第13幕 Madonna Lily
「確かに受理しました。…お大事にしてくださいね」
「ありがとうございます」
ほっと息を吐き出す。
綴から書類を受け取った受付の女性が、気の毒そうに笑いかけた。
この日、綴は休学届けを提出しに、何か月ぶりかに大学へと赴いていた。その事務手続きが無事終わった。これで、一先ず残りの半年間は、猶予が出来た。
事務室の外に出る。
久しぶりに聞いた大学の喧騒が、随分と喧しく感じた。
本来ならばまだ夏休みの期間なのだが、サークル活動や大学の施設の利用目的で学生の数は案外多かった。
ぼんやりと、建物の影の中から群像を眺める。行き交う学生は誰も綴を気にせず、通りすぎていく。
自分だけが、思念だけの幽霊になって現世を眺めているようだ。もし、本当に自分が死んだとしても、きっと世界はこうして何も変わらずに流れていくのだろう。
未練は殆どない。あるとすれば、自分の手記─もとい遺言書を完成させることくらいだ。
相変わらず自室と花屋を往復する日々に兆した、たった一つの望み。
具体的に死を意識するとき、不思議と、自分の抱え込んだ物事を、誰かに知っていてほしいと綴は思い始めていた。そう思い立ち、以前黒田に預けた遺言書を書き直すことにしたのだった。
この遺言書の執筆は、気分にとてもいい効き目があった。紙の上であれば、人に読ませない限りどんな感情も咎められることは無い。心の奥底に凍り付いていたあらゆる負の感情が溶け出し、涙と言葉になって流れ出ていった。
文字にしてはじめて、綴は自分の心情の在りかを知った。自分が何が好きで、なにが嫌いで、どんなことが悲しかったのか。あの時、本当は何を言いたかったのか。
僕の場合、人との会話の最中というのは、最適解の選択に明け暮れていて、自分の気持ちを顧みる余裕などほとんどなかった。本当に言いたいことが思いつくのは、いつだってその会話が終わった後の夜、布団を被ってからだった。
その時の悲しみや苦しみや憎しみを、今になって取り戻そうと、がむしゃらに、紙とペンにしがみつく。
無意味だ。確かに非生産的であることは承知だ。その時間でもっと何か別な、生産的なことを行えばいいという意見も理解はできる。しかし、僕の喜びとは、”書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷を下ろすことにある”のであって、書かずにはいられない、というだけの話なのだ。せめて、せめて紙の中では、これ以上自分の気持ちに嘘をつきたくはなかった。
そんなエゴの羅列を託す相手は、黒田しか思いつかなかった。それでも、託そうと思える人がいる。綴にはそれで十二分過ぎた。
彼の部屋で手記を書いた日以来、何度か書いた詩や手記をきまぐれに黒田に渡したことがある。その度に黒田は酷く喜んでいるらしく、事細かに、そして熱烈に綴の描いた詩を讃嘆した。自分でも表現しきれなかった、無意識下の魂の動きまでも考察し、関連した心理学の研究書や、「君が好きそうだから」と、知らない作家の本を勧めてくれたりした。それによって綴は、自分の言葉に水が注がれ、瑞々しく芽吹くような感覚を覚えた。
言葉はとめどなく溢れて、尽きることを知らなかった。
今となっては、それだけが生きる
どれくらいぼんやりしていただろう。
ふと、人の視線を感じて、意識が現実に引きずり戻された。やはり、頭に視線を感じる。一点の曇りもない白い髪は、やはり人の目を惹くらしい。暑くて羽織っていたパーカーのフードを脱いでいたのが災いしてしまった。
視線の主を探す。
近くに、4人の学生が固まって話をしていた。男子学生が二人、女子学生が二人。
その学生たちが、チラチラと綴を見ながら笑っている。クスクスという女子大生の声。からからという男子学生の声。
背筋がひやりとする。相変わらず、内容の聞き取れない会話や人の笑い声は苦手だ。早く遠ざかるつもりで、歩き出した時だった。
「あの!もしかして…
「えっ…!?」
名前を呼ばれ、綴は思わず振り返った。
声をかけてきたのは四人組のうち、一人の女子学生だった。
「あ、やっぱりそうだ!凄い久しぶりだね」
内側に巻かれた黒髪が揺れる。女子学生はにこにこと笑う。
記憶の糸を辿るが、一向にその学生と自分の繋がりを思い出せない。
非常にまずい状況だ。相手は僕を知っていて、僕は相手の名前と顔が分からない。
「あれ、もしかして私のこと忘れちゃった?刑法の講義で一緒だったんだけど…」
「あ、ああ…!あのときの…」
そうだ、思い出した。確か、同じ授業で一緒に課題に取り組んだ学生だ。大学生になってまで付いて回る
「
「うん、ごめん!ちょっと先に行ってて!あとで合流するから!」
百合、と呼ばれたその女子学生は、他の三人にそう声をかけ、手を振った。やっと名前までは分かったが、肝心の苗字は最後まで思い出せなかった。
綴は、こちらに向き直ったその女子学生─百合に頭を下げた。
「ご、ごめん、その、本当に申し訳ないんだけど、人の顔と名前を覚えるのは苦手で…改めて名前、聞いてもいいかな」
む、と不満そうに顔がむくれる。一度一緒に課題をやった相手の名前も覚えていなければ、そりゃあ怒られる。
しかし、百合の表情はころりと笑顔に変わった。
「そんな真っ青にならないでよ。怒ってないからさ。改めて、
「よ、よろしく」
屈託のない笑顔がまぶしい。
ふと、自分の周りに感じる視線。視線。視線。それに百合も気が付いたらしい。百合が機転を利かせ、歩きながらこう言った。
「ちょっと場所、かえよっか」
人の少ない場所で話をしたいけれど、どこかいいところはないか、と言われて、綴はとっさにいつも自分が昼食を食べていた場所へと連れていった。そう、黒田に出逢い、共に腰かけたあのベンチに。
「東さんって有名人?」
綴は途中寄った学食で買ったアイスコーヒーを飲みながら、同じく学食のベーカリーで買ったメロンパンを頬張る百合に問いかけた。
先ほど感じた視線には、自分だけに注がれるものとは全く異質なもので、好奇ともいうべきものだったような気がする。
有体に言うと、彼女が大変な美人なのだ。それはもう、人が思わず振り返ってしまうくらいの。
艶々と、よく手入れされた長めの黒髪と、垢ぬけたインナーカラー。大きな瞳。清潔感のある白い服装。すらりとした身体。そして控えめに香る香水の匂い。
モデルだと言われても納得ががいくほどの容姿を持つ彼女と僕とが並んでいたから、人の注目を集めたのだろうと思ったのだ。
隣に座る百合がメロンパンを飲み下し、口を開く。
「私は全然だよ。有名人なのは深谷くんのほうでしょ?」
「へっ?」
思わず間抜けな声が出る。
「知らないの?深谷くん、法学部内では結構噂すごいよ」
飲み込もうとしたアイスコーヒーが気管に入りかけ、綴は盛大に噎せた。
「う、噂って…?」
「いっつも一人で前の方に座ってるし、誰とも一緒にいる姿を見たことないって。しかもすごい数のノート持ってるでしょ?私もすごくミステリアスな人がいるなーって思ってたの」
「そう、だったんだ」
多分、彼女はかなりオブラートに包んで言ってくれているような気がする。そんな噂をもっと端的に、学生風に翻訳すると『ガリ勉のクソ真面目なぼっちがいつも教室の前にいて可哀想』と言ったところか。
前の方に座っているのは、大抵の学生が後ろの席を陣取っているから、居場所がなくて前に来ているだけだ。それが自分が思っていた以上に、人には異質に見えたのだろう。
出きるだけ目立たないように過ごしていたつもりだったのに、そんな噂が流れていたことは知りたくなかった。もっと酷い噂が流れていた可能性を考えると、思わず地面にしゃがみこみたくなる。
「凄いしんどそうな顔だけど…もしかして悪口言われてると思ってる?」
「え?あ、いや、……うん」
「違うの、悪口じゃなくて。深谷くんからノート借りた人が、深谷くんのこと、凄いなぁって言ってて。実は私たちのグループもこっそりノート見せてもらったら、教科書みたいに内容が纏まってたからさ。先生の話、基本解りづらいでしょ?これだったら深谷くんに聞いたほうが分かりやすいんじゃないか、って、みんな絶賛してたの。ノート借りたヤツなんて普段真面目に講義受けてなかったのに、ノート貸してくれるなんて優しいよねって。けど、みんな深谷くんに話しかけに行く勇気なくて、ちょっと遠巻きに観察してたっていうか」
確かに、彼女の言う通り、人に何度かノートを貸したことがある。
特に民法や刑法の講義の試験期間になると、何故か綴に頭を下げに来る人が少なからずいた。断る理由もなかったから、貸してコピーを取らせることもあったのだ。
彼女の話を疑うわけではないが、自分に人からいい評価がされたという話は甚だ信じ難かった。
「だから、今ちゃんと深谷くんと話せてちょっと嬉しいなって」
本当に、心の底から嬉しいと言わんばかりに百合が笑う。
ふと、百合の視線が逸れて、自分の髪に注がれていることに気が付く。
「やっぱり髪、気になる…?」
「うん。前は染めたりしてなかったよね?イメチェン?」
「まぁ、そんなとこかな…」
「いいんじゃない?似合ってると思うよ。そんなにキレイに白くできるなら私もやってみようかなぁ」
百合が自分の髪の毛を太陽の光に翳す。
よく手入れされた黒髪が、さらりと指先から滑り落ちていった。
こうして見ると、黒田の髪は真っ黒ではないんだな、などと場違いな考えが頭をよぎった。
「…あんまりおすすめはしないよ」
そう、思わず苦笑いをする。
きょとん、と不思議そうな顔をする百合。
彼女は凄く綺麗だった。誰にでも気さくで、よく笑う。綴が認識している限りでは、講義もかなり真面目に受けており、単位を落としたという話もついぞ聞かない。気取ったところもなく、その人徳故か、彼女には沢山の友人がいた。そして恐らく、その中には彼女に想いを寄せる人もかなり沢山いる。
そんな彼女の近くに自分のような人間がいたら、「調子に乗るな」と言われるに決まっている。
無性に、ここから逃げ出したくなった。
「ごめん、これから用事があって…」
「用事?バイト?」
「あ、うん」
言葉が勝手に滑り出る。話せば話すだけ墓穴を掘ることは分かっているのに、口が動いてしまう。
「そっかぁ。じゃあ急がないとね。なんのバイトしてるの?」
「えっと、その、花屋で…」
ぱあっ、と百合の顔が輝く。
「凄い!」
「え?」
「花屋でバイトなんて格好いいなー!でもちょっと意外だったかも。家庭教師とか向いてそうなのに。前試験対策の解説してくれた時とか、凄い分かりやすかったもん」
「…そんなことないよ」
「ねぇ、今度深谷くんのバイト先に行ってもいい? 」
身を乗り出して、手を掴まれる。緊張が伝わるようで、綴はそっと自らの手を引き抜いた。
「えっと、それは…」
連れて行ってもいいのだろうか。単純に表の客として案内するならば、何も問題ないはずだが、黒田の迷惑になるのは避けたかった。
しかし、かといってここで断ったら、その理由を聞きたがるだろう。ひいては後ろ暗い仕事場だと思われるかもしれない。それは絶対に避けねばならない。
「その、なんていうか、東さんが期待しているような場所じゃないかもしれないよ?」
「そんなのいいよ、私が深谷くんの職場を見てみたいだけだから。都合のいい日はある?合わせるよ」
「えっと、じゃあ明後日の15時ごろとか、平気?その時間だったら仕事も落ち着いていると思うんだ」
「了解!じゃあまたよろしくね。バイト頑張ってね!」
スマートフォンのカレンダーに予定を登録すると、手を振って去っていった。
百合の姿が見えなくなったところで、綴は大きく息を吐き出した。
まだ鼓動が早鐘を打っている。予見できない知り合いとの邂逅に疲弊していた。
「マダム、黒田さんに事情を伝えてもらえますか」
綴は声を落とし、リュックのポケットの中にいる花蜂─マダムに声をかけた。
布の間からマダムがほんの少し顔を出す。
「大丈夫よ、もう伝わってるわ」
「え?」
マダムはそう言ってまたポケットの中にひっこんだ。とはいえ心配だったので、念のため黒田に連絡を入れた。怒られるかとも思ったが、あっさり了承された。
約束の日、緊張のあまり待ち合わせの時間より30分も早く駅に来てしまった。
百合が改札から現れた。約束の時間の、きっちり5分前だ。
「ごめんね、待った?」
今来たところ、と綴が言うと模範解答だと言って百合は笑った。
「こんなところに花屋があるんだ。隠れ家みたい」
花屋の前に着くと、百合は感心して入り口を眺めた。真っ赤なバラが絡んだガーデンアーチを潜り抜け、庭を通る。いつものようにドアを開けると、黒田が綴と百合を出迎えた。
「いらっしゃい。君か、綴の同級生というのは」
「初めまして、こんにちは」
黒田がじいっと百合の目を見た。百合がふい、と視線を逸らす。
確かに、彼の人の目を覗き込む癖に慣れていないと居たたまれないだろうなと思う。僕はもう慣れてしまったけれど。
「あの、外のお庭が凄く気になったので…先に少し見せてもらってもいいですか?」
「それならせっかくだ、彼に案内をしてもらうといい。綴、頼めるかい」
「あ、はい、わかりました」
庭に出て、百合が深呼吸した。
「大丈夫?体調が悪いとか…」
「ううん。なんていうか、緊張しちゃって」
百合が庭を眺める。
「オーナー、ちょっと雰囲気ある人だね」
「うん、まあね…」
やはり彼の持つ雰囲気に圧倒されているらしい。確かに、あの店の内装の中にいる時の黒田からは、全くと言っていいほど人間らしさが感じられなかった。
「私、何かいけないことしちゃった?」
「そんなことないと思うけど…なんで?」
「…なんていうか、敵意っていうのかな。ちょっと威圧感あるなって…いや、ごめん。忘れて」
そんなことよりも、と百合に花の説明をせがまれ、軽く説明して回ることにした。これはローズマリー、ドクダミ、アロエ。それからキイチゴ、クランベリー。百合は無邪気に草花の名前を聞いて、そのたびに感心して頷いた。特に花言葉には随分興味があったようで、綴を図鑑代わりにして大いに楽しんでいるようだった。
「深谷くんなら私にどんな花を選んでくれる?」
庭を眺め終わったころ、徐に百合がそう尋ねてきた。
「え?えっと、そうだな…」
ここでどう回答すべきか。そのヒントを探るために、庭の花を見渡す。しばらく視線をさ迷わせ、また百合と視線が合った。
「……百合、かな。安直かもしれないけど、やっぱり名は体を表すって言うし…似合うと思うよ」
百合が少し目を見開いて、それから顔を赤らめた。
「深谷くんってそんなキザな台詞言えるんだね。意外」
そう言われて、急に恥ずかしくなってくる。頬が熱い。口を滑らせてしまった。多分、歯が浮くようなセリフを毎日のように言っている人が近くにいるせいだ。完全に毒されている。
黒田のような人がそう言うならまだしも、自分がそんなセリフを口にするなんて勘違い野郎もいいところだ。綴は羞恥を堪え切れず、地面にしゃがみ込んで頭を抱えた。
「ご、ごめん、いやだったよね…本当にごめん…忘れて…」
「やだ。忘れてあげないもんね」
にっと笑う百合はどこか嬉しそうだ。
羞恥で真っ赤になった顔を、百合が覗き込む。
「深谷くんって実は結構美形だよね」
「それはない、と思うけど…」
百合にじっと顔を凝視され、綴は思わず顔を背けた。
「ふふ、照れちゃって可愛い。もっと自信持ってもいいのに」
それができていたら、この様にはならないよ。
口には出さない。ただありがとうと言って無理に笑った。
結局、この日彼女は百合の花を一輪買っていってくれた。
そのさらに数日後、百合からお茶をしに行かないかと誘われた。少し話をしたい、と言われ、彼女が予約してくれたカフェのテラスで話をすることになった。少し雑談をしてから、百合は少し姿勢を正し、こう言った。
「深谷くん、気を悪くしないでほしいんだけど…あのオーナー、やっぱり少し怖いよ。ずっと顔が笑顔のままなのに、目が怖いっていうか…ありきたりな言葉だけど、闇を感じるっていうか」
「確かに、浮世離れしてる人だとは思うけど…」
「あと店の中、不思議な匂いとかしなかった?それに視線を感じるような気もしたし…まさかあそこ事故物件とかじゃないよね?」
冗談混じりに百合がそう尋ねる。幽霊でもいるのじゃないか、ということだろう。
「事故物件かどうかは分からないけど…多分、置いてあるものが物々しいからじゃないかな?蛾の標本とかは僕も正直少し怖いし…」
口で物々しい、とは言ったが、悪い意味で言ったわけではない。蛾はともかく、ああいう雰囲気は好きだった。錬金術師が使うみたいな、金の天秤。試験管。フラスコ。ハーバリウムやストームグラス。未知で、妖しく、不思議で、陰鬱だが、同時にそれは美しい。”美しさとは畏敬だ”。これも黒田がよく口にする言葉だった。
「…そっか、ごめんね、深谷くんの職場なのに悪く言っちゃって」
「いや、大丈夫だよ」
百合はまだ少し納得しきれないのだろうと思う。しかし、彼女はそれ以上言及するのを止めて、不安そうな表情をひっこめた。
少し良心が痛む。彼女が嗅ぎつけたことは、一部分は合っている。確かにあの花屋はただの花屋ではなく、自殺志願者に死を引き渡すための拠点だ。そしてその契約に関わる人や金や物が出入りする秘密の社交場でもある。
彼女が感じた不思議な匂いは、普通の花屋では決してお目にかかれない毒花たちの持つ匂いと、秘蜜の匂いが混じりあったもののことだろう。そして彼女が感じる視線とは恐らく黒田が使役している、マダム・ヘクサを含めた花蜂たちの視線のことだと思う。
だから、彼女は実質あの花屋が隠し持った真実に気が付いているのだ。しかし、当然それを彼女に打ち明けるわけにはいかない。
「なんていうか…ごめん」
「どうして?」
「なんていうか、ちょっと申し訳なくなっちゃって」
「ううん、私こそ余計なこと言っちゃったから」
百合が少し机に身を乗り出す。瞳が、挑むような色を帯びる。
「一つ、これだけ確認させて。深谷くん、何かされたりしてない?本当に大丈夫?」
「大丈夫だよ。本当に」
多分、彼女は、僕が怪しい組織か何かに巻き込まれているのだと心配してくれているのだろうと思う。
実際、二人が通う大学には宗教団体やキナ臭い組織が忍び込んでいるというのはよくあることだった。毎年、何かしらそういう組織による、表沙汰にできない理由で、数人の学生が姿を消す。
彼女は、僕もまたそういう人間の一人になるのではないかと、心配しているのだろう。
確かに、法に触れるような組織に巻き込まれていることは否定しない。秘密結社『カナリア』が行っていることが、もし摘発されでもしたら日本中を震撼させることになるだろう。
しかし、組員は皆、自分の意思で死ぬことを望み、最後に垂らされる死の雫のために、黒田についていっている。元はと言えば、各々が自分からそこへ入り込もうとしたのだ。
それに、少なくとも自分は決して黒田に隷従しているわけではない。紛れもなく自分の意思で彼について行き、そして自分の意思で死のうとした。
今となってはあの場所が、黒田の存在だけが自分の生きる支柱となってくれていることを、そして、自らの意思で自殺を望んだのだということを、彼女が信じてくれるかどうかは、分からない。ひょっとしたら洗脳されているとでも思われるかもしれないな、と思って苦笑いしてしまう。
全ての真実を彼女に打ち明けられないとしても、黒田の誤解だけは解いておきたかった。
「…いや、まぁ、確かに黒田さんは身長あるし、威圧感あるというか、ちょっと皮肉屋っていうか…腹黒いところはあるんだけど、無闇に怒らないし、仕事も凄く丁寧に教えてくれるし、色々と気づかせてくれるし、凄く…」
優しい人。そう言おうとして、綴は口ごもる。
彼は、優しいのだろうか。前にも少し考えた。優しさ、思いやり、慈愛─どの言葉も黒田に当てはまるようで当てはまらない。
百合が不思議そうに綴を見つめている。
「…その、なんていうか、何事も決めつけたりしないで、人に敬意をもって対等に接してくれる人なんだ。それに大切な友人でもあるし、凄く尊敬できる人だから、大丈夫」
その言葉を聞いて、百合は二度大きく頷いた。
「うん、そっか、それなら良かった」
百合が椅子に深くかけなおした。
「不思議な関係なんだね、深谷くんとオーナーさんって」
「そう、だね。僕にもよくわかんないんだ」
「実は恋人とかってわけじゃないよね?」
「いや、まさか」
どうやったらそんな結論に至るんだ、と思いながらぶんぶんと頭を振る。
百合がふふ、と笑った。
「深谷くん、なんていうか危なっかしいから、気になっちゃって」
「…ごめん」
「もー、謝んなくていいってば。私がそういうの見てて放っておけないっていうか…そうだなぁ、そういうとこが好きなのかも」
褒められているのか貶されているのかがいまいちはっきりせず、とりあえずありがとう、と言おうとしたその時。
「付き合って、深谷くん」
「……え?どこに?」
百合が声を上げて笑う。
「もう、そんな古典的なボケかます?」
涙を浮かべながら大笑いする。鈴の音みたいな、綺麗な声が響いた。
「えっ、と、ごめん」
今さら百合の言葉の意味を理解して自分の不甲斐なさを呪う。
「もういいって。じゃあちゃんと言うよ。私とお付き合いしてください、深谷綴くん」
唖然とする。確かに、彼女の視線だとか、言葉だとか、心当たりはあった。しかし、まさかそんなわけが無いと見て見ぬふりをしていた。
「…なんで、僕なんかと…」
純粋に疑問だった。
「…もしかして、罰ゲームか何かならもうよしてくれないかな─いてッ」
額に小さな痛みが走る。百合の指が綴の額を軽く弾いた。
「言ったでしょ、放っておけないの。それに、やっぱり凄く努力家だし、その姿がかっこいいなってずっと思ってたんだよ?勉強教えるのも凄く上手だし、優しいし。知識も豊富で花のことまで詳しくて、話しててすごく楽しいの」
百合の大きな瞳が、様々な光を取り込んでいる。
「自覚ないかもしれないけど、凄い美形だし。ほら、睫毛も長くて綺麗」
百合の指先が顔に触れそうなほど近づく。
「だから、きっとお付き合いしたら楽しいだろうなって」
照れ笑いをする百合。
記憶の蓋が軋む。
『可哀想でしょ。付き合ってあげなよ』
『うらやましいなー、お前』
『よかったね』
『今どんな感じなんだよ』
『男は甲斐性、でしょ』
数分前に飲み込んだ食べ物が、食道をせりあがってくる。
「ちょっと、店出ようか」
辛うじて飲み込んで、一先ず百合と共に店を後にした。
「答え、聞かせてもらってもいい?嫌だったら断ってくれてもいいよ。…いや、それはちょっと強がりかな、ふられたら結構ヘコむかも」
はっとして、表情を取り繕う。せめて、不安そうに見えないように。
僕が言うべきことはなんだ。
そうだ、こういうときは、正直に自分の気持ちを話した方がいい。無理に付き合うのなんか、長続きするわけがないのだし、返って相手に不誠実だ。はっきり断るべきだ。
ごめん。今、不安なことが多くて。泣いてばっかりなんだ。それに、僕なんかと付き合ってもいいことなんてないよ。多分、すぐに飽きるだろうし。身体は貧弱だし、服のセンスもないし、一緒に出かけたらすごく嫌な気分にさせるかもしれない。そんなにうまくエスコートできるわけでもないし、話も長くてつまらないだろうし。多分、君が思っているより、僕はちっぽけな人間なんだ。期待してたなら、ごめん。本当に申し訳ないけど、実は人と話すのはすごく苦手なんだ。それは君が苦手っていうことじゃなくて、すごく、力がいるんだ、だから頻繁に通話とかも、正直あまりしたくはないし、チャットとかも、たまにならいいんだけど。数分で返信しなくちゃいけないって言われるのは、かなりしんどいんだ。わがままなのは分かってる。そんな自分の都合のいいときだけ話したいなんて…ずるいよね。うん。反論の余地はないよ。だから、多分僕は人とお付き合いするのが向いてないんだと思う。それじゃいけない、人と楽しく話せたらって思うんだけど、それが難しくて。本当に、ごめん。だから、お付き合いは─
「もちろん、いいよ」
百合が、ぱっと顔を輝かせる。涙すら浮かべているのか、彼女の瞳がキラキラと輝いて見えた。
「ほ、本当?嫌じゃない?」
「嫌なわけないよ。…ちょっとびっくりしたんだ。告白されるなんて思わなかったから…すごく嬉しい」
百合が身体に抱き着いてくる。綴はその華奢な、けれど柔らかく温かい背に手を回し、軽く撫でた。
「ふふ、私もすっごく嬉しい」
「その、東さん、なんて呼んだらいい?」
「百合でいいよ。私も綴くんって呼んでいい?」
「いいよ」
ぱっ、と身体を放すと今度は百合の顔が近づいて、綴の頬に触れるだけのキスをした。
「またね、綴くん」
「うん、またね。百合」
その夜、僕は泣いた。
罪悪感のために。そして自分の不甲斐なさのために。
乱雑にひいた布団の上で、延々と鼻水と涙を拭った。マダムが新しいティッシュボックスを運んできて、綴の前に置いた。
スマートフォンのバイブレーションが鳴り、びくっと肩が跳ねる。
『今日はありがとう。これからよろしくね』
涙で歪む視界に、そんな言葉が映っていた。
速く返信しておかないと。
震える指で、文字を打つ。ぱたぱたと液晶に涙が垂れて、指が滑る。
ああ、でもよかった。どれだけ泣いていても、どれだけ陰気な顔をしていても、液晶越しなら弁明の必要はない。いつもより楽に、嘘がつける。
メモのアプリに下書きした文章を3回程読み直して、それをペーストして送信した。
百合の返信を確認してから、おやすみとだけ言って画面を切った。
涙は止まらない。
いつものノートを引きずり出して、紙の中で彼女に懺悔した。
ごめん。ごめん。本当にごめん。
怖かったんだ。嫌な思いをさせるのが。せっかく、勇気を出して好きだと言ってくれたのに、それを無下にするのは。いや、違うんだ。本当に君のことを思うなら、ちゃんと断るべきだった。それなのに、怒られるかもしれないと思ったら、怖くなったんだ。ごめん。意気地無し。そうだよな。
けれど、紙の中ではせめて、僕の言い分を聞いてほしい。言い訳なんか、聞きたくないって言われるのは最もだと思う。だから、許しを請う。
昔、多分、中学生くらいのころだったと思う。ある女の子が、僕を好きだと言ってくれたことがあった。ただ、僕はその子のことをほとんど何も知らなかったし、人と付き合うというのがどういうことなのか、当時あまりよく分かっていなかった。だから、ごめん、と言って断った。その翌日だった。その子の友人だという女の子が、「可哀そうだから付き合ってあげてほしい」と言ってきた。次第に相手が苛立って、それはもう、いろいろと言われた。意気地なしだとか、それくらい男の子なんだから、だとか。結局言い負かされて惨めに泣いて、件の女の子と付き合うことを約束させられた。その後は、同じクラスの男子に茶化されたり、「調子に乗るな」と罵倒されたり、色々あった。
当然、そんなお付き合いは長続きしなかった。告白してきた子も、まさか僕がこんなくだらない人間だとは思わなかったのだろうと思う。しばらくしてから、別れを切り出され、そのまま了承した。罵倒してきた男子生徒たちは、急に僕に対して優しくなった。
ここまで文字にして、綴はシャーペンを置いた。そしてまた、泣きながら眠った。
目はすぐに覚めた。まだ夜の1時だった。
スマートフォンを起動し、『黒田馨』の文字をタップする。
電話が苦手だと言うと、メッセージでのやりとりを許可してくれたのだ。
下書きをして、完成した文を貼り付けた。
『夜分に失礼します。人に自然に嫌ってもらう方法はありませんか』
****************
※注─『Madonna Lily』
マドンナ・リリー。ユリ。『純潔』『清らかな魂』を表す一方、『男根』『嫉妬』『死』のシンボル。花言葉は「純粋」、「威厳」等。
白いユリは聖母マリアの持ち物として、マドンナ・リリーと呼ばれる。
【参考文献】
『月と六ペンス』サマセット・モーム著・金原瑞人訳
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