【14.5】~侍女の使命~

 ローザはラフマニノフの屋敷で働き始めてからほぼ毎日、なんて嫌なところに来てしまったんだろうと嘆いていた。豪華絢爛な正門扉に、その扉から家の玄関まで小さな家が二軒立つのではないかという無駄に大きな前庭。そして家の中には彼女の体ほどの大きさのある絵画が壁に規則正しく並べられていたり、天井からは一体幾つのガラス細工が使われているのか見当もつかないシャンデリアが吊るされている。屋敷の所々に――あからさまに見せびらかすように――置かれている陶器もきっと想像もつかないほどの金額に違いない。成金丸出しの悪趣味な屋敷だ、と彼女は働き出したその日のうちに心内で呟いた。

 さらにローザが我慢しがたいことは、この屋敷の当主だった。彼の言動の端々からは『ラフマニノフの家を誇りに思っている』という感が滲み出ているのだった。それは侍女にワインを注がせるときや、食事の用意をさせるとき、あるいは簡単な雑務をさせる際などに出ていた。彼女は当主の態度を見るたびに、胸中にもやもやとした黒い吐き気が渦巻くのだった。それは彼女に悪態を吐かせた。多くがラフマニノフ家を貶すものだった。

 当主の命令に黙って従っている侍女たちにも、ローザはいらいらした。侍女たちもラフマニノフの家で働けることを誇りに思っていたからだった。

ラフマニノフという名の家に誇りを抱くという感覚がローザには理解できなかった。三権採決権を持つ貴族に最初になった十家のひとつ。それがラフマニノフ家であることは、この国に住むものならどんなものでも(それは貧民街の子どもたちも含めて)知っていることだった。多くの人々はそれを素晴らしいことだと言い、十家を敬った。けれどそれのどこが素晴らしいのか、彼女には分からなかった。最初の十家に選ばれたことだって、たまたま運がよかっただけではないのか。この王国の建国に尽力したという話が事実であったとしても、それはわたしが生まれるはるか前のことであり、そんな過去の偉業をいつまでも誇り、偉そうにふんぞり返っているというのは、一体どういう了見か! そんな過去の栄光を持ち出すのなら、今日々を死にかけている人々を救済することに力を注いだ方が何百倍もいいことのように、彼女は考えていた。けれどラフマニノフ家の当主は、それをしない。この屋敷の家財の半分でも売り払えば、貧民街の多くの人々を貧しさから救えるというのに、それをしない。持てるものは持てないもののために力を振るう責務があるはずなのに、それを放棄して、誇りだけを振りかざしてくる彼らの、一体どこを敬えばいいというのだろうか。

 ローザにとって幸いなことは、当主の娘であるベロニカと関わることが多い役職につけたということだ。これがもし、当主と毎日関わるような仕事をあてがわれていたら、きっとストレスで死んでしまっていたのではないだろうか。

「本当に嫌な役回りを押し付けられちゃったな」

 彼女はベロニカの髪を整え終えると(今日の彼女はやけに気合の入った表情をしていた)、散髪用のハサミをくるくると指先でもてあそびながら一人呟いた。



    ☆



「ローザ」

 ベロニカの部屋を出て廊下を歩いていると、声を掛けられた。ローザが振り返ると、侍女長がいた。彼女はすらりと背が高く、背筋が常にピンと伸びていた。来ている使用人用の服には皺などは一切なく、その居住まいから彼女の潔癖さが伺えた。

ローザは一目見た瞬間、侍女長とはそりが合わないであろうことを悟っていた。

「これは侍女長。お疲れ様です」

 ローザはげんなりしながらも、そんなことはおくびにも出さずに言った。

「何か御用でしょうか」

「お嬢様から話は伺っていますよ。あなたの整える髪形を大変気に入っておられました。よく働いていますね」

「……ありがとうございます」

「あなたが働き出してから今日で一週間ほどが経ちます。もうお屋敷ここにはだいぶ慣れましたか?」

「……そうですね。ご主人様やお嬢様、侍女仲間の方々にもよくして頂いているので、だいぶ慣れましたよ」

 ローザは少し考えてから答えた。

「ただ、このお屋敷はとても広いので、まだ時々迷ってしまうくらいでしょうか」

「あなたはお嬢様のお世話を担当することが殆どですからね。お屋敷全体に関わる仕事はあまり任せていませんからそれも致し方がないでしょう。しかし大丈夫ですよ。いずれ覚えますから」

「はい、そうですね」

 ローザは笑顔で頷く。

「足止めをしてしまって申し訳なかったわね。ごめんなさい。少し様子を見に来ただけだから、気にしなくて結構よ」

 侍女長はそう言うと、別の侍女に呼ばれて、そちらの方に行ってしまった。ローザは辟易しながら彼女の後姿を見送った。相変わらず癪に障る女だなと思った。

 ローザにとって、侍女としての仕事は心底どうでもいいことだった。美容師としての仕事にだって、誇りや矜持といったものは一切持っていなかった。たまたま手先が器用で、美容師としての資質があったに過ぎない。そんなことよりも彼女にははるかに重要な使命があった。それは貴族の屋敷に侵入し、屋敷で得た情報や貴族たちの動きをマタティアたちに伝えるというものだった。

 住み込みで働く侍女には、屋敷の一室に部屋をあてがわれていた。二人部屋だった。ローザは自分の部屋に戻ると、まず同室の侍女が仕事でいないことを確認した。それから自分の机についた。机は数冊の本と、ちょっとした事務作業が出来る程度の小さなものだった。けれど机には引き出しが二つ付いていて、それぞれに鍵が欠けられるようになっていた。

 ローザは首から下げていた鍵で、引き出しの錠を開けた。中から一枚の羊皮紙を取り出す。ペンですらすらと真っ白な紙を文字で埋めていった。内容は、これまでに仕入れることの出来た情報などだった。書き終えるとそれを人差し指ほどの大きさに丸めて、それがちょうど収まる程度の小さな筒に入れた。さらに誰にも中を開けられることのないように厳重に封をする。

 何食わぬ顔で部屋を出て、中庭に出た。途中で侍女たちとすれ違っても笑顔で挨拶をした。ローザには怪しまれているかもしれないという恐怖感は一切なかった。緊張や恐怖に動じないというのも彼女の強みの一つだった。

 屋敷を囲う鉄柵の元まで行くと、鉄柵の下に掘ってある小さな穴の中に小さな書簡を埋めた。後はしばらくして回収係の仲間が埋められている書簡を回収しに来る手はずになっているのだった。

 最後に周囲に人の眼がないことを確認して、ローザは屋敷に戻っていった。今日も彼女は自分の与えられた使命を果たしたのだった。

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