【15】

 その日の朝、ベロニカはとても幸せな気持ちで目覚めた。彼女は昨夜のロトとの素晴らしいひと時を思い返した。胸はまるで春を迎えたように暖かだった。

 心にずっと横たわっていた何かは、今はすっかりなくなっていた。代わりにそこにあるのはロトの言葉だった。あの時、あの場で彼が語った言葉の一つ一つが、彼女の中で無限の力を与えてくれるような、そんな気がしていた。

 ベロニカはベッドから降りると、部屋の窓を開けた。いつも見ている風景も、まるで違って見えた。くすんでなんの面白みもなかったそれは、朝日に照らされてきらきらと宝石のように輝いていた。

 メアリーが静かにノックをして部屋に入ってきた。彼女はベロニカがすでに起きていることに驚いた。ベロニカが彼女が起こしに来るよりも早く起きていることは、滅多にないことだった。

「お、おはようございます」

 メアリーは言った。昨夜は色々あった。もしかしたら興奮して眠れなかったのかもしれない、と彼女は思ったが、

「今日はいい朝ね」

 というベロニカの言葉を聞いてそれはないと分かった。彼女は振り返らずに言ったが、声は明るく、楽しげだった。眠れない夜を過ごして疲れている人物の声ではなかった。

「そうですね」

 とメアリーは言った。

「朝のお飲み物をお持ちしましょうか?」

「いいわ」

 ベロニカは頭を振った。

「それよりも庭を歩きたい」

 ベロニカはそう言って寝巻を着替えると屋敷の外に出た。

 ラフマニノフの屋敷の前庭には――ヴィオッティ家の薔薇園には劣るけれど――様々な種類の花々が植えられていた。毎朝専属の庭師が手入れをしているものだった。今まで特に気にしたことはなかった花々。生まれた時からそこに在って、けれど最後にちゃんと見たのはもうずいぶん前の花々だ。ベロニカは今、愛を持って花々を眺めていた。昔誰かが言っていた。人を好きになると、世界が変わって見えると。それは本当だと彼女は思った。それはきっと、一つの愛によって、別の愛が育まれるからだった。育まれた愛は、また別の愛を育てるのだ。

 ロトを愛する心が、愛を育み、今ベロニカに花を愛でさせているのだった。愛はそのようにして一人の人の中で増えていく。だから他人を愛した人の世界は愛に満ちて、今までの世界とはまるで別の世界のように感じてしまうのだった。

 彼女の指では、ロトと対になっている指輪がきらめいていた。



    ☆



 それからあっという間に月日が経った。本当ならば毎日でもロトの下に会いに行きたいところであったが、ベロニカにはそれは許されなかった。もう間もなくある王城での舞踏会に向けての稽古を抜け出すことは、さすがに出来なかったのである。一貴族である誰かの主催の舞踏会であったならば、仮に失敗をしても恥をかくだけで済むが、王城で行われる舞踏会ではそうはいかなかった。王族の人々の前で醜態をさらせば、王族の催し物に水を差したと言って、他の貴族の人々から大変な顰蹙を買うのである。それはラフマニノフの家名を大いに損なうことになってしまうだろう。

「お嬢様! もっと姿勢をお正におなりください」

 ベロニカは舞踏の先生に何度も叱責を受けた。正直辟易としていたが、こればかりはやらないわけにはいかなかったので、「はい」と素直に返事をして踊りを続けた。

 それに、憲兵隊であるロトも今はとても忙しいはずだとベロニカは知っていた。王太子の誕生会を祝う目的でもある今回の舞踏会は、毎年行われる。王太子の誕生を祝う席にもしものことがあってはいけないと憲兵隊が街の警備に当たるのは常だった。新人とはいえ彼もその任につくことだろう。そう考えるとベロニカは、騎士になるという目標のために歩み出した彼がとても身近にいるような感覚になった。それだけでベロニカは十分だった。

 ロトだって頑張っているんだもの。私だって自分のやるべきことを頑張らなくては。



    ☆



「ベロニカ」

 ベロニカはその日、父親に声を掛けられた。王城での舞踏会についに出発をしようという時だった。

「なんでしょうか? お父様」

「明日はいよいよ王城での舞踏会だが、調子はどうだ。よもや陛下の御前でわたしに恥をかかせるような真似はすまいな」

 父親の物言いにベロニカはにこやかに笑みを浮かべた。

「最近は今までで一番調子がいいのです。きっと舞踏会でも素晴らしい踊りを陛下や王太子殿下にお見せすることが出来ると思います」

「ならば結構」

 父親は言った。

「明日はアダム殿も会場に見られるそうだ」

 アダム! その名前にベロニカは心臓が大きく跳ねるのを感じた。彼女の父親はまだ、アダムとの関係をあきらめてはいないらしかった。

「アダム殿は以前、あのような言われ方をしたが、それはお前の魅力に気が付いていないだけなのだ。しかしアダム殿は眉目秀麗、舞踏会に出席なされる際は女性たちに取り囲まれることが常だという」

 ベロニカは初めてアダムと出逢った時のことを思い出した。あの時も多くの女性たちがアダムとお近づきになろうと躍起になっているようだった。

「ライバルは多いが、その中にあってもお前は負けることはないとわたしは確信している。明日はアダム殿を見つけたら自らお声を掛けるのだ。そしてできるだけ長く共にいて様々な話をしなさい。そしてお前がいかに素晴らしく、出来た妻になることが出来るかということを話すのだ」

 それはとても自分勝手な論だとベロニカは思った。彼女の父親は、娘やアダムの感情をまるっきり無視していたのだった。そしてそれが父の常の姿であるということに彼女は心が暗くなるのを感じた。

「はい。お父様」

 ベロニカは静かに頷いた。それだけで父親は納得した。彼は待っていた馬車に乗り込んだ。父親の後姿を漫然と眺めていると、中から早く乗りなさいと急きたてられた。ベロニカは父の後に続いた。



    ☆



 ロトは憲兵隊の詰め所の前で、他の憲兵隊員と共にいくつもの列を作って並んでいた。何十年も経験を積んだ人物から、ロトと同じ新米の人物まで、その列には加わっていた。列の前では簡素な台の上に上った憲兵隊長が、これから王城で始まる議会とその後に催される舞踏会のための警備について話をしていた。彼の説明によれば、王城の周りには経験の豊富な憲兵隊員が配備され、新米とその他の憲兵隊員は街中の警備に当たることになるそうだった。

「おっと。こいつはいい場所かもしれないぜ?」

 配置が読み上げられていく中で、ロトの前に並んでいたロドリゴが言った。ロトは首をかしげた。

「どうしてです?」

「オレたちの配置は東の砦の門のすぐ近くだ。あそこは人通りこそ多いが、砦の検問所もすぐ近くに在って犯罪は起こりにくい。よっぽどのことがない限り、オレたちは剣を抜かずに済みそうだ」

「剣を抜かずに済むって……それ以外の場所じゃ剣を抜くようなことが起こるみたいな言い草ですね」

「まあな。そういうことだよ」

 ロドリゴは苦笑を浮かべた。

「王太子殿下の誕生を祝う舞踏会だからな。国民にも大々的に喧伝されている。そうなるとよからぬことを考える連中もいるもんでな。毎年多かれ少なかれちょっとしたイザコザが起きるのさ」

 その言葉はロトを不安にさせた。

「そんな顔をするな。今まで死者が出るような大騒ぎになったことはない」

 ロドリゴがロトの様子を見て言った。けれどロトが本当に心配していたのはイザコザのことではなくて、ベロニカのことだった。もし彼女がそのイザコザに巻き込まれでもしたら、と考えると、自分が彼女の下に行って、彼女のことを護ってあげられればいいのにと思った。

「――それでは諸君の健闘を祈る!」

 そんなロトの考えを諫めるように、ひときわ大きな声で憲兵隊長は最後に言葉を締めくくった。ロトたちはピシッと敬礼を決めると、各々の配置場所へと散って行った。



    ☆



 街はどこもかしこもお祭りだった。道は花々で彩られて、すれ違う人々すべてが王太子の誕生を祝う言葉を口にしていた。彼は貧民街にある自分の家のことを考えた。憲兵隊に入隊して以来、宿舎で生活をするように定められた彼は――新人の憲兵隊員は最初の一年間は宿舎で寝泊まりをすることが決まりだった――今日は母さんも朝早くから王太子の誕生を祝うための準備をしているのかもしれないと思った。準備と言っても、玄関の前に小さな花を一、二本添えるだけのことであるが。

 それには二つの理由があった。貧民街で今日、この日を祝う人々はそれほど多くなかった。大々的に祝えば、王族や貴族の人々に対してよくない考えを持っている人々の攻撃の対象になりかねなかったからだった。それでも祝おうとする人々は、ささやかにそれとなく祝うしかないのだった。

 もう一つは貧民街に住んでいる人々はその日を生き抜いていくだけで精一杯な生活を強いられているからだった。花の束を買うほどの金銭的な余裕はないのだった。

「……すごいな」

 だからロトは街中が花々で彩られた光景を見て思わず感嘆の声を上げた。今まで街で日銭を稼ぐために働きに出てきていたことはあったが、町の光景に意識を割いていられるほどの余裕は心身ともになかった。こうしてまじまじと花々で彩られた街を見るのは、これが初めてかもしれないと彼は思った。

 ロトは担当の区画の見回りを終えて、砦の門の元まで戻った。そこには二手に分かれていたロドリゴが既に戻って来ていた。彼は砦を護る見張り番と談笑をしていた。

「先輩。見回り、完了しました。異常ありません」

 敬礼をして言うと、ロドリゴはご苦労さんと言ってロトのことを労った。

「お知り合い、ですか?」

 ロトは見張り番の男性を見やって言った。

「いいや。たった今知り合ったばかりだよ」

 ロドリゴはにやりとして言った。彼は懐から一輪の花を取り出すと、それをロトに手渡した。それは見張り番の男性も持っているものだった。

「見回ってるのときにな。花屋のおばちゃんから貰ったんだ。今日はめでたい祝い事の日で、祭りだぜ? こういう日は誰とでも親しくなれるのさ。例え初対面でもな」

「先輩、少し楽しみ過ぎなんじゃ……。もう少し緊張感を持った方が――」

「ロト、おまえは肩に力を入れ過ぎなんだよ」

 ロドリゴは言った。

「もう少し力を抜け。でないといざっていう時に本領が発揮できなくなっちまうぞ」

 そうかもしれない、とロトは思った。こんなに大きな任務は初めてのことだったし、何よりもし何かあればベロニカを守らなければ! という想いが普段以上に身体を固くさせていたのかもしれなかった。

 ロトはロドリゴに促されるまま深呼吸をした。そうすることで徐々に体の緊張がほぐれていくのが分かった。

 突然、すぐ真横に雷が落ちたような激しい轟音がロトの身体を揺らした。あるいはそれはまじかで大砲を撃たれたような衝撃だった。あまりの衝撃に彼は立っていることが出来ずにその場に膝を着いた。

 なんだっ⁉ と驚く暇もなかった。轟音と衝撃は一度だけにとどまらず何度もロトの身体を揺らしたのだった。

 ロドリゴと見張り番も、地面に膝を着いた状態で突然の事態に戸惑っていた。彼らは空を見上げて呆然としていた。ロトも彼らの視線を追った。

 そして己の眼に飛び込んできた光景に身を震わせた。空には濛々と黒い煙が幾つも昇っていた。火元は街中だった。街中から恐慌の悲鳴が上がっていた。

「まずいぞ……まずいぞ!」

 ロドリゴがよろめきながら叫んだ。

「敵襲だ!」

 しかしロトにはロドリゴの言葉は聞こえていなかった。混乱と現実とは思い難い光景に身体が上手く動かなかったのだ。理性が現状を正しくするまでに時間を要している中で、心はただ一つのことを叫んでいた。それはベロニカの下に行け! ということだった。

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