【2】

 ベロニカはロトの顔を見て驚いた。彼の顔は酷く腫れていた。

「どうしたの? ひどい顔よ」

「昨日、色々あってさ」

 ロトは何があったのかを詳しく話したがらなかったので、ベロニカもそれ以上は訊かなかった。

 そしてロトはいつものように剣の練習を始めた。ベロニカは剣を振るっている時の彼の真剣なまなざしが好きだった。彼女は大抵の時間、彼の剣の練習を黙って眺めていたが、時折話しかけた。彼が知らないであろう話を選んで話して聞かせた。彼はいつも感心してベロニカの話を聞いてくれた。

 ベロニカは自分の話の多くが本に書かれていたことだとロトに説明していた。けれどそれは嘘だった。彼女はこの国でも名の知れた貴族の娘だった。ロトに話して聞かせた舞踏会の話は彼女の体験談だった。ロトの剣の練習に少しアドバイスをしたこともあったが、それも以前会ったことのある騎士の男性に、どうすれば剣が上手くなるのか訊ねたことがあったからだった。

 きっと私が貴族の娘だと知ったら彼はこの教会跡には来なくなってしまうだろうとベロニカは思った。それは彼女にとってとてもつらいことだった。



    ☆



「また勉強を抜け出して街に出ていたそうだな」

 とベロニカが屋敷に戻ると彼女の父親が言った。非常に厳しい口調だった。彼女の父親は厳格で、娘の行動が理解できなかった。

「お前は誉れ高いラフマニノフ家の娘なのだ。お前の軽率な行動でこの家の品格が汚されるということを意識して行動しなさい」

 彼はベロニカを叱るとき、必ず家のことを言った。

「……はい。申し訳ありません」

 ベロニカは深く頭を垂れた。この人は私のことではなく家のことを考えているのだと彼女は思った。

「まず部屋に行って待たせている家庭教師の先生にちゃんと謝りなさい。そしておろそかにした勉強を見てもらった後、近々舞踏会が開かれるからワルツの練習をしなさい」

 父親は言った。ベロニカは黙って彼の指示に従って部屋に行こうとした。そこでまた、待ちなさいと言われた。

「服に土がついている」

 ベロニカのスカートの裾には確かに土が僅かについていた。教会跡でついたものだった。

「娘の服を変えてやってくれ。あの服は処分して構わない」

 父親は控えていた侍従に言った。

「待ってくださいお父様! この服はまだ着られます。土ははたけばすぐに落ちますから、何も捨てる必要は――」

 ベロニカは教会跡に行く時、出来るだけ目立たない服を選ぶようにしていた。豪奢な服を着ていれば、彼女が貴族であるということがロトにバレてしまうかも知れなかったからだった。そしてこの服は前にロトが似合っていると褒めてくれた服だった。それ以来彼女のお気に入りだった。

「汚れてしまった服を着る必要はない。服はまた買えばいいのだから」

 父親は言った。

「さあ、分かったら早く着替えて部屋に行きなさい」

「……わかり、ました」

 ベロニカは言った。悲しくて泣いてしまいそうだった。



    ☆



「ねえ、ちょっとお願いをしてもいい?」

 ベロニカは服を着替え直している途中で、着替えを手伝ってくれている侍女に言った。

「なんでしょうか?」

 侍女はいすまいを正した。この家では侍従が何か命令を受けるときはそうするように命じられているのだった。

「その服、捨てないで取っておいてもらえない?」

 ベロニカは言った。侍女は少し困った表情をした。

「しかし、旦那様はこのお召し物を捨てるようにと」

「その服、気に入っているのよ。捨てるのは名残惜しいわ」

「……かしこまりました。では後程お嬢様のお部屋に置いておきます」

「ありがとう。でもお父様には見つからないようにね。見つかったら、きっとあなたまで怒られてしまうから」

 ベロニカが言うと侍女は笑って頷いた。土の付いた服を汚れ物入れの籠に入れると、彼女はベロニカの着替えを改めて手伝った。

 ベロニカの服は白の綺麗なドレスになった。

 部屋ではすでに家庭教師の先生が待っていた。先生はベロニカに授業をさぼられていたので怒っていた。

「……先生、今日は申し訳ありませんでした」

 ベロニカは深々とお辞儀をして謝った。先生はため息を吐いた。

「あなたから何度、その言葉を聞いたことか。数えていればよかったかしらね」

「あはは……」

「笑い事ではありません!」

 先生は言った。

「わたくしはあなたのお父様からあなたに、勉強だけではなく貴族としてのあるべき姿と礼儀もお教えするように言いつかっているのですよ」

「……はい」

「全く、毎回毎回一体どこに言っているというのですか?」

「…………」

 ベロニカは沈黙した。教会跡のことは言いたくなかった。ロトのことを話したりすれば二度と自由に外を出歩けなくなると彼女は思った。

「まあいいでしょう」

 先生は言った。

「前にも同じようなことを質問しましたが、あなたは何も答えませんでしたからね。その代わり、これからする勉強はしっかりやってもらいますからね」

 この日の先生の授業はこの国の成り立ちと法制度だった。

「ではまず、現在この国にはいくつの貴族方がいらっしゃいますか?」

 と先生が訊ねた。

「二十です」

「そうです。では、貴族の方々が持つ権利として最も重要なものは?」

「三権採決権を有していることです」

「いいでしょう。三権採決権というのは主に行政、立法、司法において行われる議決を行う権利を言います。すなわち貴族の方々はこの国の在り方や問題が起きた時に意見を述べることが出来るということです。そして、その貴族の方々を取りまとめていらっしゃるのがこの国の国王陛下、並びに王族に連なる方々です」

 先生は貴族や王族の説明をする時、とても誇りを持って言った。

「建国以前、この地では三つの部族が争っていました。その理由は何ですか?」

「食物の栽培に適した土壌が三つの部族の真ん中に集中していたからです。当時は今ほど貿易の基盤が出来ていなかったので、部族内で生産し、消費することが主流でした」

「その通りです。そして当時、争っていた三部族を統一するという主張を始めたのが、現在の王族の始まりの方であるルドルフ一世でした。やがてルドルフ一世が三部族を統一した時、彼を支持し、支えた十人の方々が建国後最初の三権採決権を持つことになりました。この国で最初に貴族になった方々というわけです。現在でもその影響は根強く残っています。故に最初の十人の家系は貴族の方々の間でも特別視されています」

 先生はベロニカを見た。

「このラフマニノフ家もその家系の一つです」

 ベロニカの父親が一層家に誇りを持っているのはそれが一つの理由だった。

 先生はしゃべって乾いた喉を紅茶で潤した。それから言った。

「では、三権採決権を持つ我が国が他国と比べ優れている理由は何でしょう」

「多くの国では、貴族は国の方針に従い一般市民に規律を守らせることが主であり、法や国の在り方に関することは王族の一存で決まることが大半です。貴族の意見が反映できるという点において、三権採決権を持つこの国は他国と比べて優れています」

 ベロニカの説明に先生は満足そうに頷いた。彼女は先生が出した問題にすべて答えてみせることが出来た。けれど彼女にとってこの時間はとても退屈なものだった。彼女は日暮の窓の外を眺めてロトはまだ剣の練習をしているのかなと考えた。

 この日の授業を終え、先生が帰るのと入れ違いに数人に侍女がベロニカの部屋に入ってきた。彼女たちはベロニカにダンスを教えるために来たのだ。

「ではお嬢様、少し休まれた後、今度開かれる舞踏会に向けてワルツの練習をしましょう」

 侍女の一人が言った。ベロニカは頭を振った。

「いいえ。今すぐに練習を始めるわ。面倒なことは早く終わらせてしまいたいもの」

 ベロニカの部屋を澄んだピアノの旋律が満たした。彼女は踊りが苦手というわけではなかった。むしろ侍女たちからは素質がいいと言われていた。なにものにも縛られずに、自由に踊れたのなら、きっと楽しいのだろうけどと彼女は思った。舞踏会で共に踊ってほしいと言い寄って来る男たちは大勢いた。彼女は彼らの眼が嫌いだった。その眼が彼女ではなく、彼女を通して見えるラフマニノフ家を見ていることに気が付いていたからだった。

 ベロニカはロトと踊ったのならどうなるだろうと想像した。きっと彼は踊りを踊ったことはないだろうから、一からベロニカが教えることになるだろう。けれどきっとどんな相手と踊るよりも幸せで満たされているだろうと彼女は思った。



    ☆



「次の舞踏会にはヴィオッティ家も参加されるそうだ」

 夕食の席で父親は言った。大きすぎる食卓には、料理人が腕によりをかけた料理が並べられていた。

「あそこが舞踏会に顔を出すのは珍しいことだ。きっとヴィオッティ殿のご子息も参加されるだろう。くれぐれも無礼があってはならない。まず会場でご子息を見つけて挨拶をしに行きなさい。そうすればお前ならすぐにダンスのお相手にお誘いを受ける筈だ」

「ですが、私はご子息の顔を存じ上げません」

 ベロニカは言った。彼女はあまり気が進まなかった。彼女の心の中にはロトがいた。

「ヴィオッティ殿と共におられるはずだから、心配する必要はない」

「……はい」

 ベロニカは小さく頷いて、スプーンでコンソメスープを一掬いして飲んだ。折角の料理も気分が曇っていたらあまりおいしくはなかった。



    ☆



 ベロニカが部屋のベッドで天井を見上げていると、扉をノックする音が聞こえた。

「お嬢様、少しよろしいでしょうか?」

 その声は料理長である男性のものだった。何の用かしらとベロニカは思った。

「いいわよ。どうしたの?」

 ベロニカは扉を開けた。料理長はコック帽を右手に握りしめていた。彼は少しバツが悪そうに言った。

「いえ、料理の給仕をしていた者からお嬢様が本日、あまりご夕食をお召し上がりにならなかったということを聞きまして……その、お口に合わないものがあったのかと」

「わざわざそんなことを確認するためにこんな所まで来たの?」

「……ご迷惑かとは思ったのですが……」

 ベロニカは笑った。

「いいえ、あなたの料理はいつも通り完璧だったわ。ただ、お父様に食事の席であまり気分のよくない話をされたものだから、食欲がなくなってしまったのよ。ごめんなさい、心配をかけたみたいね」

 ベロニカの言葉を聞いて、料理長はほっとした。

「それなら安心しました」

 料理長が言った。同時にベロニカのお腹がくぅ~と音を立てた。

「……っ」

 夕食をあまり食べなかったせいか、今になってお腹が空腹を訴えて来たのだ。ベロニカは恥ずかしくなった。何も今鳴らなくてもいいじゃない!

 料理長はベロニカのお腹の音を聞いて笑みを浮かべた。

「よろしければお夜食をご用意しましょうか?」

「…………お願いできる?」

「もちろんです。すぐに作ってまいりますね」

 そこでベロニカはあることを思いついた。

「ねえ、ちょっと待って」

「……何でしょうか?」

「その、明日の朝って時間あるかしら?」

「……仕込みの後でしたら大丈夫だと思いますが、何か?」

「お弁当の、作り方を教えてもらいたいの。お父様たちには内緒で」



    ☆



 翌日の朝、ベロニカは厨房で料理長と共にお弁当を作った。ロトのためのものだった。

 料理長のアドバイスでお弁当はサンドイッチになった。私が作ったと言ったら、ロトはどんな顔をするかなとベロニカは考えた。最初は驚くかもしれないけど、きっと喜んでくれるだろうと思った。

 ロトのことを考えるだけでどうしてこんなにも心が喜ぶのか、ベロニカには分からなかった。けれど出来るだけ長い時間、この感覚に浸っていられるようにと思いながら彼女はサンドイッチを作った。

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