【1】

 その日もロトは教会跡で木剣を振っていた。この古びた教会跡を見つけてからもう半年もたつが、彼は一日たりともここに足を運ばないことはなかった。そして同じように、朝早くから陽が暮れるまで剣を振り続けた。

 騎士は王国が抱える部隊だった。騎士に憧れる子どもは大勢いたが、実際になるのはごくごく少数だった。騎士になるには町にある憲兵隊に入隊をしなければならなかったが、憲兵隊に入る多くは父親が憲兵であることが通例だった。そうして憲兵隊の中で実績を積み、優秀者上位三名が毎年、騎士として王国の門をくぐることが出来るのだった。

 長い道のりだとロトは思った。彼には父親がいなかった。母親は織物で生計を立ててロトを育ててくれた。父親が憲兵でない彼が憲兵隊に入ることは無理だと多くの人が言った。でも彼は騎士になることをあきらめたくなかった。騎士は彼の夢であり、目標だからだった。

「一体どうやって騎士になるというの。父親がいないあなたは憲兵にすらなれないわ」

「剣の腕が他人より上手ければ憲兵になれるはずだ」

 心配そうな母親にロトはそう言った。

「俺は剣の腕で誰よりも上を行って、憲兵隊に入隊してみせる」

「憲兵隊に入る多くの人たちは、一日の殆どを剣の修行に費やしているのよ」

 母親は言った。

「けれどあなたは家計を支えるために一日の半分を働いているわ。残りの半分で剣の練習をしたとしても、とても剣だけをやってきた人たちに敵うとは思えないわ。剣はそれほど甘くはないでしょう」

「それでも、挑戦しないで諦めるよりは、挑戦してみたいんだ。挑戦しなかったら、いつか絶対に後悔する気がするから」

 母親はしばらく沈黙した。それから言った。

「ではあなたは明日から働きにはいかずに剣の練習だけをしなさい」

 母親の瞳には息子の身を心配する気持ちと、彼の夢を応援したい気持ちが入り混じっていた。なにより彼女は息子が夢を追いかけることを嬉しく思っていた。

「で、でもそれじゃこの家が」

 ロトは驚いた。彼の家は決して裕福ではなかった。彼と母親が二人で働いてやっと生活できていたのだ。もし自分が仕事を辞めれば、この家に住むことも難しくなるだろうと彼は思った。

「そんなことは気にしなくていいわ。母さんが織物のほかにもう少し仕事をすればいいだけだから。その代わりあなたは死に物狂いで剣の練習をしなさい。そうしなければ夢をかなえることは出来ないわよ」

 そして翌日、母親はロトに木剣を買い与えた。決して安くない木剣を買ってくれた母親のことを想うとロトの練習にも力が入った。

「今日も精が出るわね」

 やって来たベロニカが言った。彼女は一週間に二度ほどこの教会跡にやって来てはロトの剣の練習を見物していくのだった。

「そう言う君も、この半年間飽きもせずに来ているじゃないか」

 ロトは剣を振るう手を休めることなく言った。

「俺が剣を振るっているのをただ見ているだけで、退屈じゃないのか?」

「退屈じゃないわ」

 ベロニカは昔壁だったレンガの瓦礫に腰を下ろすと頬杖をついて言った。

「だって私は今、人が夢をかなえる場面を目撃しているんですもの。それってとても素晴らしいことだわ。普通の人は、誰かが夢をかなえる瞬間なんてなかなか見れないものよ。誰かが夢をかなえた瞬間に居合わせたとしても、多くの人はその人が持っている夢を知らないから、その人が夢をかなえたとは分からないんだもの。けれど私はあなたの夢を知っているから、あなたと一緒にいるこの時間はとても充実しているし、退屈なんかじゃないわ」

 ベロニカの言葉にロトは気恥ずかしくなった。けれど自分が照れていると彼女にバレることが嫌だったので、ロトは平静を装って話を続けた。

「君はうちの手伝いをしなくていいのか? 俺の周りにいる大勢の子どもたちはみんな、男は外で働かせてもらって、女はうちで母親の手伝いをしているものだぞ」

「ここに来ないときは働いているからいいのよ」

 ベロニカは少し不機嫌に言った。彼女は家の話をすると決まって嫌な顔をした。

「それにうちの手伝いってつまらないんだもの。それよりも私はあなたの剣の練習を見たり、あなたとおしゃべりする方がとっても楽しいわ」



    ☆



 ベロニカは来るたびにロトが知らない話を聞かせてくれた。その日もそうだった。彼女は剣を振るうロトに貴族や王様たちが舞踏会で何をしているかについて話して聞かせてくれた。

「舞踏会ってあんまり楽しいものじゃないのよ」

 ベロニカは言った。

「よく知りもしない人と手を繋いで踊ったりしないといけないし、大勢の人の前で踊るものだから、上手く踊れないと恥ずかしい思いをするの」

「君は色々なことを知っているな。でも、俺たち一般人は舞踏会なんて出たりしないから、実際のところなんて分からないだろ?」

「だって本にはそう書いてあったもの」

「じゃあその本はきっとインチキだ」

 ロトは言った。

「舞踏会で踊ることが分かっているなら、最初から練習しておけばいいだけじゃないか。練習していたら、失敗だってしないだろ?」

「ええ。勿論みんな恥なんて搔きたくないから一生懸命練習するわ。けれどその練習というのがとても厳しくて大変なものなのよ。多くの人は嫌々やっているし、練習をしても本番で緊張をしてしまって間違えてしまうこともあるのよ。大変な練習をしてそれでも失敗してしまうかも知れないという緊張を耐えなくてはならない舞踏会なんて、あなた出てみたいと思う?」

 ロトはその場面を思い描いて眉根を寄せた。想像しただけでも気分のいいものではなかった。

「いや、やだな」

「でしょ?」

 ベロニカは満足そうに言った。

「だから舞踏会なんて大して楽しいものじゃないのよ」

「じゃあなんで王様や貴族の人たちは舞踏会をやるんだろう。そんなに楽しくないのならやめてしまえばいいのに」

「やめるわけにはいかないの。それはずっと昔から続いてきた伝統で、普段は会えない人たちと意見を交わす貴重な場だから」

「へえ~。俺はてっきり舞踏会っていうのはもっと華やかで夢みたいな場所だと思っていたよ」

 ロトは物知りなベロニカに感心して言った。

 またベロニカはロトの剣を振るう姿を見て、時々アドバイスもしてくれた。剣を振るう時、あなたは必要以上に大振りになってしまっているからもう少し気を付けた方がいいわと彼女は言った。言われた通りにしてみると、彼自身動きやすさの違いに驚いたのだった。そういうことが多々あった。

「君には本当に感心させられるけど、もし剣術の本か何かがあるなら俺に貸してくれないか?」

 ロトが言うと、ベロニカは少し困った顔をした。

「申し訳ないけど、それは無理なの」

 ベロニカは言った。

「えっと……その本はとても貴重なものだから」

「そっか……。なら仕方ないな」

 ロトは残念がったが、すぐに頭を切り替えて剣の練習に集中した。



    ☆



 ベロニカは必ず太陽が傾き出したころに家に帰った。彼女はそのルールを絶対に守って破ったことは一度もなかった。彼女がいなくなると急に辺りが静かになったように感じた。

 ロトは陽が沈んで辺りが暗くなるまで剣を振り続けてから家に帰った。彼の家は王様の暮らすお城や貴族の人たちの屋敷がある街の中心から少し外れた、一般市民が暮らす街の、その中でもさらに端に在った。そこは主にお金のない貧しい人々が住む場所とされていた。

 家に帰る途中でロトはいくつもの重そうな麻袋を担ぐ少年たちとすれ違った。麻袋の中には米や小麦粉などが入っていた。この街にやってきた商人が持ってきたものをお店に運び込んだり、逆にお店から商人が仕入れた品を商人の荷馬車に詰め込んだりするのが彼らの仕事だった。半年前までロトも彼らと同じ仕事をしていた。その日その日で雇ってくれる商人が違うので、いい商人であればちゃんとした給金をくれるのだが、悪い商人に当たってしまったりすれば、沢山働いても少しばかりのお金しかくれないことも多々あった。

 あの仕事は生きていくためには必要だったが、俺を幸せにはしてくれなかったとロトは思った。騎士になれば、何かが変わるはずだと彼は思った。

「おい」

 とロトは突然声を掛けられた。振り返ると三人の少年がいた。三人とも身なりのいい格好ではなかった。彼らは昔のロトの仕事仲間だった。

「ちょっと面貸せよ」

 彼らはそう言ってロトを狭い路地裏に連れ込んだ。ロトは壁際に押し付けられ、三人の少年たちは彼の逃げ道を塞ぐように立ちふさがった。

「よぉ、騎士様にはなれたかよ」

 少年は言った。彼がいらいらしていることがロトには分かった。

「なれるわけねーだろ、可哀想なこと言ってやるなって」

 もう一人の少年が耳に触る笑い声で言った。

「お前は黙ってろよ。俺はこいつに聞いてんだから。で? なれたのかよ」

「……まだだよ」

 ロトが小さい声で言うと彼らはゲラゲラと笑った。

「だろうよ! そんな棒きっれ振り回してるだけで騎士になれんだったら、誰でも騎士を目指すよな!」

 ロトの中に悔しさが湧いた。夢と彼の母親が買い与えてくれた木剣を馬鹿にされたからだった。

「……用がそれだけなら、もういいか?」

 怒りを必死に堪えてロトがその場を後にしようとすると、少年は彼の肩をつかんだ。

「まあ待てって。話はこれからだからよ」

 そう言って彼は自分の頬を指さした。彼の頬には大きな青あざが出来ていた。

「お前がさ。仕事を辞めてから大将が厳しくてよ。仕事が捗んないとすぐに殴って来るのよ。なあ、お前どう思うよ。昔の仕事仲間がこんな目に遭っててさ。可哀想だと思わねー?」

 ロトは少年を雇った商人が、あまりいい人物ではなかったのだろうと思った。それは災難なことだったが、彼にはどうすることも出来なかった。彼は今、麻袋を運ぶ仕事を辞めて騎士を目指していた。

「……だから、どうしろって言うんだよ」

 ロトが言った。少年は醜悪な笑みを浮かべた。

「俺ら三人の味わった屈辱を、あの野郎にも味合わせてやりたいのよ」

 少年はロトの木剣を指さした。

「なに、二度と俺らに手を上げられない程度に痛めつけてくれるだけでいいからよ」

「そ、そんなこと出来るわけがないだろ!」

 ロトは木剣を胸に抱えて叫んだ。この木剣は彼の母親が、彼が騎士になるために代え与えたものであり、人を傷つけるためのものではなかった。なにより、騎士を目指す人間として仇討に加担することは許されなかった。

 すると少年たちはロトのことを殴った。ロトは地面に倒れたが、木剣は胸に抱えたまま放しはしなかった。

「昔の仲間の頼みが聞けないってのかよ。この人でなし!」

「誰が頼んだって、無理なものは無理なんだよ!」

 三人に袋叩きにされるロトは、それでも木剣を胸に抱えて彼らの攻撃を耐えた。彼らの攻撃なら、半年間剣を振り続けたロトならば撃退できた。それでも殴られ続けたのは以前のベロニカの言葉を思い出したからだった。騎士は弱い人のために剣を抜き、決して自分の為には抜かないものよと彼女は言った。今この場では彼が一番強かった。まだ騎士ではないけれど、せめて心だけは騎士のようであろうと彼は思ったのだ。

 やがて少年たちはロトを殴ることをやめた。ロトの顔はあざで腫れていた。けれど肩で息をしている少年たちの方が辛そうだった。

「はあ、はあ……もう、いいや。こんな腰抜けほっといて行こうぜ」

 彼らはそう言うとその場を去った。彼らはロトを殴ったことで溜飲が下がっていた。

 ロトは地面に寝転がったまま空を見上げた。体のあちこちが軋んで痛かったが、彼らに殴られずに済んだ商人のことを考えると不思議と満足だった。俺が商人を守ったのだと彼は思った。



    ☆



 ロトが家に帰り着いた時、彼の母親は息子のありさまを見て驚いた。彼女はすぐにロトを椅子に座らせると、冷たい井戸水で濡らしたぼろ布を腫れている彼の顔に押し当てた。

「何があったの?」

 と母親が言った。

「……剣の練習中に足を滑らせて顔面からこけたんだよ」

 ロトは嘘を言った。自分の息子が昔の仕事仲間に殴られたと言ったらきっと心配させるに違いないと思ったのだ。彼は母親に心配を掛けたくなかった。傷の具合を心配する母親に笑って見せて彼は話題を変えた。

「母さんの方こそ、今日はどうだった?」

「見て見て、もうこんなに織物が終わったの。こんなに進んだのは久しぶりね」

 彼女はそう言って織物の生地をロトに見せた。その織物はやがて加工され、絨毯や洋服になるのだった。

「すごいじゃないか」

「でしょでしょ! もしかしたらお給金を弾んでくれるかもしれないわ!」

 子どものようにはしゃぐ母親にロトも笑みがこぼれた。彼女はロトの剣の練習のことについて何も訊かなかった。彼は信頼されているように感じて、それが嬉しかった。

 ロトの家の夕食は大半が硬いパンとそれを柔らかくするためのスープだった。そのスープに入っている野菜も市場で売れ残った質の悪いものを安く買ったものだった。貧しいことは貧しかったが、世の中には食べるものがない人たちもいるということを彼は知っていたので、自分はまだ恵まれていると思った。それに、騎士になればこの堅いパンとスープともおさばら出来るんだ。そうすれば母さんにもっといいものを食べさせることが出来る。そう思うと貧しい食事も彼の力になった。

「何をニヤニヤしているの?」

 母親が言った。

「……してないよ」

「してたわよ。何考えてたの?」

「……騎士になった時のことを想像してた」

 正直に言うのは照れくさかったので、ロトは誤魔化して言った。

「随分と気の早い想像ね。練習で顔に大あざを作ってくるくらいなのに」

 ロトは苦笑いを浮かべた。それから言った。

「怪我こそ上達の近道なんだよ」

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