第20幕 Passiflora
冷え込む空気の中、男は路地裏で息を吐き出した。
遊園地のような、しかしもっと毒々しい光に晒された表の通りと同じく、この湿った路地裏には生ごみの匂いが染みついている。だが、普段の窮屈な規則づくめの生活から逃れ、羽を伸ばすにはこの猥雑さがうってつけだった。
いつも気晴らしにくるのはこの新宿の街。男は今日も、現実逃避のためにこの夜の街をふらついていたが、結局今に至るまで、あの名前がずっと脳裏に居座っていた。
秘密結社『カナリア』が匿う青年。
ついに、この青年の両親が本格的に動き出した。
男は、ある地域の交番に勤務する警官だった。そして、『カナリア』という組織と、ある契約を交わしていた。その内容は、深谷家の行動の観察と報告という仕事を請け負うこと。それによって毎月20万を支払うという。
20万。観察と報告だけで月に20万だ。依頼内容にそれほど危険もない。男はその条件に快諾した。
契約を持ち掛けられた時、男の胸の内に湧き上がったのは恐怖ではなく高揚だった。
ついに、自分の番が来た。
権力の集まるところには必ずこうした取引が発生する。ニュースや雑誌でしか見たことが無いような、収賄や贈賄事件。その事件の顛末を見る度に、自分ならもっと上手くやれるという自信が湧いて仕方なかった。強欲にならず、権力と上手く折り合いをつけて、程ほどに利益を得る。もしも、自分の元へそうした取引が持ち掛けられたのなら─
ある日、懇意にしている女から「会って欲しい人がいる」と告げられた。
そこに現れたのは、随分と小柄な、幼い顔をした男だった。本人曰くとうに二十歳は超えているらしいが、スーツを着たその姿は制服を着た高校生にも見えた。
最初から信用していた訳ではない。だが、その男は存外に愛嬌があり、どこか憎めない。その男が、例の契約を持ち掛けてきたのだった。
半信半疑ではあったものの、予定の日には必ずその男の使いが現れ、約束の分の金を寄越した。恐らく金の受け渡し人として雇われた人間だろう。渡された茶封筒の中身に浮足立ち、遊びに使う金は徐々に増えていった。
─ついに、自分は特権階級の人間になったのだ。
随分後になってから、最初に会ったあの小柄な男が、秘密結社『カナリア』の幹部だということを知った。
秘密結社『カナリア』。男はこの組織について詳しくは知らない。しかし、圧倒的な力を持っていることだけは確かだった。事実、『カナリア』が現れてから、東京都内の治安は未だかつて類を見ないほど安定している。
『カナリア』の活動の実態は全く読めなかった。何しろ目的が分からない。
しかし、男は真実を知りたいとは露程も思わなかった。理由は単純で、自分の保身のためだった。”何も知らない”ということがこの身を救うのだ。いざとなったら、”脅された”、”自分は何も知らなかった”と言えばいい。
もちろん恐怖心が無かったと言えば嘘になる。だが、この利益を逃したくないという未練や、あの小柄な男が相手なら殴り合っても勝てるだろうという自信、そもそもこの程度のことでばれるわけがないという思い─そうした自負が男を駆り立てていた。
長い物には巻かれるに限る。つかず離れず、互いの利益だけを考えるのだ。その塩梅は上手くやれているつもりだった。
しかし、男はここにきて自分の行動が愚かだったかもしれないと後悔をし始めていた。青山という若い刑事が現れ、上層部に報告をされたことにより、何らかの処分が下るだろうということは明白だった。
どうする。今ならまだ間に合うかもしれない。
「お久しぶりー、元気にしてた?」
背後から呑気な声がかかる。表通りの喧騒があるにも関わらず、その声は男の耳にははっきりと届いた。
小柄なその男は親し気に手をひらひらと振った。マゼンタの瞳が闇の中に浮いている。鬼火にも似た不吉な色だった。男は思わず飛びのき、汚れた室外機に身体をぶつけた。
「お前は…!」
「びっくりしすぎじゃない?エッチな動画でも見てた?」
にや、とその男─大庭は笑った。
「何の用だ、今日は約束の日じゃないだろう」
「何の用だと思う?」
不審が不安へと変わる。まさか、もう『カナリア』の上層部が動き出したのか。警察の処分よりも早く。
真冬だというのに、こめかみに脂汗が浮かんだ。
時間を稼がなければ。男は口をぱくぱくと動かした。
「いや、違うんだ、もうこんなことは今回きりにする!前にも言っただろう。娘がいるんだ。全部娘のために金が必要で─」
「萎えんなぁ」
大庭が気怠そうに男の言葉を遮る。
「娘ってさあ、どっちのお嬢さんのこと?」
男は口を噤む。
そうしたら負けだとは分かっていながら、抗う気力は失せていた。
「誰だって営業先のことはちゃんと調べるでしょ?色々知ってるぜ。お金が好きでプライドが高い。面倒くさがり屋で、長い物には巻かれた方がいいと思ってる。奥さんとは絶賛冷戦中。奥さんが昔ほど尽くしてくれないから代わりにキャバクラに通って女のコにもてなしてもらってるんでしょ?エリカちゃん、色々教えてくれたし、あんたのことボロクソ言っててちょっと面白かったよ」
「エリカが…?」
「うん。結構一緒に呑みに行ったよ。その度に客の愚痴言ってた。ああいう客商売って本当に大変だよね」
そこで言葉を切ると、大庭がわざとらしく噴き出した。
「あはは、なにショック受けてんの。もしかして泣いちゃった?ごめんね、夢見せてあげられなくて」
今日ほどこの男の笑みが憎たらしいことはなかった。頭からしゅうしゅうと音がするようだった。
「っ、この、ペテン師が!」
そう叫ぶと同時に、男は大庭目がけて殴り掛かっていた。
「おっと」
大庭はその拳を躱すと、素早く身を屈め足を払う。重心を失った男の身体はあっけなく倒れ、顔面から思い切り道路に叩きつけられる。
ガツッ、と音がした瞬間、歯の神経から脳へと鋭い痛みが突き抜ける。一瞬、視界に星が瞬いた。
口内に鉄の味が広がる。鼻の穴からも液体が垂れ、肌を伝う。
「あーあ、酔っぱらって転んじゃうなんてかわいそ。歯、欠けちゃった?」
男はそこで初めて、自分がゴミがへばりついた道路の上に、うつ伏せになっていることに気がついた。あまりの痛みに、一瞬意識が飛んでいた。
「…お、俺は上手くやってた!一体何が問題だったんだ!」
男は辛うじて声を絞り出す。
「問題があったんじゃなくて、用済みってこと。おれはあんたを始末しにきたんだよ」
始末。その言葉の意味を生々しく理解し、男は震え上がった。
「あー、大丈夫、殺しはしないから。うちの組織の約束でね」
がちがちと奥歯が鳴る。全身が汗で濡れ、悪寒に身を震わせる。
「お、お前たちの目的は何だ…!」
「んー、ここで色々喋るとご主人様に怒られちゃうから、トんだ後に教えてあげる」
こちらを見下ろす大庭の笑みに、男は噛みつくような視線を向けた。
「お前らのような狂人共なんぞ、すぐに摘発されるからな」
「狂人ねぇ。ま、そうだよね。きみらの正気はおれたちの狂気だし、おれたちの正気はきみらの狂気だもんね」
大庭が大げさに溜息をついた。
「はあ。やんなっちゃうよ。こういうのがいーっぱいいるんだもん。あんたに奥さんと娘がいるってこと、甚だ信じられねぇよな。あんたが誑かしたのか、奥さんがバカなのか、どっちなんだろうね」
大きな袖口からアンプルが現れる。そのガラスの中身の黄金は、自ら発光しているように見えた。
覚せい剤か、麻薬か─何にせよその液体に触れて無事なはずが無いということだけは、この痛みに朦朧とした頭でも理解できる。
今すぐ逃げなければ。そう思うのに、身体はどういうわけかぴくりとも動かなかった。
「いやっ、その、ほんとうに悪かった、だから」
「あはは、ところでさぁ、『ごめんで済むなら警察はいらない』って言葉知ってる?」
大庭が男の傍にしゃがみ込む。視界の端で、自分の腕に小型のシリンジの針が刺さっていた。
「まっ、精々苦しんでくれよな」
血管に液体が割り込んでくる。
男は血まみれの口を開く。
しかし、その口から悲鳴が出ることはなかった。
青山はデスクで大きく溜息をついた。
居酒屋で綴と別れて以来、綴とは音信不通になっていた。というより、一方的に連絡を遮断されていた。謝罪文を送るより先に、チャットアプリはブロックされていたし、電話番号も着信拒否されているようだった
あの言動、あの態度。綴の身に何かがあったのは疑う余地がなかった。
青山に残されていた選択肢は、無理にでも綴本人に会いに行くことだけだった。引っ越した先の自宅か、アルバイト先で待ち伏せてもいい。しかし、それほど粘着質な行動をとっていいものか、青山は迷っていた。
自分は一度信用を失っている。あの綴が、金だけ机に置いてその場を立ち去ったのだから。多少なりとも冷静になった今考えれば、あれが綴なりの怒り方だったのかもしれない。あの時は、綴の、まるで『こいつとは話をしても無駄だ』と言わんばかりの態度に苛立ってしまったのだ。
だからこそ次の失敗は許されなかった。
何にせよ、より確実に情報を集めるために、綴のアルバイト先である花屋へと赴くことは必須だ。
あれから、綴が問うてきたことについて、ずっと考えていた。
『自分の両親を殺したいと思ったこと、ありますか』
その答えは否だ。そうに決まっている。なら、綴は殺したいと思ったことがあるのだろうか。あの世話焼きな、少し過保護な両親を。
ずっと我慢していたと綴は言うんだろうか。ならば一体何を?なぜ、一度も自分の意見を口にしなかった?まさか人と違う意見を口にしても死ぬわけではない。一体どこに、あれほど怯える理由があるというのか。
我慢しているだけじゃ状況は変わらない。自分が何も言わなかっただけだろ。周りに察しろとでも言うつもりかよ。そもそも、そんなに両親に文句を言うなら、自分で稼いで暮らせばいいだろ。親に金をもらって、育ててもらって、『人として尊敬できない』とはどういう了見なんだ。心の中で綴にそう反論した。
『虚無感、焦燥感みたいなものが原因だと思います。”得体の知れない不吉な塊が私の心を始終圧さえつけていた”…ですかね』
綴が口にした言葉を噛み砕くのは骨が折れた。良く言えば文学的。悪く言えばとてつもなく回りくどい。
少しでも手掛かりになればと思い、綴が口にしていた『檸檬』という作品を書店で買い、読んだ。その内容は、正直に言ってしまえば、全く理解できなかった。なるほど、表現の日本語としての美しさは理解できる。だが、最終的に作者が何を言わんとしているのかは全く分からなかった。
綴は、この小説の意味を理解しているというのだろうか。
何度読んでも、個々の文字の意味は理解できるのに、その内容が飲み込めない。次第に、青山は自分の脳が痺れるように痛むのを感じた。
そんな状態では、仕事にも集中できるはずがなかった。
「青山」
突然名前を呼ばれ、びくっ、と肩が上がる。振り返った先の蛍光灯の光に、目が眩みそうになる。
「お前、最近ずっと根詰めすぎじゃないか」
「あ、すいません。お疲れ様です、
青山は背後にやってきた上司─
自分の教育係でもあるその男が、静かにこちらを見下ろしている。
「青山、ちょっと一杯付き合え」
少しの沈黙の後、蘭はそう言った。
「遊びに行ってる場合じゃないんですけどね」
青山は六本木の雰囲気が少し苦手だった。ブランド物を纏う、ツンとすました男女が行き交う。その気取った街の雰囲気が堅苦しく、呼吸が苦しくさえ感じる。
「たまにはこういうのも悪くないだろ」
蘭はあまり表情を変えず、青山の隣を歩いた。
青山は、少々強引に蘭に職場から連れ出され、二人で食事をすることになった。とはいえ、職業柄お互い外で酒を飲む気にはならなかったので、飲み物はノンアルコールが基本だ。
駅から数分歩いた先、エレベーターを使い高層階のフロアへと辿り着く。ドアが開いた先の空間でウェイターが先導する。
個室に通されたのは多分話しやすくしようという蘭の計らいなのだろう。青山はその厚意に甘えることにした。
「で、最近何をそんなに血眼になって調べてるんだ?」
腰を落ち着け、注文を終えると、そう蘭が尋ねてきた。
青山はちらりと部屋の入り口に目をやる。
「まあ、ここは防音もしっかりしてるから、誰かに聞かれる心配はしなくていいぞ。店の人も配慮してくれてる」
周りに聞かれないかと気にした青山を察したのか、蘭は続けてそう言った。
「…その、後輩が家出をしまして」
ほう、と蘭が眉を上げた。
「本人が両親からの連絡を完全に遮断しちゃってるんですよ。その両親に頼まれて後輩に会いに行ったんですけど」
「会った時、様子はどうだった?何か気になることは」
「異様、の一言に尽きますかね。それから、両親とはもう会うつもりが無い、と邪見にされました。今は俺も連絡が取れません」
ウェイターが静かに部屋に入ってくる。頼んでいた食事を音も無く置くと、影のようにその部屋を去った。
その姿が見えなくなると、蘭は口を開いた。
「そりゃまたすごい時に反抗期をしてるな。学生になると普通子供って丸くなるもんだと思うんだが…。それで、連れ戻すのに苦労してるってわけか」
「はい」
「なら、俺も協力するよ。そういうことは納得できるまでやったほうがいい。業務に支障がでても困るしな」
「ありがとうございます」
「礼はいい。ありがたいことに、最近は犯罪件数も減ってるからな。手持ち無沙汰なんだ」
軽く、ただの水が入った杯を打ち合わせる。
蘭は水を一口飲むと、手を組んだ。
「まず、探してる本人のことを知りたい」
青山は簡潔に情報を並べた紙を、鞄の中から取り出し、手渡した。
蘭が料理をつつきながら、それを読み上げた。
「深谷綴。現在××大学法学部所属の二年生か。大学は休学中…と。それにしても凄い数の所持資格だな。しかも、宅建って、まだ現役大学生なのに合格してるのか」
情報に目を通し、溜息をついた。しかし、それは感心の溜息ではなく、悪い予感が当たったとでも言いたげな溜息だった。
「とんでもないな。絵に描いたような秀才じゃないか」
「昔からずっとそんな感じでした。優等生というか、真面目で努力家で、大人しくて。正直、今回家出したと聞いたときも青天の霹靂というか…本当に理由が分からないんです」
「彼、友人は多い方か?」
「…多分、いないと思います。一人でいることが多いです」
「頼る人間も少ないとなると…なるほどな、確かにストレスを溜め込みやすそうなタイプに見える」
「会った時も、ずっと目が虚ろなんですよ。大学も休学してて、ずいぶん痩せてた。唯一花屋のバイトだけは通い続けているみたいなんですけど」
「なら、その花屋で深谷くんを雇っている人にも話を聞くのが一番近道になりそうだな。そこの店のことは調べたのか?」
「それが、調べても情報がほとんど無いんですよね。多分、個人経営の店なんだと思うんですけど、住所の近くに行っても花屋は見当たらなくて。今度聞き込みと、近くの交番にも協力を要請するつもりです」
「そうか。俺もできるだけ協力しよう」
蘭の眉間の皺が深くなる。
「まず考えられるのは、洗脳だな」
蘭の口から出た言葉に、青山はぽかりと口を開けた。
箸を持つ手が止まる。
「洗脳って、新興宗教とかで信者が教祖にやられるやつですか」
「そう。外界と隔離して、頼る伝手や本人の思考力を奪う。そういう組織の常套手段だ。大学を休学したという部分もかなりキナ臭い」
青山は思わず机を拳で叩いた。
「そんな、まさか…!あいつはそんな馬鹿じゃないですよ!そんなものにひっかかるわけ─」
「どうだかな。昔から左翼や新興宗教、革新的なことを言う集団には高学歴が多いし、お前の母校でもあるあの大学は政治活動も盛んなんだろう。大学側が学生の思想の自由を保障するために、そういう活動に介入しないと宣言しているからな。お前は知らないかもしれないが、悩める若者のためと言って、大学に新興宗教や秘密結社なんかが蔓延ることは決して珍しくない」
「そんなの見たことないですよ。今はそういう反社会組織にもちゃんと警察が介入してる。昔の都市伝説じゃないんですか」
「そりゃ、お前みたいな見るからに快活な奴のところには来ないだろ。そういう組織の人間は、引き入れやすい人間をちゃんと選んでる。俺の第一印象だと、彼は狙われやすいタイプだと思う」
「なんで大学はそんな危険思想を野放しにしてるんですか。そんなの─公的権限でさっさと止めればいいじゃないですか。根絶やしにしようと思えばできるでしょ」
「それが思想である限りは罰することはできないんだよ、青山。俺たち警察が動けるのはいつだって事件が起こって明るみに出てからだからな」
グラスを揺らしながら、蘭は溜息をついた。
「人が犯罪に手を染める理由なんてわからないもんだ。大人しくていい子だって言われていた子が、ある日突然人を殺す例だって俺はたくさん見たからな。…真面目すぎるのも考えものだよ」
「…ちゃんと頼れよ」
青山は手に力を籠め、呟いた。
「あっ、おい、割るなよ青山」
ふと、蘭にたしなめられ、手の中のグラスを見る。思っていたよりも遥かにそれが繊細だったことに気が付いて、青山は慌てて力を緩めた。
「すみません、つい」
蘭が肩をすくめ、青山に資料を返した。
青山は手渡された紙の上の情報を眺めた。
学生証に小さく載せられた綴の顔。自信無さげな、不安が滲む表情だった。こんなにも不安になる理由が、あんな厭世的な目をする理由がどこにあるというのだろう。
青山はこの青年の秀才ぶりを羨んですらいた。
成績は常に優秀。教員からの評価も上々。優しい、世話焼きな両親。聞けば何かと責任ある立場に立っていたようで、表彰されることもあったと聞いた。
青山は深谷綴という幼馴染のことを尊敬していたのだった。
─そうだ。俺はただあいつのことを助けてやりたかったんだ。ただ心配してる、そう言いたかっただけなのに。
青山は顔を上げる。
蘭に促され、青山は立ち上がりコートを羽織った。
「とりあえず、あいつの両親にもまた話を聞きに行こうかな、と。実家の近くの交番勤務の職員にも情報収集を頼んだんで」
同じくアウターに腕を通していた蘭が、目を見開いた。
「そうだったのか。けど、あの地域の担当者が急病で退職が決まったと聞いたが…」
「えっ、急病って…。それは、気の毒ですね」
支払いを済ませ、外に出る。
11月の、乾いた、冷たく憂鬱な風が吹いた。
暖かい室内いたことで火照った身体が、ぎゅっと縮こまる。コートの隙間から冷気が刺さるようだ。熱がどんどん奪われていく。
「無理言って連れてきて悪かった」
蘭がマフラーに顔を埋め、小さく呟いた。
「いや、聞いてもらえてよかったです」
「早く解決するといいな」
「はい」
そうだ。こうして人に話せば、見えなかったことが整理されて、冷静になれることもある。そのために深谷に会いに行ったはずなのに。
急に、顔が真っ赤になった気がした。
次に会うとき、きちんと謝ろう。もう一度、話しをしよう。
駅に向かおうと、並んでそぞろ歩く。
ふと視線が止まる。
「青山、ちょっと待て」
「なんですか」
「あいつ」
顎をしゃくったその先にいるのは小柄な男。この場所に慣れているのか、するすると人の間を抜けて路地裏に入っていった。
「
「えっ」
「追うぞ」
細い道を通り抜けた先で、男は煙草の煙を吐き出していた。
「あの、ちょっといいですか」
「ん?」
振り向いた顔は随分と幼かった。長すぎる前髪は右目を完全に覆い隠している。左側の髪の間から、濃いピンク色の瞳が、けばけばしいネオンのように夜の街に浮かび上がる。
なんでこんなところに子供がいるんだ。
「あれ、お兄さん、どこかで会ったっけ」
大きな瞳がこちらを見上げている。ジャラジャラとついた鎖や妙に袖の大きい服。指には大ぶりなリングが嵌っている。雰囲気が幼い癖に、
ませてるな、と半ば軽蔑に近い感情を覚えた。18歳くらいだろうか。もしかすると、補導対象かもしれない。
蘭も大方同じ感想を抱いたのだろう、顔をしかめ、一歩少年に近づいた。
「ちょっと、持ち物見せてもらっていいですか」
コートの内側から警察手帳を出し、少年に見せる。
目が見開かれる。
「えっ、もしかしてこれ職質?この辺でなんか事件でもあったの?」
「いえ、少しだけ気になりましてね」
「ええ、おれのこと疑ってんの?ひどいなー」
職務質問だと分かっても尚、けらけらと緊張感のない笑い。
ふいに、蘭が少年の指の間に挟まっている煙草を取り上げた。
「え、なに、返してほしいんだけど」
「君、その年でタバコなんか吸っちゃだめだろう。身体によくないぞ」
「あれ、タバコって四十歳にならないと吸っちゃいけないんだっけ?」
免許証が差し出される。
大庭睦。その隣の数字を目で追い、青山と蘭は少年─否、その男の顔をまじまじと見つめた。
「あの、今おいくつ?」
「三十二だけど」
「えっ?…は?…あ、失礼しました」
「いーよ、慣れてるから」
急にしおらしくなった蘭と青山を見て、大庭は心底おかしそうに喉を鳴らして笑った。
「見た目に騙されるなんて、まだまだだね、刑事さん」
「…すみません」
口ではとりあえず謝ったものの、肝心の所持品のチェックはまだ終わっていない。
蘭が一度咳払いをし、口を開いた。
「悪いけど、改めてご協力願えますか」
いいよ、と大庭はあっさりと承諾した。
大庭に上下の衣服のポケットの中身を出させ、青山はその荷物を受け取る。
「その内側のポケット、中身出して」
「どーぞ」
大庭の掌から現れた物体に、青山は目を見開いた。
掌に乗せられたのは、黄金の液体が入ったアンプルだった。ガラスが擦れてカチャカチャと冷たい音を立てる。
「これは何ですか、大庭さん」
「お薬だよ、お薬」
蘭の問に、大庭がにんまりと怪しい笑みを浮かべる。
「検査させてもらいますね」
「はいはいどうぞ」
ここまで大庭が素直に応じたのは予想外だった。アンプルなどというそれらしいものが出てきた時点で、この男の不審さは言うまでもないのだが、大庭の調子は変わらない。
大抵の場合、この手のものを取り扱うディーラーは警官が声をかけた時点で動揺が見えるか、即座に逃げ出すものだ。
しかし、この男からはそういう感情の揺れが全く感じられなかった。ここまで無反応だと、自分たちの勘違いだったのかもしれないとすら思う。それとも、もう逮捕されると諦めているのか。
疑念が渦巻く中、蘭が携帯していた検査キットで照合する。
「どお?反応出た?」
「いや…」
気怠そうにタバコを吸いながら、大庭が覗き込んでくる。
薬物の検査キットの色は変わらない。違法薬物ではないということだ。
なぜだ。明らかにそれらしい見た目のアンプルなのに。
「二回目だけど、見た目に騙されちゃだめだよ、刑事さん」
大庭が背後でだらしなく、にやにやと笑っている。
「でも、あんたさっき薬って」
思わず青山は声を上げる。
「そうだよ、これ媚薬だから」
刑事二人があんぐりと口を開けた。
大庭が噴き出し、声を上げて笑う。
その笑い方が妙に癪だった。
「媚薬っつっても危ないドラッグじゃないよ。ちょっと元気になるくらい。蜂蜜とか、香水とか、色々混ぜてあるんだ。けどこういうのって雰囲気大事でしょ?」
「こんなに沢山どうするんです」
「会ったコにあげるんだよ。みんな欲求不満だからさ、気持ち良くなりたいわけ。プラセボでもけっこうよくなれるもんなんだよね」
大庭が左手で輪を作り、そこに右手の人差し指を入れ動かして見せる。
青山が思い切り顔をしかめると、大庭はヘラヘラと笑った。
「おーこわ。そんなカリカリしてるとハゲるぜ?」
「あまりふざけないでください」
蘭もまた苛立ちを隠さない。
だが、大庭は一向にその態度を改めなかった。
「まぁまぁ、怖い顔しないでよ。こういう場所じゃめずらしくもないでしょ。それともハジメテだった?」
大庭の吊り上がった唇の間から、赤い舌が覗く。
「そんなに心配なら飲んでみる?」
「遠慮する」
青山はアンプルを大庭に押し戻した。
「あんたはこんなところで何をしてるんだ」
「なにって、ただの相手探しだよ。それとも─」
ぐいと服を強く引き寄せられ、青山はよろめきかけた。
「おれと遊んでく?」
「…遠慮する」
さらに強く襟元を引っ張られ、首筋が絞めつけられる。耳元に大庭の息がかかるのを感じた時だった。
「深谷くんのこと、知りたいんじゃないの?」
その囁きに、心臓が跳ねる。その顔をまじまじと見つめると、大庭は挑発するように指を動かして見せた。
大庭が喉を鳴らす。
「じゃ、ケツ狙われないように気をつけてね、おにーさん」
大庭の手がさっと青山の臀部を撫で上げる。
「ちょっ、おい!」
「ばいばーい」
大庭は上機嫌で口笛を吹きながら雑踏の中へと歩いて行った。背が低いからか、あっという間にその男の姿は人の影に紛れ、見えなくなった。
「なんなんだあれは」
「さあ…」
青山は呆然と空返事をした。
ついて来いということか。
あの男と深谷が繋がっている。そんなことが。
「おい、どうした。男に口説かれたのがそんなにショックだったのか?」
冗談めかした言葉とは裏腹に、蘭が怪訝そうな顔をした。
「あ、いや。俺ちょっと寄るところあるんで、ここで」
「そうか、じゃあまたな」
蘭が呼んでいたタクシーに乗りこんだのを見送ると、青山は小走りで大庭の姿を探した。辛うじてその背を追う。
しばらく歩いた先で、大庭が振り返った。
「タバコ吸っていい?」
「嫌ですけど」
「あっ、だめ?残念」
大庭が肩を竦め、いそいそとライターを仕舞う。手持無沙汰なのか、煙草の箱を弄び始めた。
「一回きみとはちゃんと話さないとなって思ってたんだよね。青山純くん」
大庭は青山を横目にそう言った。
「あんた、何者なんだ。なんで深谷のことを知ってる」
「ただの友達だよ。話を聞いたら、なんだか粘着質な先輩に付きまとわれて困ってるらしくてさ、こうして馳せ参じたってわけ」
物理的には、自分が大庭を見下ろしているはずなのに、見下ろされているような気がする。
大庭の口元が歪み、その笑みがはっきりとした嘲笑に変わる。
「分かんないかな、青山くん。おれはきみに警告しに来たんだよ」
「警告?」
「これ以上深谷くんに付きまとうなら、どんな目にあっても知らないよってこと。青山くん、きみは深谷くんの慈悲で見逃されてるんだよ」
「見逃すって…」
「ま、詳しくは後でこれを読んでよ。深谷くん優しいよね。きみのためにわざわざ手紙書いてくれたんだぜ、ほら」
大庭が指に挟み差し出したのは、蝋で印を押された、古風な封筒だった。紙の端に、小さく『深谷綴』と書かれている。何度か見た綴の字だった。
表面には、見たこともない花が蝋で留められていた。毒々しい色も、触手のような蕊も、まるで宇宙からやってきた未知の生物のようで、鳥肌が立つ。
「その花、キテレツだけどかっこいいよね。
青山は、大庭がかっこいいと評したその花から目が離せなかった。
その花がまるで、綴の、あの狂気じみた精神状態を表しているかのようで、ただひたすらに不気味だった。
「深谷に何をした」
青山は大庭を見下ろし、睨みつけた。
「そりゃこっちのセリフだぜ、青山くん。きみはさ、深谷くんに何をしたの?」
「俺はただ、あいつの様子が心配だったから会いに行っただけだ」
「本当かよ。深谷くん、すげー迷惑そうにしてたけど?ああほら、デリカシー無いきみと違って深谷君、繊細だから言わないんだよね。いや、正しくは言っても無駄かな。そりゃそうだよね。君みたいなのが、せっかく助けを求めても全部踏み潰しちゃうんだもん。そりゃへこむよ」
「俺は、あいつを傷つけようと思ったことは一度もない!」
「へえ、本当に自覚ないんだ。気持ち悪ぃ」
大庭がふん、と鼻で笑った。
青山は思わず大庭の胸倉に掴みかかった。
大庭は抵抗しなかった。
「離しなよ」
「あんたが本当のことを喋るんならな」
「おれ、嘘なんてついてないってば。手紙の字だって、ちゃんと深谷くんの筆跡だったでしょ、刑事さん」
「よくわからない怪しい薬を持ち運んでるような人間を信用できるか」
「おれじゃなくて、深谷くんを信用してよ。けどまぁ、誰だって見たいものしか見ないよね。そうやって、他人の生き辛さとか、大切にしてるものとか、蔑ろにしてきたんでしょ。なんていうか、きみは本当に想像力が無いよね」
「人を侮辱するのも大概にしろよ」
服を掴んだ手に力が籠る。
「ところでさ、知ってる?人間の急所って身体の中心に縦に並んでて、そこは素手で狙っても殺せるらしいよ」
自分の手首を、大庭の手が掴んだ瞬間、青山はとっさに飛びのいた。
「おっ、すごいね。ちゃんと躱せるんだ。何かスポーツやってた?」
そう言い終わらないうちに、大庭の手が振り上げられる。その腕を掴んで反撃しようとした瞬間、突如大庭の姿が視界から消え、身体に衝撃が来る。次いで足が払われた。
頭蓋骨に激痛が突き抜ける。
勝敗は一瞬でついた。青山は地に伏していた。紛れもない敗北だった。
「今回はこれくらいで勘弁してあげるよ。深谷くんに感謝しなよ?」
大庭が軽く服を払い、倒れ込んだ青山の傍にしゃがんだ。
「リンチとかもそうなんだけどさ、殴られた方からしてみりゃ、直接殴ってきた奴も、それをただ見てて止めなかった奴も同罪なんだよね」
青山は痛みに呻きながらも、自分を見下ろす大庭を睨みつけた。
「…暴論だな。それじゃあ、実際に手出ししてない、見てただけの人間も全員加害者で、罪を償うべきだって言いたいのか?負け犬根性極まれりだな。被害者面も大概にしろよ」
「そんなにキャンキャン吠えんなって。可哀想になっちゃうじゃん。ま、わかるけどね。揉めてるところに首突っ込むのなんておれだってやだし」
「そこまで言うならあんたは殴られてる誰かを救えんのかよ」
「君と同い年の時なら迷わず救えると豪語してただろうね。けど、今はどう足掻いても勝てない相手がいるってことも分かっちゃったから」
「偉そうにご高説たれてその答えかよ。年下に説教して満足か?おっさん」
「あはは、まあ、何かを守るにはそれこそ力がないといけないから。単純に身体能力、知力、経済力、それから想像力とか交渉力とかね。そういう意味じゃ、きみにもおれにも誰かを味方して救うなんてことは無理」
そりゃそうだ。そんな力を兼ね備えた人間なんか存在しない。誰だって自分の身が一番だ。自己犠牲で成り立つ救いなど存在しない。優しさと自己犠牲は違う。
「でもさあ、青山くん」
大庭の顔から笑みが消える。
「きみは味方になれなくても、敵にならないことはできたんじゃないの」
先程までの、嘲笑混じりの茶化した口調はどこにも残っていなかった。
「一言声かけるとか、話聞いてやるとか、それくらいならできたんじゃねぇの。悲しいって言って泣いてる人に追い討ちかけてどうすんだよ。悲しいって言ってるんだからそれでいいじゃん。辛いって言ってるんだからそれでいいじゃん。深谷くんみたいな人間がそうやって悲鳴をあげても、なかったことにされちゃうんだよ。そんな奴相手に何を言ったって無駄じゃん」
青山は口を噤んだ。
胃に鉛を流し込まれたように、身体が重い。
「目の前の人がどんな思いで、どういう人生送ってきたか、少しでも想像したことあんの。ちょっとは自分の頭を使えよ」
青山は黙り込んだ。
想像。胸の内で呟いてみる。
「どうせ深谷くんにも過去のことに拘ってたら前に進めないとか、お前がちゃんと自己主張しなかったからだとか言ったんだろ」
身体が強張る。今身体を動かせば、ぴしりと音がしそうだ。指先まで石になったようだった。
青山は口を開きかけたが、声は出なかった。言葉が見つからなかった。
「…なんでそんなことが分かる」
「こういう返答って、大体パターンが決まってるんだよね」
大庭が溜息をついた。
「青山くんさ、自分の命握ってる相手に楯突ける?怒らせたら何しでかすかわかんない上司に、後で社会的に殺されるってわかってて、自分の意見言える?」
「…親と上司は違う」
「同じだよ。その存在の重みだけで誰かを潰せるんだから。ほら、そのツルツルの脳ミソでがんばって想像してよね。あ、もっとわかりやすい例にしてあげよっか。例えば今ここで刺青入ったこわーいお兄様方に囲まれて話しかけられたとするじゃない?そしたら、できるだけ怒らせないように愛想笑いして、ご機嫌とって、相手が去ってくれるのを待つしかないと思うんだけど、どう?」
子供に向かって言葉を易しくするような口調に、青山は苛立った。しかし反論は何も浮かばず、言葉にもならなかった。
「親だって同じだよ。怒らせたら明日からご飯たべられないかもしれない、帰る場所がなくなるかもしれないのに、自分の意見なんて言える?きみは知らないかもしれないけど、力を傘に、子供に自分の機嫌取らせる大人って結構いっぱいいるんだぜ」
「…あんた、深谷の家族のこと何か知ってるのか」
青山はやっと、そんな言葉を吐き出した。
大庭は軽蔑のこもった目を細めた。
「自分で確かめろよ。つっても、ああいうタイプの人間って外面だけはいっちょ前だから、きみのその薄汚れた色眼鏡で確かめられるのかは謎だけどね」
「…なら猶更、深谷には会いに行かなきゃならない」
「わお、まだそういうこと言えるなんてすごい図太さだね。というか恥知らず?おれだったらどの
大庭の指が首にかかる。その見た目からは想像もできない握力で、的確に頸動脈を圧迫される。
指はすぐに離れたが、青山は激しく咳き込んだ。
「深谷くんは11月の花屋にいるよ」
11月の花屋─英語に直訳するなら『Flolist November』だ。調べた情報は間違っていなかったらしい。青山は奥歯を噛み締め、よろめきながらも立ち上がった。
「じゃ、今度こそばいばいだね。精々頑張れよ、青二才くん」
大庭は青山の肩を叩くと、夜の帳にその姿を消した。
叩かれた背が、妙にずきずきと痛んだ。
****************
※注─『Passiflora』
時計草。パッションフラワー。花言葉は「信仰」、「聖なる愛」等。「受難」や「癒し」を表すと同時に、「傷つきやすさ」や「感じやすさ」を象徴する花。この花が冠するパッションとは「情熱」ではなく、「受難」の意。雄蕊の形が磔にされたイエスキリストを表す場合もある。
「植物性の精神安定剤」と呼ばれる程、優れた薬効があると言われている。パッションフルーツはこの植物の果実である。
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