第9幕 Angel's Trumpet

「だれ?」

 身体が強張る。

 色素の薄い金髪を揺らして、静かに佇む少女と目が合った。高く二つに結わえられた柔らかそうなブロンドが、ガラス越しの太陽の光を浴びて、きらきらと輝いている。透けるような乳白色のエプロンドレスから覗く手足もまた透き通るように白い。

 少女の身体全体が光を受けて、まばゆく発光しているかのようだ。

 幽霊か、妖精か、あるいは天使か。

 もしも人ならざるものが存在しているならば、こんな姿をしているのかもしれない。そう思うほど、その少女の佇まいはあまりに人間離れしていた。

 しかし、それはこの後落ち着いて何度か会ってやっと気が付いたことだった。

 少女は綴を敵と認識したらしく、こちらをキッと睨みつけると、入り口付近に散乱していた棒状の物を綴に向かって投げつけた。

「ひぇっ…!?」

 それは風を切って背後の壁に命中し、垂直に刺さっていた。それが彫刻刀だったことに気が付いて腰が抜ける。少女の目がますます殺気立つのを感じて逃げようとするも、足ががくがくと震えて動かない。

 その時、金色の閃光が少女のうなじにぶつかった。

 それは普段綴に付き添っていた女王蜂、マダム・ヘクサだった。

「ッ…マダム!」

 少女が一瞬焦ったように顔を歪め、ぶつかられた箇所をさっと手で隠した。

 その直後、少女の身体が骨抜きになったように崩れる。

 崩れ落ちた少女の少し後ろ、部屋の入り口に、いつの間にか黒田が立っていた。マダムが黒田のもとへゆっくりと飛んでいき、彼の肩に留まる。

「く、黒田さん…」

「怪我はないかい?」

 黒田が歩み寄り、綴に手を差し出す。手を握り返し、立ち上がった。まだ心臓がばくばくと音をたてている。

「は、はい…あの、その子は」

「大丈夫、少し昏睡させただけだよ。すぐに目を覚ますだろう」

 黒田が少女を抱え上げる。

「俺から事情を話そう。この子は『アンジェラ』─いや二ノ宮煌。睦と同じ『カナリア』の幹部だ。彼女にここをアトリエとして貸し出す代わりに、稀にくる納棺の依頼を引き受けてもらっている」

「納棺…自殺志願者の」

「ああ。君にもあの時聞いただろう?自分の死体をどうしたいか、と。自殺した後、綺麗に着飾ってほしいという人も中にはいるんだよ。その要望を叶えるために、彼女にそれを任せている。最も、彼女自身が望んでやっていることでもあるんだが」

 ちらり、と棺に入った死体を見やる。それは死体だと知った今も相変わらず光を受けて美しかった。同時に恐ろしくもあった。目に見える形を与えられた、美しい死の姿。これは彼女の作品だったというわけだ。

「彼女、年齢はいくつなんですか」

「今年で16だ」

「そんな、幼い子が…」

 何故、秘密結社、それも自殺に関わる集団に。それも幹部として所属しているのだという。

 その時、少女が小さく呻き、目を開いた。

「おはよう。ご機嫌は如何かな、ひかる

「ッ、最悪よ」

 げし、と白いブーツの先で黒田の身体を蹴りつけると、野良猫のように暴れ、黒田の腕を押し退け地面に立った。昏睡の影響か、まだふらつく煌に黒田が手を差し出すが、ぱし、とはね除けられた。

「改めて紹介しよう。この子は二ノ宮にのみやひかる

 柑橘類を彷彿とさせる大きな瞳が、敵意を込めて鋭くなった。

 綴は彼女の不機嫌そうな表情に頭が真っ白になっていた。

「さっきは…その、本当に失礼しました」

 むすっと口を尖らせたまま、煌がそっぽを向く。

「スズランの日に出した宣伝用の看板、覚えてるかい。あれを描いてくれたのはこの子なんだよ」

 実際は頭が真っ白になっていて、はっきりその絵を思い出すことはできなかった。しかし、綴はせめて彼女の機嫌をこれ以上損ねまいと、彼女を喜ばす言葉を必死に探した。

「ああ、あのときの…なんていうか、凄く素敵な絵だったと思います」

 しかし、その少女の表情は益々不機嫌そうに歪んだ。

 ─まずい、失敗した。

「思ってもいないことを口にしないで」

 煌はぴしゃりと言ってのける。

「す、すみません…」

 ふんわりとした雰囲気とは相反する語気の鋭さに、綴は肩をすぼめた。

「わたしに媚びるようなことを言うのはやめて。そういうの、虫唾が走るわ。不愉快よ」

 じわり、と目頭が熱くなる。それに気がついたときには涙が溢れていた。

 ああ、また人を怒らせてしまった。どれだけパターンを学習しても上手くいかない。世辞を言ったつもりではなかった。それでも人を持ち上げて怒られる例など、綴は知らなかった。

「泣きたいのはこっちよ」

 ぷい、と横を向いた煌の顎を、黒田が片手で掴むと、目を合わせた。

「煌、八つ当たりはよしなよ。それは卑怯な行為だ」

 力の差か、今度は黒田の手を跳ね除けはしなかったが、今にも噛み付きそうな剣幕だ。

「悪いのはあんたでしょ、馨。部屋に人を入れないでって言ったのに。なんで見張っとかないのよ」

「そりゃイレギュラーってものがあるだろう。今日は来客があると連絡もした。けど君のことだから俺の話を適当に聞き流していたんだろう?なら今回のことは君に非があると思うんだが」

「っ、あんたはいっつもああいえばこういう…。いつかあんたの唇を綺麗にブランケットステッチにしてやるわ」

「君裁縫は苦手じゃなかったっけ?やるならちゃんと習得してから頼むよ。俺の口が現代アートになりかねない」

「うるさい!」

 威嚇する猫みたいだ。毛が逆立って見える。不思議なもので、どれだけ小さな生物でも本気で威嚇されると腰が引けてしまう。もっとも、黒田には全く効果が無いようだ。

「ホント最悪よ。制作は上手くいかないし勝手に部屋に入られるし。…わかったらさっさと出てって!」

 黒田の顔を忌々し気に睨みつけ、綴の身体を押した。黒田と二人、廊下に出されると、黒田が肩を竦めた。

「こういうときの彼女は活火山みたいなものだ。大丈夫、いずれ勝手に鎮火するから。君に非はないよ」

 しょげかえる様子を見かねたのか、ぽす、と頭に黒田の手が置かれる。

「彼女は少々気難し屋でね。悪い子じゃないんだ。制作が上手くいかなくて気が立っていたんだろう。多めに見てやってくれるかい」

「制作って…」

「彼女は絵描きなんだよ。というか、なんでもできるんだ。水彩も油彩も、立体も。作品を拝ませてもらえることは滅多にないけれどね」

 それ以上このことには言及せず、「談話室に行こう、そこで少し話がある」とだけ言って、廊下を歩き出した。

 しばらく廊下を歩いていると、ある一室から調子はずれな鼻歌が聞こえてきた。

「この歌…」

「組員の一人だよ。少し、挨拶をしていこう」

 黒田はその鼻歌が聞こえてくる部屋のドアを三度、そしてもう一度ノックする。すると、中で鼻歌が止んで、ドアが開いた。そこに立っていたのは若い男性だった。ちょうど大学生くらい、綴よりも一、二歳年上に見える。青年は黒田の姿を見るなり驚いて、感激したように黒田に握手を求めた。

「嗚呼、貴方が僕の部屋を直接訪ねてくるなんて。一体如何されたのですか、アリスタイオス様」

「なに、少し様子を見てみようと思ってね。君は今、苦しんでいたみたいだから」

「本当に、お優しい…しかし、ご心配には及びません。お陰様で、ちゃんと麻酔は頂いて、今はこの通りです。…ところで彼は?」

 ふと青年の目が、綴に注がれる。

「彼は俺の個人的な客だ。この組織の人間ではないが、その点彼は信用できる人物だよ」

「そうでしたか」

 また青年は目を輝かせて、綴にも握手を求めた。軽く会釈をしてから彼の瞳を見ると、酔っぱらった人のように朦朧としていて、どこか落ち着かない様子だった。ふと、青年の肩口から部屋を盗み見ると、見覚えのあるものがあった。秘蜜ネクタルが入っているガラスのアンプルが、ベッドの上に転がっている。

「なにか、悲しいことでも?泣いていたようにお見受けしますが」

「え!?ああ、まぁ…少しだけ」

「そうでしたか。貴方も辛い思いを沢山されたのでしょう。僕らは同志です。またいずれお話しすることもあるでしょう。その時は何でも遠慮なく仰ってくださいね」

 青年は愛想よく笑った。

「邪魔したね。さあ、よく休みたまえ」

 黒田がそっと青年の目元を親指でなぞる。青年は心底幸せそうな面持ちで、部屋の中へと戻っていった。ドアが静かに閉まる。そしてまた、調子外れな歌声が、ドアの隙間から響いた。

「あの人、お酒でも飲んでいたんですか」

 しばらく歩き、使用人の部屋を通り過ぎてから、綴は黒田にそう尋ねた。

「いいや。彼が服用していたのは秘蜜ネクタルの一種だよ。あれはごく単純に、脳の一部の働きを鈍らせるものだ。彼も組員でありながら使用人として働いてもらってる。だが、今日は少々気分が落ち込んでいたようでね。そういう使用人は休ませてるんだ」

「あの、言い方が悪いかもしれないんですけど…。よくそれで仕事が回りますね。みんな休みたがるものなんじゃ…」

「意外に思われるかもしれないが、みんな堅実でいいこばかりだよ。むしろ従順すぎるくらいだ。…皆、自分の魂を犠牲にして、人の機嫌を伺うことでようやく生きてきたんだ。抗い反抗することを知らないし、できない。そういう意味では君と性質はかなり似通った人ばかりだと思う。話せば、気が合う人もいるんじゃないかな」

「そう、なんですね」

 自分と似た性質の人たち。人の機嫌を伺うことで、ようやく生きのびてきた人たち。そういう人間が、この『カナリア』という組織に集まっている。

 なんだか、安心した。ただ生きることが難しいと感じるのは、自分だけではなかったことが。

「ただ時折、突発的な憂鬱症でどうにもならなくなって、こうして部屋でそれを紛らわしているんだ。…麻酔刺すものがなきゃ、この世で息をしていくのは酷く難しい。君もそうは思わないかい」

「そう、ですね」

 酒や何かでこの虚しさを誤魔化せたら、もっとうまく生きていけただろうか。

「大庭さんからも聞いてはいたんですけど、色んなことができるんですね、秘蜜ネクタルって」

「まぁね。それは俺の専売特許だから。しかし万能な訳ではない。現に君を楽に死なせることはできなかった」

 しばしの沈黙が流れる。

 どこをどう歩いたのか、いつの間にか最初に綴が通された談話室へと戻ってきていた。

 ドアを開くと、大庭が椅子にだらしなく腰かけていた。

「あれ、その様子じゃ煌ちゃんに怒られた?」

 綴のしょげた様子を見て、大庭がにやにやと笑いながらそう言った。黒田と共に、大庭とは反対側のソファに腰掛ける。テーブルに用意されたグラスに、大庭がデキャンタ代わりのワインボトルからハーブ水を注いだ。

「今日は一段とご機嫌斜めだったよ。困ったものだ」

「部屋に入るとキレる人いるよねー。どこかの誰かさんみたいに」

「客観的な事実を言ってくれ。あれは部屋に入るのはやめろと散々いったのに三度ほど忍び込もうとした不躾な輩がいたものだから頭を小突いた、というだけだろう」

「小突いたってレベルじゃなかったけどね。…部屋に入られるのがそんなに嫌かね?まあ、兄貴たちも部屋に忍び込むとめちゃくちゃ怒ったしなぁ」

「部屋はその人の心だよ。土足で勝手に踏み込むものじゃない」

 それはつまり、大半の人間を黒田は心の中へと受け入れない、ということを意味するのだろう。

「ふーん、じゃ深谷くんはオッケーってことなんだ」

 急に話題が自分に振られ、たった今飲もうと手にしたハーブ水入りのグラスを落としそうになる。

「いや、僕はたまたま体調不良で部屋をお借りしただけで…」

「たまたま、ねぇ」

 大庭は頭の後ろで手を組みながら、意味深な表情をした。

「んで、結局深谷くんは黒田くんの何なの?」

「それについてはきちんと君達に話そうと思っていたんだ」

 黒田がアンティーク調のソファに深く腰を掛けなおす。そしてテーブルに置いていた、澄んだ緑色のハーブ水を一口呑み、口を開いた。

「結論から言おう。彼には秘蜜ネクタルが効かなかった。それも麻薬や麻酔程度のものじゃなくて、人を死なせるために調合した秘蜜ネクタルが効かなかった」

「へえ、まじで黒田くんの弱み握ってたんだ」

 ヒュウ、と大庭が口笛を吹いた。

「弱みってほどでは…」

「そお?だってこれが外にばれたら大変よ?秘蜜ネクタルに完璧な耐性を持つ人間が黒田くん以外にいるなんてさ。黒田くん敵が多いから対抗しようとするヤツも多いと思うし。捕まったら解剖されて血とか抜かれちゃうかも」

 解剖という言葉が裏社会でよくある臓器売買なんかのイメージと結びついて、綴は顔を青くした。

 子供がお化けの真似をするみたいに、大庭ががおー、と言っておどけて見せる。そこへ黒田が無言でコルクを投げつけた。

「いてっ」

 コルクは見事眉間に命中し、音を立てて床に転がった。

「いいかげんにしろ。綴、睦の言ったことは確かに一部は事実だ。だが、君をそんな目には合わせない。何があっても必ず助け出す。だから必要以上に怯えなくてもいい」

「は、はい」

「おれだったらその立場利用していろいろお願いしちゃうけどなー。深谷くん、この際何でも買ってもらっちゃえばいいんだよ。家とか車とか時計とか。いいなー、夢広がるなー」

 大庭が額を摩りながらそう言う。

「いえ、今頂いてる給金だけでも十分すぎますから」

「深谷くんそれ本気で言ってんの?遠慮なんかしてもいいことないよ?」

「だ、大丈夫ですから、本当に」

 大庭が大げさに溜息をついた。

「…黒田くん狡いねぇ。深谷くんの性格を知った上で自分に有利な契約してるんでしょ?」

「人の契約内容に口出しするのはやめたまえよ。それに俺が持ちかける契約は殆どが紳士協定に基づいている。俺だって君たち誰か一人にでも裏切られたら困るんだ」

 そこで、黒田は少し目を伏せた。

「君との契約についてもそうだろう、睦」

「わかってるって」

「話を戻そう。秘蜜ネクタルがただの人間に効果がなかったという例は、俺の知る限り一つもない。他の組員についても改めて調べたが、麻酔を服用している者でさえも耐性がついた人間はいなかった。今回の件は、彼の持って生まれた体質によるものと判断する他なかった」

「耐性のレベルは?」

「俺と同等だ」

「まじかよ。じゃあ、深谷くんの髪と目は?」

「服用後数分足らずで急激に色が変わったんだ。多分、もともと持っていた耐性に秘蜜ネクタルの毒性が結びついて、急激に細胞の情報が書き代わったんだと思う」

「マダムと契約してるおれや煌ちゃんとは耐性を得るプロセスが違うってことか。おれなんか3週間かかったもんなぁ」

「大庭さんも毒物に対する耐性を持っていたんですね」

「ま、耐性って言ってもキミらほどじゃないけどね。『カナリア』の幹部は全員耐性持ってるよ。この髪と目の色がその証。黒田くんから一回秘蜜ネクタルについては講義を受けたでしょ?」

 そう言って、大庭は自分の赤みがかった髪を摘まんで見せた。毒々しくも鮮やかなマゼンタの瞳がにっと笑う。

 ふと、黒田の方を見る。彼の瞳は青紫色だ。彼もまた、毒物に対する耐性を持っているということだ。

 改めて彼を観察すると、彼の髪は黒髪でありながら、光の加減によって灰色に見えたり、紫色に見えたり、あるいは毛先が透けて透明に見えたりした。不思議な色だ。

「どうかしたかい、綴」

「あ、いえ、何でもないです」

 黒田に声を掛けられ、慌てて弁明する。

 ふと、大庭が息を吐き出した。

「にしてもすごい奇跡だね。奇跡なんて言っていいのかわかんないけど」

 大庭が、少し気の毒そうに綴を見た。

「で?深谷くんが外歩くのって結構リスキーだと思うけど、いいの、黒田くん?見るやつが見たら『カナリア』の幹部だと思われるよ」

「構わない。彼を監禁でもしないかぎり、どうしたって情報は洩れる。だから既に対策は打った。問題ないよ」

 大庭は間延びした返事で、了承の意を示した。

「さて。話は済んだよ、煌」

 突如、黒田がドアに向かってそう声をかけた。

 ドアが控えめに開く。そこには確かに、煌の姿があった。

「えっ」

「いたんだ、煌ちゃん。追いかけてきたの?」

 三人の視線が一斉に煌に注がれる。煌は落ち着かない様子で部屋の中を見渡し、綴と目を合わせた。

 煌は部屋に入ると、綴の手首を掴むと強く引っ張った。

「ちょっとこっちにきて」

「え?」

「いいから…!」

 ぐいぐいと手首をつかんで引っ張られ、長い廊下を歩く。

 これは確実に怒られる。まだ怒り足りないということか。

 急に、煌が立ち止まる。そして綴の方に向き直り、ぐっと顔を上げた。

「さっきはごめんなさい」

「え?」

 ぽかん、と口が空いた。

「だから…!さっきあなたに八つ当たりしたこと。その、色々あって苛々してたの。」

「いえ、僕もすみませんでした…その、そんなに嫌なことだとは知らず」

「べつに、いいの。ただ、世辞を言って利用しようっていう魂胆のやつとよく喧嘩してたから、それを思い出しちゃっただけ」

「…そうだったんですか」

 沈黙が流れる。

 俯いていた煌が顔を上げる。

「名前」

「え?」

「ちゃんと聞いてなかったから、教えて」

「あ…深谷綴です。よろしくお願いします、二ノ宮さん」

「気持ち悪い。煌でいい」

「…じゃあ、よろしくお願いします…ひかる、ちゃん」

「敬語、気持ちが悪いから普通に喋って」

「えっと、うん」

「これ、あげる」

「これ…」

 ぐい、と胸に押し付けられたのはキャンバスだった。

「用はそれだけ。わたしはアトリエに戻るから。じゃあね」

 貰ったものを確認する前に、煌は白いドレスを翻し、廊下の向こうに去っていった。

 渡されたキャンバスを確認すると、それは油彩の静物画だった。

 絵のことは詳しく分からなかったが、とても16歳が描いた絵には見えなかった。雄しべや雌しべ、植物の産毛のような表面までが非常に繊細に、精密に画かれている。

 失礼だとは思いながらも、烈火の如く怒っていた彼女の手から、これほど繊細なものが産み出されているのが甚だ信じられない。

「どうかな、彼女の絵は」

「うわっ!黒田さん、いつの間に」

 背後で黒田がくっく、と笑った。一体いつの間に近づいて来ていたのだろう。あれだけの体格なのに、全く気配を感じなかった。

「多分、君に謝るタイミングを探していたんだろうね。…この絵は猫が獲物を見せに来るようなものだ。彼女なりの最上級の謝罪だよ。受け取ってやってくれ」

「…はい」

 キャンバスが傷つかないように、両手で抱える。ツン、と油の匂いがする。

「素直じゃないからね、煌ちゃんは。おれも何度理不尽にキレられて謝られたか。そこが可愛いとこなんだけど」

 ひょこ、と大庭が部屋から顔を出した。

「さて、仕事もあるから帰ろうか。睦、車を出して」

「帰りゲロんないでよ、黒田くん」

「善処するよ」

 その日の帰り、相変わらず黒田は車の後部座席で丸まったままだった。


****************

※注─『Angel’s trumpet』

エンジェルズトランペット。ダチュラ。チョウセンアサガオ属の総称。一般英名ではデビルズ・アップルとも。花言葉は「愛嬌」「愛敬」「偽りの魅力」「貴方を酔わせる」等。

幻覚作用のある有毒植物で、1676年にこの植物が入った煮物を食べてしまった者が、裸になって笑い出したり、走り回って仲間の身体を叩いてはキスをしたという記録があるという。

現在でも園芸植物としてごく普通に栽培されている。

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