第14幕 Chocolate Lily
「それで?君はいいの?」
「ま、まぁ…」
スマートフォン越しに、綴が口を濁す。
電話嫌いなはずの綴から、突如電話がかかってきた。
いつもと違う客が来ることは”情報網”によって既に知っていたが、綴の口から改めて説明を受ける。事情を聞けば、東百合という同級生に呼び止められ、花屋を訪ねたいと言われたらしい。
状況から考えて、その同級生は綴に恋愛感情を抱いている、少なくとも好意を持っていると考えるのが妥当だろう。人は好きでもない相手の職場に訪ねになんか来ない。事の性急さからも、その同級生は大学から消えた綴を探しており、再び会う日を待ちわびていたのかもしれない。
「黒田さんのご迷惑になるかな、と思ったんですけど」
「俺は別に構わないよ」
電話の向こうで、綴は酷く驚いているらしかった。
思わず声を上げて笑ってしまう。
本当なら、綴は黒田に行動の許可など取る必要が無い。むしろ、機嫌を伺わなければならないのは黒田の方だった。
綴が
もしも綴が、自分が生き残りであるという情報を盾にしたら、黒田は何が何でも彼の機嫌をとり、説得し、彼の望むあらゆる対価を支払うしかない。
綴はほとんど黒田のこめかみに銃を当てているような状態だ。その気になれば、いつでも止めを刺せる。
そんな彼が言ったのだ、迷惑をかけたくないと。
人を利用するという選択肢は、彼の中に存在していないのだろう。あまりに内気で、あまりに高潔で、あまりにも愚かだ。この世界は、そういう人間から貪られ、蝕まれる。
『カナリア』に集まる人間も、大体そういう性質の人間だった。真面目で、穏やかで、努力家で、思いやりがあり、共感力があり、内向的で、自分の想いを主張できない。綴は、その中でもさらにこうした性質が強かった。
「一般人を連れてくること自体は何も問題ないよ。…しかし、そうだな。その子がどういう子なのか、君とどういう繋がりなのかくらいは教えてもらえると助かる」
「えっと、知り合いというくらいの関係です。同じ授業をとったことがあって、そこから少し関わるようになったというか。確か、彼女にも一度だけ課題を教えたこともありました。僕はあまり彼女のことは知らないんですけど、要領がよくて、頭もいいし、優しい人です。店に来て何かしでかしたりってことはないと思います」
「なるほどね」
監視目的もあるが、単純に興味があった。どんな人間が彼に惹かれたのだろう、と。
綴が人の庇護欲を掻き立てることは理解できる。恐らく、彼が過去関わった善良な人たちはみな、彼を同情していたであろうということ。しかし、そんな彼らも最終的には綴から離れていったことは、彼の過去を探ればすぐに分かった。
今度彼に近づいてきた人間は、一体どんな人物だろう、そして綴と関わることによってどうなるのだろう、と。その結果、綴が孤独を深めるのならば、これほど嬉しいことはなかった。
約束の日、綴と雑談をしながら一人の女性が店に入ってきた。
「いらっしゃい。君か、綴の同級生というのは」
「初めまして、こんにちは」
後に
じっと、百合の瞳を見つめる。
悲しみを知らない、憎しみを知らない、深淵を知らない人間の目だ。少なくとも今は、満ち足りている人間の瞳。
ふい、と百合が目を反らす。
─そうだ、ここは君の魂の故郷とするところではない。君にとってはさぞ不気味に、不可解に見えることだろう。それでいい。
そのために用意した、幻想の箱庭。花と蜜と、悲劇の匂いが織り成すフィトン・チッド。
百合が少し気まずそうにあたりを見渡す。
「あの、外のお庭が凄く気になったので…先に少し見せてもらってもいいですか?」
「それならせっかくだ、彼に案内をしてもらうといい。綴、頼めるかい」
「あ、はい、わかりました」
綴が百合の鞄を預かると、荷物入れに置く。
二人が店の外に出たのを見送ると、黒田は作業用の手袋をしたまま、百合のバッグから中身を引っ張り出した。
財布を開き、カード類に目を通す。
「綴と同じ法学部法学科所属の学生か。
学生証、保険証、クレジットカード。一つずつ見ては元の場所に戻す。
「相変わらず手癖の悪いこと」
棚のハーバリウムの間から、マダムが顔を出した。
「人聞きが悪いな。ただの情報収集だよ」
手を止めず、黒田はそう答えた。
「そういえば、あの子に威圧感あるって言われてるわよ。隠しきれてないじゃないの」
「それはどうも」
外の会話はマダムがいれば筒抜けだ。
彼女たちのコミュニケーションは基本的に振動によるもの。人間より遥かに音には敏感だ。直接黒田が聞き取れなくても、マダムはその音を拾うことができる。
マダムに茶化される間も、次々とカードを捌く。
氏名、住所、電話番号、大学、所属学部。その他諸々情報を記憶する。
黒田は自らの顎を擦った。
「鞄の中身はそこそこ綺麗に整理されているね。レシートやごみもない。まめな性格だろう。香水をつけたりと容姿にもかなり気を使っているみたいだし、常に人に見られているという意識があるのかな。一人暮らしでも美容にお金をかけられる程度の経済力はある。かといってブランド物は殆ど無い。庶民的だが野暮ではない。無理に見栄を張るような性格でもなく、心の余裕がある…なるほど、知り合いも多そうだ」
パズルを組み合わせるように、持ち主の情報を組み立てていく。
黒田はこの作業が好きだった。
人はそこにいるだけで情報を垂れ流している。容姿、持ち物、癖、話し方、視線、表情、姿勢、声、匂い─そういうものから無数の断片を拾い上げ、繋ぎ合わせ、その人の人生を想像する。人の魂の在り方を覗き込む行為は、物語を読むことによく似ていた。
「交友関係は浅く広い。容姿で過剰に期待されたり求められることが多く、彼女自身はそれを理解しつつ達観しきれていない。若干男性不信気味かな。異性愛者だが異性との恋愛は苦手になりつつあるようだ。寂しさを埋めたいが男が信じられない。そこに綴が現れた、と」
バックの中のポケットの中から手帳型カバーをしたスマートフォンを取り出し、照明に反射させる。
「指紋はしっかり残ってるね。ロック番号は自分の誕生日かな」
黒田が番号を入力すると、あっさりロックは解除された。チャットアプリの友達一覧をさっとスクロールした。その中の、綴との会話履歴を斜め読みする。
「うん、本当に知り合いって感じだね。少し様子を見よう。彼女が余計なことをしでかさなければ、それに越したことはない」
「もしも向こうからなにか仕掛けてきたら?」
「それ相応の対処をするよ」
「ふぅん。アリー、時間よ」
「十分だ」
さっと全て元通りにし、放り出していた作業に戻る。
数分後、綴と百合が二人して顔を赤らめたまま店内へ戻ってきた。
「黒田さん。その、百合の花を一輪用意してもいいですか。彼女が買っていきたいと言ってくれて」
「それはありがたい。用意は君に任せるよ」
いつも通り、笑ってそう言った。
ある日の夕方だった。
百合は一人、花屋の前に立っていた。
店のドアに書かれた、Florist Novemberの文字を見つめる。
この日、百合はある決心をしてここに立っていた。綴の雇い主である花屋のオーナー、黒田馨と話をしようと考えていた。主に、綴のことについて。
自分と付き合いだした綴が、日に日に憔悴していくことが気がかりだった。
一緒にいるとき、綴はよく笑い、話し、百合を気遣った。
しかし、ある時から彼が宙を見ていることが多いことに気が付いた。その時の眼差しが、少しだけ怖かった。不安と、猜疑と、諦めと、憂鬱さと。それでいて、この世のなにもかもがどうでもいいというような、どこか冷たい、敵意が滲んでいる気がした。
またある時は、糸が切れたように全身をぐったりとさせていることがあった。彼の瞳が潤んでいることに気が付き、声をかけると、急に笑顔になるのだった。
何度か本人に尋ねても、大丈夫だと笑うばかり。そしてその次には必ずごめん、と謝るのだった。
その時の笑顔が、痛々しかった。
嘘をつきなれているのか、それとも自分でも自分が限界だということに気が付いていないのか。
彼のために何かしてあげたかった。
見返りを求めていたわけではない。
彼のことが好きだった。
綴はあまり覚えていなかったようだが、大学に入学したてのころから、百合はずっと綴を目で追っていた。
最初は確かに、あまりいい印象ではなかった。真面目なことだけはよく分かったが、髪は癖がある上ぼさぼさだったし、常にどこか不安そうで、自信のなさ故か猫背気味だった。服は皺もなく、清潔ではあるもののサイズが合っていないようで、全体的に暗く、野暮ったい雰囲気が彼を覆っていた。
しかし、そんな綴が百合の目を惹いたのは、彼がどこか異質だったからだ。
この人生の休暇とさえ呼ばれる大学生活、誰もが自由に、能天気に、楽しく過ごす空間で、物憂げな目をしていた彼。常に一人でいること、そして授業が始まる10分前には必ず講堂の前に座り、予習していることが、綴をより異質にした。
特に、常に一人で大学にいることが、百合にとっては不思議で仕方なかった。
あんな、誰もが友人知人と充実した学生生活を送っている中で、仲間外れのように一人でいることは、自分だったらその寂しさに耐えられないだろうと思う。
だが、綴は周りの学生たちを羨ましそうに見るでも、どうにか関係しようと努めるわけでもない。まるで周りの人間が彼にとっては風景でしかないように、何の関心も持たず、ただ黙々と教科書を捲りノートを書く。誰かに話しかけられれば、慇懃すぎる程丁寧に会話をするが、それ以外の時に彼が誰かと談笑している姿を一度も見かけたことが無かった。
大学のある講義でのことだ。その日、百合は女友達と駄弁りながら、だらだらと遅れて講堂に入った。席がほとんど埋まっていたので、空いていた前の方の席─綴の近くに座り、講義を受けることにした。
その時の、綴の捨てられた子猫のような表情は忘れられない。どうやらグループワークの課題を出され、たった一人最前列に座っていた綴は取り残されていたらしい。流石に可哀想だと思い、声をかけた。
その時に見たのだ。彼の血の滲むような努力の痕跡を。
一緒に課題をやるとは言ったが、ほとんど彼が進めてくれた。それどころか、わからない箇所を丁寧に説明してくれた。彼のノートと説明は、教授が書いたという教科書よりも分かりやすかった。
実際に話をしてみると、綴は優しく、気さくで、見た目よりも随分大人びていた。他の学生のようにげらげらと大声をあげて笑ったり、馬鹿げたことをしでかすこともなく、穏やかに笑い、言葉が誠実で、ひかえめだった。
その後、何度か同じ講義を受けた。あまりに彼の説明が分かりやすかったので、彼の力を借りたいと頼み込み、一度だけ、期末テスト前の夜遅くに勉強を教えてもらったことがある。今思えば、それすら彼と関わるための口実だったのかもしれない。
わざわざ勉強を教えてもらっているというのに、集中するのに骨が折れた。
隣に座る綴の存在に、心を奪われる。彼の真面目さ、真摯さ、優しさに、こんな男性がいるんだと、胸が高鳴った。
百合が知っている男性とは、自分の顔と胸と足にしか価値を見出せない生き物だった。褒められる時は大抵容姿のことだった。けなされる時も、大抵容姿と比較された。何度嫌がらせをされたか分からなかった。何度付きまとわれたか分からなかった。
だからだろうか。どんどん彼に惹かれていった。
そしてその時、初めて綴のことをちゃんと見た。
控えめで、穏やかな声。
病的なほど痩せた、白い手。
繊細で、優しさが滲みでているような文字。
考え込む時の、伏目がちな目。
その上に影を落とす長い睫毛。
その全てに心が奪われた。
─きっと、ちゃんとしたらもっと素敵になるのに。
もどかしくなった。
彼が自信無さげにしているのが悔しい。こんなにも素敵な人なのに、彼自身が自らを蔑ろにしてしまっている。彼と話をしていると、殆ど息をするみたいに「ごめん」と謝り、その次には「僕なんて」と言う。一体何が彼をそうさせたのだろう。
猛烈に、庇護欲を掻き立てられたような気がした。彼との勉強会が終わるころには、恋しさに胸を焦がすほどだった。その日は真夜中まで眠れなかった。
しかし、ある日を境に綴は大学内から姿を消した。
異常に混んでいる学食で、誰かと食事をする姿を見たのが最後だった。その時の綴が、遠くから見ても分かるほど憔悴していて、笑顔でいるのに骨を折っていることに、随分後になってから気が付いた。
挨拶くらいすればよかった。そうしたら、彼の助けになれたかもしれないのに。
今さらどの教室へ行っても、彼の姿はなかった。
ところが、そんな綴が一週間程前に突然大学に現れたのだ。髪と目の色が奇抜になっていたが、すぐに分かった。大学の建物の壁に寄りかかり、行き交う学生をぼんやりと見つめていたところに、声をかけた。
そして、今に至る。
今、再び彼のことを助けてあげなくてはと思った。中途半端に彼に近づいて、また後悔するのはいやだった。
彼の妙に穏やかな様子を見たときに、彼が何かしらの宗教団体や学生の組織に巻き込まれている可能性を真っ先に思い浮かべた。
度々大学で噂を聞く、宗教団体や怪しい組織の存在。綴には失礼だが、そういうものに彼は狙われやすそうだと思ったのだ。
心理学と社会現象を主題とする講義で学んだことだ。反社会組織や宗教団体というのは、往々にして追い詰められた人間を標的にする。悲しいことがあった人、孤独な人、頼る誰かがいない人、内気で、断ることが苦手な人─そうした条件に綴は当てはまりすぎていた。
もちろん、そんな裏社会や反社会的組織が本当に存在するのかどうか、百合自身も半信半疑だった。
事前に調べはしたが、あまり信憑性のある情報は得られなかったし、大学や警察にも相談したが、当然相手にされなかった。
そんな時、綴が、黒田のことを大切な友人だと言っていたのを思い出した。黒田でなら、自分よりも何か彼のことについて事情を知っているかもしれない。
しかし、百合はまだ黒田のことをどこか恐ろしいと感じていた。綴曰く、黒田の店の雰囲気が余計に彼の浮き世離れした印象を強くしているらしい。
だが、あの探るような陰湿な瞳をした青年を、本当に信頼していいのか決めかねていた。
綴の口から出る他人が、黒田しかいないというのも違和感があった。今、綴は大学に通わず、花屋でのアルバイトばかりしているという。その理由について、綴は勉強する気力が起きないのだと、曖昧に笑った。
あれほど勉強に日々を費やしていた綴が、大学へも通わず、別人のような容姿になり、勉強する気力が無いなどと言うのは、何か原因があるはずだった。
完全に孤立しているであろう綴と深く関わっているのは、半年ほど前に出会ったという黒田馨ただ一人。これは明らかに異常だ。ここまで来ると、黒田が何かしらの宗教団体か、反社会組織の人間である可能性すらあった。
もしも、綴が黒田に何か唆されているとしたら。黒田に逆らえないのだとしたら。
こうした思いがあって、綴のことを聞くだけでなく、黒田がどういう人物なのかを、自分の目で確かめておきたかった。
バッグの中の、念のため用意した護身用のスタンガンを確かめる。
─流石に心配しすぎかな。
百合は一度深呼吸をして、店のドアを引いた。
ドアベルの音に、店主である黒田が振り返った。
「おや、いらっしゃい。今日は綴はいないよ」
「いいんです。今日はオーナーさんに相談があってきたので…綴くんのことで。ちょっとお時間もらってもいいですか」
「うん?構わないけれど」
黒田が入り口まで百合を出迎え、店のドアを閉める。
「それなら紅茶でも淹れようか。そこの椅子に掛けなよ」
「いえ、結構です。お忙しいと思うので」
黒田がくす、と笑った。
「まぁそう言わずに。ゆっくりしていきなよ」
黒田が椅子を引き、座るよう促した。
百合は少し考えてから腰をかけた。
「随分と緊張しているね。まるで何かに戦いを挑みに来ているみたいだ」
こちらの思考など全て見透かしているみたいに、黒田が微笑む。
「なんですか、それ」
あはは、と笑って誤魔化す。疑っていることを悟らせるつもりはなかった。もし、黒田が本当にただの優しい花屋だった場合、面目が立たない。
マカロンが乗った三段トレイが、目の前に置かれる。
「それで、話というのは?」
黒田は百合の正面に座ると、優雅に紅茶をカップへと注いだ。
「綴くんって、何かの病気だったりするんですか」
黒田が少し目を見開いた。
「身体については少々病弱というくらいだが…そうだな、魂の点では確かに彼は病気かもしれない」
「魂…」
百合は同じ言葉を繰り返した。
百合は綴との出会いと、その印象について話した。
「なんていうか、彼、憔悴しているっていうか。常に崖際にいるみたいな…今にも壊れそうな感じなんです。いつも、無理して笑っているような感じで。どうしたらいいのかわからなくって。黒田さんなら、私より綴くんの事情を知っているかなって」
「なるほど、それで俺のところへ来たのか」
「黒田さんのことを大切な友人だって、綴くんが言ってたので」
黒田が微笑む。
「君は綴をどうしたいんだい」
「…助けてあげたいんです。幸せにしてあげたい。心から笑えるようになってほしいんです」
「なるほど。大体事情は理解した。君を信用して、いくつか意見を聞かせてほしいんだが、いいかな」
「はい」
「例えばだが、君は誰かが一人、暗い部屋で泣いていたらどうする?」
質問の意図を考えるに、これはたとえ話ではないのかもしれない。
しばらく考えてから、百合は口を開いた。
「…隣に行きます。できるだけ泣かせてあげて、それから…できるだけ、楽しいことを一緒に探します。悲しい気持ちを忘れられるように」
「なら、もしその人が誰かを恨んでいると言ったら?」
「彼が人を恨むとは思えないですけど…思うだけなら、いいんじゃないでしょうか。行動に移すなら、止めます」
黒田がカップをソーサーに置いた。
「なら、もしその人が死んでしまいたい、と言ったら?」
自殺幇助。教唆。同意殺人。繰り返し学んだ言葉が思い浮かぶ。
ああ、そういえば、彼と一緒に纏めた課題も、自殺についてだった。彼がとても真剣にその課題に取り組んでいたことを思い出した。
そうか、やっぱり彼は─
「止めます。きっと、その人だって本当に死にたいわけじゃないと思うんです。他にどうしようもないから、その選択肢をとっているだけで。きっと、何か変えられると思うし、私は、その人をどうにかして助けてあげたいです」
目の前に、黒田ではなく綴がいるつもりでそう言った。
黒田は何度か頷いた。
「知っての通り、彼はとても繊細だ。ヘレボルスの扱いには気を付けたまえ」
「…はい」
やはり、黒田はただ優しい人なのかもしれない。
何にせよ、黒田に相談して一つの確信を得ることができた。
やはり、綴は今苦しい思いをしている。彼の心の状態について、ちゃんと向き合おう。そして、彼の手助けをする。彼が心から笑えるように。いずれ、二人で楽しく過ごせるように。
覚悟は決まった。
「…ありがとうございました、黒田さん。そろそろ帰ります」
百合は立ち上がり、黒田に背を向けた。
「そうかい?じゃあ、お気をつけて」
「あ、あと一つだけ」
「ん?」
「『カナリア』」
百合の口が、ゆっくりとそう動いた。
「そういう宗教団体が大学を出入りしているって噂を聞いたことがあるんです。何か知らないですか」
「知らないな」
「そうですか」
黒田の表情から何か読み取れないかと、目を合わせたが、黒田は相変わらず微笑を浮かべたままだった。
百合は出入り口の方へと歩き出した。
黒田は立ち上がると、百合の隣に歩み寄った。
「ところで、何やら物騒なものを持ち歩いているね。それは護身用かい?」
百合の瞬きの回数が増えたのを、黒田は見逃さなかった。
「…はい、そうです」
「以前ここへ来たときは、そんなもの持っていなかったと思うんだが」
「最近持ち歩き始めたんです。ストーカーとか、多くて」
「そうか、それは災難だね」
百合は逃げるように足を速め、ドアを押した。しかし、何故か扉は開かない。
ここへ来た時、外からドアを引いて入ったのだから、開け方は間違えていないはずだった。
掌に嫌な汗が滲む。
「ふふ、面白いだろう。このドア、内側からも鍵をかけることができるようにしてあるんだ」
隣にいる男の顔を見上げ、思わず声をあげそうになった。
人の微笑に、これほどぞっとすることがあるとは思わなかった。
「なんのつもりですか」
百合はとっさに鞄の中に手を突っ込んだ。
その瞬間、黒田の腕がすばやく伸び、百合の細い手首を掴んだ。
「っ!」
腕全体に強い痺れが走る。
黒田は百合の腕をひねり上げた。
護身用のスタンガンが音を立てて床に落下する。
「俺はまだ何もしていないというのに、手荒なことをするね」
「いや、放して…!」
いとも簡単に床に組み伏せられ、百合は四肢をばたつかせる。
「こらこら、暴れると余計怪我をするよ」
いつの間にか先ほど取り上げられたスタンガンを黒田が握っている。皮膚に冷たいものが触れた直後、全身が激しく痙攣した。
黒田はエプロンのポケットからテープを取り出し、あっという間に百合の身体を拘束し、口を塞いだ。
「情報を探り出したいのなら、何も知らないふりをするのが鉄則だ。余計なことを口にしなければ見逃してあげられたかもしれないのに」
黒田が百合の上に覆いかぶさった。
「他の組織と比べて『カナリア』の情報がなぜ殆ど表に出ないか、その理由がわかるかい?」
─やっぱり。
勘が、最悪の形で的中してしまった。百合は舌を強く噛んだ。
百合の顎を、黒田の指が擽った。
「信者は皆自らの意思で選択をしている。彼らは決断の結果ここにいる。そしていずれ来る最期の日を待ちわびているんだ。だからその秘蜜を守る。俺たちは悲しみを肯定する。憎しみを肯定する。殺意を肯定する。あらゆる負の感情に価値を置き、それを大切に育んでいる。俺たちは外界への攻撃はしない。しかし、この美しい庭を踏み荒らす人間はこの限りではない。君はそこへ土足で踏み込み、あまつさえ敵意を示した。その意味、賢い君なら理解できるね?」
首、鎖骨、胸の間、腹。服越しに指先が触れる。
全身の震えが抑えられなかった。
今までも、男に強引な求められ方をしたことは幾度もあった。いやらしい言葉や視線を投げかけられ、悔しさと恐怖に震えたことがあった。
しかし、この男が向けてくる視線は、その比ではなかった。
敵意、厭世、高慢、憎悪、嗜虐、冷笑。思いつく印象はいくらでもあった。
その瞳は情欲に濡れてはいなかった。しかし、その穏やかな表情から、吐き気がするほどの暴力性を覗かせていた。
「大丈夫、命だけは保証してあげるよ」
いつだって死は意志あるものへの甘美な贈り物でなければならないのだから。
口のきけない百合に、黒田は一人語り掛ける。
黒田の指が百合の陰部に触れる。
百合は顔を赤らめた。拘束された身体を精一杯動かし抵抗した。
「へぇ。まさかとは思ったが処女なのか。男は嫌いかい」
声を上げてこの男を拒絶したかった。
嫌がれば嫌がるほど、男は穏やかに、嬉しそうに笑う。
「どうしたら人の心が壊れるか、よく知っている。よく分かっているよ。それはもう痛いほどに。苦痛は小さく、長く続くほどいい。そのほうが、心は磨り減りやすい」
黒田の手が身体を這う。指先で、触れているのか触れていないのか分からないほど優しく。
この男は、自分に欲情してそうしているのではない。百合にとって何が最も苦痛か、最も屈辱を与えられることは何かを理解した上で、そうしていた。
百合は嫌悪感と恐怖のあまり、ぼろぼろと涙を零した。
「ああほら、泣かないで、いや、もっと泣いて。そのほうがいい。そのほうが綺麗だ」
黒田の指が百合の目尻を拭う。
「君に近づいてくる男はみんな君に性を求めて近づいてくるんだね。可哀想に、辛かったろう。どれくらい付きまとわれた?どれくらい侮辱された?」
今までされたことを想起させるように、吐息混じりに黒田が耳元で囁く。ぴりぴりと痺れるような感覚がする。
「誰も彼もが君の容姿で勝手に期待して、勝手に落胆するんだろう。君の別な側面が見えただけで、君を罵倒し、軽んじる」
黒田が柔らかく百合の耳朶を摘まみ、耳の窪みに指を入れる。ぞわぞわと、嫌な感覚に蹂躙される。
「けれど、百合。君もまた綴に夢を見てはいなかったかい。彼の友人として言わせてもらうが、彼は君が思っているほど善良な人間ではない。君は知らないんだ、彼がどういう人間なのか」
顔を両手で包み込まれ、痛みを感じるほど目を覗き込まれる。
「君は彼の悲しみを知らない。彼の憎しみを知らない。彼の殺意を知らない。彼の魂の奥底で煮詰められた深淵を知らない」
黒田が、度々そうするように、陰鬱な瞳を輝かせて笑った。
「俺は好きなんだ、彼が苦しみ、悲しむ姿を見るのが。彼の憂鬱な瞳が好きだ。彼の涙が好きだ。彼の脆さを何より愛している」
黒田の顔から微笑が消える。
「だから、それを奪おうとするなら、君に罰を与えなくちゃいけない。もう二度とそんな惨いことができないように」
百合の下腹部を軽く擦った。
「そうだな…例えば、子宮を壊してしまうのはどうだろう」
百合が目を見開く。身体を震わせ、なんとか抵抗せんと身じろいだ。
しかし、拘束は少しも緩まない。まるで幾度も人を拘束したことがあるかのように、黒田の拘束技術には無駄がなかった。
黒田は自分のポケットから、アンプルシリンジを取り出した。その一挙一動を、ゆっくりと百合に見せつけた。
「秘蜜はね、調合の選択肢は無限大なんだよ。ものの数秒で人を死に至らしめることもできるし、できるだけ時間をかけて殺すこともできる。依存性の高い麻薬にもなるし、人の限界を超えるような快楽を得られる媚薬にもなる。一つの内臓だけを壊死させることだって可能だ」
「しかしこれを毒と呼ぶのは如何なものかと俺は思う。毒も薬も、元の物質は同じだ。誰かにとっては毒でも、誰かにとっては薬に成りうるし、その逆もある」
「言葉だって、そういうものだと思わないかい。誰かの善意は誰かにとっての悪意だし、誰かにとっての幸福は誰かにとっての不幸なんだ。君にとってはなんの苦にもならぬことが、ぼくの棺桶のふたになる」
黒田の指が百合の口をこじ開ける。シリンジの中身を押し込む。
数分もしないうちに下腹部がじわじわと痛み出した。痛みは波のように百合を襲う。下腹部の鈍痛に身を捩る。全身から汗が噴き出る。
いっそ意識を失えたら楽だったかもしれない。
「俺の
黒田が恍惚と呟く。
心の内で、綴のことを思い浮かべる。
─今すぐこの人から逃げて。この人は、何かがおかしい。
綴を友人と呼びながら、綴が幸福になることを望んでいない。そんな関係を友人と呼べるはずがなかった。
意識が朦朧とする中、こちらを見下ろす男の瞳を見た。その瞬間、あることに気がついて、ぞわりと肌が粟立った。
黒田のその陰鬱な眼差しは、憔悴している綴の眼差しととてもよく似ていた。
日が沈み、窓から月光が差すころ、百合はついに意識を失った。
「最近来なくなったね、彼女。何かあったのかい?」
東百合は現在精神病棟に収容されていた。しかし、その事件は一切表に出ていなかった。なぜなら彼女は自らの足で実家まで帰り、両親に錯乱状態を見られ、治療することになったからだ。
「それが、全然連絡取れなくて」
そんなことを露とも知らないであろう綴は、少し不安そうに窓を見つめる。
「でも、正直…ほっとしました」
「どうして?」
「いつかは嫌われるだろうなと思っていたので」
綴が眉を下げて、悲しそうに笑った。
それを見て、黒田は目を細めて微笑み返した。
花瓶には、真っ黒なユリのプリザーブドフラワーが飾られていた。
****************
※注─『Chocolate lily』
チョコレート・リリー。クロユリ。花言葉は「呪い」、「恋」等。
ユリという名前がついているが一般的なユリ科ユリ属の白百合とは違い、バイモ属の植物。
※─ヘレボルス
クリスマスローズ。花言葉は「私の不安をやわらげて」「慰め」等。
日向では弱りやすいため、日陰で育てることが推奨される有毒植物という意味で記述した。
【参考文献】
『絶望名人カフカの人生論』頭木弘樹編訳
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