第18幕 Edel weiss
ぐらぐらと揺れる感覚。
綱渡りをしている。足は震え、歩くこともままならない。
ゆらゆら。ゆらゆら。
足を滑らせた。落ちる。
がくんっ、と身体が強張る。
視界に白く靄がかかっている。
「夢、か…」
夢だった。高いところから落ちる夢。
心臓の音が頭蓋の中で響いている。身体がひんやりする。かなり発汗したらしい。
若干湿った布団から起き上がる気力も無く、綴はしばらく呆然と宙を眺めた。
見慣れない天井。
それもそのはずで、綴は黒田に救出された後、すぐに荷物を纏めて引っ越しをしたのだった。
裏社会に情報が流出している以上、同じ場所にいては危険だ。黒田に言われずとも、自分が今どれだけの危険にさらされているかは十分に理解しているつもりだった。自分の気持ちとしても、あの場所に帰るのは御免だった。
そして綴にはもう一つ、引っ越しをする目的があった。
それは、両親から身を隠すこと。夏の帰省以来、日曜日の電話はもちろんのこと、メール、手紙、ありとあらゆる手段で両親からの連絡が入っていたが、その全てを無視していた。だから自分の両親があの後どうなったのか、綴は知らなかった。
とはいえ、その連絡の中身はこの20年分の経験で大方想像できたし、そんなものをわざわざ咀嚼してどうこうできるほど、今の綴には余裕が無かった。
つまり、都合もタイミングもよかったのだ。そういう訳で、黒田に諸々を手配してもらい、綴は黒田の店により通い易い物件へと引っ越したのだった。
あの事件の直後、綴は気を失い、黒田に介抱されていた。
もう一体何度彼の部屋で、彼に介抱されたか分からない。
『いつもすみません』。綴がそう言うと、黒田は『いつものことだよ』と笑った。その微笑があまりに優しかったから、たったそれだけで泣き出してしまった。
黒田の見立てでは、綴が倒れた原因はショック性の貧血だろう、とのことだった。
額に当てられた掌。この手が、あの惨状を産み出した。
春香のこと、血だらけで倒れている男達のこと。ぐちゃぐちゃに思い出して、心が不安定になる。
「俺が怖いかい」
はい、とは言えず、目を逸らす。
「君はさ、どうしても分かり合えない人間と衝突したらどうする」
「どんなに言葉で説明しても、どんな論理を用いても互いに尊重できないような人間…そういう人間に矛を向けられたら、どうする」
「僕は…」
きっと逃げる以外に選択肢はない。耐える以外の方法を知らない。そうでなければこうはならない。そうでなければ、黒田と出会うことなどなかった。
「…黒田さんは、どうするんですか」
「君が見てしまった光景がその答えだよ、
理屈としては納得していた。
綴は自暴自棄になった春香に拉致された。見知らぬ場所へ監禁され、暴力を受け、人質として利用された。黒田は綴の救出に向かい、その過程で攻撃を仕掛けられ、反撃した。そして誰も死んではいない。
事実は簡単だ。しかし気持ちの整理は未だついていない。善悪、罪と罰─定期テストの問題のようにはいかない。
暴力と血痕の残り香が、死の存在を生々しく浮き上がらせる。
『もしまだ君が死にたいというのなら、あんな風に苦しませたりはしない。必ず、一瞬で終わらせるよ』
いつ死ぬか。それは誰しも逃れられない、人生におけるもっとも大切で大きな決断だろうと思う。
しかし、綴は今このとき、誰かによって自分の命を摘み取られることはもちろん、自分で命を絶とうとは思わなかった。
まだ、自分にはやるべきことがある。
自分の魂を取り戻すこと。言の葉にその全てを乗せて、過去を清算すること。これをせずに死ぬことは不可能だった。
それをやり切る前に死んでしまうことを恐れすらした。
眼前に見せつけられた惨劇。やはり楽に死にたいという気持ちは変わらない。しかし、命を絶つその瞬間に後悔したくはなかった。できることは全てやっておきたい。
「あっ」
綴は起き上がった。
そうだ、今日は一つ大切な予定があった。
綴は一度実家に帰る決意をした。
話合いをするためではない。自分が過去に書いた日記や作文を探すためだ。記憶はかなり曖昧だったけれど、いくつか隠して保管していたことを思い出したのだ。
あてはあった。幸いなことに実家の鍵も持っている。
時計を見ると針は午前11時を回っていた。
綴は出かける準備をした。新しく買ったばかりの、着心地のいいダッフルコートを羽織った。つい最近、初めて自分で服を買ったのだ。
花屋でのアルバイトの帰り、ふらりと駅前の店へと立ち寄った時に、自分で服を選んでも誰にも怒られないということに気が付いた。どんなに自分の趣味じゃない衣服も拒否するとたちまち機嫌を損ねることになるものだから、それまでは母親が選んでくる服を着るのが当然だと思っていた。
そうやって嫌いになってしまったものがたくさんあった。服、バイオリン、習字、運動、絵、数学。
─もしかして、あんな風に言われなくてはいけない理由なんてどこにもなかったんじゃないのか。
荷物を握る手に力が籠る。
大学に通うときに教科書を詰め込んでいたリュックに、貴重品だけ入れて背負う。リュックが軽いことが不安になって、中身を二、三度確認してからやっと綴は引っ越したばかりの家を出た。
随分と空気が冷たい。だが、綴はこの季節が嫌いではなかった。春に比べればよほどいい。感傷に浸ること、物思いに耽ることが許されるような気がした。
指先が、つま先が冷える。コートのポケットに手を突っ込む。
綴は歩き出した。あの日と同じ電車に乗り、バスを乗り継ぎ、すぐに目的地へと到達した。
綴は目の前に立つ実家を見上げた。
あの夏の日に比べると、さほど緊張はしていなかった。
「マダム、中に人がいるか確認してきてくれませんか」
「いいわよ」
綴がリュックのポケットに声をかけると、マダムが飛び出し、家の周りを飛び回った。
「人がいる気配はないわ。出かけているのかしら」
両親は共に家にいなかった。息を吐き出す。
「よし」
重い扉を開く。リビングは通らず、すぐに二階にある自分の部屋へと入った。綺麗に整理されてはいるが、少し埃っぽい。
最初に卒業アルバムや写真が纏めてある場所を探した。
もう二年も使っていない部屋は、殆ど物置と化していた。自分の部屋の面影は無い。それもそうだ。帰る頻度はまれだったし、来たとしても居たたまれずすぐに帰ってしまうのだから、当然といえば当然だ。
カーテンを留め、窓を開ける。外は晴天だ。差し込んだ日差しの中で、埃がちらちらと舞った。
最初に小学生のころの卒業アルバムをぱらぱらとめくる。
途端に頭が痛くなった。思い出したくもなかった担任の顔や、生徒の顔がそこにはっきりと存在している。
「やっぱり見るもんじゃないな…」
溜息をついた。
彼らは今どういう生活を送っているのだろう。僕に言った言葉を、覚えているだろうか。多分、覚えていないだろうなと思う。挟まっていた同窓会参加用の封筒を破り、ごみ箱に入れた。
次に手にしたのは卒業文集。それから授業で作ったらしい、小さな本。確か、小学生のころに、絵本を作るという授業があったことを思い出す。添えられた絵は下手だし、文章は稚拙だったけれど、思わず魅入ってしまう。
自分がそれを書いたことが信じられなかった。
そうして大切なものを選び出し、耐えがたい物は買ってきた個人情報保護用の鋏で粉々にして捨てていった。
時間が惜しかったので、機能食品を齧りながら自分の書いた文章を読み耽った。
足元には大量の紙や冊子が積み重なっていく。
「あった…!」
選別作業を始めて一時間も経つころだった。他の書類やノート類が雪崩を起こすのも構わず、それを手に取る。
見覚えのあるノートの表紙。
捨てられていなかった。少し埃を被り、古書に近い、甘い紙の匂いがする。
それは日記だった。一体いつ、何を書いたか、自分でも覚えていなかった。
胸がどくん、どくん、と早鐘を打つ。掌に汗が滲む。少し呼吸が苦しい。
震える手で表紙を捲った。
『未来のぼくへ』
心臓を鷲掴みにされたような気がした。
最初のページは、何かの液体に濡れたのか、字は滲み、紙はごわついていた。
書き出しはこうだった。
『もう、どうしてもたえられないので、日記をかくことにしました。こんなことを言ってはいけないと分かっていますが、死にたくて、生きている意味がなくて、どうしようもありません。いつ自分で死んでしまうか分からないので、言いたいことをここに書いておくことにしました』
『すごく不甲斐ないのはわかっていますが、未来のぼくなら、今のぼくを母さんや他の人のように怒ったり、笑ったりしないとおもったので、ここにそれを託します』
『ぼくには、だれも話をきいてくれる人がいません。言うことが怖くてしかたありません。だから、もしもまだ生きていたら、ぼくの話を聞いてください。多分、聞いてくれると、信じています。いやだったら、読まなくてもいいです。』
『未来のぼくへ。まだ、生きていますか。今、幸せですか。母さんと父さんと、仲良くできていますか。』
『僕は今とても苦しいです。ただただ、毎日苦しいです。母さんが、毎日ぼくを怒ります。』
『学校に行きたくないです。学校にいると、みんなで遊ばなくちゃいけないので。今日もドッジボールで、同じチームの人にへたくそだと怒られました。』
『この間は、本を没収されました。』
『今日、××くんに辞書をぐしゃぐしゃにされました』
『母さんに施設に置いていかれました。すごく怖かったです』
『僕は反抗的でしょうか』
『苦しい』
『最近、父さんと母さんが毎日喧嘩しています。基本的に冷戦状態で、突然戦争が起きるような感じです。自分の部屋に帰ろうとすると、母さんに怒られます。長男なんだからちゃんと家族のことに向き合えと言われました』
『父さんにまで怒られました』
『今日もバイオリンのことで母さんに怒られました。母さん曰く、僕が真剣に取り組まず、反抗的な態度をしているのがいけないらしいです。真面目にやれば、上手くなるのだと何度もきつく指導されました。母さんは一度もバイオリンを弾いたことがないのに。このままではバイオリンどころか音楽が嫌いになりそうで、悲しいです』
『憎い』
『今日、ついに飼い犬が死んでしまいました。僕が殺したようなものです』
『僕はやっぱり無能でしょうか。社会不適合者なのでしょうか』
『この先、どうやって生きていったらいいですか』
『悲しい』
『どうしたら、楽に死ねますか』
耐え切れず、顔を覆った。
涙が溢れた。指の隙間から、嗚咽と、か細い悲鳴が零れ落ちた。
「…ごめん」
ごめん。ごめんよ。僕は何も変わらなかった。変われなかった。昔の君から、何一つだって変わらない。大人になっても、何も変わらなかった。
窒息しそうなほど生々しい過去の記憶に溺れる。決壊した感情が爪の先まで流れ込んで沸騰した。痛くて、苦しくて、あまりにも悲しかった。
それでも、過去の自分に感謝した。
そこには僕の苦しみがあった。憎しみがあった。恨みがあった。悲しみがあった。かけがえのない、生きた魂がそこにあった。
ありがとう。ちゃんと、ここに仕舞っておいてくれて。
きっと、母さんにも、父さんにも、幼馴染にも、親戚にも、先生にも、知り合いにも黙って、たった一人で必死に隠しておいてくれたんだろう。そうでなければ、きっと笑い種にされて、捨てられてしまっただろうから。
やっと、全部思い出した。
ガチャン。
鍵の開く音がした。
両親が帰ってきたのだろう。マダムがさっと浮かび上がった。綴はそれを見て静かに頷いた。
もう、いいよな。僕も、過去の僕も、もう充分頑張ったはずだ。
過去の自分のところへ飛んで行ってやりたかった。「ありがとう」と言いに行ってやりたかった。頭を撫でて、思い切り抱きしめてやりたかった。
大丈夫だよ。僕だけじゃなかったんだ。ただ生きていくことが苦しい人たちが、たくさんいたんだ。
僕は間違っていなかった。
胸の内の霧は晴れた。
やるべきことは決まっていた。目当ての荷物を全てリュックへ放り込むと、綴はゆっくりと立ち上がった。
マダムが何かを察知したのか、すばしこく飛んできて、綴の前に出る。
「まさか、アリーのことも洗いざらい吐くつもりじゃないでしょうね」
綴は頭を左右にゆっくりと振り否定した。
「はは…そんなことしたら僕も居場所がなくなっちゃうじゃないですか。大丈夫です、ちゃんと約束は守りますから。黒田さんの存在は伏せます。色々あったし怖いと思ってはいるけど─やっぱり、黒田さんは僕の恩人ですから」
手にしたノートを眺める。
そう、彼がここまで僕を導いてくれた。
なによりも尊い自分の魂が知らぬ間に粉々になっていたことに、僕は気が付くことができたのだ。
「でももう、自分の気持ちくらいは、ちゃんと言っておきたいなって」
日記の表紙の埃を払い、綴は眉を下げて笑った。
「…そう。なら私は事の顛末を見守らせてもらうわ。アリーに報告しなくちゃいけないしね」
マダムは窓辺のカーテンに包まり、身を隠した。
その直後、どたどたと喧しい足音を立てて、綴の両親が階段を上ってきた。
「綴!お前、どこに行って…!たった今警察署に捜索願いを出しに行ったところだぞ」
「どういうつもりなのか説明してよ…!こんなに心配かけて!」
心配。それは自分の装飾品を無くしたことに対する心配のことだろう、母さん。
ぜえぜえと息を切らして叫ぶ両親に、綴は笑いかけた。それは、拒絶の意味を込めた愛想笑いだった。
綴は一度深呼吸をした。
「”僕の人生は、自殺したいという願望を払いのけることだけに費やされてしまった”」
「…は?」
父がぽかん、と口を開けた。
母の目が、まるで幽霊でも見たように見開かれている。
その様子が少しだけ可笑しくて、苦笑してしまう。宇宙の言語でも聞いたような顔、とでも言うのだろうか。到底理解できない、という表情だった。
母さん、これはそんな不気味なものじゃないんだよ。すごく、美しいものなんだ。僕はずっとずっと昔から、こういう詩が好きだった。物語が好きだった。美しい言葉を何より愛していた。
綴は口を開いた。
「…母さん、僕はあの日、自殺しようとしたんだ」
両親が息を呑んだのが伝わる。母親の手が震えていた。
「今まで育ててくれたことは感謝してる。傷ついたことは沢山あったけど、それでも僕は暴力を振るわれたことはなかったし、本当に、有難いと思ってる。こんな出来損ないでも、経済的に困ったことはなかったし、衣食住も惜しみなく与えてもらえてた。子供を育てるってやっぱり大変だと思うし…本当にありがとう」
両親は硬直したままだった。
自分の話が両親に理解してもらえているのかは疑問だったが、綴は構わず一人で話を続けた。
「気にくわないことも沢山言ったし、した。沢山迷惑をかけた。毎日泣いてばっかりで散々困らせた。勉強以外では、母さんの期待にはほとんど答えられなかった。バイオリンは上手くならなかったし、体力もつかなかった。こんなにも恵まれた環境だったのに、結局なにもかもだめにした。…けど、ごめん─もう僕は母さんのことも父さんのことも許せない」
熱いものが頬を伝う。喉が詰まり、声が出しづらくなる。
「昔、小学生のころに僕が国語のテストが良くできたって、自慢したことあったよね。今でもよく覚えてる。そのときは凄く誇らしくって、どんな風に褒めてもらえるのかなって、その日だけは嬉しくて、学校が楽しかった。先生にも褒められて、きっと母さんも褒めてくれるかもしれないって、思ってた」
綴は拳を握りしめる。
「帰ってきて、母さんにそれを見せたんだ。そしたら、日本人なんだから国語はできて当たり前でしょって、笑ってた」
僕は、自分の魂を自分で殺すように仕向けられた。
「それよりもまだちゃんとできてないことをできるようにしなさいって。それが悔しかったから、父さんに助けを求めた。そうしたら、母さんと同じことを言われた」
涙は流れ続ける。言葉は溢れ続ける。
「昔のことをよく思い返してみたら、僕は文章を書くことが好きだった。だから作文は一生懸命やっていたし、国語の勉強ばっかりしてた…けど、母さんにはそれを止められてた。そんなのみんなできて当たり前だって。作文に文字を書く仕事がしてみたいって書いたら、父さんにもそんなのお金にならない、生活できないんだからやめなさいって。国語辞典が好きだったけど、それも取り上げられた。それは凄く嫌だったけど、他の科目を勉強していい成績をとったら、母さんも父さんもすごく喜んだから…段々、国語の勉強はしなくなっていった。自分が、本を読んだり、言葉を味わったり、文章を書いたり…そういうものが好きなんだって事を、つい最近まで忘れてたんだ」
「それが、どうしても許せないんだ」
涙が床に落ちて、パタパタと音を立てた。
「…そんな、だって、そんなことで─」
母親の言葉を遮り、綴は首を振った。
「ごめん。金輪際、僕に関わらないでほしい」
さっとリュックを肩に掛け、木偶のように立っている両親の傍を通り過ぎる。
母が手を伸ばしてきたけれど、それを振り払った。
そんなに強く振り払ったつもりはなかったけれど、母親はよろけて床に尻餅をついた。
父親が何か言うのを無視して、階段を駆け下りた。
綴は家を出た。そして逃げるように全力で走った。重い荷物を背負ったまま、ただ意味もなく走った。
涙が止まらなかった。
次第に呼吸が苦しくなって、すぐに走るのを止めて歩いた。
いつの間にかマダムが隣に現れ、綴の歩く速度に合わせて羽ばたいている。
息苦しい。
ふと、綴は通りかかった公園の前で立ち止まった。人は誰もいない。
ふらふらと崩れるようにベンチに腰をかけた。
そういえば、小学生のころはよくここで遊ぶように言われたんだっけ。
見覚えのある遊具がいくつもある。
─懐かしい。
もちろん、僕にとっての”懐かしい”とはその時代への憧れとか、慈しみとか、その時代へ戻りたいという意味ではなくて、大抵の場合は過去の悪夢を反芻しているときに湧き上がる苦い感情のことだ。
目の前に実物の遊具があるだけに、生々しく脳裏に思い出が蘇る。
遊具で遊ぼうとしたら押しのけられたこと。鈍くさいから仲間に入れない、と言われたこと。公園で遊ぶのが嫌だと言ったら、「どうしてみんなと仲良くできないの」と怒鳴られたこと。
思い出すのはそんなことばかりだ。
ぼんやりとしていると、目の前を犬を連れた母子が通りがかった。その母親は、綴を見るなり狂人でも見たかのように怯えて、犬と子供を半ば引っ張るようにしてすぐにいなくなった。
そういえば、いきなり犬を買い与えられたこともあったっけ。
早死にしてしまった、昔飼っていた犬のことまでも思い出してしまった。
涙が溢れる。
どうしようもなく、悲しい。
何度も喧嘩して、それでも何度も手をとって、一緒に生きてきた、たった一つの僕の家族だった。それなのに。
どうして、上手くいかなかったのだろう。
一体、どこで何を間違えたのだろう。
お前が嫌いだと罵倒できたらよかった。
他人なら関わらなかった。
自分を産んだ母親。育てた父親。
どうしようもなかった。
母が怖かった。
父が怖かった。
人が怖かった。
何もかもが怖くて仕方なかった。
何度も怒られた。
何度も笑われた。
誰も認めてはくれない。
誰も守ってはくれない。
誰も労ってはくれない。
誰も慰めてはくれない。
誰も愛してはくれない。
どうしたら怒られずに済むだろう。
どうしたら嗤われずに済むだろう。
認めてもらうには、どんな努力がいるのだろう。
守ってもらうには、どんな努力がいるのだろう。
労ってもらうには、どんな努力がいるのだろう。
慰めてもらうには、どんな努力がいるのだろう。
愛してもらうには、どんな努力がいるのだろう。
そんなことばかり考えていた。
きっと、いつか。
ずっとそう信じてきた。
心のどこかでは気がついていた。僕の家族は、どこか可笑しいということに。
きっと自分ががんばれば。
自分の努力が足りないから。
自分が我慢すれば。
必死に生きてきたつもりだった。逆立ちしてみんなと同じように歩こうと、必死だった。できる振りをして、取り繕って、嘘をついて、無理に笑って。時折泣き出す自分の中の子供の首をぎりぎりと絞め上げた。その声が僕の外に漏れ出して、誰かに聞かれてしまうことのないように。
家に帰りたくなくて、公園の周りをぐるぐる回っていた日があった。
外で勉強するのだと偽って、夕日を眺めて泣いたことがあった。
野良猫に話しかけながら泣いた日があった。
それでもあんまり遅くに帰ると理由を説明しなければならなかったから、怪しまれないように、涙を圧し殺してから帰らなくてはいけなかった。
雨にうたれて風邪をひいた日があった。それを自己責任だと責められて泣いた日があった。
何一つだって忘れていない。
それでも不安になる。
人は自分でも知らぬ間に、自らの人生を物語にして、偽の記憶を創り出してしまうらしい。
春香の涙を思い出す。自分だって、彼女と同じように自分の物語を作り上げてしまうかもしれなかった。
どこまでが本当だろうか。どこまでが事実で、どこまでが自分の妄想だろうか。どこにもそれを証明してくれるものがない。殴られた痕も、切り付けられた傷も無い。誰にも、証明できない。例え、両親に確認したとしても、白を切られたらそれでおしまいだ。
誰もこの苦痛を認めてくれるわけがなかった。たった一人、黒田を除いては。
それでも今、僕が苦しいというこの想いだけは本当だった。
毎日部屋の隅で声を殺し、啜り泣いた日々は紛れもなく本当だった。
つかの間の夜と朝を繋ぎ、枯れ果てて、それでも必死に生きてきたことだけは、本当だった。
この魂の歪さだけが、僕の悲しみを証明してくれる。
悲しい。
苦しい。
辛い。
憎い。
寒い。
痛い。
どこまでも虚しい。
どれだけ泣いても涙が止まらない。
初めて、大声を上げて泣いた。鼻水を垂れ流しながら、無様に泣いた。
辺りが暗くなっていく。どうしていいか分からなくて、ただ膝を抱えて泣き続ける。
ふと顔を上げ、綴は目を見開いた。
「黒田さん…?」
青紫の燐光が弧を描く。
沈む夕日を背に、黒田が前方に立っていた。秋の風に、彼の透き通るような黒髪が靡く。
黒田の背後に、見覚えのある車が停まっていることに気が付いた。運転席の中から大庭が手を振っていた。
黒田がゆっくりと歩いてきて、綴の目の前に立った。影が伸び、綴を覆い隠す。太陽は隠れ、見えなくなった。
「おかえり、エーデルワイス」
黒田がそう言って微笑んだ。
ああ、この人の在り方を優しいと言わずして、何を優しさと言うのだろう。
どうしようもなく悲しい時に、手を差しのべてくれるのは。誰もが見て見ぬふりをする、この悲しい世界で、たった一人彼だけが手を差しのべてくれた。
どんな毒も、誰かにとっては命を繋ぐ薬になるんだと教えてくれた。
「ただいま、ブルーマロウ」
青い瞳を見つめ返し、綴は精一杯笑った。
大庭はバックミラーで、後部座席にいる綴の姿を確認した。
「深谷くん寝ちゃったねぇ。このバブちゃんめ」
「本当だね。俺の背中に乗って泣いていた誰かにそっくりだ」
「あー!その話はなし!」
一瞬、黒田と出逢った時のことを思い出し、大庭は不貞腐れた。
「ほんと、黒田くんは人がぼろぼろになってる時に限って嬉しそうだよね」
嫌味のつもりだったが、黒田はただ愉快そうに笑った。
「当然さ。悲しいものは美しい。美しいものは悲しい」
「まあ、深谷くんが人の庇護欲かきたてるってのは分かる気がするけどね。年上に好かれそうだし。扱い易そうだもん」
適当に茶化しながら鏡越しに黒田の手の動きを盗み見る。
まったく、何を見せられてるんだおれは。
黒田はこっそりやっているつもりらしいが、大庭は黒田がしょっちゅう綴の髪を触っているのを知っていた。
─春香ちゃん、だめだよこりゃ。
大庭は今はもう廃人と化しているであろう春香に心の中でそう告げた。
彼女も哀れな人だ。
男も女も、黒田に恋愛的な意味で想いを寄せる組員は少なくない。
それは仕方ないことだと大庭は思う。
黒田は決まって、その人が最も悲しい思いをしている時に現れる。まるでその時を待っていたかのように、完璧な瞬間に現れて手を差し伸べる。そこに現れた黒田の姿は、なんと神々しく見えたことだろう。
かつて大庭も、黒田にこうして手を差し伸べられた。
嫌味なくらい、よく晴れた日のことだった。
いつもと同じように会社に通勤しようとして、『なんか嫌だな』と思った。電車の到着を知らせるアナウンスが聞こえたが、不思議とその内容は聞き取れなかった。電車がごとごとと音を立ててこちらへ向かってきているのが見えた。
『あ、電車』
そう思った時には既に黄色い境界線を越えて歩き出していた。
身体に衝撃が来て、視界は暗転した。
目を覚ましたら病院のベッドに寝ていた。驚いたことに、五体満足どころか怪我らしい怪我は打撲だけだった。
医者や警察が話を聞きに来たようだったが、あまりにも放心していて何を答えたかも覚えていない。
呆然として病院を出たら、文庫本を手にした、異常に美しい男が入り口に立っていて、大庭に微笑みかけた。
『待っていたよ』
それが黒田馨という青年だった。
大庭は黒田に出会うまで、運命などという腹の足しにもならない言葉を毛の先ほども信じていなかったが、黒田との出会いは運命と呼ぶしかないように思えた。
後に黒田がハナバチや裏社会のパイプを使って、それらしい人間に目星をつけていることは分かっていた。後に大庭自身も、その演出をするためにありとあらゆる協力をした。だから、あの瞬間が黒田の計算によって作られたものであると理解していた。
しかし、そうと分かっているはずなのに抗えない。この先黒田が破滅に向かおうとしていると、頭では理解しているのに惹かれてしまう。
『俺にその命を預けてみないかい』。
たったその一言で救われてしまった。
冷たい常識と自己責任論に塗れたこの世界で、たった一人黒田だけが手を差し伸べてくれた。
その借りはあまりにも大きい。
カナリアにいる者は皆黒田に手を差し伸べられた人間だ。黒田に恩義を感じこそすれ、嫌う人間などいない。いるわけが無い。ただ一人、煌だけが黒田に噛みついているが、あの少女ですら黒田に逆らうことはしなかった。
「黒田くんはさ、ぶっちゃけ深谷くんのこと、どう思ってんの」
差し込む夕日に照らされる綴の白髪は、まるでガラス細工のようにきらきらと輝いている。無遠慮に触れようものなら、簡単に壊れて風に攫われてしまいそうだった。
そんな綴の顔を黒田が覗き込んでいる様は一枚の絵画のようだった。
美しい。だからタチが悪い。心底そう思う。
「魂の片割れ、かな」
しばらくの沈黙の後、黒田は静かにそう言った。
「ずっと探していたんだ。きっと彼なら、俺の悲しみを映し出してくれる」
「ふーん」
こんな男に魅入られてしまった綴を気の毒に思う。
これは大庭の勘でしかなかったが、恐らく大庭や綴が想像している以上に、黒田はどす黒い何かを抱えている。煮詰められたジャムのように、彼の奥底で沸騰し、どろどろとこびりついている何かがある。そしてそれが黒田の生い立ちそのものであると大庭は予感していた。
大庭は黒田の特殊な生まれと素性について、黒田本人から、そして一部の裏社会の人間から聞いている。
黒田が恐らくは、自分と同じように、人間社会そのもの、特に親という生き物を憎んでいるらしいことは分かっていた。しかし肝心の、彼の奥底で煮え滾る感情が、一体どこからどうやってきたものなのかは知らなかった。
『ずっと探していたんだ』
黒田は自分の過去全てを受け入れてくれる存在を吟味しているような節があった。黒田の言葉通りなら、彼の全てを浴びせかけようとしている相手は─
その相手を見つけてしまった今、黒田は確実に破滅に向かって突き進むだろう。計画は既にずっと前から動き出している。恐らくは次の春、全てが終わる。
大庭を含め、この組織の人間は皆来るべき時に向けて、覚悟をしている。
黒田がこのクソッタレな世の中に、どんな爪痕をのこしてくれるのだろうという期待が半分、自分にはもはや生きる理由がないという諦めが半分で、今まで辛うじて生きてきた。
綴だけはこの組織で例外だ。不運にも
大庭は綴のことを心配していた。大庭は綴の保護者ではなかったけれど、彼がこの先どういう選択をするのか、自分には見守る義務があるような気がした。
「そろそろ着くけど─」
信号が赤に変わった時、そこまで口にして大庭は後部座席を振り返り、笑った。
「ほんと、君ら仲良しだね」
そこには、互いに寄りかかり合ったまま眠る黒田と綴の姿。
普段は車内で横になって呻いている黒田も呼吸が穏やかだ。
「まったく、しょーがねぇなあ」
二人を起こさないように、大庭はくつくつと喉を鳴らした。
仕方ない。仕方ねえよな。何せおれたちには居場所がない。選択肢がない。おまけに時間もない。
最後どうするかはそれぞれが決めることだ。他人がとやかく口を挟むものではない。
「ま、今はお兄さんに任せておねんねしときなよ」
大庭は鼻歌を歌いながら、アクセルを踏んだ。
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