【14】

「そういえば最近、街で憲兵隊の方々を見かけることが多いんですよ」

 そう切り出したのはローザだった。ラフマニノフ家の家に侍女として雇われてから一週間ばかりが経過して、ベロニカも彼女のいる生活にだいぶ慣れてきていた。彼女は今、姿見の前でベロニカの髪を整えていた。散髪用のハサミがしゃきしゃきと小気味のいい音を立てていた。彼女の仕事はとても丁寧で、ベロニカも最初に見た時はいたく感心させられたのだった。

「何か事件でもあったのでしょうか? ベロニカ様はご存知ですか」

「それは事件じゃないわ」

 ベロニカはくすりと笑って答えた。

「もうすぐ王城で王太子殿下の誕生パーティーが催されるの。パーティーには大勢の貴族の方々が参列されるから、きっとそのための警備か何かをしているんじゃないかしら」

「王城で、パーティーですか?」

 ローザは眼をパチクリさせた。ローザはなにかを考えるように、ベロニカの髪の手入れをする手を止めた。

「それは、とてもおめでたいじゃないですか」

「そうね」

「それで、その誕生パーティーはいつ開かれるんですか?」

「えっと……確か来月の最初の休息日じゃなかったかしら」

 ベロニカが言った。すると「ほらほら」と二人のやり取りを眺めていたメアリーが手を叩いた。

「無駄話していないで手を動かしなさい」

 メアリーはローザが来てから彼女のお目付け役を任されていた。侍女仲間の中では新人の枠に入っていたメアリーは初めてできた後輩に少しばかり先輩面をして見せていたのだった。普段は少し子どもっぽい(少なくともベロニカひとりの前ではそうだった)メアリーのそんな姿が微笑ましくて、ベロニカは笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。もうやめるわ」

 ベロニカは言った。鏡越しにローザにウインクをすると、彼女は微苦笑を浮かべて再び手を動かし始めた。

 ベロニカはローザに身を任せた。ローザに髪を弄られるのはとても心地よかった。鏡を見ると、そこにはラフマニノフ家の娘へと変身していくベロニカの姿があった。ただのベロニカからベロニカ・ラフマニノフになる自分の姿を見ていると、彼女は必ず胸を締め付けられる感覚に苛まれた。

 パーティーがあった。それまでにベロニカはロトに自分の秘密を打ち明けるつもりでいた。そう決心してからすでに五日が過ぎていた。それはロトに会えないからではなかった。彼に会おうと思えばいつでも時間を都合することは出来た。それでも五日間もうじうじと時間を先延ばしにしてしまったのは、ベロニカの覚悟が足りなかったからだ。

ロトに自分が貴族であることを打ち明ける覚悟が足りない。鏡の中のベロニカはこの五日間がそうだったように、今日もまた彼女のことを責めた。

 ――今日こそは覚悟はできたの?

 鏡の向こうの自分がそう言ったような気がして、ベロニカは己から視線を外した。

 ――それとも、まだロトに嘘をつき続けるの?

 けれど、そうしたところで自分の心の声から逃れることは出来なかった。ベロニカは瞑目した。鏡を改めて見ると、そこには既にパーティーに出れば多くの男性の視線を独り占めにするほど美しい少女がいた。

 こうして見ていると、鏡に映っている人物は本当に自分なのだろうかとベロニカは思った。最近はラフマニノフという家に生まれずに、ただの、それこそ貧民街にでも生まれたベロニカであったならいいと思うことが多くあった。もしそうであったならば、私はロトに嘘をついたりする必要もなくて、こんなに胸を締め付けられるような気持を味わうこともなかっただろうに。

 ――そんなことを考えていても、現実は一向に変わらないのよ。

 いつの間にか、髪は綺麗に整えられ、仕事を終えたローザはどこかへ消えてしまっていた。

「……そんなの、分かってるわよ」

「どうかしましたか?」

 ベロニカの独り言に、メアリーが首をかしげた。咄嗟になんでもないと言いかけて、ベロニカは止めた。この瞬間を逃せば、きっともう一生踏み出すことは出来ないだろう。それは嫌だった。

「――お願いがあるの」

 ベロニカはメアリーに振り返ると、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。

「今日、ロトに会いたいの。段取りをつけてもらえないかしら」

 メアリーは驚いて息を呑んだ。ベロニカが彼女にこのような頼みごとをするのは初めてだった。彼女はいつも一人で勝手に屋敷を抜け出して少年の下に赴いていた。だから彼女にはベロニカが重大な決断をしようとしているということが理解できた。ベロニカの表情からは鬼気迫るほどの覚悟が伝わってきていた。

「……かしこまりました」

 メアリーは無駄な質問は一切しなかった。居住まいを正し、必要なことだけを質問した。

「それは本日でしょうか?」

「早い方がいいわ」

「それでは、本日の夕暮れではいかがでしょう。わたくしが今から調整出来て一番早い時間ではそれが限界です」

「それでいいわ。ありがとう」

 ベロニカが言った。メアリーは一礼をするとすぐに部屋を飛び出した。



    ☆



 そして今、ベロニカの前にはメアリーに連れられてやってきたロトがいた。ロトの視線は真っ直ぐにベロニカのことを見据えていた。彼が見ているのはベロニカが身に纏っている黄色いドレスだった。このドレスは舞踏会でも何度も来たことがあり、多くの人々からとてもよく似合っているといわれたものだった。彼女が今日、この時にこのドレスを選んだのはこれが最もベロニカ・ラフマニノフという少女の姿を象徴しているように思えたからだった。

 ただのベロニカではなく、ベロニカ・ラフマニノフとしてロトに会うのなら、それ相応の格好をしなくてはならないと思ったのだ。

 ロトは何も言わなかった。ただ、ひたすらに驚いていた。ベロニカは何から話せばいいのか迷った。ドレスの裾は握り締められて皺になっていた。虫の声や鳥のさえずりも聞こえない森の中はとても静かだった。聞こえてくるのは胸の中で痛いほどに脈打っている心臓だけだった。

 やっぱり逃げ出してしまいたいと、ベロニカの弱い心が叫んでいた。穏やかで、温かくて、幸せな日々を自分から壊すことになるかも知れない暴挙に出ることなどないと。

 その時思い出されたのはアダムの言葉だった。

 ――もう少しあなたの思いを寄せる男性のことを信じてあげてもいいのではないですか?

 彼はそう言った。そうだ、私はロトのことを信じている。信じると、そう決めたんだから。ベロニカは自分に言い聞かせるように心内で呟いた。

 何度か深呼吸をして、意を決して俯けていた顔を上げた。ロトを見やる。

「今日はロトに、聞いてもらいたい話があるの」

 そう言った声は、少し震えていた。様にはならないが、もし誰かがこの場面を見ているのなら、勇気を振り絞った一歩をどうか褒めてほしいとベロニカは思った。

 ロトは何も言わずに、ただベロニカのことを見つめた。何も言わずに、ベロニカが言葉を用意する時間を作ってくれていることが、ロトに「落ち着いて」と言われているようで、彼女は少しだけ嵐のように乱れていた心が落ち着いたような気がした。

「えっと……うん。こういうのはやっぱり順を追って説明した方がいいのかな」

 ベロニカはロトを見やった。彼の後ろには少し離れたところで二人の姿を見守っているメアリーがいた。

「まず最初に、あなたをここまで連れて来てくれた彼女のこと。彼女は私の家に仕えている侍女よ。無理を言って今日、あなたこうして会える時間を作ってくれたのも彼女。だから彼女には本当に感謝しなくちゃいけないわね」

「侍女? ……仕えているって」

 ロトは困惑した。ベロニカの物言いは、まるで――。

 けれど彼の思考がそれより先に進むよりも前に、ベロニカが口を開いた。

「私は……あなたに謝らなくちゃいけないことが、あるの」

 ベロニカは、耐えるように言った。けれど何に耐えているのか、ロトには分からなかった。ただ、彼女のこんな顔は初めて見ると思った。

「私は、あなたに一つだけ嘘をついていたの」

「……嘘」

 ロトの口から洩れた音は、呟きなのか、問いかけなのか、判然としなかった。

 ベロニカは、言葉を連ねる度に、まるで鉛で押さえつけられているかのように口が重くなっていくのを感じていた。言葉を発するたびに確信に近づいていき、まるでそれに抗うように口が重くなっていく。開かなくなっていく。それでも、ここで言葉を止めるわけにはいかなかった。私は決断したんだ、ここで、逃げ出すわけにはいかない。どんなに怖くても、これで二人の関係が終わってしまうとしても、口を開いて、彼に告げるんだ。それが出来なければ、私はこれからも彼と一緒にいる資格はないのだから!

「そう、嘘。その嘘は、私がベロニカであるということよ」

 ベロニカは言った。

「今まで、ただのベロニカとしてあなたと接してきた。それが、私の嘘」

「……言っている意味がよく分からない。だって、君はベロニカじゃないのか?」

「私の、本当の名前はベロニカ、ラフマニノフ。それが、私の名前よ」

 一陣の風がベロニカとロトの間をすり抜けて、ベロニカの黄色いドレスを巻き上げた。彼女の告げた名前と、身に纏っている、見るからに職人の手間暇がかかっているドレスをロトに誇示するようだった。

「……ラフ、マニノフ……?」

 その名前を知らないものは、きっとこの国にはいない。貧民街のどんな子どもだって知っているほどの、それくらい知れ渡った名前だ。この王国が建国された当初から存在する十の貴族の家系。その一つを担っているのが、ラフマニノフだった。

 月明かりに照らされる彼女は、儚げで、気品に満ちていた。風に揺れるドレスは、彼女の優雅さを象徴しているようだった。そう言われれば、なぜ今まで気が付かなかったのだろうと不思議になった。彼女の所作の一つ一つからは、他の人とは違う何かが漂ってきていたではないか。

「私は――貴族なの」

 そうして、ベロニカは己の秘密を告げた。

 長い沈黙があった。とても長い、長い沈黙だった。貴族は貧民街の人々に快く思われていない。敵視されているといってもいい。それは、貴族は裕福で貧民街の彼らは貧しいから。富める者は貧しいものに施しを与えるべきなのに、貴族は自らの肥やしを蓄えることしかしないから。そういったしがらみが、ベロニカとロトを取り囲んでいた。

 沈黙の中で、ベロニカはロトの言葉を待った。けなされるだろうか。失望させたかもしれない。彼の口から聞こえてくる言葉はそしりかもしれない。けれど、不思議とベロニカの心の中は穏やかだった。ここ最近は嵐の中の大海原を当てもなくさまよっているようだったのに、今は驚くほど晴れやかだった。もし、彼の言葉が憤りと怒りのものなら、私は甘んじてそれを受け入れよう。

 ロトは瞼を閉じ、瞑目していた。やがて、彼は瞼を上げ、まっすぐにベロニカのことを見据えると、言った。


「なんだ、そんなことか」


 ロトの声はとても澄んでいて、どこまでも響き渡っていくようだった。ベロニカの心の奥底に、すとんと波紋を広げるように収まった。想像していたどんな言葉よりも、軽く、あっさりとしていたその口調に、彼女は目を丸くして驚いた。

「えっ……?」

 だからベロニカの口から洩れた音はそんな間の抜けたものだった。

「物々しい言い方で言うから、何かもっととんでもないことなのかもしれないと思ったじゃないか」

「と、とんでもないことって……これだって十分とんでもないことじゃないの⁉」

 ベロニカは取り乱して、思わずそう叫んでいた。

「だって、私は貴族で、今まであなたにそのことを隠して接してきていて――」

「うん、まあでも。それだけだろ?」

 どうということもないと、そう言うようにロトは首をかしげた。

「そらまあ、ベロニカが貴族で、しかもラフマニノフ家の人だったっていうことは驚いたけどな。でも、それだけだ」

「それだけ……」

「ベロニカが隠していたのは貴族だっていう――ラフマニノフだっていうことだけだろ?」

 ロトは言った。

「師匠との特訓で俺が師匠に勝つために一緒に作戦を考えてくれた時や、うちに料理を作りに来てくれた時、一緒にサーカスを見に行った時に楽しそうにしていた君は――俺に見せてくれた表情や聴かせてくれた言葉は嘘じゃないんだろ?」

「それはもちろんそうだよ!」

 ベロニカは強く頷いた。それだけは決して嘘ではないと伝えるために。

「なら、問題ないさ」

 ロトは言った。月明かりに照らされた彼は、笑みを浮かべていた。

「問題ない」

「……どうして?」

 ベロニカは、訊ねていた。訊ねずにはいられなかった。

「どうして? 貧民街の人々は、みんな貴族を憎んでいるでしょ? だから私は……あなたに嫌われると思って、……それでも秘密にしていたくなかったから、いっぱい、いっぱい悩んで……」

 いつの間にか、声は涙で濡れていた。

「どうしてって言われてもな……」

 ロトは困ったように頭を掻いた。そして苦笑を浮かべた。

「貴族だろうとそうじゃなかろうと、俺にとっては俺が見て、聞いて、触れあったベロニカがすべてだから。それが偽物じゃなかったんなら――うん。問題ないんだよ。俺は、俺の知っているベロニカを憎んだりだなんて出来ない。死んでも出来ない。それが理由じゃ、だめか?」

 貴族は貧民街の人々に快く思われていない。けれど、ロトはそういったしがらみをいともたやすく、あっけないほどに、断ち切って見せたのだった。

 ベロニカはもう、どうすれば止めどなくあふれる涙を止めることが出来るのか分からなかった。そんな中で不意に思い出されたのは、初めて出逢った時の光景だった。

 あぁ、あの日、初めてこの教会跡で出逢った時、出逢ったのがロトでよかった。好きになったのがあなたでよかった。ベロニカはしゃくりを上げながら、泣きながら、ただそれだけを思った。

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