第7幕 Digitalis

 黒田を崇拝しているらしいあの女性が現れて以降、特段何ともない日常が続いていた。あれ以来、あの女性は綴が店で勤務している時間に訪ねてくることはなかった。少なくとも、綴は知らなかった。

 いつの間にか空気が湿気を帯び、吸い込む空気が雨の匂いを含むある日のこと。黒田の花屋に、ある一人の男性が訪ねてきた。

「はじめましてー、大庭おおばむつみでーす」

 黒田の隣にだらしなく立つ男はよろしくー、と間延びした挨拶をする。そういうファッションなのか、やたら大きな服の袖口がひらひらと揺れる。

 随分と小柄だ。黒田と並ぶと余計に。綴より身長は低く、170センチも無いだろう。流石に成人してはいるのだろうが、どこか幼い印象を覚える。

 その一方、目元の隈が不健康そうで、その人懐っこい表情とはなんともアンバランスだった。にこにこと笑っているのだが、何故か不気味さが拭えない。片目が殆ど隠れているからだろうか。

 もし彼を一言で表すならば『妖怪』だと思う。そんな失礼なことを頭に思い浮かべながら、綴はその妖怪じみた男─大庭に軽く頭を下げた。

「深谷綴と申します、よろしくお願いします」

「呼び辛い名前してんね。深谷くんでいい?」

「あ、はい、大丈夫です。呼び辛い名前ですみません」

 反射的に詫びたが、かく言う大庭の名前も、なかなか珍しい上に呼びづらい名前だとは思う。それにむつみって女の子の名前じゃなかったか。

 なんにせよ印象がちぐはぐな男だ。

「詳細は割愛させてもらうが、彼には外回りの仕事を任せてるんだ。君も今後睦と一緒になる機会もあるだろうから、紹介しておこうと思ってね」

 黒田が彼をそう紹介する。

「というか雑用係って感じかな?それはもう馬車馬の如くコキ使われてるよ」

「は、はぁ…」

 大庭の、髪で隠れていない左側の瞳が綴を見上げる。

「凄い警戒してるね。おれ怖い人じゃないよー?」

「…いや、警戒してるわけでは…」

「うそだぁ。ま、仲良くしようよ深谷くん。おれもきみと似たようなもんだしさ」

 意味ありげにニンマリと笑う大庭。

「似たようなもん、ですか」

「うん。黒田くんと違って一般人だよ。ちょっと前まではフツーのサラリーマンやってたんだ。まぁ、色々あって電車に飛び込んじゃってさ」

「飛び込んだって…」

「なんかもう死ぬかぁーって思ってさ。弾かれて死ぬつもりだったんだけど来たのが快速電車だったもんだから打撲で済んじゃったんだよね」

 ケラケラと笑う大庭。語調とその中身があまりにもかけ離れていて、綴は絶句する。

 彼は死ねなくてよかったのか、それとも気の毒というべきなのか。ただ一つ確かなのは死ねなかったことを自覚した瞬間の心情は、察するにあまりに酷だということだけだ。

「え?あっ、ゴメン、そんなダメージ受けないで?この通り今は大丈夫だからさ。ありがたいことに」

 思わず泣き出しそうになった。彼の背後に積み重なった過去を想像して。一体何が彼をそうさせたのだろう。

「えっ、ちょ、まじでゴメン。泣くとは思わなかった…ってかキミ薄すぎじゃない?ちゃんとご飯食べてる?おにいさん心配だなぁ」

 薄い、という言葉に槍を脳天から刺されたような気持になって、思わず唇を噛んだ。

 ちょこまかと目の前を動き回る大庭。

 すると黒田が歩み寄り、ハンカチを綴に差し出した。

「これを使いなよ。まったく、君はよく泣くね。あと睦、君の給料は5分の1にしておくから」

「え、黒田くん無慈悲。というかまってまって、悪気はなかったんだって。っていうか深谷くんの歓迎会したくて今日来たの。場所は黒田くんの部屋で」

「どうせ麻雀がやりたいだけだろう。外でやってくれないか」

「ヤダヤダ遊んでよー。黒田くんの部屋がいいー、黒田くんの部屋見たいんだもん」

 ─正直、この人は苦手かもしれない。

 なんというかイヤイヤ気の子供みたいだ。しかし、これがいつものことなのか、手をばたつかせる大庭を黒田は軽く鼻であしらっている。

 しかし、結局渋る黒田を引きずり出す形で、外で食事がてらバーへと出かけることになった。

 落ち着かないまま黒田と大庭に着いていき、高級感のある個室に通されたのが一時間程前。自分のような庶民がいていいものなのかと躊躇したものの、黒田と大庭のくつろぎ方を見て次第に緊張は解けていった。恐らくは酒を飲んでいるせいでもあるだろう。

 人と酒を飲むのは大学の歓迎会やその他交流会以来だ。あの良く分からないどんちゃん騒ぎが苦手で、酒を飲む機会が次第に減っていたのだ。

 今ここにあるのは、ああした俗っぽい世界から隔離された、非日常そのものだった。ボルドーのソファーにシャンデリア。舌の上に広がるウイスキー。勝手に少し大人になったような気がする。

 ふと正面を見ると黒田は5つ目のカクテルグラスに口をつけていた。

 一方、大庭は飲めると豪語した割に早々に酔い潰れ、散々綴の頭を勝手に撫で回した後、隣で気持ちよさそうに眠っていた。ぐしゃぐしゃにされた癖っ毛はしばらく元に戻りそうにない。

 散々くだを巻いて本人は夢の中という、見事なまでの典型的な酔っぱらい。ここまでセオリー通りだと苦笑してしまうが、吐かないだけ学生よりかはマシかもしれない。

 間の抜けた、幸せそうな大庭の寝顔を盗み見る。

 ─こんな、明るい性格の人も自殺未遂をしたのか。

「あの、少し気になったんですけど…黒田さんは大庭さんがどんな境遇で育ったのか知っているんですか」

「うん。けれどそれは俺の口から語るべきことではないかな。本人に直接聞いてごらんよ。多分答えてくれるよ」

 むにゃむにゃと寝言を言いながら眠ていた大庭が、まだ眠そうに目を開いた。

「えーなになに、おれの話?」

「君のふがいない話だよ」

「えー、おれだって真面目に仕事してるのに。あ、そうそう黒田くん。この間ぼった分のお金、確認よろしく」

 突如、大庭が机の下からアタッシュケースを取り出し、黒田に寄越した。

 黒田が慣れた手つきでケースを開けると、そこには漫画やドラマでしか見たことがないような札束がぎっしりと詰め込まれていた。黒田はざっと目を通すと、軽く頷いてケースを再び閉じた。

 ─僕は、裏社会に足を突っ込んでいるのか。

 いつもと変わらぬ微笑を浮かべる黒田を、このとき初めて、少しだけ怖いと思った。


「へー、そうだったんだ。大変だったね」

「いえ、僕なんて。大庭さんの体験に比べれば大したことでは」

 黒田と別れ、話しながら駅へと向かう。

 ツン、と隣から漂うニコチン。大庭はタバコを咥えたまま、気怠そうに隣を歩いた。今は泥酔しておらず、酩酊感の余韻をタバコとともに楽しんでいた。

 無言でいるのは気が引けて、大庭の境遇について、少し話を聞いた。

 もともとは企業で営業をしていたのだが、その会社での人間関係が拗れてしまったのだという。兄弟が6人もいて、家でも苦労したらしい。板挟みになって、出会った時に言っていた、電車への飛び込み自殺を試み、そして未遂に終わった。そのときに黒田に拾われて、結果今こうして雇われ、三年ほどの付き合いになるそうだ。

 そうした希死念慮を抱えたり、実際に自殺未遂を体験をした人間が集まる『カナリア』という組織の全貌は未だによく分からない。しかし、話していると共感できることばかりで、親近感すら湧いてくる。そのまま酒のせいにして、綴はほんの少しだけ、大庭にも自分の境遇を、黒田と出会ったときのことをかい摘まんで話したのだった。

「ちぇっ、にしても羨ましいなぁ。きみら二人で仲良くしちゃってさー。ってかなに、深谷くんは黒田くんの弱みでも握ってんの?」

「なんでそう思うんですか?」

「だって黒田くん、自分の部屋とか絶対人通さないよ。おれ昔黒田くんの部屋に忍び込もうとしたらぶん殴られたもん」

 ─か、過剰防衛だ…。

 しかしあれだけ温厚な黒田が怒る様子はとても想像できない。

「まあ、それだけ嫌だったんじゃないですか…?」

「みたいだね。黒田くんガチでキレると手が出るタイプなんだよなー」

 終電間際の道は、人通りはほとんどない。時折酔っぱらいが鼻歌を歌いながらふらふらと帰路につく様子だとか、飲み屋の喧騒と光が外へ漏れだしているのを横目で眺めた。

 ふと、脳裏に浮かぶ文章。”店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛”。この通りの雰囲気を見て、急にそんな文章が思い浮かんだ。

 ─あれは、何だったっけ。

「あぶねぇぞガキども」

「す、すみません…!」

 ぼんやり歩いていたら、同じ歩道を歩いていた赤ら顔のスーツの男にぶつかって、怒号が飛んでくる。

 大庭と顔を見合わせた。

「ひどいなー。今年でもう33なんだけど」

「33!?」

 自分の口から信じられない程大きな声が出た。

「びっくりしすぎでしょ」

「いや、あの、失礼しました」

 とてもそんな歳には見えない。成人しているだろうとは思っていたが、この高校生と言われても違和感の無い童顔から三十という言葉を聞くことになるとは思わなかった。

「別にもう慣れてるからいーよ」

 けらけらと快活に笑う。笑顔そのものは、屈託のない笑い顔だった。だから余計に、目元の隈が痛々しい。

「しっかし、深谷くんは絡まれやすそうだよね」

「あはは…」

 今までされたことが一瞬脳裏にまざまざと蘇って、思わず苦笑いした。あまりに思い当たる節がありすぎる。

「そんなに腰低いと狙われちゃうよ?そういう奴ってさ、自分に逆らってこなさそうなのを選んで攻撃するんだから」

 タバコの煙が闇に溶けていく。ふとさっきの怒号がリフレインする。それに合わせて、鼻先にツン、と痛みが走った。目頭に水分が溜まるのは、タバコの煙が目に凍みるせいだと思いたい。

 突如、ぬっと大庭が顔を覗き込んでくる。

 綴は慌てて顔を片手で隠した。

「なにへこんでんのさ?深谷くんべつに悪くないじゃん。あんなの、酔っぱらいの戯れ言だよ。気にしない気にしない」

「…そう、ですよね」

 多分、忘れるのにはまた少し時間がかかるだろう。とても彼のようには割り切れない。

 大庭から顔を背け、煌々と輝く明かりを見つめる。どこの居酒屋からも、薄気味悪いほど明るい声が聞こえてくる。自分の目に浮かぶ水分に光が乱反射して、目が眩むようだった。そっと、大庭にばれないように目元を拭う。

「なんでみんなあんなに酔っぱらってるんですかね…」

「酔ってなきゃやってらんないからでしょ。まー、みんな嫌なことばっかりなんじゃねーかな。じゃなきゃ、酒に頼らないって」

 振り返っても、先ほど怒鳴っていた男の姿はなかった。あの人も、スーツ姿だったということは、恐らく普段は会社で働いているのだ。毎朝あの満員電車で通勤し、仕事をし、時折酒に頼る。結婚はしているのだろうか。子供はいるのだろうか。自分ではない人間の人生を、想像する。

「深谷くーん?」

「はい?」

「深谷くん、ほんとあぶなっかしーね。ほら、なんかまたどやされたらヤダし、ちょっと裏道いこうよ」

「あ、はい、わかりました」

 そう言って大庭の後をついて歩いた矢先のことだった。

「あーあ、黒田くんと離れた瞬間コレだよ」

 街灯のない駐車場の側で、大庭が小さく呟いた。煙草の煙が盛大なため息とともに霧散していく。

「大庭さ─」

 大庭がしーっ、と唇に指をあてる。次いでとん、と軽く身体を押される。

 隠れて。

 大庭の口がそう動いた。とっさに路地裏へ逃げ込み、息をひそめる。街頭のない路地裏、黒いマスクをした男が暗闇から姿を現した。

「なんか用?オニーサン」

 生暖かいはずの夜の空気が、急に冷たく感じる。

 現れた男はかなり大柄でがっしりとした体格だった。

「うちの市場を随分荒らしてくれたんでそのお礼だよ、クソガキ」

 言うが早いか、男が殴り掛かってくる。相変わらず気怠そうに立っている大庭。

 声を上げるべきか。けれど僕が出たところで─そう思うと迂闊には動けない。

「うるせぇっての、もう三十路だっていってんだろうが」

 大庭がぼそりと呟く。

 そして次の瞬間、大庭の腕が、一切の無駄無く動いて男の身体をいなし、男の巨体が宙で回転した。ひっくり返った巨体が、アスファルトに叩きつけられる。

 ─え?

 目の前で起きたことが理解できず、翳した手の中で口がぽかん、と開いた。

「弱肉強食っての?どんな場所でも弱いやつから食い物にされるんだからやってらんねぇよなぁ、ホント。黒田くんが羨ましいよ」

 二度目の、ニコチンをたっぷり含んだ溜息が霧散していく。煙が流れ込んでくる。思わず咳き込みそうになって、綴は慌てて口を押える。

「で、誰の差し金?」

 地面に叩きつけられた男がくぐもった声を出す。だが大庭の質問には答えず、反抗的な視線で押し黙っていた。

「えい」

 ジュッと音が鳴り、焦げ臭い匂いが漂う。

 大庭が咥えていたタバコの先端を、男の肌に押し当てたのだ。男が呻く。

「早いとこ吐いちゃったほうが楽だよ?うちのボスは執念深いからさ」

 それでも男は押し黙ったまま。すると大庭が小さなアンプルを袖から取り出し、男の前に掲げた。

「じゃーん、これなーんだ。正解は花蜜ネクターでーす。これを体内に入れると、なんと!手足が使い物にならなくなります」

 大庭の顔から笑顔が消える。

「で、飼い主誰?」

 男は即座に自分の所属している組織の名を告げた。離れているため、綴はあまりその内容を聞き取れなかったが、男は矢継ぎ早に情報を吐いているらしかった。

「そっか、ありがとー。じゃあ飼い主にもよろしくね」

 大庭は再び笑顔に戻ると、男の服をまさぐる。そして男が持っていた、小さなボトルと注射器を3本取り出した。大庭は持っている花蜜ではなく、ボトルの蓋を開け、注射器でその不気味に透明な液体を吸い上げる。

「大丈夫、大丈夫。ただちょっとだけいつもよりラリるだけだから」

 そして注射器の中の液体を、3本全て同時に男の血管に押し込んだ。男の目がぐるりと周り、泡を吹く。

 大庭が振り返る。

「あ、深谷くん、もう大丈夫だよ」

「こ、殺さなくても…」

「殺してないよぉ。ただ向こうが持ってた薬を過剰摂取させただけで。安心しなよ、元々クスリやってるやつだから」

陽気な大庭の態度がかえって恐ろしい。目の前で起きたことが未だ飲み込めず、呆然とする。

「これは…どういう」

「こいつ?麻薬密売組織の一味?みたいな」

「麻薬…」

 綴は生唾を呑んだ。

「あれ、知らなかった?黒田くんが調合できるのは人を楽に死なせる毒だけじゃないよ。麻薬みたいな、依存性のあるやつとか、人の脳ミソを壊す毒とか、まあとにかくやべーもんは大半作れんの。だから麻薬密売組織とか、ヤクザとかが目をつけてて、たまにこういう小競り合いが起きるわけ」

 言われてみればそれもそのはずだ。証拠を残さず、的確に身体の一部を破壊できる毒物を欲しがる人間もいるはずだ。自殺のためにではない。人を貶め、殺すためにあの秘蜜ネクタルを使うならば、それは最強の暗殺道具になるのだから。

 続けて大庭は言う。

「おれ、所謂売人ディーラーってやつなの。黒田くんが言ってた外回りの仕事ってそれのこと。あとはまあ情報集めとか、掃除とか、ね」

 暗闇で大庭の赤い瞳がにたりと笑んだ。背筋がヒヤリとする。

 すると急に大庭は声をあげて笑い出した。

「もー、意地悪言ってごめんって。そんな泣きそうな顔しなくても大丈夫だよ。言ったじゃん、おれも元々一般人だから、これ知ったときはそりゃもうビビりすぎて漏らすかと思ったんだから」

 笑いながらばしばしと背を叩かれる。かなり痛い。あの男を投げ飛ばしただけのことはある。

「その…自分がここまで裏社会に足を突っ込むことになるとは思ってなくて。黒田さんって…思ったより怖い人だったんですね」

「うん、めちゃくちゃ怖い。だけど、黒田くんはおれたちみたいな人間の数少ない理解者だからさ。まぁ、ある意味では黒田くんが自分の手を汚してくれてるってことだよね」

「…そうですね」

 大庭がにっと歯を見せて笑った。

「けど深谷くん、ほんと気をつけてよ。多分うちの組織の中できみ真っ先に狙われそうだもん。今は黒田くんが上手いこと隠してくれてるみたいだけど…まっ、とりあえず家まで送ってくよ」

 正直に言えば、まだ大庭のことを信用していいのか迷っていた。しかし今一人で帰宅する勇気は消え失せてしまった。

「お、おねがいします」

 まだ震える声で、大庭にそう頼み込んだ。


****************

※注─『Digitalis』

ジギタリス。foxglove(狐の手袋)。花言葉は「熱愛」、「不誠実」。『神聖な力』や『罰』、『不運』、『ずる賢さ』を象徴する。

『妖精の帽子』『死人の指ぬき』『血のついた男の指』等、別名や伝承が非常に多い。強力な毒を持つが、同時に強心剤として心不全の治療にも利用される植物。


【参考文献】

『檸檬』梶井基次郎著

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る