【3】

「このお弁当を、ベロニカが作ったのか?」

 ロトはベロニカが朝早くに起きて作ったというお弁当を見て驚いた。丁寧にバスケットに詰め込まれたサンドイッチは、お店で売られているもののようだった。

「……もう、じろじろ見てないで一つ食べてみてよ」

 ベロニカは言った。まじまじと見られているのが恥ずかしかった。促されるまま一つのサンドイッチを食べて……ロトはさらに驚いた。使われている野菜が、とても新鮮だということが瞬間的に分かった。

「……どう?」

「おいしい……!」

 ロトは言った。ベロニカは飛び上がって喜んだ。

「ほんとう⁉ 嘘じゃない⁉」

「ああ、本当においしいよ。こんな瑞々しい野菜は初めて食べたよ! ――ってあれ?」

 そこまで言って、ロトはベロニカががっかりしていることに気が付いた。

「ねえ。そのお弁当は、私が生まれて初めて作ったお弁当なのよ?」

「う、うん……」

「もっとこう、他の感想とかは……ないの?」

「…………?」

 ロトはベロニカが何を言っているのか分からなかった。感想ならちゃんとおいしいって言ったじゃないか。

「もういい」

 ベロニカはロトの心の内を読み取って嘆息した。きっとサンドイッチだったから駄目だったのよ、と彼女は思った。次はもっと料理長に素材の味なんて分からないくらい凄い手の込んだ料理を教えてもらって、私の料理の腕を褒めさせてみせるんだから。彼女がそう決意をしていると「あのさ」とロトが言った。

「そのサンドイッチ、もしよかったら半分くれないか? 出来ればバスケットごと。勿論バスケットは後で返すから」

「……いいけど、なんで?」

「こんなにおいしいサンドイッチを――っていうかサンドイッチ自体食べたのが初めてだったからさ。母さんにも食べさせてやりたいと思って……」

 ロトは頬を掻きながら言った。ベロニカはそういうことねと納得した。

「いいわよ。全部持って行って」

「えっ……あ、いやでも流石に全部は申し訳ない気がするな……」

「いいの!」

 とベロニカは遠慮するロトにバスケットを押し付けた。

「私があげるって言ってるんだから、大人しく『ありがとう』って受けっとっていればいいのよ」

「……そっか。ならありがたく貰うよ」

 ロトが言うと、ベロニカは笑みを浮かべて頷いた。



    ☆



「入隊試験? 憲兵隊の?」

 ベロニカはサンドイッチが半分残ったバスケットを木陰に移動させながら言った。

「そう。来月あるんだ」

 木剣を振るうロトは浮かない顔で言った。

「それで、どうしてそんなに暗い顔をしてるのよ」

 ベロニカは言った。

「ここは絶対に受かってやる! って燃えるところじゃない」

「……そう思えれば苦労はないんだよ」

 ロトは剣の構えを解くと、その場に座り込んだ。彼の手は震えていた。

「自信が……無いんだ。入隊試験に受かるイメージがまるで湧かない。だって考えてみてくれよ。俺のほかに受ける奴らは剣だけを何年も何年も練習してきたんだぞ。対して俺はたった半年だ。どうやったって敵うわけがない」

「けどあなたは確かお母様に、挑戦しないで諦めたくないと言って騎士を目指したんでしょ? ならもうやり切るしかないじゃない」

「その想いは変わってないよ。挑戦しないで諦めたくはない。けどさ、挑戦したから、駄目だったけれど満足したなんて、そんなわけもないんだよ」

 ロトは言った。

「やるからには、絶対に騎士になりたい。でも憲兵隊の入隊試験受験者にも勝てるか分からないっていうのが俺の現実だ」

「なら、今回の試験じゃなくて、その次の試験とかを受ければいいんじゃない? そうすればロトだってもっと剣の練習が出来るし……今よりもっとうまくなってるでしょ?」

 ベロニカの提案にロトは頭を振った。

「憲兵隊の入隊試験は三年に一回なんだ。……そんなに母さんに負担を掛けられない。俺が騎士を目指せるとしたら、今回のチャンスをつかみ取るしかないんだ」

 今ロトが言ったことが、彼に緊張を強いているということをベロニカは理解した。そしてそれは彼女にはどうすることも出来ないものだった。ロトの助けになるにはどうすればいいのかを考えて、やがてベロニカは彼の手を両の掌で包みこんだ。

 ロトは突然のことに驚いて目を丸くした。

「な、なんだ、よ⁉」

「えっと……昔、緊張したらこうして誰かに手を包み込んでもらったら緊張が取れるって、教わったことがあって――」

 ベロニカは耳まで真っ赤になって言った。

「お、おまじないよ。おまじない」

 ロトはベロニカに包まれている自分の手を見た。彼女の手のぬくもりが伝わって来て、気が付けば手の震えがと収まっていた。

「はは、これは確かに効くや」

 ロトは微笑を浮かべて言った。ベロニカはしばらくの間そのまま彼の手を握ったままでいた。



    ☆



 ロトはその日、いつもより早く剣の練習を切り上げることにした。少しでも長く剣を振り続けていなければ他の憲兵隊入隊希望者には勝てないという思いが、今まで彼を愚直に練習に向かわせていたのだが、今日はそんな思いを抑え込んで家に早く帰りたい理由が彼にはあった。彼の右手にはサンドイッチが入ったバスケットがあった。

「悪くなる前に家に持って帰った方がいいわ」

 とベロニカは言った。練習で身体を追い詰めすぎているロトへの気遣いだった。彼はそのことに気が付いていたが、この日は何となくベロニカの言葉に従うことにした。それはいつもならありえないことだった。今までも、あまり練習をやりすぎない方がいいとベロニカに言われていたが、彼が従ったことは一度もなかったのだ。これもおまじないの効果かなと彼は思った。

 まだ日が沈み切らないうちに家に帰るのは随分と久しぶりだった。ちらちらと疎らにつく家々の灯りの光景が少し懐かしく感じた。最近、こんな風に街を眺めながら家に帰っていたことがなかったことにロトは気が付いた。昔はそんなことはなかったのに、最近は剣のことばかりを考えてすっかり心の余裕をなくしていたのだと彼は思った。

 ロトは多くのお店が立ち並ぶ通りを歩いていた。多くの通行人が様々なお店の前で足を止めて、店主と会話を交わしていた。

「きゃあああ‼」

 突然、街の活気を掻き消す女性の悲鳴が辺り一帯に轟いた。ロトが後ろを振り返ると、人垣を掻き分けて走って向かってくる男が視界に飛び込んで来た。何事だと思って……彼は身を固めた。男の左手はいくつもの宝石やアクセサリーを握りしめていた。男の右手は刃先が赤く染まったナイフが握られていた。

 強盗だった。

そう理解した瞬間ロトはその場から逃げようとした。けれどそこで、母親と逸れ逃げ遅れた女の子が地面で転んで動けなくなっているのを見つけ、彼の時が止まった。

まずい、助けないと、誰か! ロトの眼が瞬時に辺りを見回すが、誰も動けないでいた。彼は歯噛みし、強盗が女の子や自分たちをやり過ごしてくれることを願ったが、男の血走った目を見てそんな考えは霧散した。彼の直感がこのままでは女の子は間違いなくあのナイフで貫かれると警鐘を鳴らした。

助けないと!

逃げないと!

 二つの感情がロトの心を掻き乱した。誰も動けないなら、俺が助けるしかないじゃないかと彼の正義感が叫び、相手はナイフを持ってるんだ、俺なんかが叶うわけがない、殺されるに決まっていると彼の弱さが喚いた。

 心臓が早鐘のように脈打ち、体中から汗が噴き出した。

 正義感と弱さのはざまでロトの心が行き着いた場所は、騎士という言葉だった。

 俺は……騎士じゃない。

 それでも心だけは騎士のようであろうと、騎士を目指すと決めたその日に決心した。

 騎士は弱い人のために剣を抜くものよ、とベロニカの言葉が脳裏ではじけた。

 そうだ、騎士は弱い人のために剣を抜く。なら、今この場で俺がするべきことは一つじゃないか。

 正義感ではなかった。恐怖から逃げるために弱さでもなかった。ただ、騎士を志す者としてロトは女の子の前に歩み出た。

 まなじりを吊り上げ、木剣を構え、男と相対した。

 男は一瞬、驚いたような挙動を見せたが、ロトが握っている剣が木の剣であることを見て取り、あざけるように口端を広げた。

 男の凶刃がロトに向けて突き出されるのと、ロトが一息に一歩を踏み込むのは同時だった。

 男はロトを侮り、大振りとなった。対してロトは小さく、そして素早く動いた。

 かつてないほどの集中力をロトは相手のナイフにだけ向けた。赤く濡れたナイフが自分の血でさらに汚れる幻覚を置き去りにして、彼は木剣をナイフの腹に叩き付けた。

 鋼と木の激しく衝突する音が辺りに響いた。

「……っ⁉」

「ふっ……!」

 予想外のロトの鋭い剣戟に男の態勢が崩された。ロトはその隙を見逃さず、がむしゃらに連撃を畳み掛けた。

 右、左、右、右、左――考えるな! とにかく叩き込み続けるんだ、隙を与えるな‼

 やがてロトの木剣が男の首に直撃し、男はその場に崩れ落ちた。

「はあ、はあ、はあ……」

ロトもその場に座り込んだ。大量の汗を垂れ流し、言葉にならない呼気を吐き出し続けていた。

 辺りには静寂があった。そして次の瞬間には――


 ワアァ‼


 と大歓声が巻き起こった。近くで店をやっていた店主や身を潜めていた通行人たちから「よくやった!」と声が上がり、祝福がロトを包んだ。

「あ、ありがとうございます! ありがとうございます……」

 女の子の母親はロトの手を取って言った。

 ロトはしばらく自分の周りで何が起こっているのか理解できなかった。女の子を無事に守れて、自分も生きているということが、ただ嬉しかった。



    ☆



 やがて騒ぎを聞きつけた憲兵隊が駆けつけて来た。彼らは興奮しきっている人々を掻き分けて地面で気を失っている強盗を見つけた。

「誰がこの男を捕らえたんだ!」

 憲兵の一人が声を上げた。人々は一声にロトのことを指さした。

「君か?」

「……そうです」

「よくやってくれた。我々はこの男を連行する。君は後で憲兵隊の詰め所に来なさい。犯人逮捕に協力した者には報酬を払わなくてはならない。それが決まりだからね」

 そう言って彼らは強盗を連れて行った。潮が引くように街の興奮が冷めていき、人々はいつも通りの生活に戻っていった。

 ロトは自分が強盗を捕まえたという事実がまだ信じられなかった。手に残った木剣を振るった感触を噛みしめていると、彼の前に一人の男性が現れた。

「やるなぁ、少年」

 男性は、ロトが見上げるほど大きかった。二メートルはありそうな身体は、マントによって覆われていた。けれどマントの上からでも分かるほど彼の肉体は鍛え上げられていた。まるで城壁のようだとロトは思った。

 男性の手にはロトが放り出したバスケットが握られていた。

「あ、ありがとうございます」

 ロトはバスケットを受け取り、中身を確認した。サンドイッチは無事だった。

「どうして逃げようとしなかったんだ?」

 男性は訊ねた。

「普通、あの場面だったら逃げると思うが」

「……俺が剣を練習してるのは、逃げるためじゃなくて、護るためだから」

 ロトの口は自然とその言葉を発していた。男性は少し目を見開いた後、すぐに太い笑みを浮かべた。

「――もしかして少年は、騎士を目指しているのか?」

 ロトは驚いた。どうしてこの人が俺の夢を知っているんだ!

 男性はロトの表情を見てまた笑った。

「そうかそうか。――でも少年、今の剣の腕のままじゃ騎士にはなれないぞ」

「な、なんであなたにそんなことが――!」

 知ったような口を利く男性にムカッとし、ロトが反駁しようとすると、彼はロトの鼻の先に拳を突きつけた。その動作は、ロトには一切捉えることが出来なかった。

「まず第一に、肩に力が入り過ぎている。無駄な動きも多い。足の運びに関しちゃまるでなっちゃいない」

「……っ」

「だが俺は少年のことが気に入った」

 男性は拳を広げ、ロトに手を差し出した。

「俺が少年に剣の手ほどきをしてやっても構わんが、どうする?」

 この人は一体何者なんだとロトは思った。そして彼は差し出された腕の隙間から男性のマントの中を見て驚倒した。男性は純白の制服を着ていた。男性は腰に剣を帯びていた。そして何より彼の眼を引いたのは胸に付けられた黒と金の徽章だった。それは国王から直々に賜るもので、それを得られるのは王家に忠誠を誓う騎士だけだった。


 ロトは騎士に出逢ったのだった。

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