにならないで済むのは、君のような学生のお陰だ」
「そんな、買いかぶりすぎですよ」
想像だにしなかった師の激励に、目頭が熱くなる。
「人の心からの賞賛は素直に受け取りたまえ、深谷君。─とはいえ、仮にも教壇に立つ者が特定の学生に対して懇意にするのは望ましくないのは事実だ。だから私は今、教授としてではなく、一個人の成人である君と話をしている」
厳しさと、強靭な意思を宿す瞳が、綴の姿を捕らえた。
「君に、大切な話がある」
東海林の唇が動く。
「君は、黒田馨という名の青年を知っているね」
東海林の口から出たその名。
綴は何か言葉にしようと口を動かしたが、声が出なかった。
「君は今すぐ黒田君から離れなさい。彼は破滅型の人間だ」
東海林は、綴の顔をじっと見つめ、それから目を閉じた。
「…いや、破滅型、というのは適切ではないかもしれない。例えば、そうだな。ヘッセの言葉を借りるならば"自殺者"と言ってもいい」
東海林が、埃っぽい自分の本棚に目をやる。
綴も釣られて、棚の一番上の段に目をやった。
東海林の視線の先にはヘッセの全集が並んでいた。綴が背伸びして辛うじて手が届く高さに、ずらりと並ぶ本。まるで神棚だ。
綴が再び東海林の机に目をやると、そこには『荒野のおおかみ』の文庫本が置かれていた。部屋に入ってきた時には、気が付かなかった。綴はその表紙を眺めながら、口を開いた。
「自殺者とは…”自分は極度に立っていて、外からちょっと押されても、内からささいな弱みが起きても、それでもう空虚の中に転落するかのように、自分を極端に危険にさらされたあやういものと常に思っている”─そういう人間だと?」
東海林が頷く。
「…なぜ、先生が彼のことを知っているんですか」
東海林と視線がぶつかる。
これほど近くで師の顔を見たのは初めてだった。日本人らしからぬ、薄い青緑色の瞳。頭髪は、老化によるものにしては、濁りのない白髪だった。
綴は息を呑んだ。
まさか、あの白髪は。あの瞳の色は。
「深谷君。私なんだ。除名された『カナリア』の幹部の一人というのは」
三人いた『カナリア』の幹部。黒田の手足となる、同胞であり友人。度々噂を耳にした、除名されたその一人。
それが、自分の恩師だった。
この大学の中でも、地位も高く、法学、それも刑法という学問の分野で、数々の功績を残している教授だった。
眩暈がしそうだった。
返す言葉が見つからず、綴は握りしめた自分の拳を見つめた。
ちらちらと、埃が西日に照らされる。
東海林が立ち上がる。そして、薄いカーテンを閉めた。
「君は、去年の春、黒田君と出会った日のことを覚えているかね。あの日、私は黒田君に会っていたんだ」
『今日は大学内の知り合いに会う約束でね』
あの日、黒田は確かにそう言っていた。あれは、その場限りの嘘ではなかったのだ。
「ちょうど、違法性についての話…同意殺人についての講義をした時だ。その時から君はぱったりと大学で姿を見せなくなった。講義の五分前、私と同じ時間に教室に入り、必ず予習をしていた君が、だ。後に気がついたことだが、しかもその日、君は課題を提出していなかった。珍しいなとは思った」
講義の時と同じように、東海林は歩き回り、言葉を吟味しながら、ゆっくりと話した。
「最初は傷病かと思ったんだ。しかし、次第に胸騒ぎがした。半年経っても君は結局講義には現れず、事務に問い合わせても、他の先生方に聞いても、一向に君と連絡が取れない。そして、中間試験の際に君の姿を確認して驚いたよ。君と直接話すべきだと思ったが、その機会を準備できなかった。右往左往しているうちに、君が休学手続きをしたことを知った」
東海林がため息をつく。
「もちろん、最初は偶然だと信じて疑わなかった。黒田君がこの大学に来ていたことと、君が大学を休むようになったことに因果関係があるなど、私の妄想に過ぎないだろうと。しかし、人の悲しみの匂いに、彼ほど敏感な者はいない」
凄惨な微笑が、脳裏で蘇った。
苦しんでいる人間を惹きつけてやまない、甘く、陰鬱な、どこまでも優しい微笑み。
「君にこうして会って確信したよ。君のその髪と目は、彼がかけた呪いの証だ」
綴は自分白い髪を軽く梳いた。抜けた数本の白髪が、
「…僕は、自殺に失敗したんです。これはその時の後遺症です」
そんなことが、と東海林は呟いた。
「苦しい思いをしたろう」
「まぁ…でも、一瞬のことで、ほとんど意識は飛んでいたので、大丈夫ですよ」
「いいや、それだけじゃない。君がそこに至るまでの人生のことも含めてだ。君は、よくここまで闘ってきた」
綴は唇を噛んだ。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
「本当は、もっと早く君に声をかけるべきだったんだろうが、黒田くんの監視網をかい潜るには、時間が必要だったんだ。君も今は、彼の監視を恐れなくていい」
監視、という言葉に、部屋を見渡す。
─彼女がいない。
「あの、マダムは」
「マダムのことが心配かね。彼女には少し眠ってもらっているだけだから、安心したまえ。黒田君は用心深いからね。少々、小細工をさせてもらった」
「監視網って」
「ハナバチを使った監視網だよ。彼女たちは風景や人物の識別もできる。この大学にも結構な数のハナバチがいる。物色目的もあるだろうが、恐らくは私への牽制だろうね」
「…マダムとハナバチのことも、全てご存じなんですね」
「言ったろう、私は幹部だったんだ。黒田君の次には、彼のことをよく知っているつもりだ」
「先生は、黒田さんについて、何か知っているんですか」
「ある意味ではよく知っているし、ある意味では何も知らない。だが、君より、彼についての情報は持っているだろうと思う」
東海林が椅子に腰をかけ、手を組んだ。
「それは、僕が知っていていいことですか」
「君が知るべきことだ」
東海林は自分のデスク下のダンボールから、ペットボトル入りの緑茶を取り出し、綴に手渡した。
「少し長くなるが、順を追って話そう」
綴はペットボトルのキャップを開け、その中身で喉を潤した。
「彼の名、黒田馨というのは本名ではない。”花屋敷”─それが彼の本当の苗字だ」
やはり喉が渇くのだろう、東海林もまた緑茶を喉に流し込んだ。
「この国にまだ暗殺というものが存在したころの話だ。花屋敷家とは暗殺用の毒物を作る非常に古い一家でね。その歴史は平安時代まで遡るそうだ。日本における暗殺、毒殺の歴史の裏には、ほぼすべて花屋敷家が関与しているとも言われている。しかし、歴史の暗部の中の暗部だ。当然、その存在を保証してしまうような歴史的文献はただの一つも残されていない。これを知っているのは一部の政治家や暴力団、司法に関わる者、犯罪組織くらいだ。それもほとんど都市伝説くらいのもので、実態を知るものはほぼいない」
「花屋敷家…毒殺を生業にしている一家、ですか」
「正確には、毒殺そのものではなく、暗殺用の毒物の生産、供給を生業にしている一家というべきだね。我々の言葉で言うなら、彼らは実行犯にはならないということだ。もちろん、彼らにとっては毒殺も朝飯前だっただろうがね。あくまで毒物の生産のみを家業として、暗殺者をはじめとした裏社会の人間たちに供給していたのだ。自白剤、睡眠薬、媚薬に当たるものまで─実際には人に害なすものだけではなかったらしいがね。そしてその毒蜜の生産を可能にしていたのが、彼らが飼育している特殊なハナバチだ」
まるで西洋における魔女の偶像だ。
あまりに現実離れした話に、脳が理解を拒んでいるようだった。
「ところで、君は蚕を知っているかね?」
急にそう尋ねられ、綴はたじろいだ。
「え?…その、絹を採るためのイモムシですよね。白い繭を作る…」
「そうだ。蚕は人間が絹糸を効率よく採るために、長い時間をかけて交配されている生物なんだ。その過程で彼らは退化し、人間の手で育てられることを前提とする命になったと言われている。幼虫は足が弱すぎるため、外で植物に捕まることもできないし、餌を探しに行くこともない。ただ人間に食料を与えられるのを待つだけだ。成虫に至っては足どころか口も羽もまともに機能しない。寿命はおよそ一週間程度。人間を頼らないと生きていけないため、遺伝子的に人間を好くようになっているという。これを家畜化と言う」
東海林が、自分のスマートフォンで資料を見せた。
「黒田君が飼育しているハナバチも、花屋敷家が千年近くかけて完全に家畜化した生き物なのだ。とはいえ、蚕のように退化し、人間に完全に依存したのではなく、むしろ彼らの技術によってハナバチは恐るべき進化を遂げた。人語を解し、自らも人語を操る。人間に効果的な麻痺毒を持ち、なにより花屋敷家の血縁者に対して愛着を持つように遺伝子をプログラムされた、正真正銘の生物兵器なのだよ」
文章の合間に、資料として添付されている、蜂の複眼と目が合った。
「花屋敷家がハナバチを使役して創り出す毒は、その時代の一歩も二歩も先を行く方法で調合されていて、普通の手段ではまず検出できない。誰でも完全犯罪が可能だ。そのため、あらゆる人が
つまり、順序が逆だったのだ。
もともと暗殺に利用されていた技術を、黒田が自殺幇助に使っている。
「それ故、花屋敷家は裏社会における
言葉が見つからなかった。
もらったペットボトル入りの緑茶は、既に半分以下になっていた。
「ところが、その栄華もかなり前に廃れている。歴史を少し学べば分かるが、暗殺というものは近代になるにつれ、需要は殆ど無くなってしまったからな。少なくともこの国においては。当然、花屋敷家の役割も無くなった。その代わりに、
まるで
何もかもが、出来すぎている。
「黒田さんは…家と絶縁しているんですね」
「おそらく。私は一時彼に魅せられ、彼の情報を人伝に調べた。いくらか本人との答え合わせもしたから、嘘は少ないと思う」
「先生は、『カナリア』の幹部だったんですよね」
「ああ、最初の幹部だった」
「なぜ、除名されたんですか」
東海林が目を逸らした。
「誰かを恨み、憎むという行為には、とてつもなく大きな力が要る。負のエネルギーで動き続けるのは、質の悪い燃料で無理やり機械を稼働させるのと同じようなものだ。無理に動けば動いた分だけ、自分が壊れていく」
ゆっくりと、一際慎重に言葉を選びながら、東海林は口を動かした。
「もはや、誰かを恨むことも、自分の人生を呪うことにも疲れてしまったんだ。私のような老い耄れには、憎しみに縋りつくだけの力も無い。だから、私は、忘れることにした。そして、思い知ったのだ。私の憎しみや悲しみは、とうに風化しており、今の自分になら、その苦渋だったものを受け入れることができるのだと」
胃を絞られるような心地がした。
綴は東海林の目をじっと見つめた。
「…それは、結局のところ、自分を殺すということではありませんか、先生」
「違うよ、深谷君。人は変わることができるというだけの話だ。変わることは死ではないし、罪でもない」
東海林の声音に、恐ろしいところは一つもなかった。それなのに、その場から逃げ出したくなる。耳を塞ぎ、目を逸らしたくなる。
「君が誰かを憎んでいるのなら、それは仕方ないことだ。しかし、誰かを憎むということは義務ではない。忘れるというのも、一つの選択だ」
綴は、噤んだ口の中で舌を噛んだ。
「君が言いたいことは理解できるつもりだ。私は、復讐が何も生まないとは思わない。そんなこと、言えるわけがない。私自身が、毎日のように、過去の傷を反芻し続けた。頭痛がするほどまでに悲しみと憎悪を書き連ね、過去の亡霊と未来への不安で自分の身体を引き千切られるようだった。しかし、今の私だから言えることがあるとすれば、この世は、君が思っているよりも極悪ではないのだ。私は、ずっと誰に対しても戦いを挑むような気持ちでいた。それによって、失ったものがたくさんある。君には、同じ轍を踏んでほしくない」
綴は、何かが、腹の中で煮立っているのを感じた。
自分の中に、初めて芽生えた感情だった。
「だから君は─君だけでも、早く彼から離れなさい。そうでなければ、きっと地獄を見ることになる。彼は、自分で自分の心臓を破って、その血を浴びせる相手を渇望しているんだ。わたしは、大切な教え子である君がそれに巻き込まれるのを、見たくない」
「でも、先生。そういう、自暴自棄になっている人こそ、誰かの助けを必要としているんじゃないんですか」
「確かにその通りだと思う」
「それなら…!」
「だが、その役割を君が負う必要はない。君は、彼に義務を感じているのではないか?」
「僕は、自分を犠牲にして彼といるのではありません。むしろ、彼といたから、自分を犠牲にしないで生きていくことができるようになってきたんです」
自分の声が、はっきりと耳に届いた。
「僕が感じているのは義務感ではなく義理です」
「君は、自分以外の誰かのために自分のすべてを犠牲にできる人間かね。彼が、どういう質の人間か、本当に分かっているか」
綴は黙り込んだ。
「いや、意地の悪い言い方だったな。本当に。私はいつも言葉の使い方を誤る。難しいな。この歳になっても、この様だ」
片手でこめかみを押さえる姿が、自分を見ているようだった。そのことに気が付いた瞬間、戦いを挑むような気持ちでいた自分が愚かしく思えた。
「私が言いたかったのはな─深谷君。君は、君のためだけに生きていいんだ」
思えば、当然だった。
東海林もまた、黒田が纏う死の匂い惹かれ、『カナリア』の中枢に身を置いた人だった。そんな人が、ただ高説を垂れるために、自分と話をしているわけがなかった。
「私は君の人生について、憶測をしているにすぎない。だが、君が苦しみながら生きてきたということだけは、確信を持っている。恩義を感じるということは、君の美点だ。しかし、だからと言って、黒田君が誰かを引きずり下ろしていい理由にはならない。君が、一緒に溺れる義務はないんだ」
綴は、今、東海林に何を伝えるべきか迷い、しばらく黙り込んだ。
東海林は、急かすこともなく、綴が言葉を口にするのを待っていた。
「…今まさに溺れている時に、手を差し伸べてくれたのは黒田さんだったんですよ。その手が、陸へ引き上げてくれるのか、それとも水底へと引き下ろすものなのか、溺れているその瞬間には、どうでもいいことだった。取るに足らないはずの僕の手を掴んでくれたことが、一体どれほど…」
その先に、この心情を表す言葉が見つからず、綴はただ息を吐きだした。
「…答えは分かり切っているはずです、先生。─僕と黒田さんは友人なんです。それだけで、十分です」
東海林が、組んでいた手を解いた。
「不思議なものだ。以前は、そんな芯の強い子ではなかったと思うんだが…今の君は、まるで別人のように見える」
「…それはきっと、僕が今までずっと眠っていたからだと思います」
綴は、本棚の一番上にあった、『車輪の下』を眺めた。
「…君達を見ているとギーベンラートとハイルナーを思い出すよ。努力家と詩人。秀才と天才。君達は、正反対なようでよく似ている」
東海林もまた、同じ背表紙を眺めていた。
「恋は罪悪らしいが、愛もまた一つの罪悪だよ、深谷君」
東海林と視線がぶつかる。
「僕の感情は僕だけのものです。それがどれだけ見苦しいものであったとしても。それらはすべて、僕自身が昇華しなければならないものです。それを軽んじるのは、子供だったなら、どれほど幸せかと歌うようなものです。子供にも子供なりの苦労があるように、大人がそれを嗤うのは残酷なことですよ。違いますか、先生」
「はは、まったくその通りだな。返す言葉も見つからん」
初めて見た、恩師の笑顔だった。老獪な笑み。
なるほど、これがハインリヒ・ムオトが言うところの美しい老いというものなのだろうか。
きっと、本当なら、こうして歩いていかねばならないのだろう。厚い大気圏を突破して、だれも手の届かぬ場所で星のように冷たく笑う、そんな存在に。
「私のような老人はただただ心配なんだ。聡明な君のことだから解っているとは思うがね」
「解っています。それでも、僕が後悔したくないだけです」
「それもそうか。逆境に立たされると、人への想いはかえって燃え上がるものだ」
東海林が立ち上がる。
「もう一つ、君に聞いておきたいことがあった。君はこの先、どうしたいのかね」
「わかりません…けれど、今はどうしてもやりたいことがあるので」
「やりたいこととは?」
「…小説を書きたいんです。自分の過去について」
「君にそんな情熱があるとは思わなかったよ。本当に、よかった」
東海林の目からは何も流れていなかったが、声に、涙が滲んでいる気がした。
「やはり、類は友を呼ぶというか、彼がそういう業を引き寄せるのかもしれんな」
「え?」
「深谷君、私もだよ。私も、文章を書くことが好きなんだ。一時は、本気で小説家になりたいと思っていたんだ」
「まさかとは思いましたが、机に『荒野のおおかみ』があったので…余計に驚きました」
「ああ、そうだね。黒田君と出逢ったのも、『荒野のおおかみ』がきっかけだった。君はこの本を読んだことがあるかね」
「はい。凄まじい本でした」
東海林が目を細め、笑った。
「私の知り合いにも、出版関係者がいる。中には、君の力になれる者がいるかもしれない。何より、私も君の描き出す物語をこの目で見てみたい。いつか、完成したら見せてくれ。これは、教授としてではなく、私個人の願いだ」
「ありがとうございます、東海林先生」
綴は、深く頭を下げた。
「君は君のまま、”荒野のおおかみ”と共に歩きなさい。焦らなくていい。死の間際、君自身が後悔することのないように。君の魂を、誰にも渡してはならないよ」
灰色の絨毯の上で、水滴が一粒、光っていた。
「失礼します」
ドアが閉まる音が響く。
頭痛に近い疲労感に、綴は目を閉じた。
知るという行為には覚悟がいる。
その逆もまた同じだ。
誰かに打ち明けるという行為には、とてつもない覚悟が要る。自分の放った言葉が、関係を壊し、二度と手に入らないものになるかもしれない。
それを恐れ、結局綴自身は、東海林に自分のことを打ち明けなかったのだから。
彼は、話してくれるだろうか。僕は、その信頼に足る人間だろうか。それでも、彼のことを知りたいという気持ちだけは、嘘ではないはずだ。
どんな惨い行為にも耐えられる気がした。
『それは健全な友情ではない』
数刻前、東海林に言われた言葉が耳元に居座っている。
健全な友情。
それが手に入っていたのなら、僕らはここにいないんですよ、先生。
綴は、東海林の部屋に背を向け、歩き出した。
東海林はカーテンを捲った。
いつの間にか、窓の外は闇に包まれていた。塗りつぶされた射干玉色の風景に、しんしんと、白い雪が舞い始めている。この暗闇の中でも、綴の髪はよく目立つため、彼が歩いている姿を見つけることができた。
ため息が、窓を曇らせる。
自分にできることはやった。後は、足掻けるだけは足掻く。
東海林は口にはせず、そう自分に言い聞かせた。
本当なら、こんなことはしたくなかった。それでも、いずれ来るであろう悲劇を、ただ見過ごすことは、やはりできなかった。
突如、ドアがこつこつと、ノックされた。東海林が返事をする前に、静かにドアが開いた。
「…久しぶりだな、黒田君。何か用かね」
「手向けの花を届けに来たんだ」
小さな花束を手に、黒田はそう言って微笑した。
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