【9.5】~水面下の悪意~

 二人の少年は大勢の人が通りを行き過ぎるのを眺めていた。少年たちの名前はカインとエノクと言った。彼らは行商人が運んで来た商品をこの国で商売をしている商人の店に運び入れるという仕事をしている最中だったが、今は店主にバレないようにさぼっている途中だった。

 今まで見たことがないほど人通りが多い理由を彼らは知っていた。今日は別の国からサーカスたちが街にやって来ているらしいのだ。だがそんなことは彼らにはどうでもいいことだった。どのみち彼らは仕事でサーカスを見ることは出来なかった。

「なあ、知ってるか?」

 エノクが言った。

「ロトの奴、憲兵隊の入隊試験に受かったって話だぜ。貧民街じゃもっぱらの噂だよ。出世株だってさ」

「あいつの話はするな! 胸糞悪りぃったらありゃしない!」

 カインが唾棄した。

 彼らはしばらく前にロトに自分たちをこき使う店主を少し痛めつけてほしいとけしかけたことがあったが、ロトが思うように動かず腹を立てていた。さらに依然同じ仕事をしていたロトが憲兵隊に入り自分たちよりもいい仕事をするようになるということが彼らの不愉快さに拍車をかけていた。

 彼らが話していると突然後ろから頭を思いっきり殴りつけられた。頭を抱えてその場に蹲り、後ろを見やると店主が立っていた。

「この忙しい時にさぼってんじゃねえ!」

 店主が怒鳴った。彼の眼は滅多にない書き入れ時に血走っていた。

「無駄口を聞いている暇があるなら少しでも多く働け‼」

 店主はそう言った後、店に来た客に向き直った。客引きでガラガラになった声を精いっぱい猫なで声に変えて応対していた。

 カインとエノクは店主を睨み付けた後、荷馬車に残っている荷物を見やった。もう半分は出したと思っていた荷物は、まだ三分の二ほど残っていた。さらに荷馬車は一台ではなく、何台も先に続いていた。彼らの仕事は仕事として認められる中では最底辺に位置するもので、貧民街出身の人々が働いていることが多かった。一日中汗だくになって働いても得られる賃金は銅貨一枚か二枚だった(店主のさじ加減によって多少変動する)。一般に人が最低限まともな生活をするのに一か月に必要な賃金はおよそ銅貨750枚だった(銅貨百枚は銀貨一枚に相当する。なのでこの場合ひと月の生活費には銀貨七枚と銅貨五十枚が必要ということである)。最低限の生活でそれほどの生活費が必要だというのに、彼らがこの仕事どんなに頑張ったところでひと月で得られるお金は銅貨三十枚かそこらだった。つまり多くの人が働いてもらっている賃金の四パーセントほどしか得られていないということだった。やってられるかと彼らは思った。

 しかしどんなに少ない稼ぎでも、食いつないでいくにはこの仕事を続けるしかなかった。多くの貧民街の住民がこういった生活を余儀なくされていた。

 カインとエノクが次に店主に殴られたらその場で殴り返して、もう二度とこの店主の下では仕事をしないように内心で決めていると、エノクが通りを行く雑踏の中にロトの姿を見つけた。

「おい、見ろよ。ロトの奴だ」

 エノクが言った。カインもエノクが指をさす方を見やった。確かにロトの姿があった。

「ちっ、俺たちがこうして汗だくで働いてみじめな思いをしてるってのに、あいつはいい御身分だな」

 カインが悪態を吐く。

「ああ! むしゃくしゃする! おいエノク、今日この仕事が終わったらもう一度野郎を袋叩きにでもする――……?」

 言葉の途中でカインは相方の様子がおかしいことに気が付いた。エノクは眼を見開いてある一点を見つめていた。それはロトの真横だった。

 カインもあらためてエノクと同じ場所に視線を向けた。そして息を呑んだ。ロトの横には小綺麗な身なりで、美しい容姿の少女が寄り添って歩いていたのだ。

 カインは信じられない思いだった。

「ははっ……」

 と乾いた笑いが零れた。カインの中で何かが決定的に歪んだ音が聞こえた。一体、俺とあいつで何が違うのだと彼は思った。同じ貧民街で生まれ、同じ仕事してきたというのに、何故あいつには様々なものが与えられ、俺には何も与えられないのか。何故、あいつばかりが恵まれて、俺の状況は一切好転しないのか。

 すると嫉妬心が彼にある光景を見せた。それはロトが裕福になり、母親とロトの隣を歩く美しい少女が幸せに笑い合っている光景だった。心はもう一つ彼に光景を見せた。それは彼自身が汚物に塗れながら泥水を啜っている光景だった。

 カインは自分の心が何か恐ろしいものに支配されて行くことを感じていた。それは殺意だった。

「カ、カイン……?」

 エノクが言った。カインのことを見つめる彼の表情は恐怖におびえていた。カインは自分がどんなに凄絶な表情を浮かべているのか分からなかった。

 殺意が囁くままに、カインがロトに狂気を向けようとした。しかし一人の中背の男性が彼の前に立ちはだかった。

「君たちはこの店で働いているのかな?」

 男性は柔和な笑みを浮かべて訊ねた。カインが鋭い眼光で男性を睨み付けた。彼は今、自分の行く手を阻まれたことに対して途轍もない怒りを抱いていた。

「たった今、俺とこの店との関係は切れた」

 カインは言った。

「ようがあるなら他に行け。そしてとっとと俺の前から失せろ。俺は今気が立ってるんだ。邪魔すんならお前も殺すぞ」

「はは、それは怖いな」

 男性はカインから殺気を向けられても平然としていた。その態度が更にカインの癇に障った。彼は素早い動きで男性に襲い掛かった。間違いなく、本気で殺しにかかったのだ。

 しかしカインは男性に腕を取られると、いとも簡単に投げ飛ばされ、宙を舞った。

「かはっ……‼」

 背中から地面にたたきつけられ、肺の空気が根こそぎ抜けた。カインは殺意も忘れ、茫然と空を見上げていた。一連の男性の動きは捉えていたが、どうして自分がいとも簡単に投げ飛ばされたのか理解出来ていなかった。

「随分と威勢がいい」

 男性は寝転がったカインを見下ろして言った。

「若者はそれくらいの方がいい。断っておくが私はこの店の客ではない」

「……っ」

 エノクは目の前で繰り広げられた出来事に理解が追い付かず茫然としていた。男性と眼が合い彼は息を詰めた。

「私は君たちにこんな店で働くよりもはるかに有意義で、やりがいがあり、成功すれば巨万の富と名声を得られる仕事を紹介しに来たんだよ」

 男性は変わらない口調で言った。



    ☆



 カインとエノクが男性に連れられてやってきたのは、街の一角にあるとある小さな家だった。小屋の中には数人の男女がいた。誰が見ても普通にまともに生きている人間ではないと直感できる者から、どこにでもいる普通の人間に見える者もいた。カインとエノクはこの場では後者だった。

「マタティア、そいつらは?」

 部屋の中にいた一人が言った。

「街で見つけた。中々見どころがありそうだ。使えると思うぞ」

 マタティアと呼ばれた男性が答えた。

「おい、ちょっと待てよ」

 カインが言った。

「俺たちは何も聞いてねえぞ!」

「その前に確認だ」

 マタティアは言った。

「君たちは私たちの仕事を手伝うのかどうかだ」

「その仕事の内容を聞いてんだよ」

「内容はたいしたことではない。重要なのは有意義で、やりがいがあり、成功すれば巨万の富と名声が得られる仕事を君が果たして手伝う気があるかどうかだ。もしないのなら我々の事は忘れてあの横暴な店主がいる店に戻るといい。もしあるのなら、君は我々の手を取ればいい。それだけのことだ」

 差し出されたマタティアの手を、カインは黙って見つめた。考えたのは僅かだった。

「分かった。手伝う」

「カ、カイン⁉」

 エノクが悲鳴をあげた。こんな怪しい話に乗るなどどうかしていると彼は言った。

「ここで逃げても後でどうなるか分からないだろ。どう見てもこいつらはまともじゃないが、成功してこいつの言う通りの成果が手に入んなら、俺はこいつらに付いて行く」

 カインの言葉にエノクは沈黙した。彼の表情には恐怖と不安が張り付いていた。

「よし、それじゃあ話は決まりだ」

 マタティアは言った。

「これで今から君たちは私たちの仲間だ。よろしく頼む」

「それで、あんたたちは何をしようってんだ? どうせまともなことじゃないんだろうが」

 カインが訊ねた。マタティアはそこで初めて、にやりと背筋が凍るような笑みを浮かべた。

「簡単なことだ。革命を起こすのさ」

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