第2幕 Chamomile

「お目覚めかな」

 薄い幕を隔てたような視界の先で、青紫の瞳が綴の顔を覗き込んでいた。

「あ…おはようございます」

「おはよう。といっても夜1時だけれどね」

 そう言われ、綴は時計を見る。黒田の言う通り、針はすでに終電の時間を超えていた。

「このまま泊っていきなよ」

「いや、でもそれは流石に…申し訳ないですし…」

 綴はベッドからのろのろと這い出す。立ち上がろうとした足に力が入らずよろめく。すかさず黒田の腕が綴を支えた。

 黒田の腕と比べると余計に貧弱な、骨と皮だけの自分の腕が目に入る。なけなしの自尊心が疼いた。本当に、情けない。

「夕方のあれで君はかなり体力を消耗しているはずだ。まだ眠っておいたほうがいい」

 劣等感に苛まれる綴をよそに、黒田はそう気遣った。

「いえ…大丈夫です。多分もう眠れないので…このまま起きていますよ」

 綴は精一杯笑って見せる。まだ涙の跡が残っていたせいで、皮膚がパリパリと音を立てた。多分、相当酷い顔をしているはずだ。

「それなら少し話をしようか。その前に、これで顔を拭くといい」

「…ありがとうございます」

 差し出されたタオルは暖かく、水分を含んでいる。目元を拭うと、すっかり酸化して茶色くなった涙がタオルへとこびりついた。

 随分泣いた。一生分泣いた気がする。まだ目元が腫れているのか、瞼が重い。少しだけ、ひりひりとした痛みを感じる。

 ゆっくりとベッドから立ち上がる。今度は大丈夫そうだ。

 黒田は拭き終わったタオルを受けとると、そのままリビング、そしてキッチンへと入っていく。綴もまたリビングに足を踏み入れた。

「ちょうどお湯も沸いていることだし、カモミールティーを準備しよう」

「カモミール…?」

「聞いたことはないかい。リンゴに似た香りがする、白い花。カミツレともいうね。大地のリンゴを意味するギリシア語を語源としている」

 黒田に勧められるまま、綴はソファーへと腰掛けた。整えられていくティーセットに、夕方の記憶が重なる。

 ─本当に、死ねなかったんだな。

 涙は出ない。泣きすぎて、枯れ果ててしまったのか、今は一滴も涙が出なかった。

 そういえば、頭も痛い。脳が麻縄できつく縛られたみたいだ。恐らく身体の水分が出尽くしたのだろう。今までに泣いて頭痛を引き起こしたことは何度もあるけれど、これ程痛いのは初めてだった。

「この花には沈静効果があるんだ」

 差し出されたカモミールティーを手に取り覗き込むと、白と黄色のコントラストが美しい、可憐な花が浮かんでいる。これがそのカモミールという花なのだろう。

 ふと黒田の方を見ると、彼は自分のカップに側のハニーディッパーから蜂蜜をこれでもかと注いだ。ホットケーキとか蜂蜜とか言うあたり、この人はかなりの甘党なのかもしれない。

「…いただきます」

 蜂蜜は入れていないらしい自分のカップを鼻先へと近づけると、あまり嗅いだことのない匂いがした。少し甘酸っぱい、言われてみれば、確かにリンゴのような匂い。

 口に含んでみても、相変わらず味覚が鈍っているのか味はしない。だが不思議と、ほっとする。心地よい温度が、焼けるように痛んだ喉を優しく通り抜けていく。

「何か身体に異常を感じるかい?」

「いえ、特に…大丈夫そうです」

「それはよかった」

 あれほど藻掻き苦しんだあの瞬間がまるで遠い昔に起きた出来事のように思える。だが、夢ではない。綴の細い首筋にあるかきむしった傷跡が、あの瞬間の苦悶を生々しく表していた。

 あまりに激しい痛みのせいで、あの瞬間の記憶は曖昧だ。覚えているのは舌が蕩けそうなほどの甘味だけ。

 そういえば、最近味覚が鈍っていたのに、あの秘密ネクタルの甘さだけははっきりと覚えている。綴は、白く変化した自分の髪に触れた。

「君の身体にはなにかしらの変化があると思う。身体の外側も内側もね。特に食事についてはまだ何が起きるのか、俺にもわからない。もしなにか変化があったら、俺に教えてほしい」

「…わかりました」

 澄んだ薄黄色の水面に、緑色の光が揺らめく。

 これから僕はどうなるのだろう。

 一体この先を、どうやって生きていけばいいというのか。答えを求めるように顔を上げると、黒田が口を開いた。

「今後のことなんだけれど、提案がある。俺の仕事を手伝ってくれないかな」

「花屋の仕事をですか?」

「そう。できる限り、俺の目が届くところにいてくれると、こちらとしてもありがたいんだ。それに、最近ちょうど人手が欲しくってね。アルバイトという形で、どうかな。もちろん、君の生活に問題が無い程度の給金は保証しよう」

 書面で提示された金額に目を剥いた。学生のアルバイトの給金ではない。一体どこからそんな金を捻出しているのだろうか。何より、その賃金に伴う責任を果たせるのか。

「あの、本当に僕なんかで大丈夫ですか…?接客はしたことないんですけど…」

 不安がそのまま口から滑り出る。個人塾の講師のアルバイトをしたことはあるが、それもあまり上手くいかず辞めたばかりだった。

「大丈夫だよ。順番に教えるし、接客はしなくてもいい。君の負担になるようなら、別なやり方も考えよう。一先ず、ここに通うこと自体に異存はないかい」

「…わかりました。宜しくお願いします」

「ありがとう。働き方については君の状態に鑑みて後々調整をしよう。とりあえず、また明日の午後一時頃にでもうちへ来てくれるかな」

 綴は小さく頷いた。今は、誰かに答えを与えて欲しかった。指図してくれないと崩れそうになる。すがるものが、頼る誰かが欲しい。それが甘えと呼ばれようが、綴の切実な願いだった。どうせ、どう生きたらいいのかが分からないのだから、使ってくれればいい。誰かの役に立てるなら本望だと、綴は思う。

「さて、君の了承も得たことだし、君には俺が持っている手札を見せておくよ。そういうわけでを紹介したい」

 黒田が部屋の隅に向かってマダム、と声をかける。するとなにやらガタリと何かが動く音がし、綴は度肝を抜かれる。

 まさか黒田以外にこの部屋に人がいたのか。しかもということは女性だ。驚きに声も上げられずにいると、突如背後から声がした。

「こんばんは」

「え?こんば…うわっ!?」

 ハチが喋っている。それも見たことがない大きさの。

 全長10cmくらいはあるだろうか。羽は六枚、一番大きな羽の一対は蝶の羽に似て、シャボン玉のようにきらきらと輝いている。全体が柔らかそうな毛に覆われていて、金色の鱗粉を纏うその姿は、遠目に見たら妖精だと思ってしまうに違いない。

 だが、六本の脚はしっかりと昆虫のそれで、うぞうぞと蠢いていた。虫だということを意識した瞬間に柔らかな毛も蛾の類を連想させて、綴は自分の顔が真っ青になるのを感じた。

「ひっ、あの、あんまり近寄らないでもらえると…」

「大丈夫、刺されたりはしないよ」

「いや、僕、虫は苦手で…!」

「まあ、ひどい。出会い頭苦手だなんて。そういうことは思ってても言うもんじゃないわ」

 そのハチは妙に艶っぽい声でそう言う。妖しくも美しい、女の声だ。言葉とは裏腹に声音はあまり困っていない、むしろ楽しそうな声音。音もたてず、そのハチは黒田の肩へと飛び乗った。

「紹介しよう。彼女は俺の使役するハナバチの女王、マダム・ヘクサだ。俺のハナバチは知能が特別発達した人の言葉を理解できる種類でね。女王蜂である彼女は人の言葉を話すことができる」

 驚きのあまり言葉が詰まった。

 マダム・ヘクサと紹介されたその女王蜂は、黒田の長い前髪を器用にも前足でねじって遊んでいる。毛繕いのつもりなのだろうか。親猫が子猫にするような、愛情を感じる仕草だ。

「信じられないって顔だね」

「だって、ハチが喋るなんて…。妖精とか、そういうものなんですか」

 黒田がくす、と笑う。

「いや、彼女たちはれっきとしたハチという生物の一種だよ」

 黒田の説明はこうだ。そもそも、ハチという生物の歴史は長く、ハチ自体は約一億年前から、ハチと人間の関わりは約一万年前から存在していたと言われているらしい。

 膜翅類まくしるいの昆虫、俗に言うハチという生物は既存の種類だけでも十万種。しかし、今現在の時点で生物学上分類されているこの十万という種類さえ、自然の中のほんの一部に過ぎない。これほど生物として長い歴史を持つハチは、とりわけ未確認の種類が多いそうだ。

 ハチは知能が高く、高度な社会性を持って生活している。マルハナバチは数を数えられるという研究結果もあり、見たことのない道具を利用したり、人間に課されたルールを学習することもできる。その上、それを仲間へと伝達する手段を持っている。

 こうした高い知能をもつ生物の一種である彼女たちは、長い時を経て人間の言葉を理解するまでに進化したのだと黒田は言う。

 緊張のせいか、喉が渇く。綴はカップの中身を一口飲み込み、唇を舐めた。

「こんなに高度な生態を持っていても…あくまで、生物なんですね」

黒田が大仰に手を広げた。

「生き物は皆不思議なものさ。それこそ天使や悪魔や妖精みたいにね」

 成程、そう言われると確かに突拍子もない話ではないような気もする。人語を解し、人と共に生きるハナバチ。

 マダムは相変わらず好き勝手に黒田の頭をよじ登ったり、髪の毛を繕ったりしている。かなり気ままだ。

「ハナバチの女王であるマダムは言わば司令塔。ハチと人間、両方のコミュニケーションツールを使えるというわけさ。ちなみに、彼女は別に喉から声を出してるわけじゃない。羽を振動させて、人間のチャンネルに合わせたを出しているんだよ。あまりに巧妙すぎて俺たちには声に聴こえるけれど」

 黒田がマダムの頭を指先で撫でる。主人が犬を可愛がるような仕草だ。

「長ったらしい説明はここまでにしようか。君は病み上がりだしね」

「いえ、なんだかおもしろかったです。大学の講義みたいで」

「ふふ、それはよかった。こちらとしても君ほど理解力が高い人が相手だと話していて楽しいよ」

 そんなふうに褒めてもらえるのが初めてで、少し、自分の顔に笑顔が浮かんだのが分かる。

「それで、マダムに、君のお目付け役を任せようと思う。常に彼女とは一緒にいてもらうよ」

 その一言に思わず綴は真顔に戻る。

 一瞬、沈黙が流れた。

「この、女王蜂とですか…」

 さっき確かに虫は苦手だと言ったはずなのだが、そこは考慮してくれないようだ。

「そんなに怯えなくてもいいじゃない。あなたが思うほどわたしは嫌なやつじゃないわ。あなたが彼との約束を守る限りはね」

 それに人間は結構好きなの。

 マダムはテーブルへ降り立つと、そう言いながら、綴の前へとやってきて前足を差し出した。もしかして、握手のつもりなのだろうか。できることなら触りたくなかったのだが、こうも真摯に出られるとそれを無下にするのは後ろめたい。

 綴が隠し切れない恐怖に震える手を出すと、ちょん、と細い前足が人差し指に乗った。

「ということで彼のことを宜しく頼むよ、マダム」

「わかったわ。よろしく、

「よろしく、お願いします」

 一応僕も成人はたちなんですけど、とは言わないでおいた。


「さて、もうこんな時間か。君とは話がしやすいせいかな。随分話し込んでしまった」

「いえ、こちらこそ…もう始発も出てると思うので…そろそろお暇します」

 綴はソファーの傍に置かれた、教科書とノートが詰め込まれたリュックを背負う。その中身はここへ来たときと変わっていないはずなのに、随分と重たく感じた。

「しかし君の荷物は随分重たいね。君が背負えているのが不思議なくらいだ…どうかしたかい?」

「いや、何というか…自分の罪の重さみたいだなって、思ったんです」

 自嘲気味に、綴はそう呟いて笑った。

 僕は、自分の知らず知らずのうちに大きな罪を犯した。だからこうして今も尚生きるという罰を与えられている。望んで死ぬことすら赦されない。そうでなければ、こんなに苦しいはずがない。

 黒田の目が見開かれているのを見て、慌てて綴は訂正する。

「あ、特に深い意味じゃなくて…というか、気色悪い台詞ですよね、すみません」

「いや、君のその言葉はとても素敵だと思う。今はまだ、君のことを全て知っているわけではないけれど…やはり君とは楽しくやっていけそうな気がするよ」

 黒田がどこか嬉しそうに笑いかけた。

「それはそうと、君のことを名前だけで呼ばせてもらってもいいかな。君とは長い付き合いになりそうな気がするんだ」

「大丈夫です」

「改めてよろしく、綴」

 黒田が玄関のドアを開けると、視界が開けていた。

「ここ、二階だったんですね」

「ああ、俺が住んでるのは店の上の階なんだ。一階が花屋だよ。所謂、店舗住宅ってやつだね」

 二階の高さから見下ろす街は、まだ冷たく静まり返っている。綴は、すう、と夜明けの空気を吸い込んだ。

 本当に、不思議な一日だった。大学へ行き、講義を受け、幼馴染と食事をして。そんな日常から転がり落ちるように、どうしようもなく息苦しい、そう思って自殺を決意して─死に損なった。

 マダムが傍で羽ばたいている。金色の鱗粉がきらきらと舞う。

 相変わらず虫という生物に対する生理的な恐怖は拭い切れなかったが、それでもこの金の粉が、青い背景に溶け込む様子を美しいと、綴は思った。そういうものが、傷つき果てた心を、ほんの少しだけ癒してくれる。

「さあ、いきましょ。駅までわたしが案内してあげるわ」

「はい。あの、黒田さん。本当にいろいろと…ありがとうございました」

 綴は黒田の方へと向き直って頭を下げた。

「顔を上げてくれ。…なんというか、こうして生き残ったのが君でよかった。今日はもう帰ってよく休んでくれ。そしてまた、君がここへ来てくれたら嬉しい」

「はい」

 今は、黒田の言うとおり家へ帰ろう。あまりに、いろいろなことがありすぎた。

 春先の、ひんやりとした空気が肌を撫でる。

 階段を降りていく。視線を感じて振り返ると、黒田が夜の闇が残る空の中、こちらを見て微笑を浮かべていた。青紫色の一等星が煌めいているみたいだった。

 綴は、軽く会釈をした。そして、小さな金色の鱗粉を追いかけて、まだほの暗い、夜明けの街へと歩き出した。


****************

※注─『Chamomile』

カモミール。カミツレ。花言葉は「逆境に耐える」「貴方を癒す」。『慈悲』や『安らぎ』のシンボル。沈静効果があり、薬草として非常に有名。

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