【8】

 舞踏会は主催する貴族の家で行われるのが通例だった。その日会場になった家はエーベルレ家で頻繁に舞踏会を主催する家でもあった。会場となる大広間はとても広く、人が何十人と入ることが出来た。入口の対面にある一段高くなった場所ではオーケストラが既に演奏を始めていた。美麗な音色が会場内に流れていた。けれど彼らの演奏に耳を貸す者は少なかった。多くの人々は頻りに今日の舞踏会に集まった貴族たちと言葉を交わしていた。

 ベロニカの下に係の人が白ワインを持ってきた。会場にいる人々全員が手にグラスを持っていた。

「ごめんなさい。私はお酒をまだ飲めないの。他のものを頂けるかしら」

 ベロニカは言った。係の人は失礼しましたと言ってすぐに代わりの葡萄を絞ったジュースを持ってきた。

「ありがとう」

 ベロニカが会場に入ると自分に視線が集まるのを彼女は感じた。彼女にとってはこれはいつものことだった。赤いドレスを身に纏ってドレスアップをした彼女の美しさは普段以上で、まるで独特のオーラを放っているようですらあった。彼女の父親はそれを誇りに思っていた。けれど彼女はまるで見世物みたいと思った。

「まずはヴィオッティ殿に挨拶をしに行くぞ」

 父親が言った。

「ご子息も共におられるはずだから、ちゃんとご挨拶をするのだ」

「……はい」

 父親は貴族や給仕が多くいる会場から目敏くヴィオッティ家の当主の姿を見つけ出した。他の帰属に話しかけられても会釈をするにとどめ、彼は足早にヴィオッティの前に歩み出た。

「ヴィオッティ殿、ご無沙汰しております」

「……おお、これはラフマニノフ殿ではないか。会えてうれしいぞ」

 父親とヴィオッティ家当主の男性は固く握手を交わした。

「そちらの娘さんはどなたかな?」

「はっ。わたくしの愚女になります。名をベロニカと申します」

「ベロニカと申します。どうぞ、お見知りおきを」

 ベロニカは父親の紹介の後に丁寧に一礼した。当主の男性はほぉと口元に手を当てた。

「なるほど、噂通り美しいお嬢さんだ。こんにちは、ロベルト・ヴィオッティと申します。ヴィオッティ家の当主をさせてもらっている」

 ロベルトは言った。

「すまないね。息子は今、席を外しているんだ。けれどすぐに戻ってくるから、その時に息子のことは紹介しよう」

「はい」

 そうして父親とロベルトが談笑しているのをベロニカはそばで聞いていた。どうということはない、ただの雑談だった。

 しばらくするとオーケストラの音楽が止んだ。オーケストラの前にふくよかな男性が歩み出た。ベロニカも顔を知っている彼はエーベルレ家の当主で今日の舞踏会の主催者だった。彼は最初に今日の舞踏会に集まってくれた諸貴族への感謝を述べた。そして舞踏会を存分に楽しんできてほしいと締めくくった。

 会場から拍手が上がり、オーケストラの演奏が再開した。

 会場の中央では男女のペアが何組か、既にダンスを踊っていた。周りではそれを眺めている人々もいれば、ベロニカの父親のように会話をしている人々もいた。

「お父様」

 ベロニカは頃合いを見計らって言った。

「少し風に当たって来てもよろしいですか? なんだか熱気に中てられたようで」

「……分かった。けれど、ヴィオッティ殿のご子息が戻られたお前も戻ってくるのだ。いいな」

 ロベルトの息子は一向に戻ってこなかった。これにはロベルトも少し困った様子だった。

「分かりました」

 とベロニカは言って父親から離れた。

 そのままベロニカは誰かにダンスの相手として声を掛けられる前にバルコニーに出た。腰ほどの高さの柵に肘をついてため息を吐いた。分かっていたこととはいえ、やはり舞踏会というのは好きになれなかった。堅苦しい形式や社交辞令に縛られて、本来の自分ではない自分を演じているという感覚に襲われて息が詰まりそうになるのだった。父親はそんな彼女の心のうちなど全く気にしたことなどなく、彼女のことを舞踏会やあらゆる貴族たちとの出会いの場に同席させた。すべては彼女が美しくて、他の多くの貴族の目を引くからだった。美しいというのはそれだけで他の貴族へのアピールとなるのだった。それがまた彼女の心をすり減らした。私はあなたの宝石じゃないのよ。

「はぁ、ロトといる方が何倍も楽しいなぁ」

 ベロニカは思わず呟いていた。

「それはお友達ですか?」

 ふいに後ろから声を掛けられた。ベロニカは独り言に返事があって驚いて後ろを振り返った。そこには爽やかな笑みを湛えた好青年がいた。美しいブロンドヘアが窓から洩れる光に照らされてきらきらと輝いていた。彼は左手にワイングラスを持っていて舞踏会の参加者であることが分かった。

「あっ……いえそのこれは……」

 恥ずかしい独り言を聞かれてベロニカは困った。こんなところでラフマニノフの娘が舞踏会の愚痴をこぼしていたなどということが広まってしまえば大変なことになると思ったのだ。

「実は僕も舞踏会というのはあまり好きじゃないんですよ」

 青年が言った。その歯に衣着せぬ口調は貴族には珍しいものだった。

「こういった場に多くの貴族は己の野心が見え透いていて気持ち悪い。だから外の空気を吸いに来たんですが、そうしたらあなたがいたんです。僕と同じような考えをお持ちの方のような気がして思わず声を掛けてしまいました。驚かせたなら申し訳ありません」

「いえ、そんな……」

「あの、よろしければご一緒をしてもいいですか?」

「はい……どうぞ」

 ベロニカは少し右にずれた。青年が彼女の横に来た。青年は背が高かった。そこで彼女は青年のことを今まで舞踏会で見かけたことがないことに気が付いた。

「その、失礼ですが舞踏会にはあまりいらっしゃらないんですか? その今までお見かけしたことが無くて」

「父はたまに参加しているようですが、僕はほとんど足を運んだことはありません」

 青年が答えた。

「あなたは?」

「私は、お父様に連れられてよく来ます。エーベルレ様の主催する舞踏会にももう何度もうかがっています」

「それはかわいそうに」

 青年が言った。ベロニカは面食らった。本当にこの人は歯に衣着せない。

「かわいそう、ですか?」

「だってあなたは舞踏会があまり好きではないのでしょう?」

「それは……」

 ここでそんなことはないと家のために嘘を吐くことはベロニカには出来なかった。

「好きでもないものに連れまわされるというのは苦痛ですよ」

 ベロニカはどう答えればいいのか分からなくて曖昧な笑みを浮かべるしか出来なかった。

「……でもそれは仕方のないことだと思います」

 ベロニカは言った。

「お父様は私に家の名にふさわしい立ち振る舞いを求めます。それは貴族に生まれた娘としての宿命だと思っています。それでも疲れてしまった時はこうして休んでいるのです。あなたのお父様はどうですか? あなたに貴族としての在り方を求めたりはしないのですか?」

「僕は、家や貴族としての在り方などと言う格式に縛られず、人はもっと自由であるべきだと思っています。そしてその考えを父にも伝え、了承を得ています。ですから僕は比較的自由に行動しているんですよ」

「それは……とても羨ましいです」

 ベロニカは心に思い浮かんだ想いをあまりにも自然に口にしていた。

「確かに僕は恵まれた家に生まれたのかもしれません。僕の考えを受け入れ、自由を許してくれるほど寛容な貴族の家は珍しいでしょう」

 青年はやさしい微笑みを湛えた。

「けれどそれだけです。きっと多くの貴族の家のようにしきたりや格式を重んじる家に生まれついていたとしても、僕は自由を求めて、手に入れようとしていたことでしょう。ですからあなたも、本当に自由を求めるなら手に入れられるはずですよ。人は誰でも自分の人生を歩んでいけるのです。それを邪魔する権利は、たとえ王族であろうともありはしません」

「……こういうことを言っては失礼かもしれませんが、あなたは本当に貴族らしくないですね」

「よく言われます」

 青年は言った。

「まあ、こんなところにいらしたんですね」

 何人かの貴族の女性たちがバルコニーにいる青年を見つけて声を掛けた。

「急にどこかへ行かれてしまうからお探ししたんですよ」

 彼女たちの視線は青年に一身に集中して、熱を持っていた。青年は困ったように眉根を下げた。

「それは……失礼しました」

「いいえ、いいんですのよ」

 女性のうちの一人が一歩進み出ると青年の腕に自分の腕を絡めた。他の女性たちから顰蹙ひんしゅくの声が上がったが彼女はそんなことを気にせずに言った。

「そんなことよりも、わたくしと一緒に踊りませんか? こんなところにいるよりもきっとお楽しみいただけると思いますよ」

「残念ですが、遠慮させていただきます」

 青年が言った。女性たちは驚いて目を見開いていた。

「今は彼女と話をしているので」

 そこで女性たちは初めてベロニカの存在に気が付いたようだった。誘いを断られた女性は自分に恥をかかせたベロニカにかっとなった。

「で、ですが……この方だけあなたとお話が出来るというのは少しズルいですわ。わたくしたちだってあなた様とお話がしたいのですよ」

「そうだわ。ならわたくしどももそのお話にご一緒させていただくというのはいかがでしょう!」

 違う女性が言った。

「申し訳ありません。僕は彼女と二人きりでお話がしたいのです」

 青年が言った。

「それに僕と彼女のお話を皆さんが聞かれたら、多少なりとも不快な思いをされるかもしれませんから」

 女性たちはますます不愉快になった。彼女たちの鋭い嫉妬の視線がベロニカに突き刺さった。ベロニカは肩を小さくして縮こまっていた。

 結局女性たちは青年にすげなくあしらわれてどこかへ行ってしまった。

「あの、よろしかったんですか?」

 ベロニカが訊ねた。女性たちが去っても声は少し小さくなっていた。

「少しくらい、あの人たちと踊ってさしあげてもよろしかったのではないですか? あまり無下にしては彼女たちも可哀想ですよ」

「どうも、僕はこういった場に来ると踊りに誘われることが多いんですよ。まあ、あまり舞踏会に顔を見せないので物珍しいのかもしれませんが、彼女たちには悪いですが、少々うんざりしていたんです」

「……それは、物珍しいとかそういうことではないと思いますけど……。あなたはとてもその、凛々しい方ですから、多くの女性はお近づきになりたいと思うのだと思います」

 ベロニカが言った。

「それは……なんだか照れますね」

 青年は所在なさげに目を泳がせた。

「そんなことを言われたのは初めてです」

「そうなんですか?」

「はい。今までそんなことを言われたことはありませんでした。もっともあまり人前に出ることがないということもあるのでしょうが」

 青年はワインを煽った。眼下で煌めく街並みを見る瞳が細められる。

「実は今日もこの舞踏会には参加しないつもりだったんです」

「……ではなぜいらしたんですか?」

「朝、目が覚めたら唐突に今日この場所に来るべきだという気がしたのです。来てみて良かった」

 青年はベロニカに向き直った。

「あなたのような方にお会いできたのですから。僕の人生において、あなたのような方は今まで見たことがなかった」

 普通の人が言えば何を歯の浮くような台詞を、と思うのかもしれなかったが、青年が口にすれば不思議と様になっていた。ベロニカは思わず頬を染めた。

「そんなこと……」

 ベロニカは青年から視線を切った。

「私も、あなたのような方は初めてです。私のような女はきっと大勢います。ですがあなたのような方はきっといません」

「それなら僕はこの幸福な偶然に感謝しなければなりませんね」

 青年は言った。

「多くいる女性の中からあなたに出逢えたのは僕にとって幸いでした」

「っ!」

 これほどこの台詞が似合う人がいるだろうかとベロニカは思った。

「あ、あまりそんなことを女性に言ったりしない方がよろしいかと思いますよ」

 ベロニカは言った。

「きっと多くの女性は勘違いをしてしまいますから」

「勘違い?」

「ですから……その、自分に気があるのだと……」

 ベロニカの言葉を聞いて青年は今更ながらに気が付いたように苦笑を浮かべた。

「それは……気を付けなければいけませんね」

 青年は言った。

「けれど、僕のあなたに抱いた感想に間違いはありませんよ」

 どこまでも変わらない青年の態度にベロニカは、そう言うところですと内心で呟いた。

 室内から聞こえてくるオーケストラの曲調が変わった。

「曲が変わりましたね」

「そうですね……」

 青年の言葉にベロニカは頷いた。まだまだ舞踏会は続くらしかった。青年はベロニカに首を垂れると手を差し出した。

「えっ……⁉」

「どうでしょう。僕と一曲踊ってみませんか?」

 驚くベロニカに青年は言った。

「あまりこういった場が好きではないといいましたが、あなたと踊るのなら悪くなさそうです。もちろん、断っても自由ですよ?」

 最後は冗談めかした青年の誘い方は、本当に多くの貴族たちのそれとは違った。堅苦しさも息苦しさも感じない誘い方だった。彼の誘いを断る理由は、ベロニカには無かった。

「いいですよ。あなたみたいな変わった方と踊るだなんて、きっともうないでしょうし」

 お返しとばかりに冗談めかしてベロニカは言った。そして青年の手を取った。

 ホールに戻ってダンスの輪の中に混ざると、ベロニカと青年はあっという間に注目を集めた。青年は凛々しい好青年で、ベロニカは美しかった。これ以上ないお似合いの二人だった。

 青年のリードはやさしく丁寧で、ベロニカを安心させた。

「舞踏会にあまり来ないだなんてなんだかもったいないくらいダンスがお上手ですね」

「あなたもなかなか上手ですよ」

 ベロニカと青年は音楽に身を委ねながら言葉を交わした。

 オーケストラの演奏が終わるとベロニカと青年もダンスをやめた。途端に割れんばかりの拍手が巻き起こった。ベロニカは恥ずかしがりながらもぺこぺことお辞儀をした。

「楽しかったです。ありがとう」

 青年が言った。

「私も、楽しかったです」

「そういえば、僕たちはまだお互いに名乗っていなかったね」

 青年が気が付いた。

「どうやら僕はそんなことが全く気にならなくなるくらいに、あなたとの時間を楽しんでいたみたいだ」

「私もです。こんなことは今までで初めてです」

 ベロニカは言った。

「では改めて挨拶させていただきますね。私はベロニカと申します。ラフマニノフ家の娘です」

「アダム・ヴィオッティです」

 青年が言った。

「今日は本当に来てよかったです」

 ベロニカは驚いた。この青年こそがヴィオッティ家の子息だったのだ。

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