【7】

 翌日ロトから試験の結果を聞いたベロニカは飛び上がって喜んだ。

「ねえ! だから言ったじゃない! あんな人、あなたの敵じゃないんだから!」

「……運がよかっただけだよ」

 ロトは言った。

「あの人は強かった。多分次やったら負けるのは俺だ」

「何よ。念願の騎士への一歩がやっと踏み出せたっていうのに、嬉しくないの?」

「嬉しいよ。嬉しいけど、もろ手を挙げて喜べるほど俺とあの人の間に決定的な実力差はなかったから」

 すると、ロトとベロニカの会話を眺めていたジオが口端を上げて笑った。

「少年! お前さんは凄いことをやってのけたって自覚が少しばかり足りないようだな」

 ジオは言った。

「いいか? 剣を握ってたった半年の少年が生まれたころから剣を与えられていた奴に勝ったんだ。普通じゃありえないことだぞ。なのにその上実力差まで求めるっていうのは少し欲張りすぎってもんだ。運がよかった? 運も実力のうちだ。今ぐらいは胸を張ってもいいんじゃないか」

「……はい」

 ロトはジオの言葉を噛みしめて、頷いた。彼はジオの言葉が決して自分の力を過信していいということではないということを理解していた。彼は胸を張ってもいいが、自分が他の者たちより劣っているということを忘れてはいけなかった。過ぎ去った時間は戻らず、彼が剣を握らずに過ごした数年間を取り戻すことは出来ないのだ。

「それじゃあ、お祝いをしましょうよ!」

 ベロニカが言った。

「嬉しいことがあったらお祝いをするものよ。そうだわ、ロトのお家には今お母様がいらっしゃるのよね?」

「ああ……」

「なら、ロトのお家でお母様と一緒にお祝いをするのがいいわ。そうしましょう!」

「おいおい……そんな勝手に……」

「私、おいしい料理を作ってあげるから」

「ベロニカの料理……」

 ロトはごくっと喉を鳴らした。ベロニカは最近めきめきと音がするほどに料理の腕が上達しているそうで、彼女が作ってくる弁当も最近では凝ったものが多くなってきていた。いつもは少し冷めてしまっている料理――それでも十分美味しいのだが――の出来立てが食べられるというとても魅力的だった。

「……わかった。でも! 美味しい料理を頼むぞ」

「任せてよ!」

 ベロニカはこぶしを胸に押し当てて言った。花が咲いたような満面の笑みだった。

「ムロディナウ殿も一緒にいかがですか?」

「いや、俺は騎士団の仕事があるからな。残念だが今回は遠慮させてもらおう」

 ジオは最後によくやったとロトに言って、去って行った。彼を見送ってからベロニカは、

「それじゃあ私たちも行きましょうか」

 と言った。



    ☆



 ベロニカはロトの家に行く前に市場に寄ることにした。食材を買うのだった。市場には多くの人々がいて、その人々の数よりもさらに多い品々が売り買いされていた。

「ロトはどんなものが食べたいの?」

 ベロニカが訊いた。

「あっ、でも私が作れるものにしてね。私、まだそんなに難しいのは作れないから」

「何が難しいのかよく分かんないだけどな……。そもそもベロニカはどんなものが作れるんだ?」

「お弁当で作ったものなら作れるわ」

 ロトはベロニカが作ってくれた弁当のレパートリーを頭の中で思い出してみた。最初に作ってくれたサンドイッチを筆頭に様々な弁当を持ってきてくれていた。

「でもせっかくだから今まで一度も作ってあげたことのないものを食べてもらいたいかも」

 ベロニカが露店に並べられた食材を物色しながら言った。彼女は一つの野菜を指さした。

「おじさん、これはいくらするの?」

「そうだなぁ。そいつはこの時期は収穫量が少なくて少しばかり高くなってるんだが、お嬢ちゃんはべっぴんさんだからおまけしといちゃるよ。銅貨五枚だな」

 ロトは値段を聞いて目を剥いた。彼の一日の食事代は母親と合わせても銅貨一枚だった。銅貨一枚では碌なものは食べられなかったが、彼の生活ではそれが限界だった。それがただの野菜に銅貨五枚とは!

「ベロニカ! そんな高いものは買わなくていい!」

 ロトは慌てて頭を振った。

「もっと安いものを使ってもベロニカが作ってくれれば間違いなくおいしくなるって!」

「大丈夫よ」

 ロトの慌てふためきようを他所にベロニカはにこやかに言った。

「じゃあおじさん、これを一つちょうだい」

「はいよ!」

 ベロニカは店主から銅貨五枚の野菜を受け取るとバスケット籠に入れた。

「ベロニカ!」

 ロトは叫んだ。思わず厳しい口調が出て自分でも驚いた。

「な、なによ……」

「……お金は大切にしなくきゃだめだ。俺なんかのために銅貨五枚なんて払うことないんだよ」

 ベロニカは最初驚いた顔をしていたが、すぐに口元を緩めて穏やかな笑みを浮かべた。そして言った。

「あら、私はロトのためなら金貨百枚だって惜しくはないわよ」

 ベロニカの笑顔はロトにそれ以上文句を言わせてくれなかった。



    ☆



「ただいま」

 ロトは家の扉を開けた。中では母親は織物の仕事をしていた。彼女は手元から顔を上げて息子を笑顔で出迎えた。

「今日は随分と早いわね」

 母親は言った。それからロトの後ろにもう一人いることに気が付いた。

 ベロニカは一歩前に進み出ると深くお辞儀をした。

「初めまして。ベロニカと申します。ロトくんとは親しくさせていただいています」

「こ、これはご丁寧にどうも……」

 母親はあたふたしながら立ち上がって挨拶をした。

「き、汚いところでごめんなさいね。それで……今日はどう言った御用かしら?」

「ロトくんが憲兵隊の入隊試験の合格したお祝いをしたいと思いまして、手料理を振る舞おうと思ったんですが、折角ですからお母様とご一緒にお祝いをしたいと思いまして……あの、ご迷惑でしたか?」

「そんなことないわよ!」

 心配するベロニカに母親は頭を振った。

「ロトのためにわざわざありがとう。ささ、早く中に入って」

 ベロニカは家の中に入るとすぐに台所に向かった。ベロニカの屋敷とは違って、簡単な調理道具しかなく、調味料もほとんどなかった。調味料も一緒に買いだしておいてよかったと彼女は思った。

「じゃあすぐに作ってあげるわね」

 ベロニカはそう言って調理を始めた。料理を作っているとロトの母親が話しかけて来た。

「ベロニカさんは息子とどこで出会ったんですか?」

「ここから少し離れた町の外れの森の中にもう今は使われていない教会跡があるんですけど、そこで出会ったんです。ロトは剣の練習をしていて、その音に気が付いて私が彼を見つけたんです」

「この子、何か失礼なことはしなかったかしら?」

「そんなこと訊かなくていいって」

 ロトが言った。彼は二人の会話を聞いているとなんだか居心地が悪くなった。

「だって、あなたが女の子の友達を連れてくるだなんて初めてなんだもん。お母さん気になっちゃって」

「だからって訊かなくていいんだよ」

 照れているロトが可愛くてベロニカは彼に気が付かれないように笑った。

 料理はあっという間に完成した。肉と野菜が入っていてホワイトソースがおいしそうなシチューだった。その他にもお祝いに相応しい料理が二、三品、テーブルの上に並んだ。

「驚いたわ。ベロニカさんって料理がとってもお上手なのね」

 ロトの母親はシチューを一口食べて言った。

「そんなことないですよ。まだ初めて少ししか経っていませんし……」

「でも本当に美味いよ」

 ロトが言った。ベロニカは嬉しくなった。

「今度はちゃんと褒めてくれたわね」

「……どういうこと?」

 母親が訊ねた。ベロニカは初めてロトにサンドイッチのお弁当を振る舞った時の話をした。

「それで、ロトったら私の料理の腕じゃなくて素材の味を褒めたんですよ? ひどくないですか?」

 ベロニカは冗談めかして言った。母親はバツが悪そうにしている息子に呆れた。

「……これって俺のお祝いだよな。なんだか俺を置き去りにしてベロニカと母さんが楽しんでるような気がするだけど……」

 ロトは目の前で会話に花を咲かせるベロニカと母親の光景に思わずぼやいた。



    ☆



「今日はとっても楽しかったわ。また遊びに来てね」

「はい。ありがとうございました」

 ベロニカはもう帰らなくてはならない時間になり、家の外まで見送りに来てくれたロトの母親に頭を下げた。

「ロト、ベロニカさんを家まで送ってあげなさい」

 母親が言った。

「もう暗くなってきてるんだし、女の子ひとりじゃ危ないでしょ」

「元からそのつもりだよ」

 ロトはそう言って木剣を持つとベロニカの横に並んだ。昼間に比べれば街の喧騒も穏やかで、彼女は自然と隣を歩くロトの横顔を見つめて頬が緩んだ。夕暮れの空が街を包み込んでいた。

「今日は楽しかった」

 ベロニカが言った。

「楽しいお母様ね」

「……ほとんど俺の話だったけどな」

 ロトは遠い目をして言った。

「俺は針の筵だったぞ」

「そうかしら。私はお母様がロトのことを愛してるんだなってすっごく伝わってきたけど?」

「……」

 顔を背けた。ロトもそんなことは理解していて、ただ面と言われて恥ずかしいだけなのだとベロニカは思った。そんな二人の親子の関係を羨ましいと思う自分がいることに彼女は気が付いた。

「なあ、ベロニカ」

 ロトが言った。彼は顔を赤く染めていた。

「今度の週末って暇か?」

「えっ? ……別に大丈夫だけど、何かあるの?」

「その、なんだ……。俺が憲兵の試験に受かって、騎士になるっていう目標を目指せるようになったのもベロニカが教会跡でずっと応援してくれてたからだと思うんだ。だからその……今日はベロニカが俺のお祝いをしてくれたけど、今度は俺がベロニカにお礼をしたいんだ」

 ベロニカは驚いた。ロトは続けた。

「それで俺、こういうのってどうしたらいいのか分かんなくてさ。だからこんなんでいいか分からないんだけど、今度の週末、この街にサーカスたちが来るらしいんだ。だからそれを一緒に見に行かないか?」

「……サーカス?」

「お金の心配ならしなくても大丈夫だ。新しく憲兵に入隊する人たちには銀貨二十枚が支給されるらしいんだ。……どうだ?」

 ベロニカは嬉しくなった。ロトと一緒に出かけられるということもそうだったが、それ以上に彼の心遣いに喜んだ。

「もちろん!」

 ベロニカは言った。

「あぁ、今からすごい楽しみ!」

 ベロニカとロトは貧民街とそうではない人々が暮らす街の境目にやってきた。この境目より先は一般階級の人々の家々があり、そのさらに先――王城に近づけば近づくほど――貴族の屋敷が増えていくのだった。

「ありがとうロト。ここまででもう大丈夫よ」

 ベロニカは言った。出来ることならもう少しロトと一緒にいたかったが、屋敷まで送ってもらっては彼女が貴族の娘であるということがロトにバレてしまうのでそれは出来なかった。

「もう少し送るよ。ここまで来たんだし」

 ロトの言葉にベロニカは頭を振った。

「私の家はもうすぐそこなの。だからここまでで大丈夫よ」

「……そうか」

「次のお休み、楽しみにしてるわ」

 ベロニカはロトに手を振って別れた。一人になると彼女の顔から笑みは消えていた。週末はロトと二人きりで出かける。けれど楽しみの前には苦難を乗り越えなければならなかった。

 明日は以前から約束されていた舞踏会の日だった。

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