第27幕 Gladiolus

「なんか、あっという間に春になっちゃったね」

 卓の上に出た桜の札を見ながら、大庭は呟いた。

 この屋敷の外にも、一部に桜の樹が植えられており、毎年春になると例外なく薄紅色の花びらを散らしていた。

 桜という花はどうも死を想起させる。巷では出会いと別れ、そういう些か手垢のついた言葉で語られる花。

 しかし、黒田には、桜の花の淡い紅色が、血を薄めた色のようだと思えて仕方なかった。食虫植物ウツボカズラがそうするように、桜の樹が数多の人間の屍体を根で抱え込み、溶かして、吸い上げる。そして、桜の花びらは人の屍から得た栄養分で、美しい薄紅に染まっていく。こんなことを考えてしまうのは、かの文章を読んだことが主な原因だろうが、春になる度に、黒田はこうした空想によく耽っていた。

 自分には、”桜の樹の下で酒宴をひらくような”人々と同じ酒を飲めそうにないと、孤独とも、驕りとも言える感覚に酔ってしまう。この感傷を言語化してくれた梶井基次郎には感謝してもしきれない。

『桜の樹の下には』の一説を思い出しながら、黒田は日本酒を口にした。とろりとした独特の甘味が味蕾の上に広がる。

「穏やかな三ヶ月だったね。何事もなさ過ぎて恐ろしいくらいだ」

 比喩ではなく、本当にそう思った。

 自分がこうなるように計画した張本人ではあるのだが、上手くいきすぎている。

 上手くいっていると思う時は危険だ。そういう時が、一番足を掬われる。常に最悪の場合を想定し、ありとあらゆる対抗策を講じた。自分が極度の不安症であることは重々自覚している。自らの脳内で無限に広がる最悪の可能性に苦しめられるのにも、とうに慣れてしまっていた。

 悲観はある種の力だ。楽観していては、目標に到達などできない。、繰り返し分析し、策を講じる。ずっと、そうやって生きてきた。

 ─疲れたな。本当に。

 黒田はソファに凭れ掛かり、天井を仰いだ。

 埃ひとつ被っていない、電灯式のシャンデリアが乱反射している。使用人としてここで働いていた組員たちが、頻繁に掃除をしていてくれたお陰だ。立つ鳥跡を濁さずとばかりに、数日前、彼らがことさら丁寧に掃除をしてくれたのだった。本当に、真面目で、几帳面で、繊細な、慈しむべき者ばかりだったと、黒田は振り返った。

 そんな彼らは、全員今この屋敷にはいない。明日の朝のため、既に各々帰るべき場所に着いている頃だろう。

「これで最後の最後になんかあったら洒落にならねぇよな」

 言葉とは裏腹に、少しも緊張感の無い声音で、大庭が笑う。

 黒田は山札を捲った。柳だ。場の札を重ねて取る。

「誰も僕らを止められはしないさ。僕らはこの世界の中で幽霊も同然なんだから」

「幽霊ねぇ。確かに」

 今日くらいは許されるだろうと、大庭は煙草にライターで火をつけた。

 煙草の紙製フィルターの焦げる臭いが、鼻腔の奥をつん、と刺す。

 黒田は眉間に皺を寄せた。

「なに、クシャミが出そうで出ないみたいな顔しちゃって。らしくないじゃん」

 大庭が揶揄う。

 黒田はあからさまにため息をついた。

「煙草に火をつける時は一言言ってくれ」

「ごめんごめん、おれも気ぃ抜いちゃってたんだよ」

 大庭の口から、紫煙が吐き出される。

 それもそうか、と黒田は肩の力を抜いた。

「深谷くん、それにしたって化け物だな。あの薄い身体のどこでアルコール分解してんだよ」

 大庭が、空になった酒瓶を振ってみせる。

「ちゃんと見てなかったけど、どんだけ飲ませたの」

「一升以上は飲んでいたかな」

 今日、三人でこの屋敷に来たのは他でもなく綴を酔わせて前後不覚にするためだった。当然大庭はこちら側の仕掛け人だ。こうして集まって酒を飲むこと自体、ある種のルーチンと化していたために、綴を連れてくるのは容易かった。

 ところが、いざ飲み始めると、綴の様子に、いつまで経っても酩酊する兆候が見られなかったので、黒田は内心冷や汗をかいていた。まさか、こんなところで計画が破綻しては困る。

 途中で半ば無理やりウォッカを飲ませたあたりで、綴が泣きながら愚痴を溢しはじめ、そのまま眠りだしたので、寝室の一室に担ぎ込んだのが数時間前の事だった。

「二十歳の子にえぐい飲み方させんなよ」

「大丈夫だよ。綴が飲める量は誕生日の時に大凡把握しているから。軽い二日酔いで済むよ」

 あと綴は二十一歳だ、と黒田は付け加えた。

 大庭が、充血した目を瞬かせた。

「深谷くんなら、止めない気もするけどね」

 ぽつり、と大庭が呟く。

「それは、本人に聞いてみないと分からないだろう」

「前から思ってたんだけどさ、黒田くんって物凄い心配性というか、小心者だよね」

「そんな台詞で煽ってるつもりなら、君もなかなか小心者だよ」

 黒田は切子細工の施された杯を揺らした。

「小心者であることを否定したことはないよ。常に最悪の事態を想定するし、その対抗策の準備を怠るなんて、とてもじゃないが考えられない」

「今更だけど、そういうところ、深谷くんとそっくりだよな。やっぱり、似たもの同士惹かれるわけだ」

「誰だって自分と似た人間に惹かれるものだろう。深く関わる他人はいつだって自分の水鏡だ」

 手にしていた盃の札を菊の札に放り、自分の場に寄せる。

「花見で一杯、月見で一杯」

「うわ、最悪。三光に盃まで取りやがって。こんなとこで運使い切らないでよ、黒田くん」

 役を阻止するつもりだったのだろう。山札から出たもう一枚の菊の札に、大庭が同じ菊の札を重ねた。大庭の手元にが集まる。

「随分欲張りだね」

「人生欲張ったほうがいいんだよ」

 ポケットから携帯用の灰皿と、二本目の煙草を取り出して、大庭は煙を燻らせた。

「欲張りついでに、こういうのも聞いちゃうんだけどさ。黒田くんって、物凄いお坊ちゃんだったでしょ」

 酔っ払い特有の突拍子も無い会話に、不意を付かれる。

「どうして?」

「なんとなく。いいじゃん、今まで散々、馬車馬のようにこき使われてやったんだから、教えてよ。酒の肴程度にさ」

 大庭はそう言いながら、空になった黒田の杯に、酒瓶を傾ける。

 さして飲めもしないくせに、自分の江戸切子にも並々日本酒を注いだ。

 注がれた酒を呷る。

 大庭もおおよそ勘付いているのだろうが、黒田は自分の過去を説明するために、口を開いた。

「君も知っての通り、俺の氏名は黒田馨じゃない。花屋敷という、そこそこ歴史の古い、没落貴族みたいな家の出だよ。ついでに言うと、俺はここで生まれ育った」

「ここ、実家だったのかよ。豪邸じゃん」

「そうだよ。父親と、母親と、使用人三十三人と、ここで生活していた」

「皆んなどこ行っちゃったのさ。夜逃げ?」

 どうせ、ろくでもない話に違いないのだろうと、大庭は茶化した。

「全員殺した」

「はあ?」

 煙草の燃えかすが、ぽろ、と卓の上に落ちる。

 黒田の口から飛び出した言葉に、大庭は笑い出した。あまりの現実味の無さに、笑うことしかできない。

「殺したって、黒田くんが?」

「そうだよ」

「いや、正直、一人くらい、やっちまってそうだなとは思ってたけど。すげえな、30人も殺してんのかよ。小学校一クラス分はあるぜ」

「殺人鬼と花札をする機会なんて中々ないだろう。楽しんでくれ」

「そりゃ光栄だね。後でサインくれよ」

 大庭は、ちらりと黒田の様子を伺った。

 殺人鬼、そう自称した黒田と、その言葉が、どうにも重ならない。

 相手の命まで奪ってしまっては、正当防衛も糞もないが、それだけのことをされたというのは想像がついた。数年も一緒に過ごしていれば、黒田がどんなことを嫌がるかなど、ある程度は理解できる。

「どんな家庭環境だったら、そんなことになっちゃうのさ」

 あえて大庭はそう聞いた。

「君たちと何一つ変わらないさ。花屋敷という名、それが俺が賜った最初の呪い。血統書つきのペットというか、家畜だった。父親は恐ろしい人だったよ。父が敷いた絶対王政の元で飼い殺されるか、その父を殺して逃げるしか、選択肢が無かった。殺さなければ殺される。だから殺した。それだけのことだよ」

「そんなに頻繁に殴られたりしてたの」

「誤解の無いように言っておくが、俺はその手の暴力を振るわれたことは無いよ。、恐ろしかったんだ。魂の殺し方は色々ある。生活を分単位で管理するとか、食事を管理するとか、人格、趣味、嗜好、ありとあらゆる人となりを否定する言葉だとか。たった一つの過ちも赦されなかったし、頭でも身体でも父親には敵わなかったからね。常に父親の機嫌を伺って生活していた」

「なんか、安心したよ。黒田くんも、やっぱりそういう経験してるんだ」

「最初に言ったはずだよ、睦。俺は君たちと本質的には同じだと」

「そりゃあ、死にたくもなるわ」

 はあ、と大庭は煙を吐き出した。

「もう、終わりなんだね」

「やっと、ね」

「おれも三十年以上生きてるのかぁ。長過ぎたよ」

 ふと、大庭が窓を見た。

「そういや、煌ちゃんは?」

「一昨日、一番最初に帰ったよ」

「あはは、あの子も最後までぶれないねえ」

「少し前に君も絵を貰っただろう。あれが彼女なりの挨拶だよ」

「そっか。なら、心残りなのは深谷くんのことだけかな。おれはさ、正直、深谷くんのことだけ本当に心配なんだよ。おれたちは、ほら、もう終わっちゃってるけど」

 裏返した花札を、大庭はがしゃがしゃとかき混ぜる。

「最初に比べると深谷くんも随分、憑き物が落ちたってか、吹っ切れたのかね。一番最初に会った時、逆にどうやってこの子は今まで生きてきたんだろうって思ったけど」

 大庭が札を撒き、山札を作った。

「本当に、強い子だね。深谷くんは」

「ああ。本当に、彼は凄いよ」

 場に藤と柳が出る。

「あんな脆い子が、どうしてここまで生きてこれたのが不思議で仕方ないよ。おれが努力足りないみたいに思えちゃう」

「苦痛のキャパシティは、容量もベクトルも人によって違う。僕らは。辿り着いた場所が、僕らの人生の答えになる。君はどうだった、睦?」

「良くはないけど、悪くもなかったよ。今の手札くらいには。けど、最初に配られる手札は大事だよなぁ。持ってる札が強いことに越したことはねえもん」

 覚束ない指先で、大庭が牡丹の札を放る。

「正直さ、深谷くんのこと聞いたときは、おれよりマシじゃんと思っちゃったんだよね。家に金さえありゃ、大抵のことは何とかなるだろって」

「君がその血筋で、その家で育ったのなら、それは今の君ではなく、深谷綴という人間と全く同じ運命を辿るよ。恐らくはね」

 場の鹿に、紅葉の札を重ねた。

「君の苦痛を軽んじる気は毛頭無いが、君にだって綴の苦痛を軽んじることは許されていないよ、睦」

「わかってるって。考えはすぐ変わったよ。そりゃ、誰だって、自分が一番苦労してるって、思いたいだろ」

 本格的に酔いが回っているらしいが、大庭は札の取り方は相変わらず要領が良かった。確かに、大庭と綴では生き方が随分違うと、黒田は思った。

「いい子すぎるんだよなぁ。ずば抜けて要領が良いわけじゃないけど、素直だし、責任感あるし、何より努力家だしさ。ああいう子が、報われる世界であってほしかったよ。ここに集まってる子たち、みんなそんな子ばっかりだよ。なんで、この子らが社会からあぶれなきゃいけなかったんだろうって、悔しくなるような。売りとか運びやってくれる子たちだってさ、ある意味じゃ、おれらはあの子たちを食いものにしてる」

「誰かを守る環境を整えるには、大金がいる。守る対象が脆弱であればあるほど、差し出す対価は大きくなる」

「わかってる。わかってるよ」

 飲まなければやっていられないとばかりに、大庭が次の杯を一気に飲み干した。

「どうすりゃよかったんだろうな、おれたちは。多分、色々間違ってたんだろうな」

「君が間違っていたかどうかは、明日見届けさせてもらうよ」

 黒田もまた酒を口にした。

「道を外れた者は、外れたその先で生きていくしかない。けれど、明日だけは、君も朝日を恐れなくていいんだ」

 大庭は愉快そうに笑った。

「本当に明日死ぬって思うと、案外どうしていいかわかんないもんだね」

「ぼんやり過ごすことにだって意味はある。微睡んだまま死ねるなら、それはそれで素敵な結末だと、俺は思うよ」

 指に挟んだ、菖蒲の札を黒田は見つめた。

 菖蒲、アヤメ、杜若、アイリス、唐菖蒲。カナリアはそういう美しい花束だった。

 大庭が置き時計をちら、と見て、身体を伸ばした。

「まだ、時間あるなあ。本当にどうしよう」

「本を読みなよ」

「本ねえ。何か、おれにおすすめの本ある?」

 あまり気乗りしないのだろう、気怠い調子で大庭がそう問いかけた。

「星新一の、『悪魔のいる天国』かな。一つ一つの話も短いから、飽き性の君でもすぐに読める」

「おれのこと、よく分かってるじゃん」

 応接間の本棚から、文庫本を大庭に手渡した。

「ちゃんと本を読むなんていつぶりだろ。……本をたくさん読んでたら、人生変わってたかな」

 大庭は本を受け取ると、感傷的にそう呟いた。

 黒田は小さく首を振った。

「本は気付きをくれるだけだ。ずっと自分の中に眠っていた存在を目覚めさせるだけで、無から突然有を生み出す魔法ではないよ」

「それなら、よかった」

 大庭の、真っ赤に充血した目がより赤くなる。

 大庭と黒田は広い応接間を出て、並んで廊下を歩く。時折この屋敷に来る際、寝室として使わせている部屋の前で、立ち止まった。

「じゃあね、黒田くん。おやすみ」

 黒田は距離を詰め、ドアを開けようとした大庭の頭に触れた。

「君がいてくれて、本当に助かったよ。ありがとう、睦」

 大庭の目が見開かれる。それから照れ臭そうに笑った。

「どういたしまして。おれ、もう寝るよ」

「ああ。おやすみ」

 蝶番が軋んで、ドアが閉まる。

 その瞬間、木製の板の隙間から、嗚咽が廊下に響き渡った。

 黒田は扉を背にして寄りかかったまま、目を伏せ、微笑した。

 月明かりが傾くまで、啜り泣く声は止まなかった。


 澄んだ、冷たい光が皮膚越しに虹彩を撫でる。

 瞼を開けると、自分の睫毛に結晶が纏わりついていた。そういえば、昔、理科の実験で、モールに纏わせ育てたミョウバンが、こんな風だったな、などと脈絡のないことを思った。

 綴は、掛け布団の中で、寝返りを打った。

 随分と身体が重い。特に、頭が重たい。枕に吸い込まれるようだ。

 普段より酒を飲み過ぎてしまったせいだろう。

 昨晩は、久しぶりの集まりで、妙にボードゲームに熱中したせいか、酒が進み、自制する間もなく酔ってしまった。

 身体を起こそうとすると、案の定、視界が回転し出したので、綴は再びマットレスに身体を預けた。誕生日以来の二日酔いだ。

「結構気持ち悪いな……」

 自分の声が存外に掠れている。身体が肝臓に水分を回してしまっているのだろう。眠りと水分、どちらを取るべきか、逡巡する。

 カーテンの隙間から漏れる光を見るに、陽が登ってまだそれほど時間が経っていないらしい。

 時刻をを確認するため、枕元にあるスマートフォンに手を伸ばすと、ちゃり、と金属が擦れる音がした。

「え?」

 右手首に、金属製の拘束具が嵌められている。

 まだ朧げな思考にかかっていた靄が晴れる。

 慌てて掛け布団を剥ぐと、右腕だけではなく、左腕、そして両足に枷が嵌められていた。

 綴は息を呑んだ。

 一体誰が。何のために。

 その時、スマートフォンが非通知の着信を知らせた。

 恐る恐る、受信するために画面をなぞる。

「おはよう、綴。目が覚めたかい」

 聞き慣れた、穏やかな声だった。

「黒田さん?」

「驚かせてしまったね。訳あって、君を拘束させてもらった。先に言っておくと、この件で君に一切非は無い。これはただの俺の我儘なんだ」

「どういうことですか」

「今は言えない。帰ってきたら、全て話すよ。だから、君には、何もせず、ただそこで待っていて欲しいんだ。頼む」

「何故、僕を拘束する必要があるんですか。頼まれるなら、それに従いますよ」

 只事ではない。そう思い、綴は話続けた。黒田の番号は非通知だ。ここで切られたら、成す術がない。

 おまけに、手にしたスマートフォンは、自分のものではなかった。つまり、連絡先も自分が登録したものはそこには無いはずだ。暗記が特技の綴といえど、電話帳にはなり得ない。

 公共機関へ連絡するという選択肢もあるにはあるが、黒田の行動の異常さを考えれば、それは下策だ。

「黒田さん、一体何をしようとしているんですか」

「最初から決まっていたことだよ。綴、君のために、ライフライン、食料、衣類、娯楽、全てその屋敷の中に揃えてある。少々不便かもしれないが、俺がそこへ帰るまで、自由に過ごしていてくれて構わない」

「言っていることがめちゃくちゃですよ、黒田さん。僕を拘束しなければならない理由があるってことですよね。第一、拘束なんてしなくても、僕は貴方より能力が劣っている。そんなこと、しなくたって僕は貴方から逃げたりできないじゃないですか。そもそも、僕は貴方から逃れようなんて考えていない」

 声を荒げる。自分のものとは思えぬ声音が、骨から鼓膜に伝わる。

 綴は手を震わせた。

 何か、とてつもないことが起きようとしている。

「違うんだ、綴。君を失いたくない。だから、こうするしかなかった」

 黒田が、電話越しに宥めるようにそう言った。

「お願いだ、綴。俺を信じて、三日間、そこで待っていて欲しい。必ず戻る」

 懇願。あるいは哀願とも言える、黒田の声色。

 彼には、除かねばならない邪智暴虐があるのだろうか。そのために、綴を人質にしたのだろうか。どの道、できることは一つだ。

「……わかりました。貴方を信じます」

「ありがとう、友よアミーチェ

「その代わり、帰ってきたら一度殴らせてください」

「その理屈だと、俺も君を殴ることになるな。─嗚呼、時間だ、綴。三日後、必ず君の元へ帰るよ。約束する」

 こちらが答える間も無く、通話が切られた。

 二日酔いの鈍痛を無視し、綴は無理やり起き上がると、部屋の外へ出た。

 驚くべきことに、枷の鎖の長さは綿密に計算されているらしく、生活インフラへは辿り着けるが、外へ繋がる出入り口には近づけないようになっていた。

 黒田の周到さに舌を巻く。

 黒田は好きに過ごしていろ、と言ったが、ゆったりと過ごす気にはとてもなれない。一先ず、部屋の中に置いてあった栄養補助食品を齧り、水で流し込む。その間も、綴は檻の中の動物の様に、部屋の中を歩き回った。ただ待つことしかできないということが、これほど苦しいことだとは思わなかった。

 ふと、部屋の執務机に筆記用具とノートが入っていたことに気がついた。

 ──これなら。

 綴は椅子を引き、ノートを開く。

 以前、彼は言った。自分のために物語を書いてほしいと。期限は三ヶ月。今日は四月三日。大方下書きが完成していた原稿を、ノートに書き出していく。

 黒田が帰ってきた時に、この小説を渡せたら、何かが変わるだろうか。

 手を動かしていなければ、焦燥感で気が狂いそうだった。

 綴は、ひたすらBの鉛筆を握り締め、机に向かった。

 窓の外では、あの日と同じように、春の風が鳴り、桜の花びらが舞っていた。

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