【10】
「随分と嬉しそうですね」
ロトとサーカスを観に行ってしばらくしたころ、侍女であるメアリーが言った。
「そ、そうかしら……」
ベロニカはそんなに顔に出ていただろうかと思った。
「もうにやにやでしたよ」
メアリーは微笑ましげに言った。ベロニカはロトと共に出かけて戻ってきた日からずっと指にはめた指輪を眺めては、うっとりとして、時には指輪を撫でて頬を赤らめていた。
「でも、それは仕方のないことだと思うわ」
ベロニカは言った。
「この指輪があると、指輪を通してロトと繋がっているっていう気がするんだもの」
「そういえばお嬢様。その指輪についていた錠というのはどうしたのですか?」
「錠はロトと一緒に相談して教会跡に埋めて来たの。そして後にひと月後に一緒に掘り出すのよ」
けれど、とベロニカは言った。
「この指輪を錠に戻して川に沈めてしまうのは、少し残念な気もするのよね」
「では、その指輪を川に沈めた後に、もう一度ロトくんに指輪を買ってもらったらいかがでしょう」
「それはいい考えかも!」
「ですがこれには少々問題があります」
メアリーは表情を険しくした。
「いいですかお嬢様。男性が女性に指輪を送るというのは世間一般ではとても親密な間柄でないと滅多に行わないことなのです」
「し、親密……?」
「はい。指輪とは仲のいい友達に送る程度のものではないのです」
「じゃ、じゃあ一体どういう間柄でならいいの?」
ベロニカは訊ねた。するとメアリーはにやりと含みのある笑みを浮かべた。
「世間一般では、指輪とは恋人たちが送り合うものなのです」
「こ、恋人!」
「お嬢様のお話をお聞きする限り、お二人はいまだ『仲のいい友達』の域を出ていないように思われます。ですから、お嬢様!」
メアリーはベロニカに迫るように言った。
「お嬢様がロトくんから指輪を受け取るためには、ひと月後までにロトくんと恋人かそれに準じるまでの間柄にならなくてはならないのです!」
矢継ぎ早に述べられた侍女の言葉に、ベロニカの顔は火を噴くのではないかと思うほど熱くなった。
「こ、こいびと……」
ベロニカはメアリーから眼を逸らして俯いた。
「でも、そんなこと急に言われても私、どうしたらいいのか……」
「大丈夫ですお嬢様! このメアリー、ここまで関わったのですからどこまでもお嬢様にお力添えをする所存でございます!」
メアリーはどんと自分の胸を叩いて言った。ベロニカはこの親身な侍女の表情がどこかわくわくして知ることに気が付いた。
「……ねえメアリー」
ベロニカは言った。
「あなたちょっと楽しんでない?」
「えっ? ……そ、そんなことありませんよ‼ ほんとです!」
「……本当かしら?」
「本当の本当です!」
そんなやり取りをしていると、ベロニカの部屋の扉が勢いよく開けられた。ベロニカとメアリーはどきりとした。ノックもせずに入ってきたのはベロニカの父親だった。二人は彼に今の会話が聞かれていたのではないかと不安になったが、彼の表情は二人の懸念に反してとても機嫌のいいものだった。
「ベロニカ、すぐに支度をしなさい!」
父親は言った。ベロニカの言葉を挟む余地を与えずに彼は二の句を続けた。
「ヴィオッティ殿のお屋敷へ向かうぞ」
☆
ベロニカは馬車に揺られながら車窓の外を歩く人々を眺めていた。部屋に突然入ってきた父親にドレスを着るように言われると、状況も分からないまま馬車に押し込まれたのだった。
「お父様。これは一体どういうことでしょうか?」
ベロニカは対面に座る父親に訊ねた。馬車はヴィオッティ家へと向かっていた。
「この間の舞踏会は覚えているだろう」
父親は言った。
「お前はヴィオッティ殿のご子息と共にダンスを踊っていた」
「……はい」
「その光景を見ていたヴィオッティ殿が言われたのだ。曰く、ご子息があのように自ら女性をダンスに誘うようなことは滅多にないことなのだそうだ。そして息子をその気にさせた女性――つまりお前に興味がわいたとの事だったのだ。そして急ではあるが本日、ご子息とお前をゆっくりと合わせたいという旨の書簡が届いたのだ」
父親の説明にベロニカはそういうことかと納得していた。これからヴィオッティ家に向かう用事とはお見合いのようなものなのだった。そういう事情ならきっと父親は断ったりはしないだろうと彼女は分かっていた。もしヴィオッティ家の次期跡取りであるアダムと彼女の間に婚姻関係が結ばれれば、この国で有数の力を持つヴィオッティ家との間に強い絆が結ばれることになるからだった。それはラフマニノフ家にとってとてもいいことだった。彼女はそこまで考えて、一つ気掛かりなことがあった。アダムはこのことを知っているのかな?
やがて馬車はヴィオッティ家に着いた。ヴィオッティ家はとても大きかった。中庭には大きな噴水があって、生垣にはたくさんの薔薇が咲いていた。
馬車は屋敷の扉の前に横付けして止まった。馬車から降りると扉の外ではヴィオッティ家の現当主であるロベルト・ヴィオッティとその少し後ろにアダム・ヴィオッティが既に出迎えで立っていた。
「ようこそヴィオッティ家へ。美しいお嬢さん」
ロベルトが言った。
「お出迎え、感謝いたします。ラフマニノフ殿」
とベロニカの横から父親が言った。彼はロベルトと熱い握手を交わした。
ベロニカはアダムを見やった。眼が合うと彼は破顔して苦笑を浮かべた。どうやら今日のお見合いは彼もあまり望んだことではなかったらしいとベロニカは思った。
「こんなところで立ち話では申し訳が立たない」
ロベルトが言った。
「最高級の茶葉で紅茶を入れさせよう。きみたちは我が家の大切なお客様だからね」
「父上」
と声を掛けたのはアダムだった。
「ティータイムは先にお二人で初めていていただけませんか。僕は彼女にこの屋敷の薔薇園を案内してから行きます」
アダムはベロニカの手を取った。ベロニカは驚いて「えっ」と小さく漏らした。
「僕は彼女と二人きりでしばらく話がしたいのです」
するとロベルトはにこやかに笑った。
「ははは、お前がそこまで積極的になるとは珍しい。だがわたしも彼女とはあまり話せていないのだ。だからお嬢さん、ティータイムの時にはわたしの話し相手にもなってくれますかな?」
「は、はい……もちろんでございます」
「では行きましょう」
そう言ってアダムはベロニカの手を引いてその場を後にした。
二人の父親の姿が見えなくなると、アダムは手を放した。
「突然申し訳ありませんでした」
とアダムは頭を下げた。
「い、いえ! そんなことは……」
「初めに断っておきたいことがあったのです。ですから少々強引なやり方ではありましたがあなたと二人きりになりたかったのです」
アダムは言った。その瞳には真剣なまなざしが宿っていた。
「今回の件は僕の意とするところではありません。どうやら父は僕が舞踏会で特定の誰かと親しげにしていたことが、しかもそれが女性であったことが嬉しかったらしく、裏でこそこそとあなたの御父上に書簡を送っていたようなのです。それに気が付いたのは今日のことだったので、どうにも止めることが出来なかったのです。先走った父に代わり、謝罪します」
もう一度頭を下げるアダムにベロニカは慌てた。
「お気になさらないでください!」
ベロニカは言った。
「ロベルト様が書簡を送らずとも、いずれ私のお父様が同じようなことを主催しようとしたに違いありませんから!」
「……そう言っていただけると、助かります」
アダムは言った。
「ですがあなたに薔薇園を見せたいと思ったことは本当ですよ」
彼はそう言ってまたしばらく歩いた。そしてベロニカの目の前には屋敷の中庭の生垣で見たものよりもさらに多い数の薔薇が現れた。中にはベロニカが見たこともない色の薔薇もあった。
「とても綺麗です」
ベロニカは感動して呟いた。
「近くで拝見してもいいですか?」
「もちろんです」
ベロニカは薔薇のそばまで行くと、膝を折った。彼女は薔薇の美しさを眺めながら、別のことを考えていた。それはアダムのことだった。何故アダムはこれほど自分のことを助けてくれるのだろうと彼女は考えた。
「アダム様は何故、私にここまでよくしてくださるのですか?」
ベロニカは訊ねた。アダムは少し困ったような笑みを浮かべた。
「さすがに想い人のいらっしゃる方とお付き合いをする訳にはいきませんからね」
「お、想い人⁉」
驚嘆するベロニカにアダムは続けた。
「確か……ロト殿と言いましたか」
ベロニカはどうしてアダムはロトのことを知っているのかと疑問に思った。そして舞踏会で初めて彼に遭った時に、自分がロトの名前を口にしていたことを思い出した。
「ロトとはそんな関係では……!」
ベロニカは恥ずかしさから思わず否定の言葉が出かけた。アダムは首をかしげていた。
「違うのですか?」
アダムは真っ直ぐな眼差しでベロニカを見つめた。それは自然とベロニカは自分の気持ちを素直に彼に話そうと思わせた。
「……いいえ」
ベロニカは頭を振った。
「確かに私はロトに好意を寄せています」
「それではロト殿は幸福な男性ですね」
アダムはにっこりして言った。
「あなたのような女性に好意を寄せてもらえるというのは、とても幸福だと思いますよ。僕になにが出来るかは分かりませんが、お二人の間柄が上手くいくように願っています」
ベロニカは俯いた。彼女の表情は暗かった。
「アダム様。私の話を聞いていただけませんか?」
ベロニカは言った。
「私は……どうすればいいのか分からないのです」
「……もちろんです。幾らでも聞きますよ」
アダムは言った。ベロニカは微笑を浮かべると訥々と語り出した。それは自分が貴族であり、ロトが貧民街の生まれであるということだった。そして自分がロトに貴族であることを隠しているということだった。
「つまり私は、ずっと彼に大きな秘密を抱えて接してきたのです」
ベロニカは言った。
「私はこれ以上秘密を抱いたまま彼と今以上に親しくなることがこの上なくつらいのです。彼と会う日は朝からとても胸が躍ります。共に時間を過ごすときはこの時間が終わってほしくないと思っています。とても幸せです。ですが、彼と別れひとりきりになると、幸せだと感じた分、私の抱えている秘密が重く心に圧し掛かって来て、私を圧し潰そうとするのです。そのたびになんども彼に秘密を打ち明けてしまおうと思いました。けれどいざ打ち明けてみようとするとわたしを軽蔑する彼の顔が脳裏をよぎって、言葉が上手く出なくなってしまうのです」
「あなたはロト殿にご自身が貴族の身であることを告げるべきです」
アダムが言った。ベロニカは俯いていた顔を上げ、彼を見た。
「でも私は貴族で、ロトは貧民街の出身です。貧民街の人々が貴族に対していい思いを抱いていないことを私は知っています」
それは力を持つ貴族が貧民街の人々に施しを与えないことに憤る人々のことだった。彼らは自分たちの貧しさの上で貴族が肥やしを蓄えていると考えていた。そしてそれは一部で事実だった。貧民街の人々に救済を与えようとする貴族がいる一方で、彼らに何故己の富を費やさねばならないのかと考える貴族もいるのだった。その事実だけで多くの貧民街の人々が貴族を恨む理由には十分だろうとベロニカは思った。
「確かに、残念ならが我々貴族と貧民街の人々の間には大きな溝があります」
アダムは言った。彼の声は憂いを帯びていた。
「しかしロト殿は多くの貧民街の人々と同じように貴族である我々を恨んでいると思っていますか? あなたの話を聞く限り、僕はそんなことはないように思います」
「……なぜ、そんなことが?」
「ロト殿は貧民街出身の身でありながら、騎士を志し、憲兵隊の入隊試験に受かったのですよね?」
ベロニカは頷いた。ロトは続けた。
「それはとても立派なことだと思います。それは決して、ただ施しを望んで、受けられなければ嘆いているだけの人には成し得ないことです。きっとロト殿は自らの力で困難や苦難を切り開き、乗り越えることの出来る強さを持っている人なのだと僕は思います。そういう人は、きっと悪い貴族もいればいい貴族だっているということを理解しているはずですよ。少なくともロト殿があなたを悪い貴族だと思うことはないはずですよ」
ベロニカはロトのことを思い出してみた。確かに彼の瞳はきらきらとしていて、未来への意思に輝いているように感じられた。
「もう少しあなたの思いを寄せる男性のことを信じてあげてもいいのではないですか?」
アダムは静かに言った。ベロニカの心は少し軽くなっていた。
「……ありがとうございます。アダム様」
「アダムで結構ですよ。様なんていりません」
「わ、分かりました。あ、アダム」
貴族相手にあまり砕けたしゃべり方をしたことのないベロニカはぎこちなく言った。アダムははにかんだ。
「はい。……っと、随分と長居してしまいましたね。きっと父が待ちくたびれている頃でしょうから、そろそろ戻りましょうか」
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