第17幕 sub Rosa
情報が入ったのは、綴を見送ってから数十分のことだった。
「なんだって?」
一匹のハナバチが伝えた信号に、ソファーで微睡んでいた黒田は眉を顰めた。
「…せっかく久しぶりに気持ちよく酔えていたのに。それで、マダムは彼の傍に?…そうか。近くにレディたちをできるだけ集めておいで。向こうに動きがあったらすぐにしかけていい」
了承するように10匹程の働きバチたちが羽音を立て、目にも留まらぬ速さで飛び去った。
黒田はスマートフォンを耳に当てる。
「睦」
「はいはい黒田くん?」
「春香が寝返った。綴を人質に取られている。うちの留守番を頼む」
「あーあ、ついにやっちゃったね春香ちゃん。で?深谷くんは無事なの?」
「今のところは。俺は彼の救出に向かう」
大庭が電話越しにけらけらと笑った。
「あはは、なんか自殺幇助集団が自殺志願者の命を助けに行くって、矛盾してんね」
「…自ら死を決断して命を絶つのと、他人の都合で勝手に命を奪われるのは全く違う。俺たちは誰かに殺されたいわけじゃない。矛盾なんかしてないさ」
「…それもそうか。黒田くん一人で行くの?」
「彼女から俺宛にラブレターが届いたんだ。話がしたいってね」
「ふーん。なら陽動の可能性も大アリってわけか。じゃ、今から向かいまーす。煌ちゃんも起こしとくよ。まあ屋敷の方はそもそも中まで辿り着けないだろうけど」
「ああ」
黒田は通話を切り、胸元の鍵を確かめる。玄関のドアを開けると、三つの銃口が黒田に向いた。
「おや、こんばんは。どちら様かな?」
「無駄口を叩くな。
そこには三人の男が立っていた。それぞれ小型の拳銃を携え、黒田を睨んだ。
「逆らったらどうなるか、わかってるよな?」
黒田は目だけで相手の武器を確認すると、わざとらしく肩を竦めた。
「人に物を頼む作法を習わなかったのかい?まあ、玄関で律儀に待っていたことは褒めてあげるけど」
目の前の男のこめかみに青筋が浮かぶ。銃口はまっすぐ黒田へと向いている。
しかし、黒田は怯むどころか笑みを浮かべた。
「お花に囲まれすぎて頭の中まで花が咲いていやがるのか?立場を弁えろ」
「はは、立場を弁えろ?─こっちの台詞だな」
「なんだと」
その時、男たちの耳元でぶぅん、と羽音がした。
「ッ、なんだ!」
男の手が反射的に空気を振り払う。
ぶんぶんと低い音を出す黒い影。それは黒田の使役しているハナバチだった。一瞬で五十匹近いハチたちが現れ、三人の男の顔に集る。
「うおっ、蜂!なんでこんな時に…!」
「くそっ、なんだこいつら!」
「首を刺されたぞ!ひいっ、やめろ!」
3人の男達が想定外の刺客に情けない声を上げ、手をばたつかせた。
その瞬間、黒田は目の前の手から銃を叩き落とした。瞬きする間もなく足を払う。男はバランスを崩し、背後の階段へと転げ落ちた。ハナバチに集られ、手を振り回し抵抗している残りの二人も纏めて階段へ突き落す。三人はそれぞれ段差の角に頭部を強かに打ち付け、階段の上で呻いた。
黒田は悠々と階段を下りる。
「体がうまく動かないだろう?ハチの毒は『毒のカクテル』とも呼ばれていてね。様々な種類の毒が複雑に組み合わさった、それはそれは美しい化合物なんだ。彼女たちの毒の効果は主に痛みと痺れ。人間の身体に対してこれほどの効果を発揮する毒は結構珍しいんだよ」
黒田は積み重なった男達の体を足で転がし、二人が持っていた銃をも蹴り飛ばした。黒田は先ほど真ん中にいた、リーダー格らしき男の傍に膝をつく。ハチ毒に侵され、青紫色になった顔が夜の暗闇に浮かび上がる。
黒田は男の顎を掴み、静かに問いかけた。
「一応確認しようか。春香の差し金だね?」
「はっ…そう、だよ」
毒が回り痺れているのだろう、舌がぐねぐねと軟体動物のように蠢き、辛うじて言葉を吐き出す。
「残念、だったな、あの女狐、全部吐いたぞ。お前らみんな、おしまいだ」
黒田は男の顔から手を放す。
「君達のような人間を心の底から哀れだと思うよ。表の社会に適合できず、子供のままオモチャの小銃を振りかざし、裏社会でしか生きられなかった人間。魂を昇華する術を身に着けることができなかった、抜け殻の成れの果て。曖昧な自我同士に橋渡しをするための理論すら解することができない。そんな状態で生きていくのはさぞ苦しいだろうと思う。そういう意味で、やはり君たちのような人間と俺たちは、魂の点では兄弟だと言えるのかもしれないね」
男たちが全く違う国の言葉を聞いたように怪訝な顔をする。意味が分からない、とでも言いたげだ。
黒田は続ける。
「だが、君達の行為には悲しみが足りない。慟哭が足りない。誇りが足りない。そこでどうだろう、君達も自分の魂の形を昇華してみたいとは思わないかい」
「…は?」
「もしも俺たちに賛同してくれるならば、君達を同胞として迎え入れることも考えるんだが」
男は喘ぎながら声を絞り出す。
「誰が、おまえ、なんかと…好き勝手こっちのシマを荒らしやがって…くそ、調子に、乗りやがって…気にくわねぇ、んだよ」
どんな罵倒も、これほど息も切れ切れでは返って哀れになるなと思う。
黒田は嘆息した。
「残念だ。君達とはどうやら交渉の余地がないらしい。ならば君たちにもそれ相応の罰を与えなければならない」
黒田の掌に、手品のようにアンプルが現れる。
「御覧、これが君達が欲しがった
男たちが目を見開く。
「君達はもう二度と、自分の言葉を語れないし、描き出すこともできない」
黒田はアンプルの先端を折り、男の鼻にそれを突っ込む。
「誰の庭に踏み込んだか、努々忘れないように。自分たちの愚かさを懺悔したまえ」
三人目の男に秘蜜を摂取させた時、私道に繋がる入り口から大庭が歩いてきた。大庭が億劫そうに欠伸をする。
「なんだ、もう片付いてるじゃん」
「ちょうどよかった。掃除を頼むよ。それと車は借りる」
「はいよ。というか、掃除ってホントに粗大ごみの掃除かよ。運び屋くんは?」
「もう呼んである。じき来るだろう」
大庭が投げて寄越した車の鍵を受け取り、黒田は運転席に乗り込む。
「…車は苦手なんだけどな」
誰もいない車内で、黒田は一人そう呟いた。
苦手、というのは別に車酔いするからという理由ではない。確かに多少酔いはするが、この吐き気の根本的な理由はそれではない。
色々と、昔のことを思い出してしまうのだ。
革の座席。目が眩む人工的な街灯の光。自分を挟んで座る、摩天楼のように伸びる黒い影。ぎらついたシャンデリア、不味いシャンパン、胡蝶蘭。フロアにたっぷり詰め込まれた欲望、羨望、嫉妬、商売、陰口、謀略、世辞、笑顔。
─気持ちが悪い。
思わず口元を覆う。しかし、今はとにかく綴のもとへ急がなくては。
黒田は窓を全開にし、アクセルを踏み込んだ。
「黒田さん…!」
綴は思わずそう叫んだ。青紫色の瞳、黒い長髪。紛れもなく黒田馨その人がそこに立っていた。
数えきれない程のハナバチが、彼の背後で羽ばたいている。不快な、警戒するような低い羽音を立て、攻撃体制をとっていた。その中心には、もちろん女王蜂であるマダム・ヘクサがいる。
黒田が自分を助けに来たのだと分かり、綴は安心から少しだけ息を吐き出した。
「よかった。無事─というわけではないようだが安心したよ、綴」
そう言って黒田が笑う。そして、春香と目を合わせた。
「まったく、折角の気分が台無しだ。なんてことをしてくれるんだい」
黒田はさも面倒そうに、大げさに溜息をついた。
「そんな、まさか、三十人全て…」
ぴんと張りつめた空気を伝って、春香の焦りが伝わる。
三十人。外にいた男たちだろうか。その男達がどうやら黒田によって戦闘不能にされたことだけは理解できた。
「っ、…けど、今頃あなたの別荘と庭も下僕たちに囲まれてるわ。子犬たちが心配じゃないのかしら、我らが
春香の声は震えていた。
「お留守番はジギーとアンジェラに任せたんだ」
黒田は取り合うことなく、軽く肩を竦めた。
「そう、なら彼らは今頃小汚いハイエナたちの慰み物になっているかしらね。可哀想に」
突如、黒田が声を上げて笑った。
「君はどうやら俺がただ彼らを気に入ったから幹部にしていると思っているようだが、それは大きな誤解だ。彼らは俺の友人であり私兵でもある」
その時、場に似合わぬ着信音が鳴る。黒田がスマートフォンの画面を撫でる。
『馨アンタふざんけんじゃないわ!』
黒田のスマートフォンから怒号が飛び出す。
声の主は煌だった。
「もう片付けたのかい?早いね」
『早いねじゃないわよ、結局あいつら庭の抜け道知ってんじゃない!猟銃持つの久しぶりだわ、ちょこまか逃げ回るわ、お陰でアンタの言いつけ通り全員足だけブチ抜くの大変だったんだからね!アンタはいっつも人が集中してる時に限って面倒事押し付けて、こちとら気分サイアクよ!』
「気分が台無しなのは俺も同じだよ。文句なら春香に言ってくれ」
スピーカーからチッ、と盛大な舌打ちが発される。
『…そうね、じゃ、一言言わせてもらうわ、春香。アンタは約束を破り、情報を売った。私たちはみなこの腐った世界から逃げ出した無様な負け犬として、それなりにお互いを信じて一緒にいたはずよ。あたしにもアンタにも居場所なんてここしかなかった。それを自分から壊そうとしたこと、本当にバカだと思うわ。せいぜい地獄を味わうのね。さよなら』
ぷつ、と通話が切れる。
春香は呆然とそこに立ち尽くした。
「と、いうことだ。残念ながら君の手駒はもう全員使い物にならないよ。残ったのは君だけだ」
黒田が一歩踏み出す。
春香が慌てて綴の髪を掴み、ナイフを手にした。
視界でぼやける程に近づけられた刃物。綴は生唾を呑んだ。
女に引き寄せられ、眼球の前で銀色の刃が光る。
「っ、止まりなさい!さもないと、こいつの目玉をくり抜いてやるわ…!」
黒田が動きを止めた。
それを見て春香が息を吐き出す。
しかしその直後、彼女の身体は崩れ落ちた。手にしていたナイフが転げ落ちる。
倒れた春香を見ると、緊張で汗ばんだ彼女のうなじが青紫色に変色していた。患部には黒田のハナバチが3匹程留まっている。
黒田のハナバチに刺されたことを理解し、春香はたじろいだ。
「っ!?どう、して…!ここは密室だった、はず…!」
「はは、彼女たちには彼女たちのルートがあるんだよ。例えば屋根の隙間とか、壁の中とかね。人間が人間の確認できる範囲をどれだけ施錠しようと関係無い。この通り、彼女たちは君の背後でずっと行動を観察していたし、いつでも襲撃をかけることができた」
黒田の言葉に綴は背後を振り返り、ぎょっとした。
そこには、黒田が正面から引き連れてきた数よりかは少ないものの、確かにハナバチの群れが壁に張り付いていた。無数の小さな複眼がこちらを見つめている。
「やれ」
黒田が低く、一言命じた。
「うわっ!」
大量のハナバチたちが飛んでくる。彼女たちは綴の身体を綺麗に避け、背後でうずくまる春香の身体に集り、攻撃を開始した。
「いや、ッ!やめて!助けてッ」
「安心したまえ、彼女たちの毒に致死性は無い。死なせはしないよ。死なせてなんてやるものか」
春香が必死に手足ををばたつかせるが、その抵抗は徐々に弱まっていく。
「そういえば、綴のことを『ブランコ』と最初に呼んだのは君だね、春香。ロボの寵愛を受けた
春香はついに抵抗しなくなった。否、ハチ毒が身体に回り切り、手足を動かすことができなくなったのだろう。
それを確認し、ハチたちが春香の身体から離れ、部屋の隅へと姿を消した。
取り残された春香の姿はあまりにも無残だった。刺された箇所は青紫色に腫れ上り、肌はぼこぼこと隆起している。彼女が黒田のために綺麗にしたという顔は、もはや見る影もなかった。
「これは罰だよ。誰かの大切なものを奪うつもりなら、自分の大切なものを奪われる覚悟をしたまえ。君にはその覚悟が無かったと見えるが、違うかい」
春香はぜいぜいと息を切らす。何か言葉を紡ごうとして口を動かしたが、言葉の代わりに、腫れた瞼の奥から涙を零した。
「随分遅くなってしまったが、大丈夫かい?」
黒田がいつもの微笑を浮かべ、綴の方を向いた。黒田は綴の傍に膝をつくと、床に転がっていたナイフを握り、綴の拘束を解いた。
「綴?」
「え?あ、はい、僕は…大丈夫です」
黒田に手を貸され、立ち上がる。
「やれやれ、こんなに足跡まで付けられて。痛かったろう」
黒田が背を軽く撫で、埃を払った。
「いえ、さほど痛みはなかったので…本当に、大丈夫です。僕は、大丈夫ですから」
綴は床にうずくまる春香を見下ろした。
自分に暴力を振るい、凌辱し、あまつさえ靴を舐めさせたこの女が哀れで仕方なかった。
もちろん、こんなことを思えるのは黒田が自分の身を助けてくれたからであって、そうでなければ今頃無残な姿になっていたのは自分の方だったということは重々承知しているつもりだった。
それでも、彼女のことを哀れだと思う。きっと、彼女の辿った人生の話を聞いてしまったからだろう。
春香を見ていて思う。彼女と自分には、さほど差は無いと。
彼女は言った。自分は真面目にやってきた。いいこにしてた。なのにどうして、と。彼女もまた、生き辛さを抱えたまま生きてきて、自殺について思いを馳せていた。そして唯一手に入れた恋心を、ぽっと出の人間に邪魔されたと感じて、裏切られたような気がして、自暴自棄になってしまったのだろう。
自分が不幸だからといって、他人に何をしてもいいとは思わない。絶対に思わない。けれど。
もしも、自分にものを書いて感情を昇華する能力がなかったら。
もしも、傷口に寄り添ってくれる美しいものに出会えていなかったら。
もしも、家族からも社会からも見放されて、失う物が何一つなかったとしたら。
そして何より、黒田と出会うことなく人生を歩んでいったとしたら。
自分は果たして、自暴自棄にならずに済んだだろうか。
今思えば、黒田に出会う前まで、物を壊したくなることがあった。ある日突然、何かをめちゃくちゃにしたい衝動に駆られることがあった。人に殴りかかりたくなる瞬間が確かにあった。
それでも僕が何れもそうしなかったのは、ただその感情を表現する力がなく、ただ泣く以外にどうすればいいかが分からなかったから、というだけの話だ。
もしも自分に誰かへ憎しみや怒りをぶつけるだけの気概があったなら、僕の手に握られていたのはペンではなく、春香と同じナイフだったかもしれない。
僕らは常に綱渡りをしている。そして自分がその一線を越えないという保証はどこにもない。
春香がすすり泣きながら、消え入りそうな声で何かを呟き始めた。
「”ハムレット様が、あんなにもみじめなお姿に。そして、私は、このオフィーリアは、女のなかでもいちばん辛い、憐れな境涯、なまじあの快いお言葉の蜜の香りに酔うただけに。気高く澄んだ理性の働きは、耳をくすぐる鐘の音、それも狂うて、いま、この耳に、ひび割れた音を聞かねばならぬ!水ぎわだった花のお姿が、狂乱の毒気にふれて、見る見る萎れていくのを、ただじっと眺めているだけ!ああ、こんな悲しいことが!昔を見た眼で、今このありさまを見ねばならぬとは!”─これがまんねんろう、あたしを忘れないように…お次が三色すみれ、ものを思えという意味」
ふと、春香と視線が合う。
「あなたにはおべっかのういきょう、それから、いやらしいおだまき草。あなたには昔を悔いるヘンルーダ。あたしにもすこし。これは安息日の恵み草というの─あら、だから、あなたとは意味が違うわね。まだひなぎくがあるわ。でも、あなたには忠実なすみれをあげたかった。それなのにこんなに萎れてしまって」
春香は呟き続ける。
辛うじて聞き取れる程の囁きに近い声だったけれど、断片的に聞こえるその台詞の出典はすぐに分かった。黒田の部屋にもあった、シェークスピアの『ハムレット』─その中に出てくるオフィーリアの台詞。復讐に燃え、全てを捨てて狂ったふりをする王子に捨てられた可哀想な姫の台詞。水辺に倒れ、死神に浚われる役回り。
きっと彼女は、その姫と王子を、自分と黒田になぞらえていたのだろう。
いつだか黒田が言っていたことを思い出す。
『”手に入れるのが最も困難なものほど、われわれは最も深く愛するものです。きみもそう感じませんか。ぼくにとってはいつも友だちがたいせつなんですが、そのかわりに女ばかり押しかけて来ます”』
今思えば、きっとこれが黒田の答えだったのだろう。
綴は黒田の瞳を見た。その視線は、紛れもなく綴だけを見ていた。
「…貴方を愛していますわ。こんなにも幸福だったことはありません。二人でどこかへ逃げて、幸せになって…いつか、貴方の子供が欲しかった」
春香がそう呟いたその時だった。
バキッ、と小気味良い音を立てて、春香が床に打ち付けられる。ボタボタと血が滴り、歯が3本ほど根元から折れて、口から転がり出た。
黒田が春香の顔を蹴り上げたのだと、数拍遅れて理解した。
「止めてくれ。反吐が出る」
地を這うような低い声。黒田は無表情のまま、春香の手の指先を踏みつけた。小枝を折るように、ボキボキと音がする。暗い部屋の中、真っ赤な血が床を染める。両手を潰した後、黒田の足が春香の下腹部にめり込む。
春香が力無く呻き、血を吐き出す。
「おっと…いけない。また殺してしまうところだった。それじゃ駄目だ。駄目なんだよ馨。同じ過ちなんて繰り返すものか」
「黒田さん…?」
黒田の様子がおかしい。呼吸が早い。えずくように身体を折り曲げ、口元を覆う。
「そんな馬鹿なことをしちゃいけない、殺すなんて駄目だ、それは僕らだけのものだ、死なせてたまるか、もっと、痛みを、悲しみを、僕と同じだけ、魂を殺さなきゃ、殺す、殺してやる」
「黒田さん!」
綴は叫んだ。黒田の腕を掴む。
黒田がゆっくりとこちらを向く。その顔は、ぞっとするほど無表情だった。どこまでも深い、目を合わせた者を吸い込むような、深淵の青紫。
─まただ。
煌が屋敷で作っていた黒田の彫像、そして数時間前、部屋で微睡む彼を訪ねた時と同じ表情だった。
「黒田さん」
もう一度、静かに名前を呼ぶ。じっと目をみつめる。
黒田が何度か瞬きをした。
「ありがとう」
どれくらい見つめ合っていただろうか。徐に、黒田がそう呟いた。
ようやく我に返った黒田は疲弊しているように見えた。
「…その、こんなことを言うのは変かもしれないんですけど、大丈夫ですか…?」
「…少し、ね」
まだ僅かに呼吸が荒い。
綴は黒田のこの症状に心当たりがあった。綴自身、何度も経験していることだった。
声、匂い、場所、状況─誘発原因は様々だが、ある時突然、過去の厭わしい記憶が雨のように頭に降り注いでくる瞬間がある。その瞬間、誰もいない部屋で独り言を呟き続けてしまったりだとか、頭を掻きむしったり、あるいは嘔吐するという症状に見舞われたりする。何十回も経験していた。なにせ、黒田と出会った時がまさにその状態だったのだから。
綴は黒田のこの状態が、ほとんど自分と同じ症状であることを確信した。
それならば、彼は一体何を見たのだろう。何に苛まれたのだろう。一体彼をそうさせた過去とはどんなものだったのだろう。
今は呼吸も落ち着き、いつも通りの微笑を浮かべている黒田を見る。
聞いてもいいのだろうか。恐らくは、彼をこうさせるに至るほどの過去の話を、彼自身の口から語ってくれと、頼んでもいいのだろうか。
分からない。
『貴方の子供が欲しかった』
間違いなく、その言葉がきっかけだった。
その言葉を発した春香は、まだ微かに呼吸をしてはいたけれど、おおよそ生きている人間とは思えぬ有様だった。黒田はその様子に見向きもしなかった。
「帰ろうか、綴」
軽く背中を叩かれる。綴は黒田の顔を見上げた。
初めて、この人のことを知りたいと思った。
綴は、床に伏せる春香に、軽く会釈をすると黒田の後をついて行った。
帰り際、廊下にはあちこちに血が飛び散っていた。
「…あ」
声が出なかった。
「君は見ないほうがいい」
黒田の掌が瞼に置かれる。その瞬間、身体がびくりと戦慄した。自分の指先が震えている。
しかし、一瞬だけ見てしまった。青紫色に腫れあがった肌をした、倒れている男たち。皆一様に脚の腱を切りつけられ、口からは血を吹き出していた。
死んではいない。僅かに蠢く音、声にならない悲鳴が聴こえる。確かに、辛うじて生きている。だが、恐らく彼らはもう二度と自分の脚で歩けず、自分の口で話すことはできないのだろう。
この惨状は全て、黒田がハナバチを使役し、一人でやり遂げたことだとすぐに理解した。
「本当は、君にこんな光景を見せたかったわけじゃないんだ。こうなる前に、全部片づけるつもりだったんだが…彼女が暴走してしまってね」
黒田に手を引かれ、外に出る。
冷たい空気が肌を刺す。
「っ、その、すみません」
「うん?」
黒田の顔を見ることができなかった。目を逸らすのは卑怯だと分かってはいたけれど、目を合わせることができなかった。
数時間前まで一緒に笑っていた黒田と、三十人近い人間を一瞬で屠った黒田の像が、脳裏でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「俺を恐れているね」
震える綴の手を黒田が包み込む。震えは一層強くなった。
「顔を上げて、綴」
「君を徒に危険な目に合わせて、悪かった」
黒田がそっと綴の身体を抱き寄せた。
温かい。
鼓動が早まる。
「
そこで黒田は言葉を切ると、息を吸い込んだ。
「あんな風に苦しませたりはしない。必ず、一瞬で終わらせるよ」
身体が離れる。
何も変わらぬ黒田の優しい笑み。数時間前、酒を飲み交わし、笑いあった時と何一つ変わらぬ微笑。
その微笑を見ていると、次第に緊張が解けていく。
改めて、恐ろしいと思った。黒田があの惨劇を創り出したことそのものではない。あの惨劇を創り出したのが黒田だと分かっているのに、何故だか彼に対する敵意が湧かない。
自分の危機管理能力が壊れてしまっているのだろうか。理解が追い付かないせいだろうか。それとも、黒田の行いが防衛であると、理屈の上では理解しているからだろうか。
心のどこかで思う。『君を苦しめたりはしない』─その言葉は、やはり優しさなのではないか、と。
「それにしても君には本当に迷惑ばかりかけるね。帰りに何か美味しいものでも─綴?」
視界が歪む。
脳が熱い。ぐらぐらする。
─あ、倒れる。
黒田の腕に自分の身体が支えられていることに気が付いた瞬間、綴は意識を失った。
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