第10幕 Veronica

 屋敷にある小さな礼拝堂で、煌は自分の作品を見つめていた。中央の階段の上、ステージに置かれた棺に腰をかけたまま、その死体を上から覗く。

 無事に完成した。ただでさえ調子が悪かったのに、急な来客もあって、一時はどうなることかと思った。

 いつも思う。何度絵を描いても、何度粘土を捏ねても、なにかが違う、と。

 苛々する。

 美しいものを、描き出せない自分が、悔しい。ここのところはあまりにも上手くいかなくて、そのフラストレーションは最高潮に達していた。

 そんな時に、見知らぬ男が自分の神聖な領域に入ってきた。自分が鍵をかけ忘れていたからだ。

 自分が悪い。悪いけれど、その時にぷつりと何かが切れてしまった。手元にあった彫刻刀を投げつけてしまった。

 深谷綴。それが、黒田が連れてきた、イレギュラーの名前だった。

 煌は、綴を見ていると、何故だか無性に腹が立った。あの生真面目さが、優等生じみた雰囲気が、過去の記憶を引きずり出すからかもしれない。

 腹立たしい点はもう一つある。

 綴はずっと何かに怯えているようで、自分が悪いことなんて一つもしていないのに、勝手にぺこぺこ謝り続けていた。そういうオモチャみたいだった。それが、どうしようもなく腹が立つ。

 結局、煌は綴に自分の非を詫びたけれど、その時でさえ綴は自分のありもしない非について謝ったのだ。一周回って皮肉にすら聞こえる。

 なんでよ、あんたは悪くないのに。なんで、あたしに謝るの。

 ああ、だめだ。何もかもむしゃくしゃする。上手くいかない。今回の死体の納棺だって、一先ず完成はしたけれど、大したものにはならなかった。

 みんながこの死体を美しいと絶賛するけれど、私はこんなものに満足していない。私が生み出したいのはこんなものじゃない。

 反省も込めて、自分の作品である女の死体を眺める。

 女の目はない。目の代わりに、赤い花が詰め込まれている。花弁が涙のようにその二つの眼窩からこぼれ落ちている。

 これは綴が泣く姿を見て思い付いた作品だった。だが、何かが足りない。

 それはなんだ。何が足りない。

 自分の技術か、空想か、理論か、絶望か、幸福か。しかし、次にやりたいことは決まった。それだけで充分戦える。

 黒田を除いて、きっと誰も、私が戦っているだなんて思ってないだろう。別にいい。もう何千回何万回と言われてきたことだ。そういう奴らのおめでたい頭でもわかるような、なにかを作り出したい。

 いつか、必ず、証明してやる。

 使用人たちはそれぞれ白い服を着て、花冠を被り、死体に黙祷した。一人一人歩み出て、煌から花を受け取り、棺にそれを添える。

「同胞は死の懐に抱かれた。これはいずれ来る私たちの最期の姿よ」

 煌は立ち上がり、同志たちに呼び掛ける。

 我らが聖女、聖女アンジェラ。我らが神の使徒angelos。讃美歌のように、同志たちがそんな言葉を口ずさんだ。

「皆、悔いのないように今を生きましょう。終わりの日はそう遠くないわ」


 煌から絵をもらったものの、お礼の一つも言わずに彼女と別れてしまった。どうしたものかと悩んでいたら、再会の機会は案外早く訪れた。

 気まぐれに黒田が開催する花の記念日に、煌はスズランの日と同じような、絵の描かれた看板を持って現れた。

 黒田に頼まれ、店の外の花の世話をするため、綴は煌と二人、店の外に出た。

 売り物である花の他にも、植物が生い茂る庭。

 アロエやドクダミ、キイチゴ、ラズベリー、ブルーベリー。そのどれもが生き生きと枝葉を伸ばしている。艶々とした葉の間から差す木漏れ日と木陰は、昔教科書で見た、印象派の絵画そっくりだった。この庭の中にいると自分が東京どころか日本にいるということすら忘れそうになる。

「煌ちゃん、この間の絵、ありがとう」

 ございます、まで言おうとして、慌てて口を噤んだ。敬語だと気持ち悪い、と言われたばかりだ。なんというか、女性から発される気持ち悪いという言葉にはある種の攻撃力があると思う。

「…別に。捨てるだけだったから」

 煌が地面の雑草をむしりながら、ぼそっとそう言った。相変わらず不愛想ではあるけれど、どうやら今日は機嫌が悪くはなさそうだ。綴はこっそり息を吐き出した。

「あんたって誰に対してもそうなの?」

「え?」

「誰に対してもそんなビクビクしてるの、って」

「うん、まあ…そうかもしれない」

「なんで?」

「なんでって…人に怒られるのが怖いから…かな」

 ふーん、と煌は一言漏らしたきり、黙り込んだ。

 よく怒る人というのは、僕のようにビクビクした様子が気に障るらしい。

 かと言って沈黙しているのも気まずい。

「黒田さんとは付き合い長いんだ」

 沈黙に耐え兼ね、そんなありきたりなことを聞いた。

「数年よ」

 煌はそう簡潔に答えた。また会話が終わる。

「黒田さんと、仲がいいんだね」

「どこがよ。あいつ嫌い」

「えっ」

 煌がむしり取った雑草を放る。それを拾っては袋に集めた。

「私が求めるモチーフとしては認めてるわ。性格は大っ嫌い」

 あっけにとられる。黒田をモデルにしていたのに、とは言わなかった。どう考えても彼女の逆鱗に触れそうな気がする。

「その間抜けな顔、どうにかしてよ。…別に珍しいことじゃないと思うけど。絵は凄いけど人としてマズいのは山ほどいる。でも絵の価値は別に人格によって下がったりしないでしょ。あいつの中身は嫌いだけど、顔は好き」

「顔」

「あと身体」

「身体」

 少女の口から発された身も蓋もない言葉。あまりの衝撃に、つい鸚鵡返しをしてしまった。

 彼女のアトリエにあった、黒田をモデルにしたであろう石膏像を思い出す。確かに、よほど近くで観察しなければ、あの精巧さでモデルを表現できないはずだ。

「あいつと話してると腹が立つでしょ。あんたは腹が立たないの?」

「それはない、かなぁ」

 そのとき、店の外へ初老の女性が出てきた。

 その女性は煌を見るなり顔を輝かせ、声をかけた。

「あら、お二人さんこんにちは。いい天気ね」

「どうも、こんにちは」

 綴はぺこ、と会釈した。一方、隣にいる煌は、挑むような目で客の女性を見上げている。

「いきなり声をかけてごめんなさいね。お嬢さん、お人形さんみたいね。あんまりにもきれいだからびっくりしちゃったわ」

「お世辞は結構です。それと会っていきなり人の見た目に言及するのはやめてください。そういうの、迷惑です」

 煌はふん、と鼻を鳴らし、なんの躊躇いもなくそう言い放った。

「えっ、ちょっ、煌ちゃん…!あの、すみません…!」

 煌の予想外の態度に、どっと汗が噴き出る。

 綴は反射的に、女性に謝った。

「いえ、こちらこそごめんなさいね。なんだか彼女のお気に障ってしまったみたい」

 女性は困ったように笑った。なんだか、申し訳なくなる。恐らく女性も悪気は全くなかったはずだ。綴も、身に覚えがある。まさか人を褒めて嫌がられるとは思わないだろう。

「改めて、ごめんなさいね、お嬢さん」

 女性が会釈をして外に出ていく。

 煌がぐい、と綴の服を引っ張った。

「なんであんたが謝ってるの」

「そりゃあ、お客さんだし…」

「馨から言われてないの?客だからってこっちがペコペコする必要なんてないわ。客と店は対等よ。少なくともここではそうなの。それにこれはあたしの問題よ。あんたが謝っちゃったら、私が悪いみたいじゃない」

「ご、ごめん」

「そうやってすぐ謝る。それはなに?あんたの口癖?趣味?」

 口を噤む。謝罪すら止められて、他に言うべき言葉が見つからない。

「…悪かったわ。また言い過ぎちゃった」

 しばらく沈黙してから、ぼそり、とばつが悪そうに煌が呟いた。

「ああいうの、嫌いなの」

 小さな声で、煌は呟いた。

「ああいう奴って、人を見た目で判断して勝手に持ち上げておいて、自分の想像してたものと違うとすぐ掌返すのよ。『見た目と違って愛嬌がない』とか宣うの。そういうのを、もう何百回も経験してるから─だから、嫌」

 ─なんだ、ちゃんと彼女なりに理由があるのか。

 やっと彼女の行動が腑に落ちて、少しだけ安心した。多分、彼女以外にはそれが突飛な行動や発言に映るけれど、彼女なりに考えがあってのことなのだ。

 綴は一人納得して頷いた。

「飽きた。帰る」

 突然、煌はそう言い放った。

「えっ」

「礼拝もあって疲れたし」

「礼拝?」

「自殺者の死体をみんなで送り出すの。今度あんたもまた屋敷に来ればいいわ」

 ぽつん、と綴はその場に一人残される。煌は店の中の黒田に一声かけると、車を呼び、さっさと帰っていった。

 本当に、嵐のような少女だった。


「ふぅ…これでよし、と」

 久々の重労働が腕にしみる。しかし、心地の良い疲労感だった。

「ご苦労様。今日はここまででいいよ。煌がまた迷惑をかけたね」

「いえ、大丈夫です。黒田さんもお疲れ様でした」

「ところで、綴。この後時間はあるかい」

「え?はい、ありますけど」

 黒田が悪戯っぽく笑い、指先でくるくると部屋の鍵を回した。

乾杯prosit

 2つのグラスが近づいて、触れる寸前で離れた。

 夜のバルコニーに、爽やかな風が通り抜けて、黒田の髪と戯れた。

 グラスに注がれた金色がゆらゆらと煌めく。複雑に光を反射していて、幻想的だ。

 これが黒田が愛飲しているという蜂蜜酒ミードだった。諸説あるが、世界最古の酒と言われる、曰くつきの飲み物。本来は新婚の夫婦が飲み交わすならわしだったという。

 グラスに顔を近づけただけでも濃厚な蜂蜜の匂いがする。

 一口飲めば甘くもしっかりとしたアルコールの味が舌の上に広がって、濃い蜂蜜の匂いが鼻腔を通り抜けていった。くどくない甘さだ。さほど甘い物が好きというわけではなかったが、これは本当に美味い酒だと思う。

「美味しい、です」

「それはよかった」

 黒田が満足そうに微笑んだ。

 有難いことに、最近は味覚が戻ってきていた。この味を感じることができたのは本当に嬉しい。小さなことだが、一歩ずつ着実に前に進めているような気がする。

 仕事もまだまだ覚えたてとは言えど、随分とましになったと思う。

 人から頼りにされるということが、これほど誇らしいことだとは思わなかった。黒田に仕事を任されてそれを知った。

 黒田は綴が何か新しく目標を達成する度に気前よく給金を増やした。それは同時に責任も重くなることを意味しているから、決して呑気に喜ぶことはできなかったが、自分にもできることがあると知り、嬉しくなる。

 黒田は花に対してそうするように、慎重に綴を分析し、水を注ぎ、足りない養分を与えた。いつのことだったか、黒田は綴の状態について、『君に今必要なのは均衡な義務と報酬だ』と指摘した。それが彼のロジックに基づいて行われていることであると綴は理解していた。

 ひたすら、淡々と、合理的に。そう言えば一見冷たく聞こえるかもしれないが、それは無知な愛情からくる行動よりもよほど有難かった。

 なんにせよ、彼が自分のためにわざわざ骨を折って世話をしてくれているということは紛れもない真実だった。

 そんなことを地道に繰り返すうちに、いつの間にか生活を立て直していた。

 この分であれば、もう少ししたら大学へも通い直せるかもしれない。

 あれほど自分に付きまとっていた死への思いは、一体何だったのだろうとさえ思う。

「仕事は慣れた?」

「やっと覚えたってところですかね…あ、この間の図鑑、貸して頂いてありがとうございました」

 リュックの中に詰め込んでいた数々の図鑑をまとめて黒田に渡す。

「これで大体のことは大丈夫だろうね。君の読書の速度には本当に驚いたよ。それでいてきちんと中身を理解しているのだから大したものだ」

「一応は法学部の学生ですし…それくらいしか取り柄がないので」

 はは、と苦笑いした。自分で言っていてなんだか情けなくなる。不必要だとは思っていないが、大して役には立たない能力だ。日本人が日本語の文章を読むのも書くのも、基礎能力でしかない。数学や運動、美術や音楽と違って、やろうと思えば誰にだってできる。

 とは言え、久しぶりに法律系以外の文章を読んだのはいい経験になった。没頭できるものがあるのは幸せだ。今となっては六法全書も、大学での嫌な思い出を呼び起こすものでしかなかったのだから。一瞬だけ、脳裏に浮かぶ自分のゼミの教授や同級生たち。特に教授には一体何と言われるか。あの哲学者みたいな、白髪混じりの厳しい顔が、怒りに染まると思えば恐ろしい。無理やり、その意識を追い払う。

 彼らとも、全く連絡を取っていない。それすら、今は忘れていたかった。

「ところで…あの、一つだけずっと気になってたんですけど」

「うん?」

 つるバラの絡んだ手すりに寄りかかっている黒田が眉を上げた。

「オオイヌノフグリってなんであんな名前になっちゃったんですか…?流石にもうちょっとましな名前はなかったのかと」

 あの衝撃的な名前の花について、どうしても黒田に聞いてみたかったのだ。その他にもいくつか惨い事例はある。クズとかボケとかヘクソカズラとか。そんな名前を付けられた植物が哀れになってくる。

 その中でもオオイヌノフグリは別な方向性で酷い名前だと思う。余談だが漢字で書くと『大犬の殖栗』だ。意味が気になる方は自分で調べてみることをお勧めする。僕の口からそれを説明するのは御免被りたい。

「…さあ、俺も由来は通説以上のことは知らないな。子供は親も名前も選べないからね。哀れなものさ」

「”瑠璃唐草るりからくさ”…字が好きなんですよね。あの花によく似合っていて」

 オオイヌノフグリ。別名、瑠璃唐草。紙に書き出せば、その美しさがよく分かる。

 綴の一言を聞いた黒田は妙に納得した様子で、くすっと笑った。

「やはり名前は業だね。ちなみに他にお気に召した花の名前はあったかい?」

「”躑躅つつじ”、とか…?順当に”薔薇ばら”も好きですけど」

「他に君が好きな字を当ててあげようか。”檸檬れもん”、とか好きだろう?」

「よくわかりますね」

 自然と、笑みが零れた。誰かと文字の美しさについて、価値観を共有できたことなど生まれてこの方なかった。それを尋ねてくれたことが嬉しかったのだ。

「”林檎りんご”とか”柘榴ざくろ”とか、そういうのも好きですね。こういう字を見ると日本人でよかったなって思います」

「いいね。実にいい。君の言う通り、それが日本語の持つ美しさだと思うよ」

 つい、喋りすぎてしまう。自分が饒舌になっていることに気が付いて、不思議な心地がした。

「名前って、大事ですよね」

「ああ。バラをなんと呼ぼうがあの花の美しさは変わらないとも言うけれど、俺は反対だ。名前は大事だよ、本当に。”薔薇”が”薔薇”という名前でなかったら、この花が今ほど人に愛されていたかは分からない」

「そうですね。本当に、あんなに美しい名前があるのなら、ちゃんとその名前で呼んであげればいいのにって思います」

 瑠璃唐草。ラピスラズリの名を冠する、星の瞬きを意味する花。どこにでも生えている、雑草と呼ばれる部類の植物だ。

 物心ついたくらいのときに、あの花に妙に心奪われたのを思い出した。

「昔、あの花が好きだったんです」

 バルコニーの手すりに腕を乗せて、綴はぼんやり遠くの空を見つめながらそう呟いた。

、ということは今は好きじゃないのかい」

 黒田もまた同じように手すりに片腕を乗せ、蜂蜜酒を口にした。

 綴は頭を振った。

「いえ、…なんていうか、。小学生くらいのとき、あの花を摘んでいたら、クラスメートに『男なのに花が好きなんて変なの』って言い放たれまして…それが結構ショックだったんですよね」

「それはまた随分とを言う子だ」

 黒田が、蜂蜜酒を飲み干して、暗く輝く眼差しを向ける。綴はその空になったグラスに蜂蜜酒を注ぎながら、再び口を開いた。

「だから、それ以来、花のことを口にしてはいけないんだと思ってしまって。それを、図鑑を見ていたら思い出して…やっぱり僕はこの花が好きだなって、再確認したんです」

「なるほどね」

 綴のグラスに、黒田が蜂蜜酒を注ぎ足した。

「俺も瑠璃唐草は好きだよ。その花が密生している姿は、それはもう満天の星空が足元に広がっているみたいなものだ」

 彼の表現を聞いて、思わず空を見上げた。夏の星々が瞬く。

 静かな夜だ。誰もが寝静まって、星たちだけがきらきらと笑う。

 黒田が住むこの場所は、駅から少し離れていて、個人商店や住宅の多い地域だった。人口密度が高いわりに静謐で緑も多い。だから、星がよく見える。

 黒田が、すっとおとがいを上げる。夜風が彼の髪が溶け合う。その隙間から、星が光っていた。

「”ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない”。…”星々が美しいのは、ここからは見えない花が、どこかで一輪咲いているからだね”」 

 季節を過ぎてもまだ美しく咲く、真っ赤な薔薇を、黒田の指先が撫でる。

 何の台詞だろう。彼が口にする台詞の原典は知らない。けれど、何故だかその意味を理解できるような気がした。

 夜は、全てが闇に溶けて、存在が曖昧になる。貧相で無能で、陰鬱な自分の存在でさえもが、曖昧になって、存在することが許される気がする。

 なんだか、呼吸がしやすい。

 からりと爽やかな夜風を吸い込む。

「夜はいいね」

「僕も、そう思います」

 ああ、このまま夜と朝の隙間にいたい。自分が楽になれるのは、この時間だけだ。

「そういえば、結構飲むつもりでいたけれど、君は平気かい?明日何か予定は?」

 ─あ。

 ふと、見てみぬふりをしようと視界のすみに転がしておいた現実と目が合った。合ってしまった。

「明日は、一応実家に帰るつもりなんです。毎年帰る約束なので」

 落胆を悟られないように、できるだけ平静な声を出す。

「随分浮かない顔をしているね」

「そう、ですかね」

 黒田が瞳を覗き込んでくる。自分の心の奥底を、覗き込まれているような気がする。

 ふふ、と少し意地悪そうに黒田が口角を上げた。

 兎に角、僕は帰らなくてはならない。

 一先ず、髪と目のことは脱色とカラーコンタクトだとでも言っておこう。信じてもらえるかどうかは甚だ疑問だが、

 黒田との約束のこともある。何が何でも誤魔化しきらなけらばならなかった。

 少しだけ、手が震える。

 ─帰りたくないな。

 グラスに映る自分が、酷く憂鬱そうな顔をしている。自分では隠しているつもりだったが、こうして見ると僕は気持ちが案外顔に出やすいようだ。

 こうしている間にも、刻々と時間が過ぎて、残酷な朝がやってきてしまう。どうにか、この時間を引き伸ばそうと無理に足掻いた。それがどれだけ無駄なことかは分かっていても。

 そういえば、小学生のころは日曜日の夜になるとよく夜更かしをしたっけ。眠ってしまうと、一瞬で朝になってしまう気がするから、息を潜めて、布団の上で膝を抱えた。そうすれば、少しは朝が遠くなる気がして。

 夜は優しい。暗闇は優しい。少しくらい陰鬱な顔をしていたって、闇が包み込んで隠してくれる。

 そのとき、ふわ、と頭に羽衣のようなものが振りかかった。

「え?」

 取ってみると、それはハンカチだった。

「あげるよ」

「ありがとう、ございます」

 バルコニーから室内に戻る途中、黒田が振り返る。

「ボードゲームでもするかい?リバーシかチェスくらいしかないけれど」

「じゃあ、リバーシで…黒田さん、ゲームとかするんですね」

「よく睦に相手を頼まれるからね」

 なんとなく予想はしていたが、黒田はこの手のゲームをさせると随分強かった。容赦なく打ち負かされたが、存外に楽しい。1対1の勝負はいい。自分の責任を全て自分で負える。

 しばらく時間を忘れて酒を飲み、遊び、話して。終わりの時間はあっという間にやってきた。

 時計は午前3時を回っていた。

 我ながら呆れたものだ。この後実家に帰るというのに、結局ここまで夜更かしをしてしまった。流石にそろそろ自室に帰って寝なければ、隈でも作って両親の小言を食らうことになるだろう。

「じゃあ、ありがとうございました」

 玄関で、綴は頭を下げる。

 黒田の掌が、白い頭髪をくしゃりとかき混ぜた。

「”かわいそうになあ、こんなにか弱いきみが、冷たい岩だらけの地球に来て。いつか、もし故郷の星にどうしても帰りたくなったら、おれが力を貸そう”」

 彼の唇が、そんな意味深なセリフを紡いだ。

「黒田さん?」

「なんでもないよ。またね。次に君に会えるのを楽しみにしているよ」

「…?はい、また今度」


 綴が階段を下りていく姿を、黒田は見下ろした。

 マダムが主人にしばしの別れを告げようと、黒田の指先にとまる。

「マダム、彼のことをよく見ていて」

「なぁに、あのぼうやのこと、まだ信用していないの?」

「いや、そうじゃないんだ。多分、彼はここへ戻ってくるだろうから」

「昔のことでも思いだした?」

「彼を見ていると思い出さずにはいられないよ」

 クスクス、と羽の音が振動する。

 マダムがふわりと浮かび上がる。

「彼をよろしく頼むよ、マダム」

「ええ。娘たちにも伝えておくわ」

 音もなく、マダムが飛び立つ。どんどん加速して、その金色の閃光は星に紛れていった。


****************

※注─『Veronica』

ヴェロニカ。オオイヌノフグリ。ヴェロニカは、キリスト教において、ベールでキリストの汗を拭った聖女ヴェロニカに由来。『星のまたたき』や『瑠璃の花』のシンボル。

日本名では「大犬の殖栗(おおいぬのふぐり)」。イヌフグリという植物の果実が犬の陰嚢に見えるからという理由で名づけられ、そこからオオイヌノフグリという名に派生した。のちに名前が花に相応しくないとして「瑠璃唐草」や「星の瞳」という別名がついたが定着せず。


【引用文献】

『星の王子さま』サン・デグジュペリ著・河野万里子訳

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