第26幕 Snow drop
「ありがとうございました」
立ち去る客の後ろ姿に、綴は頭を下げた。
黒田の提案に甘え、休みを数週間ほどもらっていた。漸く仕事に復帰したものだが、案外身体は業務を覚えているもので、考えるより先に、手足や口は勝手に動いてくれる。
有難い話だ。所謂、会社勤めではこうはいかないだろうなと思う。生きていく上で何を生業とするか─生活のことを考えるならば、この脆弱な心身とも向き合わなければならない。
綴は、売れ残り、萎れかけている花のために、栄養剤を並べた。
冬に咲く花は、その他の季節に比べると随分と少ない。しかし、この花屋では黒田の持つ技術によって、年中花の種類を数多く取り揃えていた。
当然、開花時期が大幅にずれているものもある。それについて尋ねると、一年中苺が食べられるように、花の管理についても技術は進歩していると、黒田は言う。
黒田はこうして度々、真実と言えないわけではないが、嘘と断定もできないような言葉を選ぶことがあった。
トランプで神経衰弱をするように、
それでも、他人から聞いた情報を、本人に突きつけるのは、信頼を壊すことに繋がるだろうと思う。
今まで黒田が自分に対してそうしてくれたように、仮に、東海林の言葉の全てが真実だったとしても、本人の口から語られるまで待つべきだと、綴は判断した。
「そういえば、花屋に資格ってあるんですか」
ただ、いつも通りに。
ある種の邪推から意識を逸らすように、綴は背後で生花の点検をする黒田に向かって尋ねた。
「特に必要ないよ。もしかして、この先花屋を生業にするつもりかい?」
「職業の選択肢として、どうなのかなって」
深く考えずに尋ねはしたが、ずっと頭の片隅に根を張っていた、悩みの種でもあった。
花屋という職が楽だとは思わない。自分がこうして余裕をもって働けるのは、黒田の力によるものだと理解してはいる。
金を稼ぐということ。自分の力で生活していくということ。たったそれだけのことが、こんなにも途方もないことに思えた。自分の周りの学生たちは、いつの間にか当然のように自立していて、自分だけが、大人のふりをしている子供みたいだという思いから、ずっと抜け出すことができないでいる。
例えば料理の仕方、洗濯の仕方、掃除の仕方。そんなもの、学校では何一つ教えてくれないじゃないか、と口に出してしまえば、馬鹿にされても文句は言えないのだろう。世の中の人たちが、いったいいつ、どこで、そういうものを身につけたのか、不思議で仕方無かった。
「あらゆる職業に言えることだけれど、花屋も生業としてやっていくのは難しいよ。花というものが生活にはなんら関係ないからね」
この季節には咲かないはずの薔薇の花弁を、黒田の指がなぞる。
「美しいものを愛でるには、魂を研ぎ澄ます必要がある。そのためには大抵の場合、お金に困らない環境が必要だ。人は貧しくなると、身体より先に魂が貧しくなる。生きるために、目先の利益に目を奪われるようになる。だから、今のこの国では難しい」
夢で腹は膨れない。
それでも美しいものを求めたいと願ってしまうことは、自分が恵まれているということなのだろうか。
「ここで一生働かせてもらえたらいいんですけどね」
綴は冗談めかした口調で、黒田に笑いかけた。
「確かに、それはそれで素敵な選択肢かもしれない」
黒田が目を伏せ、微笑する。
「パンのための仕事─そうだな。俺が君に言えることがあるとすれば─商売をするなら、お金に余裕がある人を相手にするといい。恐らく、君はそうでない人間を相手にすることは耐えられないだろうと思うから」
なるほど、と綴は呟いた。
貧しさとはある種の病なのかもしれない。
それにしても、と黒田が徐に口を開いた。
「君はこういう話を嫌がらずに聴くね。大抵の人は鬱陶しがるものだが」
「元々知識とか、人の考えを浴びせられる環境が好きなんですよね。だから、大学生活は楽しかったんですけど…それだけじゃ自立はできないと知るのが遅すぎました」
はは、と自嘲気味に綴は笑った。
黒田が首を横に振る。
「恥じることはない。学問も同じだ。一見何の役に立つかわからないものが、結果的に何かを救うこともある。君が今やっていることみたいにね」
黒田が綴の手元を見つめる。
「君が、ここまで花の救済措置が上手くなるとはね。単純に花の育成も上手いよ。忍耐力、想像力、観察力─そのどれが欠けても成り立たない」
「……買い被りすぎですよ」
人の賞賛は素直に受け取りたまえ、深谷君。
ふと、東海林の声が脳裏に響いた。
「また持って帰るかい?」
「はい」
黒田が、売れ残った花を纏めて用意する。
あらゆる商品は、より品質の良いものから売れていく。花もその例外ではない。形のいいもの、色が美しいもの、これから開花する、若いもの。
萎れたものや、形が歪なもの、色が淡いものは、いつまで経っても店の中で取り残されてしまう。これほど品質を安定させている、黒田の店ですら例外ではなかった。
この花屋ではそうした花を乾燥させた上で処理を施し、ドライフラワーやポプリ、肥料として利用しているが、最終的にごみとして廃棄される花も、ゼロではない。
綴はある時から、そうした売れ残った花を自室へ持ち帰るようになった。そうした花が選ばれない瞬間を頻繁に見てしまうからなのだろう。花を捨てるという行為を、綴は自分に許すことができなかった。
恐らく、死んだ
次第に、あの花たちの不完全さが、愛おしいと思うようになった。梶井基次郎の言葉を借りるならば、彼らの佇まいは、無気力な私の触覚に寧ろ媚びて来るのだった。
「君が売れ残った花ばかり持ち帰るのは、自己投影からくるものかい」
黒田が静かにそう尋ねた。
綴は、生命力を失い始めた花束を見つめたまま、口を開いた。
「ある意味では、そうなのかもしれません。子供に追いかけ回されてる土鳩とか、蹴っ飛ばされている小石とか、そういうものを見ると、どうしても目を逸らせなくて」
黒田が目線で相槌を打った。
「わかってはいるんです。僕がその一瞬、そういうものに対して自己愛みたいな憐憫を向けたところで、何も変わらないってことは。……分かっているのに、どうしても、目を逸らせない」
綴は、少々歪な花弁をした、手元のアネモネに触れた。歪、とは言えど、それは他の完璧な花と比べれば少々形が違う、という程度のもので、然程問題があるわけではない。それでも、この花は誰にも選ばれることはなかった。
「ただ、今は自分の良心の呵責に従っていいんだと知れたから、それでもいいのかなって」
西日が、長く影を作る。
「どんな救済からも、零れ落ちてしまうものがあるじゃないですか。そういう存在に、勝手に自分を重ねてしまうんです」
「君らしい答えだ、
綴は顔を上げ、青紫色の瞳を見た。
「でも、黒田さんだって似たようなことをしてませんか」
「うん?」
「僕のような不良品をわざわざ雇うのって、枯れかけた花を手元に置いておくのと似てませんか」
そう、この仕事自体は、学べば誰でもできるはずなのだ。
あえて自分である必要はない。だから不思議だった。もっと能力の高い人間ではなく、ずっと自分が仕事を任されていることが。
「綴、君は一つ勘違いをしているよ」
黒田が瞬きもせずこちらを見つめていたので、綴は驚きたじろいだ。
「君は不良品なんかじゃない。俺は、君が持つ能力と性質に価値があると思うから、こうして君に仕事を手伝ってもらっているんだ」
黒田の声に、これほど力が篭っていることは稀だった。
「得てして、美しい花ほど手間がかかるものだ。君も花を扱っていれば、よく分かるだろう。たった一輪の薔薇を咲かせるために、一体どれほどの知恵と時間と労力が必要か」
黒田が真剣に言葉を発する時、その声質は深く、どこか甘美で、意識が浮遊するようだった。言葉選び一つ一つが詩的に計算されていて、惹き込まれてしまう。
「水を与えるだけでは駄目だ。一体その花にはどんな栄養が必要で、どんな土で育てるべきか。どんな病気になりやすいのか。病気になった場合の対処法は?日向に置くべきか、日陰におくべきか。どんな虫に蝕まれやすいのか─そういう観察と処置を積み重ねなければ、美しい花を咲かせてやることはできない。どんな土でも育つことができる野草と違ってね」
黒田が、息を吐き出す。
「君はそういう存在なんだと思う」
耳朶が熱い。
相変わらず、黒田は詩的─否、気障と言っても差し支えないような台詞を、平然と口にする。詩集を朗読しているのかと錯覚する程だ。
綴は思わず目を逸らした。
「期待してもらえるのは嬉しいですけど、多分その期待には応えられない、です」
「知っているよ、君が他人の期待を失望として受け取ってしまうことも。そうした君の猜疑心の強さが長所となるか短所となるかは、時と場合と環境による。それでもあえて言うよ。君の能力は、少なくともこの場で役に立っている。俺は、君を頼りにしているんだよ、綴」
嬉しくないわけがない。
綴は口元を片手で覆い隠した。
「……ありがとうございます」
漸く、その一言を返すことができた。
黒田が目を細めた。
その日は不自然なほど、何の変哲もない一日だった。
綴は花屋での仕事を終え、自室の玄関で靴を脱いだ。
リビングに足を踏み入れた時、そこにあった異物に、目が釘付けになる。
箱だ。箱が自分の部屋の真ん中に鎮座している。
遠巻きに観察すると、それは中世の旅行鞄のような佇まいだった。重厚な木製の鞄の開き口に、南京錠ががついている。
ふと、表面に小さなタグが付いていることに気がついた。
『open me』
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』のオマージュだろうか─その瞬間、この謎の箱の送り主が誰か理解し、綴は警戒を解いた。
箱に添えられていた鍵を穴に差し込み、回す。がちゃり、と重い金属音を立て、箱が開いた。
「うわ」
綴は息を呑んだ。
中には、ガラスペンとインクが入っていた。
インク壺は20種類にも上る。全て植物に由来する名前のラベルだった。椿、梅、桜、彼岸花─
ふと、『瑠璃唐草』の字に目が止まる。
そうか、両親と決別して半年近く経つのか。
そこにあるのは喜びではない。
やっと、ここまで来た。それでも、マイナスをゼロに戻しただけだ。ただのスタート地点。あるいは、借金を返済したに過ぎない。
床がぽつぽつと暗い色に染まる。
それでも。
紛れもなく自分の力で、この空間を手に入れた。
どうして、こんなに苦しまなければならなかったんだろう。吐くほど努力しなければならなかったんだろう。どうして、こんなに悲しい思いをしなければならなかったんだろう。
豪邸が欲しかったわけじゃない。ただ、自立した、慎ましくも、心を殺さずに済む環境が欲しかった。
この六畳半のために費やした二十年は。
名付けられない感情がとめど無く溢れて、綴は顔を覆ったまま啜り泣いた。
幾度も思う。黒田がいなければ、自分は一体どうしていたのだろう。
紛れもなく、彼に命を預けた。使い道のなかったはずの命に、意味を与えてもらった。
この贈り物の、送り主に電話をかけた。
「気に入ってくれたかい?」
スマートフォンのスピーカー越しに、心底愉快そうな黒田の声が聞こえた。
「あの、本当に、ありがとうございます。あんなもの、一体どこで探してくるんですか」
「探してなんかいないよ。特注品だからね」
返す言葉が見つからず、口が半開きになる。
「世界にたった一つしかない、君のための道具だ。気に入ってもらえた様で嬉しいよ」
気の利いた返答が思いつかないのが悔やまれる。
綴はただ、ありがとうございます、と何度も繰り返した。
「ふふ。またね」
その数秒後だった。
玄関のドアが、三度ノックされる。
身体が縮み上がる。まさか。
恐る恐る、玄関を開け、綴はその場にへたり込んだ。
「驚かせないでくださいよ……」
「はは、人って本当に腰を抜かすことなんてあるんだね」
黒田が、紙袋から蜂蜜酒の入った瓶を見せ、悪戯っぽく笑う。
「よく覚えてましたね、僕の誕生日」
「当然さ。君が俺の花屋に初めて仕事をしに来てくれた日のことだからね。よく覚えているよ。あれは君に渡すために、随分前から用意していたんだ。だから、俺は今日が楽しみで仕方無かったよ」
黒田が紙袋をフローリングに下ろすと、酒のボトルが音を立てた。
「本当に、ありがとうございます。ちょうど、ガラスペンを自分で買おうかと思っていたので。予知されてるみたいで、返って怖いくらいです」
「君が”どういう人間で、どういう欲求を持っているか”、誰よりよく解っているつもりだとも」
さも当然のことのように、黒田は綴の部屋に入った。存外に広いと思っていた自分の部屋も、黒田がいると妙に狭く見える。
こうして黒田が自分の部屋にいるのは、不思議な感覚だ。
そうでなくとも、自分たちの関係は、何と呼ぶべきなのか、未だ答えは見つからない。
確かなのは、お互い酔っぱらいながら、こうして幾度も他愛無い話をしたということだけだった。
二本目のワインボトルが空になる頃、綴はぽつぽつと心情を吐露し始めた。
「たまに、今までの苦痛が悪い夢だったみたいに思えることがあって。かと思えば、本当に些細なきっかけで、電車に向かって飛び出してしまいそうな日もあるんです」
いつの間にか手の中のガラスマグに注がれていたホットカクテルを、綴は揺らめかせた。
「ただ生活していくことが苦しくて、ある時、突然全部投げ出して死んでしまいたくなる。やっとこの空間を手に入れたのに、未だに、部屋の片隅で泣き叫んでしまう日があるんです」
綴はカクテルを口にした。温められたラム酒が、珈琲の中から香り立つ。
「そういう時に、救いを求めて、情報を掻き集めると、自分より不運に見舞われた人たちの声が目に飛び込んできて。何故お前が泣いているんだと、なにがそんなに不満なんだと、責められているような気がしてしまって。自分の苦痛は、取るに足らないものだと叱咤されているように思えるんです」
「その人が、自分の望む人生を歩めなかったのは君のせいじゃないだろう。君が生き易くても、生き辛くても、その人の運命が変わるわけではない」
黒田の唇が、練乳がけの苺を食んだ。
「痛みには種類があるだけだ。痛みはその人の中でしか程度を計れない。どんな計測をするときも、条件を揃えなければ。そういう意味でも、苦痛の比較は無意味だよ」
どんな人間にも、その人にしか見えない地獄がある。それならば。
「ずっと、黒田さんに聞いてみたかったことがあるんですけど」
この言葉を口に出してしまったのは、やはり酔いが回っていたからなのだろうか。
次に言葉を発するまでに、悠に五分は経っていたのではないかと思う。その間、黒田は急かすような素振りを見せなかった。
「自殺願望って、ありますか」
綴は、消え入りそうな声でそう尋ねた。黒田の青い瞳と、視線がぶつかる。
黒田が、ゆっくりと瞬きをした。
「ある、って言ったらどうする?」
「驚きはしない、です」
ほろ苦く、香ばしい珈琲と、ラムのまろやかな匂いが鼻を抜ける。
「皆ある程度そういう願望があるものだと思っていました。ただ、黒田さんみたいな人でも、そういう願望があるってことが、信じられなくて」
黒田が、さも可笑しい冗談とばかりに、肩を震わせた。
「俺が、幸せそうに見えるかい」
言葉が詰まる。
黒田が頭を振った。
「意地悪なことを言ったね。そんなに申し訳無さそうな顔をしないでくれ。……そうだね、今この瞬間は幸せかな」
黒田がガラスマグを傾け、蜂蜜酒を呷る。
「何か、僕にできることはありませんか」
誰かを、ましてや黒田を自分の手で救おうなどと、傲慢な考えがあったわけではない。自分にその力があるなどと、思い上がっているわけでもない。それでもやはり、何もせずに通り過ぎることなど、できなかった。
「それなら、君に一つ宿題をあげるよ」
「え?」
「このガラスペンを使って、俺のために小説を書いてほしい。期限は三ヶ月だ」
予想だにしなかった返答に、綴は吃った。
「えっ?えっと、どういう物語がいいですか。せめてジャンルとか、方向性とか」
「君が書いた物語なら、なんだって─いや、それは嘘だな。できることなら、飛び切りの悲劇がいい。誰も幸せになれず、どれだけ藻掻いても報われず、どこまでも甘く悲しい物語がいいな」
今日何度目かも分からないほどグラスに注がれた蜂蜜酒が、百花蜜の甘い芳香を漂わせた。
「約束だよ」
黒田の目が、いつになく潤んでいて、星空を映す湖畔のようだと思った。酔いが齎す、夢の中のような、水の中のような、美しい眼差しだった。
ハインリヒ・ムオトも、大酒を飲んで酔っ払っては、こんな表情をしていたんだろうか。
「まさか、今晩自殺したりしないですよね」
「しないよ。まだまだ俺にはやるべきことがある。お酒もまだ飲み終わっていないしね」
君はまだ付き合ってくれるんだろう?
黒田がそう言って笑う。
今年最初の雪が降った日だった。生まれて初めて、前後不覚になるほど酔っ払って、いつの間にか眠っていた。
この日が一体どれほど穏やかで、美しい時間だったのか、今となって考えれば、あの時に感じた予感は、やはり当たっていたのだと思う。それとも、僕自身の言葉が、呼び水になってしまったのだろうか。
やるべきこと、黒田は確かにそう言った。
静かに、方舟は沈み始めていた。
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